160.山田花子「自殺直前日記改」紹介文(2014年3月16日)

 ある人が恥じらいの感覚もひとつの才能であると言っていた。それに倣えば、山田花子は、恥じらうことはもとより、その鋭敏に過ぎた感受性そのものが天賦の才能だった。その才能は青い悩みについての感度の質の高さとしてしばしば表出した。
 その矛先はひたすら自己の内面に向かい、深く突き刺さるほど、外部との齟齬を生み傷はふかくなるばかりだが、止まれやしない、それどころか更なる苦しみがより一層の自己探求に拍車をかけた。山田花子は純粋に過ぎた。他人に依存することも頼ることもせずに、総て自力でどうにかしようともがいた。
 結局24才で限界に達して、半ば衝動的に自ら命を絶った。が、この時点で最早、山田花子ひとりで総て背負うにはとうに限界に達していた。そのことをも視野に、自死は惜しむらくとか無念の死ではなく、「本当にお疲れ様でした」と声をかけたくなる、そんな死であった。
死後、本人も草葉の陰で驚く様な展開がおこる。内面のつぶさな心の動きを記した日記或いはメモに等しい書き物が、「自殺直前日記」の名の下に出版されるや、今日、多くの読者が絶えることなく、その中でも〈ある種の人達〉のバイブルにまでなっている。 そういう扱いとなる、即ちそれ相応の「商品的価値」をも獲得するにあたり、残した作品や「自殺直前日記」にとって夭折は大きな説得力をもたらすが、24才での自死は「有効期限」ギリギリだった。10代から20代初期の目まぐるしく変化する思春期青春期青年期の悩み(山田花子ならの独自の感受性による感覚もあるがベーシックは「思春期青年期青春期の普遍的かつ通過点的な悩み」ではあるかと認識する)は25才くらいまでには、折り合いが着く方向に進めなければ、そして20代も後半となり30代ともなれば「青春の悩み」は脇へ置かれ、社会性とかそういう部分が如何に未成熟かという部分に人々の焦点は行ってしまう。山田花子が30代40代とあのままであの様な日記を延々と膨大な量を書き続け‐自ずとループ状となっただろうとの想像はかたくない‐ながら、いつ自死するか目の離せない状態で20年程生きながらえ、仮に46才でようやく自死し分厚い「自殺直前日記」が発売されたとしても、この様な読まれ方や共感を呼んだだろうか。1時的に話題になろう。が、多分、或る種の「奇書」に落ち着き、山田花子本人の位置付けも「変な人」に収まってしまっただろう。いずれにせよ出版物としての耐用年数は短かかっただろう。
 とにかく、それほど、『年齢の問題』はこの本の場合重要なポイントなのである。
 この書をバイブル扱いし、親しげに面識などありもしない著者を本名で「由美ちゃん、由美ちゃん」と読んで憚らない(※当人の勝手だが「自分」は霊媒体質で『由美ちゃん』が降霊したと言って高市由美を名乗り(要はカタリ)、生前高市由美こと山田花子と親しかった人間に対して自分の個人的要求を「由美です、OOちゃんは良い子だから言うことをきいてあげての」などとメールして来る恥知らずの最低なゲス女30代後半もいると聞く)30代40代の読者は程度の差がはあれ、問題がある者が多いのだ、とにかく。山田花子の感覚に、漫画に、日記にしるされた苦悩に、そしてその慧眼に、個性的なファッションセンスに、それらを客観的な視点から捉えた上で惹かれたり、またその愛読者なる人が当時の山田花子の日記がしたためられた、同世代、10代〜20代半ばで、しかも現在形でその苦悩に直面しそして共感。故に「私(僕)は負けないから」と励みにする分にはよい。だが30代40代になって現在進行形で「山田花子みたいに、『由美ちゃん』みたいになりたい」とあの日記の中に没入しているとしたら読者として間違っている。
 そもそも山田花子がどうこう言う以前に年齢に比して未成熟に過ぎ、「不思議な子」と思われ特別視されたい。と、いう20才前後の願望を、止まった個人的時間の中で、相当こじらせていると言って間違いない。
 山田花子本人は自分を「他の人間と違う」ことなど決して望んではいなかった。ましてや他人に「変な子」「不思議な子」などとは微塵も思われたくなかった。本人は極めて常識的な人間として目立たない様に極力つとめていたのである。
 また最終的に責めの矛先も自身へ向かい、例えば自分をこうしたのは親だ兄弟だ親戚だとか誰某だなどと外部に責任転嫁かなど一切しなかった。いわんや他人に「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」など悪態メールを送ったりなど山田花子がネットの時代にまで生きていたとして、そういうことをいい歳をしてやっている自分の「ファン」とか「理解者」を自称する輩など激しく嫌悪しただろう。因みに自分の意見や思い込みに相手が同意しないからと「死ね死ね死ね死ね死ね死ね…」と非難のメールを送る感覚とか「死ね死ね死ね」と打ち込むセンスはハナから山田花子/高市由美には全くない。ゲスな女ほどとりわけ他人を攻撃する際に根本的なところで如何に実は箸にも棒にもかからないほど凡庸な感覚の持ち主で、才能など皆無だと知れる。

