2.今日迄のあらまし

1958年(昭和33年)
・6月28日、東京都渋谷区の産院で産まれ、以後、目黒区鷹番で育つ。

1962年
・この頃より約20年、喘息とつき合い、人生観の土台に多大な影響を受ける。幼稚園では集団行動に何かと支障をきたす。しばしば脱走する。

1964年
・この頃より、水木しげる、赤塚不二夫の漫画に大変親しむ。

1974年
・この頃から『ガロ』を読み出す。いつしか何でもいいから、自分も『ガロ』に参加したいという気持ちを抱く。

1978年
・大学の同級生、内田の行動が怪しくなり、やはり同級の船橋英雄とともに「内田研究」(詳細は『因果鉄道の旅』を参照)を開始し、実戦を通じノウ・ハウを学ぶ。いわゆる因果者探求の口火を切り、今日の基礎を固める。

1981年
・『ガロ』9月号で漫画家としてデビュー。タイトルは「青春むせび泣き」だが、内容とはまったく関係ない。幸いな事にヘタウマ・ブームだったので、『ビックリハウス』のイラスト、自販機のエロ本等から仕事がきて、すぐに食えるようになる。

・この年の『エロトピア・デラックス』で安部慎一の「僕はサラ金の星です」を読み、全身骨ぬきとなる。

1982年
・湯浅学、船橋英雄と幻の名盤解放同盟結成。以後今日まで歌謡海(界)の奥底に沈む、澱(無名歌手の売れなかったレコード)の数々を救う。
(かつて幻の名盤解放同盟と呼ばれたグループのホームページへ)

1983年
・『ガロ』系漫画家の催しで京都・大阪へ。蛭子能収と川崎ゆきお氏のツーショットに痺れる。『ガロ』の漫画家になって良かったとつくづく思った。

・初の単行本『花ひらく家庭天国』出版。

・キャラクター《村田藤吉》がHONDAのTC-CMに起用される。これもヘタウマ・ブームのおかげであるが、ギャラは10万を少し超えた程度だった(ま、要するに湯村さんの代用品)。

1984年
・嵐山光三郎氏の推薦により、マガジンハウスで売り上げ不振にあえぐ『平凡パンチ』に漫画「生きる」の連載開始。以後、1990年に廃刊になるまで『パンチ』とはいろいろと関わる。

・秋、初の渡韓。「イイ顔」(写真を参照)を意識化する。また、ポンチャック・ディスコにも開眼。

「イイ顔!」
イイ顔!
イイ顔!
イイ顔!
 これらの写真の顔を見て直感していただくしかない。とにかく「イイ顔」なのだ。

1985年
・不動産屋でシンガーソングライターのK西杏のステージを初体験。以後今日までいろいろな意味で本当にいろいろな事を教わる。

1986年
・リニューアルした『平凡パンチ』に「生きる2」を連載。

1987年
・ナユタ出版会というところから最初の『ディープコリア』が新書サイズで出る。

・奥崎謙三主演、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」が公開され、衝撃を受ける。

1988年
・平凡社『QA』誌に漫画「怪人無礼講ララバイ」連載。編集部に毎回非難の嵐。大いにヤル気となるも結局半年で連載終了。

1989年
・『ガロ』で「タケオの世界」第一部連載。

1990年
・3月、精子三部作第一弾の「タケオの世界」の入った『怪人無礼講ララバイ』発売。

・7月、同第二弾「ミクロの精子圏」の入った『亀ノ頭のスープ』発売。

・12月、『ガロ』1991年1月号より連載の同第三弾「未来精子ブラジル」開始(が、しかし今日まで未完。早いところ、どうにかケリをつけたいとは常に思っているが…)。

1991年
・伊豆・大滝ランドにて、大仏、おっと不動明王と邂逅(写真を参照)。根源的問いかけを受けたり、因果の具現化を見せられたりする。

大仏、おっと、不動明王
大仏、おっと、不動明王
 西伊豆でかつて宗教テーマパーク娯楽場建設の計画が進行したが、業と欲、度重なるマヌケな災いが続いたあげく、おジャンとなった事がある。この仏像の様なものは最初大仏としておっ建てられたが事情(ウッカリ系)で途中から不動明王にされた。が、コレを初めて見た瞬間に自分が求めていた何モノか(所謂因果・純粋マヌケ美等)を具現化したヤツだと思った。電気菩薩そのものというか、親玉かもしれない。

