『アックス』でお馴染みの青林工藝舎さんより、清水おさむ先生の最新著書『美しい人生』(1500円/税別)が一月下旬に発売されました。この御本の解説を根本さんがされておりますが、単行本解説としては異例の長文です。
また、この解説について、みうらじゅん氏が「この本に書かれた解説で根本さんが言ってることは、世界一正しいとボクは確信しています。根本さんは昔からずっと正しいことを言っているし、自分のやりたいことをスタンスを崩さすにずっとやり続けているからホントに凄い人だと思う。だから根本さんはボクの知っている人の中で一番正しくて一番凄い人だ」と本当に有り難いコメントをいただいております。
そこで清水おさむ先生の『美しい人生』に寄せた根本さんの解説全文と共に、根本さんの「解説への補足」を更にいただきましたので、あわせてご紹介いたします。転載をご快諾いただいた清水おさむ先生と青林工藝舎さんのご厚意に深く御礼申し上げます。

清水おさむ著『美しい人生』(1500円税別/青林工藝舎)
清水さんは奇蹟のマンガ家
清水氏のことを語る前に、まず前提として話さなければいけないことがある。一口にマンガ家といってもいろいろなタイプがある訳で、それを一括りにして考えてしまっては、たまらないからだ。
作家というものは、世の中では常にホームランを打たねば、と言うイメージが強いから、大手出版社なんかはそれが当然と思ってるんだろうけど、同じマンガ家でもバントで地道に少しずつ丁寧にやっていく奴もいるんだよ。バントだって確実に塁を進めていくんだからさ。十万部売る奴もいるけど、でもバントで三千、四千部を売る作家だっている訳だ。どの道をとるかは本人次第だけど、やっぱり俺の場合、自分がやりたいことを続けていくためには、一発のホームランよりもバントでしぶとく、の方なんだな。
なんだかんだいってもさ、『ガロ』のようなマイナー雑誌でデビューした、それこそホームランも出てこないような、例えば俺の周りでいえば、川崎ゆきおさん、ひさうちみきおさん、平口広美さん、みうらじゅんさん、東陽片岡さんなんかさ、やっぱりしぶといんだよ。しぶとい奴に共通していることって、結局みんな仕事を選ばないんだよ。例えマンガでなくてもさ、頼まれたら何でもやるんだよ。どんな仕事でもさ。みうらさんだって近年は武道館満員にしたり凄い事になっているけど、「えっ」っていうような誰も知らない仕事を沢山、それこそ何年も地道にやってきて、今がある訳だよ。
で、話戻って、大手でマンガだけって人の場合、いつも十万部を期待されてて、それでホームランが打てなくなったら「ハイ、さようなら」になっちゃうけど、バントで塁を進めていくやつは、ハナから十万部なんか期待されてやしないかわりに、しぶとく生き抜いていく方法を身を持って知って行くんだよ。
俺は思うんだけどさ、これはマンガに限ったことじゃなく、何かを長くやり続けていれば、その間に絶対に幾つかの波ってあるんだよな。その波にぶち当たった時に、これは駄目だ、ってそこで止めちゃうとホントに駄目なんだよ。そういう時期をどうやって凌ぐかってのが一番問題なワケだ。どんなに不調であってもさ、兎に角描き続けるっていうか、自分の刻印を押しておくような作業はやっておかないとさ。俺だっていろんな意味でスランプは何回もあったけど、取りあえず今でも『アックス』なんかに描いているのは、そういうことなんだよな。どんなことがあっても休んじゃはいけない、っていうさ。
波が来て駄目になる奴、それに頭がおかしくなる奴もいるんだよな。でもさ、簡単に頭おかしくなるなよって思うよ。そんなヤワな奴じゃ駄目なんだよ。それはいい意味でしたたかさが足りないんだよ。
人間何が大事かって言えば、身の丈に合った処世術なんだよな。処世術って言うとずるがしこくたちまわるとか、とかく悪いイメージが強いかもしれないけど、でもそんなことはない。やっぱり処世術は大事なんだよ。ホントに凄い才能があって、でも何年も売れないなんて奴って、実はあり得ないんじゃないかな。ま、例外もあるだろうが、大方、世の中が分からないとかってのは間違いで、やっぱそいつ自身にどこかに欠陥があるんだよ、処世術も含めて。仮に才能があっても処世術が身の丈に合ってないとか。ま、言いかえりゃ、どれだけ自分を客観的にとらえているかともいえる。