 10代から20代の青い悩みに決着をつけなかったのは怠慢であるのか未成熟のままいたずらに歳を重ねただけである。そういう輩は往々にして19〜20才の頃の自己イメージに固執し、服装も趣味も30代40代になろうが20才前後の頃の自分のままであることに固執する。 地方なら例えば38才だとすれば、同級生たちは「子供が生まれた」という話題を通り越し「孫が出来た」という幼馴染みは少なくはない、そんな年齢である。

 奴等はいつも「もう自殺します」「由美ちゃんのところへ行き(逝き)ます」といううメールを各方面に定期的周期的に送りつけるが、自死することはなく結局生き続けている。

 ならばあえて言う。『死ねば?どうぞ。誰も悲しまないよ。皆あんたにはうんざりしているし、そもそもあんたには好きだ嫌いだ以前に、人間として関心が持てないんだ。とにかく死にたきゃ死ねば?』と。が、しかしこう言い放ったところで仮に「山田花子になりたい自分をこじらせた」30代40代が自死して見せることはない。
 「山田花子(或いは不思議チャン)」をどれだけこじらせようと、「死にたい死にたい」と他人の関心を引くことに本意があり、死ぬつもりなど毛頭ないのだから。

 20代前後の自己イメージにはおさらばして、まずは歳相応の格好をして歳に合った生き方に軌道修正しよう。同級生には孫がいる歳に差し掛かったのだから抜け出すなら今が最後かもしれない。
そして山田花子(享年24才)的悩みに追随しかつ自己を重ねて現実から目を逸らしていないで現実を2014年の今を自分に与えられた年齢として認めその中で相応に生きよう。
 早くそうしないとますますどうにかするにも難しくなくなります。 自分の瑣末な個人的なことだけに日々の営みの総てをついやせられる環境がそもそも良くない。子供の世話、親の介護、ボランティアても他人のために費やす時間や体験から何かしら学ぶ機会を持つべきだろう。まずはそういう輩は「山田花子自殺直前日記改」他関連本(根本敬著書もあればそれも)、総て廃棄処分からしてみることをお薦めする。また量販店で大量の酒を買い込み、膨大な種類と量の向精神薬をスナック菓子の様に服用しながら朝昼晩の境なく飲酒しつつずっとパソコンに向かっていたりスマートフォンをいじくっている生活からもどうにか抜け出るべきだろう。まあ難しいだろうが。
 とでも言いたくなってしまう「山田花子の真似」を10代20代前半はとおに過ぎながら、こじらせたまま中年になってしまったにもかかわらず19才辺りを生きている30代40代の共通する生活パターンがある様だ。そしてそういう輩は俺の周囲のみならずこのホームページのこの拙文に今目をやっている皆さんの身近にも程度の差こそあれいませんか?
何方道。自分は特別な人間だという思い込みにかられた人間が特別じゃない(凡庸)のにその思い込みをこじらすと本当に始末が悪い。 (根本敬)


山田花子「自殺直前日記改」鉄人社より発売中


某私鉄沿線の商店街に出没するエロおばさん(推定年齢60才)。ガングロ系子ギャルスタイルで現れ、人通りの中しゃがみ込んでは際どい下着からはみ出した性器の一部分をチラチラと見せ男の関心を引こうとする。


この日の標的は包丁研ぎの親父だった。 若い頃(さぞやセクシーな美女でもてにもて、激しい男性遍歴を持つのだろう)のイメージを捨て切れず、そこに固執するあまり、こじらせてしまったのだろう。 自己イメージをこじらせたままにしておくと怖い(当人というより周りの他人がとりわけ)ことになる。


これは個人的にうけたエピソードだが、こんなことまでいちいちこう悩んでたんだから本当に大変だ…