・マディ上原と特殊漫画界のギルバード&ジョージ「お岩」を結成(命名はマディの発案。漫画界に祟ってやろうという事でつけた)。『投稿ドッキリ写真』誌にカラーで連載を持つ。

・この頃、夏祭りは寿町で過ごす。

・秋、初期作品を集めた『豚小屋発犬小屋行き』発刊。

・同時期、TV神奈川の「ファンキートマト」のレギュラーとなり、コーナーを持つ(司会は電気グルーヴ。後にゴーバンズ森若香織)。夜7時からの生番組で、毎回ギリギリに行き、打ち合わせもなく本番突入。ここまでならOKの、大人の判断力を現場で養う。

1992年
・6月、ハワイから帰国した勝新太郎大陸に上陸(『宝島』にインタビュー掲載。まとめは湯浅)。

・晩秋、渋谷クラブクアトロで「ガロ脱特殊歌謡祭」開催。500人を超え、満員御礼。

・暮れ、P-VINEレコードよりオムニバスCD「幻の名盤解放歌集」発売開始。

・青山のギャラリーRRRで個展開催中、絵3枚が盗まれる。しかし犯人は悪い奴ではなく、『ガロ』誌上で「そんなに欲しけりゃやるから、せめてポジ送れ」と頼んだらちゃんとしたポジフィルムが送られてくる。

1993年
・春、テリー伊藤氏と北朝鮮へ行く。この時の見聞がベストセラー『お笑い北朝鮮』となる。

・14年間続いたTV神奈川の「ファンキートマト」が打ち切り決定。そのドサグサに丸ごと一回、根本特集。ゲストは北公次、平口広美、BCG(ボデコン姉ちゃん11人組)という取り合わせ。限定リクエストでK西杏が1位に。

・夏、初の文章本『因果鉄道の旅』発刊。漫画以外の読者を開拓。尚、文中の「でもやるんだよ!」が年末、「バカサイ(『週刊SPA』)」の流行語大賞に輝く。

・秋、大阪西成の路上生活画家、其風画伯と銀座の立派な画廊で二人展(写真を参照)。が、せっかく大阪よりお連れするも、画伯は直前に行方不明となる。

かつて通天閣界隈の路上で寝起きしながら画伯(芸術家)だった其風の絵 其風

・同盟、勝新太郎の名盤「ザ・マン・ネバーギブアップ」復刻。

・ナユタ版を大幅改訂・加筆の『定本ディープコリア』も出版。

1994年
・結婚のために長年住んでいた東京都を離れ、神奈川県民に。越したマンションから徒歩一分のところに偶然、佐川一政氏が。珈琲の全く冷めない距離。親交を深める。佐川氏は1981年6月11日留学先のパリでオランダ人留学生ルネ女史を殺害し、カニバリズム(人肉食)を実行した本人。

・ドヤ街の夏祭り通いを寿町から釜ヶ崎に変える。

・ヌード写真とウンコのイラストがコラージュされた下品な選挙ポスターで地元政界を揺るがす影山次郎氏に会うため、淡路島を訪れる。街宣車はバキュームカーだった。

・福武書店(現・ベネッセ)の教育誌『チャレンジkid's』に漫画を連載。

・西武セゾン劇場で「不知火検校」上演中の勝新太郎をインタビュー。『週刊SPA』に掲載。

1995年
・『宝島30』に連載(そもそもの企画・担当はあの町山智浩氏)していた因果者ルポ『人生解毒波止場』発刊。現在まで3万部ほど出た。根本の本の中でもっとも幅広く読まれる事に。漫画は抵抗あるが文章は読んでも良いという読者が増えて、漫画の読者をはるかに超える。