それなりの作品を描いていれば、誰か救ってくれる人間が絶対にいる。でもそういう人がずっと出てこないってことはさ、本人がいくら天才だと思っていても形に残すことは出来ない。救ってくれる編集者がいないなら、自分自身で多少のプロデュースして振り向かせる、とかしないとさ。そういうことを含めての処世術を言ってるんだよ。だから処世術って侮ってはいけないんだな。大体、マンガ家っていうだけでマヌケの十字架背負ってるんだからさ。「ま・ん・が」……ここには言霊のレベルでもうあらがえないものがあるよな。
ま、バント野郎はしぶとくなきゃ。それには時間はどうしてもかかるよ。例えば平口さんなんかさ、一時は自転車のサドルに「エロ」なんか落書きされて、からかいの対象にされていたけど、今平口さんを知ってる人は誰も馬鹿にしないよ。むしろみんな敬意を表してるでしょ。「平口さんはすごい」ってさ。五十半ばになってもバイアグラ飲みながら、今日も今頃どこかでハメてるんだよな。平口さんだっていくつもの波を乗り越えてきてこその今があるんだから、凄いことだよ。今やエロの帝王だもん。それこそ身の丈の処世術でエロを突き詰めてきた訳だからね。
才能と身の丈に合った処世術さえあれば、二十代から三十代前半ぐらいまでは、はっきり言って深く考えなくても、それこそ勢いだけで出来るんだな。自分の事を振り返ってもそう思う。でも三十代後半あたりからまず自分自身の体の変化っていうかさ、それこそ見た目若かったりすると自分を誤魔化してきたのが、もうさすがに誤魔化しは効かなくなってくるんだ。で、四十代になると、否が応でも人間歳をとって死ぬんだな、って意識が実感として頭の中というか体全体に入ってくるんだよ。で、ちょうどそういう時期にさ、自分自身のマンネリ感じゃないけど、そういうものを強く感じることと重なってくるんだよな。そういうふうに出来てるんだよ。厄年っていうけど、本当に節目がその辺に来る様になってるんだ。で、ここからがキツクなってくるから、その人の真意を問われるのはある程度キャリアを持ってからのことなんだよな。
音楽の世界で言うと、エンケン(遠藤賢司)さんなんか、それまではギター一本で弾き語りをずっとやってたんだけど、自分自身がエレキギターを持ってバンドを組んだのは四十二歳からだもんな。多分、四十を過ぎてそれこそ男の更年期的心理に入るそんな状況の時にさ、このままじゃ駄目になる、そんな危機感を感じたんだろうな。
エンケンさんはああいう性格だから、それを跳ねのけるためには、ってトリオの形を取ったんだと思うよ。それも自分がリードギターというポジションを取ってね。それまではリードギターのパートはそれこそ他のギター上手い奴に任せればよかったんだけど、それをいきなり自分がエレキ持ってトリオをやるんだから、うっかり手なんて抜けない訳だよ。自分を極限迄追いつめてどこまでやれるか、という挑戦を。そういうことだったんだろうな、って思うよな、自分も当時のエンケンさんの歳を通過してみて。
やっぱりどこかで自分を突き詰めて、自分に決着をつけなきゃ前に進めない、って時期があるだよ。それは勢いだけで乗り越えられる若い時期とはちがう、もっとキツイ決着なんだよな。
結局は人間ってさ、同じことしか出来ないんだ。だからそれを長く続けていれば、必ずどこかで行き詰まりになる。それを何とか打ち破ろうとして、それでちょっと違うやり方でやろうとするんだけど、中途半端にやっていると横道にそれてしまうんだよ。結局「俺の基本はこれだ!」ってところに戻れないんだよ。それまでにあるべき段階を踏んで、それに討ち勝っていないとさ。
俺の場合も、既に決着をつけなきゃいけない時期に入っててさ、一度、これ以上ひどいものはない、ってくらいの作品(『命名─「千摺」と書いてたろうと読む』)を絶対に描かなきゃならないんだよ。とことんメチャクチャにしてそこでここ十年間の自分への決着をつけたいからさ。長い間には節があるから、それをぶち破らないと続けられなくなってくるんだよな。でもそれを許してくれる場所ってのは、それこそ自分の家みたいなもので、だから安心して本気で決着つけて、次に基本に帰った作品を描く、という段階に進みたいと思っててさ。そりゃ若い頃に比べたら体力は衰えてるけど、でもそれは質としてそういうこととはまた違うパワーなんだな。
