亡き母を撮り続けて 石内都
『AERA』誌 2005.5.23号 掲載
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着ていた人の体のラインに馴染んだシュミーズ、ガードルなどの下着類。火傷の跡が残る老女の皮膚。ちびた真っ赤な口紅。使い込んだ薄いグリーンのパンプス。
石内都さんの作品「Mother’s」は、5年前にC型肝炎がもとで84歳で亡くなった母の体と、その体に接してきた「もう一つの皮膚」を撮影したもの。今年、6月から開催される第51回ヴェネチア・ビエンナーレ美術展での個展に出品される。「アートのオリンピック」とも呼ばれるこの国際展で、日本代表作家として女性の写真家が選ばれるのは初めてだ。
写真を始めた28歳のとき、一生の仕事にするつもりはなかった。当時、「誰も知らない名前がいい」と軽い気持ちで付けた写真家名「石内都」は、響きの美しさが気に入った母の結婚前の名前。それから30年後、日本を代表するアーティストとして認められた作品は、母が遺したものを撮影したシリーズ。しかし、現実の母とはそりが合わず、会えば喧嘩ばかりだった。
95年に父が亡くなり、
「ようやく話ができるようになり、もっと母を知りたい、と思い始めた頃に死んじゃった。母とうまくいっていたら、こんな作品は撮らなかったかもしれない」。
石内さんにとって作品を作ることは、撮った写真と向き合い葛藤しながら対話をすること。母の遺品を撮ることは、母の人となりをより深く知ることにつながる。
石内さんの母は1916年(大正5年)、没落農家の5女として現在の群馬県桐生市で生まれた。子どものいない家の跡取りとして養女に出されるが、決められた相手との結婚が嫌で実家に戻る。生計を立てる必要に迫られて選んだ職業は、当時の女性としては珍しいタクシー運転手。やがて満州に渡り、現地で結婚するが、夫は徴兵される。
故郷に戻り出会った7歳下の男性、清さんと暮らし始めた頃、戦死したはずの夫が戻ってくる。妊娠していた母は、夫に慰謝料を払って離婚した。清さんと再婚し、生まれた娘が石内さんである。
母の波乱の人生は続く。石内さんが小学校に入った年、父が事業に失敗し、一家で神奈川県横須賀市に移り住む。懸命に働く両親を助けようと、石内さんも、小学2年生から夕食を整えてきた。殺人者、駆け落ちをしてきたカップル、会社の金を横領した人、脛に傷を持つ人たちが暮らす地区での生活は、「貧しかったけれど、家庭としては一番幸せな時期だった」。
それでも、当時から事あるごとに厳しい母に反発してきた。
「6畳一間のアパートで靴を揃えろとか言われても、説得力がないわけ。そんなことより大切なことがある気がして、母の言うことは一切拒否していました」
母となぜうまくいかなかったのか。作品を作る過程で、母との思い出を反芻するうちに、分かってきた気がする。
「嫌だったのは、母の価値観だったんじゃないか。違う人間だから価値観なんて違うのに、私は自分と同じものを母に持って欲しかった。要するにわがままだよね」
経済的に自立した女性が少なかった時代に、車の運転技術で家計を助け、再び興した父の事業を支えてきた姉さん女房の母。「父を引っ張っていくような、ある種のキャリアウーマン」であって欲しかったのに、現実の母が常に父を立て、控えめだったことが歯痒かったのだ。しかし、父が成功できたたのは、母が目立たないよう陰に回っていたからではないか。
母の下着などを撮り始めた理由は、もう一つある。形見分けもできないプライベートな持ち物を、写真に撮れば捨てられそうな気がしたからだ。大量の遺品を整理する中で、家計簿に挟まっていた「清が死んだ」と一言だけ書かれたメモを発見する。長年連れ添った夫婦というより、生身の男を思う女の気持ちがこもる短い言葉に、胸を突かれた。言葉少なで感情を表に出さない母の内面を、「目からうろこが落ちたみたいに」初めて理解できた気がした。
71歳のときに突然自宅で倒れた父は、病院で一度も意識を取り戻すことなく3週間で亡くなった。母は、なかなか見舞いに行きたがらなかった。「父が死んだときも泣かなかったし、ずいぶん冷たいやつだなと思った。でも、本当はつらかったんだ、見たくなかったんだって」ことに気がついた。
写真を媒介に母という女性が見えてくる一方で、作品は、名古屋、ニューヨークなど個展の度に、故人を離れて普遍性を増していく。5回目の個展となるヴェネチアでは、あまりにも生々しいと撮れずにいた和服の下着の写真を出品する。赤い絹の長じゅばんが、どう受け止められるか楽しみだ。
最近、母の洋服を少しずつ捨て始めたが、撮影に使った下着類は残してある。理由を尋ねると、
「うーん。邪魔にならないから」
石内さんは、少し突っ張ったような口調で答えた。
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