・文藝春秋刊『コミック95』(後の『コミックビンゴ』)秋号に漫画「キャバレー青春スター」を描く。これが現在のところ、最後の商業コミック雑誌登場となっている。

・レントゲン芸術研究所の「ANOMALY2」に参加。きんさんぎんさんポルノを展示。英国人のコレクターJW氏が購入。

・自分が原作者としか思えぬほど独特のキャラクターを持つフナクボヤスシという亀が甲羅からスッポ抜けたような男と出会い、一目惚れ(写真参照)。「ガロビデオ」第六弾としてその男(芸名・亀一郎とつける)主演のビデオを撮影。タイトルは『さむくないかい』

亀一郎
亀一郎
 All Rights Reserved,Copyright (C) Takashi Nemoto.肉体も戸籍もある(つまり実在する)が根本敬・画・原作の男

1996年
・正月の5日、『ガロ』生みの親というより、『ガロ』そのものであった長井勝一氏死す。

・WOWOWの5周年を記念して発刊されるというコミック雑誌『FIVE』のため、「超蝿(スーパーフライ)」を描く(編集は『Studio voice』)。が、内容が下品なのでいろいろ揉めた末、直前で没となる。

・鬼畜エリート・村崎百郎氏との共著『電波系』発刊。

・10月2日、佐川さんに連れられて松沢病院の運動会を朝から見物。その間、産院では急遽産気づいた妻が長男を出産していたのであった。

・翌月、京都精華大学で『さむくないかい』の上演と講演。満員御礼。

・この頃、ピエール・バルーの息子バンジャマンが主催するフランスの雑誌『ぽぽころー』にたびたび漫画を掲載。訪仏中の四方田犬彦氏がキオスクで見つけて驚いたりした。

1997年
・当時の“用心棒”大宮イチが銭湯でスカウトした精薄の親父で極上のイイ顔、平やん監督・脚本で「オバさんにもヤングの時があった」というエロビデオの撮影。その模様を更にメイキングに撮り、2本立てで世に問うという好企画。

・6月20日、勝新太郎死去。7月、『ガロ』版元青林堂の分裂騒動。天変地異的状況が…。そして怪しい雲行き・流れの中で8月20日、かの神軍平等兵・奥崎謙三が約13年8ヶ月ぶりに娑婆へ出る。気づけば「この世はすべて神様の演出。人間は皆、○×役という役者にすぎないんですねえ」という奥崎先生主演のビデオ「神様の愛い奴」を神様演出の下、撮影現場で監督役を務め全うする(写真参照)。女装した奥崎先生がペニバン着装の女王様にアナル処女を奪われた瞬間は、漫画(虚構)と現実の壁が崩れた自分にとって、正に至高の体験であった。

奥崎謙三
奥崎謙三
 地獄のニューギニア戦線から生還。69年正月、一般参賀の際、天皇にパチンコを打って有名に。また、捕虜のみならず、てめえらの兵隊(下っ端)まで実は食って飢えをしのいでいた当時の上官を追求したり、いろいろと暴れるドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(監督・原一男、必見!)で一躍その筋の大スターに。著書に『宇宙人の聖書』『田中角栄を殺すために記すー人類を啓蒙する手段として』他多数。現在の肩書きは「ゴッドワールドをつくる会」「神軍平等兵」「暴行・殺人・猥褻前科4犯」など。

・ところでこの年の初め頃、沖縄から根本ファンクラブを作りたいという手紙が。沖縄だけの限定ファンクラブならばと了承する。名称は「根本系」(以後、4回程沖縄でトーク・ショーを開催)。

・晩秋、慶応大学湘南キャンパスで福田和也先生のゼミに招かれ、ゲスト講師。とれたて新鮮な奥崎の本番ビデオなど上映と記憶する。

・暮れ、「オバさんにもヤングの時があった」「神様の愛い奴」を撮るだけ撮って編集に入らぬうち、次なるビデオ作品・亀一郎主演の「ちかん森のターザンSEX」撮影のため、20日間に渡り、沖縄〜台湾へ。
 これらの映像をマンモス・プロダクションの名の下、連続して世に送り出そうという目論見があった。根本本人はハイパーにして最高潮にアクティブであったのだが、その周囲の人間がだんだんとついてこれなくなる。