前置きが長くなったけど、清水さんは、俺なんかよりキャリアは長いし歳も上な訳だ。で、同業者と俺がいうのはおこがましいかもしれないけど、察するに、清水さんもこれまでに幾つかの波があったと思うんだよな。でも自分でそれを乗り越えてうまくバランスをとって生き抜いてきたんだよきっと。清水さんの場合も自分の世界観っていうのをはっきりと持っている作家だし、それを守りながら長い間やって来てるんだからさ。
この単行本に収められた作品は、全て『アックス』に掲載された作品なんだけど、編集部に聞けば、『アックス』が創刊された頃、清水さんは突然編集部に描き上げた原稿を持って訪れた、て話だった。
『アックス』に載った作品を見ると、物凄く描き込んでいるし、俺より歳上なのに、全然衰えていないというか、若さがみなぎってるんだよな。描きたいことがまだまだあるんだよ、きっと。「紅桜生首地獄変」なんか、さらに描き込みが凄くなっているしさ。こういう集中力を持続して、その後更に上に行けるってホントに奇蹟なんだよ。そういう作品を清水さんが『アックス』に持ち込んだってことは、きっと必然的なものだったんだろうな。
去年のアックスマンガ新人賞の選考会で、確か林(静一)さんが「マンガってのは歳をとっていくと、ホルモンの関係で描けなくなる」って言ってたけど、俺もそうだと思う。ある部分、スポーツ選手に近いもんがあるんだよ。マンガを描くのと小説を書くのとではちょっと違うんだよね。
でも清水さんの作品を見るとさ、まだまだホルモンは枯渇していないんじゃないか、もしかしたら逆に邪魔になるくらいあるのかもしれない、と思う。マンガの展開としてはすごくオーソドックスで分かりやすい描き方をしているんだけど、主人公の目が凄い、凄く鋭くて異様なまでに強い情念を感じるんだよな。その情念はきっとホルモンなんだよ。一見耽美系とも捉えられがちだけど、でも違うんだよな。それはきっとホルモンとの闘いなのかもしれない。
これは俺の推測にすぎないんだけど、これくらいホルモンが強いと、四十歳を過ぎてから真意を問われるとすれば、清水さんの場合、真意を問われた時期が、多分再デビューだったのかもしれない。絵を見ても逆に若くなってるのもその証拠。だから清水さんの中では、『アックス』に載ったのはデビュー何作目、っていう意識なのかもしれないな。これだけのパワーは、そういう化学反応からきたパワーなんだろうな。ある時期に清水さん御自身の中で闘いがあって、一度グチャグチャにして、それで再構築したんだろうな。でないとこんなにオーラの強い作品は描けないよ。描く前に力尽きてしまうからさ。
今の時代のその普通っていうか何んだ、そこいらの人々の会話って(といって喫茶店の他のグループをグルリと見回す)聞いているとさ、テレビドラマとまったく一緒なんだよ。ドラマが先かあいつらが先か知らないけど、聞いてると、ホントにテレビのエキストラとしか思えないくらいに軽いしリアリティが無いだよな。テレビのチャンネルをひねって出てきた場面と、それこそ信じられないくらいに同じなんだよなぁ。若い奴等の会話を聞いてても、自分と同世代のその、会社じゃ課長ぐらいになってる奴らの話聞いててもさ、絶対に会話に入っていけないからな。もう価値観や持っている世界観に接点すら見えてこない。が、それは奴らからこちらを見ても同じで、俺のマンガは狂人の落描きでしかないだろうし、清水さんのマンガにしても、二〜三頁読んだら床に叩きつけるだろう。
でも実はだね、そういう人達から「こんなのマンガじゃない」と見なされようがさ、やっぱ何年もやり続けてる以上、よく見ると何か普遍性が存在してるんだよな。それは決してテレビドラマにはならないようなものだけど、何か普遍性がある。無いようでちゃんとあるんだ。
清水さんが持っている普遍性もさ、テレビドラマにはならない、だけど人間の根幹に関わるんだよ。バンバン首が飛んだりしてるけど、でもそれも人間に対する奥深いところからの肯定なんだ。そういうのって世間では認知されにくいんだけど、その分強いんだな。兎に角実はメチャクチャ崇高でありもする。だから評価とかってもう関係ないないのかもしれないね。描かざるを得ないんだよ。年齢を重ねてもそういうものを持っているっていうことは、やっぱり大事なことなんだ。だから描いてるんだよ。描いても描かなくてもどうでもいいや、ってもんじゃないからさ。清水さんの美しいきれいな線は、えーと……(とここで言葉が詰まり編集Tに何か良い表現はなにかと問い、問われたTは「愛の筋肉!」と応える)、そーそー、それ、実は愛の筋肉なんだよな。そー、それだよ。