1998年
・年の初め頃、ロフトプラスワンにて「同盟」として出演。客席には松尾スズキ氏の姿も。催しの三分の二を費やした解説付き「神様の愛い奴」約3時間半。多分、これが公に表した最も腑に落ちる、奥崎謙三体験の記録(これと並ぶ出来のものが2001年6月、漫才師のモリマンの二人も来てくれた、札幌十蘭堂での口演付上映だろうと思う)。当日、会場に居合わせた人々は、あれこそが「神様の愛い奴」だと思ってください。翌日、「感激した」という松尾さんから「情宣のお手伝いでも何でもします」といったFAXを頂戴する。有り難かった。
 が、しかし…。
 デビュー以来14年、運良く好きな事を好きなようにここまでやってきたが、全くもって思いがけぬ事態に入り込み、失速。ミノフトクノイタストコロも当然あるが、全て馬鹿馬鹿しくて、下らない事であるというのに、思い通りに事が進まなくなり、大いに悩む。この辺の事は『電気菩薩』下巻でどうしても書かねばならぬが、あくまでもエンターテイメントとして、個人的には最悪で心底不快で嫌な話も読者が笑って(実際真相はくだらないし)楽しめるように面白く書かねばならぬ。そこは一応プロだから。
 同時に外へ出て人に会う事がタマラナク億劫になる。どうしても外出し、人と会う時は前日から気合いを入れ、無気力を気づかれぬように振る舞った。尚、マンモスプロの計画も当然、空中分解となる。
 『アックス』で連載開始した漫画「黒寿司一八番」もどうしてもやる気が起きず(これは回を重ねる毎に漫画家としての評価を落とした)。
 気づけば無意識にペンを取り、チラシの裏にグチャグチャした意味のない絵を何枚も描き続ける時間の多い毎日(写真参照)

自動書記
自動書記
自動書記

・尚、かねてからシンパシーを抱いていたフランスのでたらめなアーティスト、パキート・ボリノの主催する「Hopital Brut?」よりインタビューを受ける。通訳は佐川さんに頼む。そんな日もあったなあ。

1999年
・2〜3月、世田谷美術館で開催された「時代の体温」展に参加。大竹伸朗、奈良美智他、錚々たる作家陣の中で「役割」を果たす(写真参照)。展示作業は嫌な事を忘れられるので心身にも良好だった。担当のキュレーターのA氏はこの直後、フリーに。

「時代の体温」展(世田谷美術館)
「時代の体温」展
 格調ある立派な美術館。難解な企画書。権威・地位ある正しい現代美術作家陣。その中に全くの異物ながら紛れ込み、でたらめで下らない本当にバカバカしい事をやるってのはなかなか、否、かなり燃えるものです。見た目に奇異なのでいろいろな新聞・雑誌がこの美術展を取り上げる際、「根本コーナー」のものがよく使われた。尚、8月同展を見た小樽文学館・玉川氏より歌謡曲をテーマとした同じような展示(よくいえばインスタレーション)を同館でも依頼される。

・秋、『アックス』の韓国特集のため、コリア・アンダーグランドコミック界を取材。ハードなスケジュールをこなすが、夜になると「神様の愛い奴」への未練から不眠に悩まされる。

2000年
・9月20日、青山CAYで行われたクレイジー・ケン・バンド「青山246深夜族の夜」に幻の名盤解放同盟として参加。奥崎謙三のSEXビデオ上映中、店側が怒り、音を消してしまうが、CKBのマネージャー、トニー萩野氏(元クルース)が余裕の笑顔で穏便に事を解決してくれた。

・晩秋、渋谷アップリンク・ファクトリーで「根本敬の映像夜間中学」開校。今日までおよそ5期、約30〜40回講演(写真参照)。全くの自信喪失期で客入りには始まる前から絶望していたが、蓋を開ければ外は雨だというのに百人以上の超満員で驚く。ついつい客席に「有難う」と連呼してしまい、後日、アンケートを読むと「イメージと違い、イイ人なので失望した」と書いて、以後2度と来ぬ者も数人いた。