どんな形であれ、どんな作風であれ、描けっていわれても描けるもんじゃないよ、っていうものを持っている奴は、やっぱりしぶといと思うよ。
俺の場合、変な資質というか性質というか性分があるから、たとえば大手から仕事が来たら、絶対に一回で二度と発注が来ないようなマンガを描いてやろうって思って、で、ホントにそう描くから、その通り没になったりね。中途半端に妥協して、後で自分が後悔するようなものはやりたくないからね。だからたまーにそういうところから仕事の依頼が来ると、ものすごく燃えるんだよ。絶対に没になってやるってね。でもそれは俺なりの、まあ、さっきの話に一瞬戻るけど、処世術でさ、それで商品価値を高めようって計算もどっかにある。商品価値ったって大手から見りゃバッタ商品かもしれないがな。でもその時は一回でダメだったとか、没になったとかって事でも、長い目で見りゃそれはそれで自分の中に取り込んで、ちゃんとコヤシにはなっているんだよ。
で、ホームランも何もないところで、自分の足で塁を進めていく俺達にとってさ、節目節目の波を乗り越えて行かなきゃならないときに、清水さんのような存在はやっぱり無視できないんだよな。原稿を見ても、肉筆の迫力の凄さを強く感じるしさ。パソコンでちょこちょこって処理してるのとは訳が違うんだよ。絵からこんなにも強いオーラが出せるっていうのは、それこそ幾多の波を乗り越えてこその結果なんだな、と俺は思いますね。
――以上のお話をしつつ、内心、何かが足りない気がした。そうしたら、翌晩、次の様な夢を見たのである。
結局、マンガで喰えなくなった根本、誰か(謎)の薦めで“営業”の職にありつくが、働くのは45才になってはじめてで、しかも営業ということで大変に不安。
が、実質的な仕事は芸能界の黒幕?の命令で、黒幕の息のかかったケーキ屋(創作系)をまわり、味見をするというもの。その会社のその部署は売れなくなった(とされる)芸能人が多く、基本的に二人一組で各ケーキ店をまわるのだが、根本の相棒はスモウの舞ノ海だった。因みに同じ部署にはジョー山中もいるという。しかし、どの店のケーキもうまい。
で、ある日、上納金?を滞納しているというケーキ界の親玉の大邸宅へ舞ノ海と取り立てに行くが、要塞の様になっている。どうしても中に入れずにいると、我々に気付いた要塞の主が、塔(木造)の上からヤシの実大の物を沢山投げつけてくる。見ればミイラ化したガイ骨で、瞬時にして、かつてポルポト派が虐殺した150万体のうちの幾つかであると分かる。それにしてもこの反撃、元スモウとりの舞ノ海でさえ、手のくだし様がなく、自分などは全くなすすべもない。どうにか次々に飛んで来るガイ骨をかわすことに専念。
が、しばらくすると、そのガイ骨が江戸時代の武士の生首にかわり、生首はしだいにリアルなものから、マンガの描線によるものにかわる。そこで「あっ、これは清水おさむの描く生首だ!」と気付く。
と、生首の目も美しく、キラキラと光を放ち、しかも重力にまかせポンポン飛ぶのではなく、桜の花びらが散る様にひらひらと、それもおびただしい数の生首が空に舞い、見とれてしまい、「さすが、やっぱり清水おさむはいいな」と思う。
――これにて本来かくあるべき、自分流の「清水おさむ解説」は完成した。(根本敬)
皆様、いかがでしょうか?自分が「マンガ家」であることと「マンガ家」であり続けるための自分の身の丈にあった処世術をめぐる、自分との果てしない孤独な戦いを継続し、自分が「マンガ家」として描かなければいけない、人間の根幹に関わる普遍性を、自分の愛の筋肉で桜吹雪のような生首ケーキへと昇華させた、清水先生が生きる美しい人生―不屈のホルモンと甘美な描線―をぜひお手にとって、ご堪能下さい。
清水先生の『美しい人生』は、全国の書店で只今、好評発売中です。お近くの書店に在庫がない場合はご書店でぜひご注文下さい。詳細については青林工藝舎ホームページをご参照ください。