映像夜間中学
映像夜間中学
 渋谷のアップリンク・ファクトリーでこの3年間に30〜40回近く開講された、主にビデオ映像を見ながらの講演。伝説の電波喫茶から人類史上最も神様に愛された男のお尻の穴や、当たり屋の語る宇宙哲学まで毎回盛り沢山。要するに動く『人生解毒波止場』、動く『電氣菩薩』といったところ
(アップリンク・ファクトリーのホームページへ)

2001年
・「やらなければいけない」、そう強く思うほどにどうしてもやれない、書けない。そもそも一冊の本を完成させる自分の姿が想像できぬ上、書き上げるだけの気力が湧かない。その『人生解毒波止場』以来の因果者探究の記録で、話が出てから5年近く締め切りを伸ばし続けていた『電気菩薩』の原稿執筆のため、5月後半から6月、7月、8月、9月、10月と約半年、亀戸の担当編集者K氏のマンションに住み込む。食事から洗濯から何から何までK氏の世話になりながら、無理せず出来るところから、少しずつ少しずつ書き出す。この頃、ネット上(2ちゃんねる)に根本廃人説が盛んに流れていたらしい。
 そんなある日の昼下がり、平井の百円ショップ「ダイソー」で田辺一鶴師匠と出会い、珈琲をご馳走になるが、師匠のお話はいつまでも終わらない。

・秋、3日間ほど東京を離れ、精神分裂症のため、20年間、筑豊・田川に蟄居する安部慎一先生を訪ねる。

・10月に入り、出来たところまでの542頁を上巻として、『電気菩薩』がようやく脱稿するが…。

2002年
・1月15日、『電気菩薩』発刊。初版5000部。3月15日に第二刷5000部。計1万部。が、登場人物の一人、K西杏氏(人類史上最も正しい人/写真参照)のK西杏自身が抱く清純な自己イメージと異なり、版元の径(こみち)書房が激しい攻撃(とはいえ問題と全く無関係の余談も沢山あり)を受けてしまう。

K西杏
K西杏
 ジョン・レノンと同じ年に生まれた不動産業社長でシンガソングライター。チョゴリ姿でステージに立つだけではなく、日常もチョゴリで通す朝鮮(韓国)人の男の美空ひばりでソフトタッチの武闘派。在日参政権からエイズ、食中毒、タマちゃん音頭まで何でも歌にして歌う。
 他に宗教家、政治(活動)家、歴史家等幾つもの顔を持つ。人類史上最も正しい人物で「あの本に書いてある事って、全くそのまんまじゃん」と湯浅学は言うが、K西さんの自己に対する清純な世界一正しい人の姿が全く描かれていないぞ、すぐさま出版停止しろ!と怒った本が根本の『電氣菩薩』(径書房刊)。
(かつて幻の名盤解放同盟と呼ばれたグループのホームページへ)
(K西杏ホームページへ)

・安部慎一先生より、あの世での長者番付に根本敬がベスト10入りしたと伝えられる。

・5月、小倉で催された難しい考えに基づく現代美術のイベントRE/MAP2002にビデオ上映とトークで参加。会場のラフォーレ・ミュージアムを下品のどん底にたたき堕とし、役割を果たす。

・8月、渋谷HMVで来日中の米マンガ家で『HATE』の作者であるピーター・バッグ氏とトークショー。が、ピーター氏をよそに司会の中原昌也と「電車でマンガを読んでいる奴を見ると腹が立つ」だの「殴りたくなる」だのという全く場違いな会話に力が入ってしまう。ピーター氏はこういう事を喋る漫画家をどう思っただろう。

2003年
・テレグラフの地引雄一氏と『まんがイーター』創刊のため、少しずつ少しずつ動く。

・春、青林工藝舎より、気持ちをこめて本づくりをお手伝いした、安部慎一『僕はサラ金の星です』発刊。感慨深いものあり。

・7月、ようやくホームページ開設。現在に至る。