母の介護生活始まる
 母は松本市に生まれて、父とは3年越しの遠距離恋愛の末に結婚して東京に来ました。父の母親と父の弟、妹を含め、突然7人家族の家事を仕切る専業主婦になりました。母は前置胎盤という危険な状態になり、お米の袋を持ち上げた途端に大出血をして、危機的な状況で私はこの世に生をうけました。妹が生まれて親子4人がそろいました。

父が国家公務員だったこともあって、転勤生活を繰り返していましたが、東京に戻ってきた頃に、姑に痴呆の症状が出てきて、母は姑の在宅介護の生活に入りました。母がおばあちゃんを抱えてとても苦しんでいる姿を見ながら、私は自分の大学生活を謳歌していたので、あまりお手伝いもせず、大学を出たその年のうちにサッサと結婚をして家を出ましたから、ほとんど母が一人で在宅の介護を仕切っていました。

私は足立区の小学校の教職についていました。2年で長女が生まれて、その年のうちに夫の転勤に伴って渡米することになりまして、私は小学校をやめてしまって、長い専業主婦生活が始まりました。私は22歳で結婚したので、早くに母とは離れて、私はアメリカにいたし、母は東京でおばあちゃんの介護をしていました。

平成元年におばあちゃんがみんなに見守られて亡くなりました。平成2年に私たちがアメリカから戻ってきて、平成4年に私の下の男の子が生まれたときは、ちょうど母は気苦労もなく、一番楽しい時代を送ったのかなと思います。

           母は家族の会をつくる
 母は痴呆の家族を抱えた家族の大変さを身にしみて知っておりましたので、地域の活動として
「桃園デイクラブ」を設立して、地域の呆けたお年寄りを抱える家族の会をつくって、
毎週月曜日はお食事会をやって、月に1回はみんなで外出しようとか、
季節ごとの遠足や合宿などを企画して、老老介護のお宅も多かったので、
保健所からなどの支援も受けながら楽しく過ごしていました。

 平成5年に夫の転勤で私はロンドンに行きました。薄情な娘で一緒にいられなかったのです()。平成6年に母は乳がんになり手術をしました。8月に私は心配になって母の様子を見にきたときに、乳がんはうまく手術でとれたのですが、どうも具合が悪そうに見えました。

 平成7年に入り「熱海に梅を見にいった時に歩けなくなったのよ」と国際電話で聞きました。悪夢のような年で、3月に歩けなくなったのに、8月には完全に車椅子状態になり、都立神経病院でALSの告知を受けました。
 ロンドンと東京と何回往復したかわからない。私と父とで1回目の家族だけの告知を受けて、2回目は1週間後に母に告知をしてもらいました。
在宅療養開始

平成8年2月在宅へ、
息子は透明文字盤でひらがなを覚え、呼吸器の音を子守歌に 大きくなった
 一旦私はロンドンに戻ったのですが、ほっておけないということで、娘と息子と一緒に、ダンボール3つぐらいに荷物を詰めて、夫には「ごめん」とだけ言って、サッサと帰国しました。帰国した3日後に母は気管切開となり、同時に人工呼吸器の使用を開始しました。私は7歳の娘と3歳の息子はろくに日本語もしゃべれないような帰国子女2人を抱えながら、母の在宅介護に突入したわけです。

子供たちの教育のことは気になっていたのですが、いま思うとかなりハードだったらしいです。子供の生命力に、何とかなるさと思って、子供は子供、がんばって生きてろ、みたいな感じで投げ出してしまって、私はとにかく24時間、母の介護で、死なせてはいけないので、真剣に呼吸器の管理から医療的ケアを一生懸命覚えたのです。

そんな私がてんてこまいなのを見て子供たちは育っております。実際、息子は透明文字盤で文字を覚え、呼吸器の音を子守り歌にして、おばあちゃんの部屋で一緒に生活しながら大きくなりました。母の療養生活はこういうふうにして始まりました。

 療養生活を豊かに

・イベント
・外出
 八ヶ丘まさかロッジ2回
 山中湖
 桃源郷
 新宿御苑お花見
 哲学堂お花見
 秋の外苑 銀杏並木
 お台場
最初は落ち込んだのです。情報が少ないし、介護保険制度も何もなく、東京支部が立ち上がる前だったと思います。橋本みさおさんのことは新聞で読んで、すごい人がいると驚いたのですが、うちではとてもうちではできないなと。母に見せたのです、「これと同じようにすれば、私たちはすごく楽になるんだけど、ママやってちょうだい」「できない」とすぐに言われました。仕方がないから、長女の私がリーダーになって、母が元気になるようなことを考えたりして、イベント中心の24時間在宅の家族介護に突入しました。いろんなところへ行って、楽しくみんなで過ごしました。
これは母が自費出版で出した『花の輪』という歌集です。女流歌人の樋口美世先生が指導に当たっていただいて、「お母さんに短歌を詠んでいただいて、私が添削の形で歌にしてあげるから」と言っていただきました。
 母のもとの歌なんて、都都逸か何か、短歌じゃないみたいなんですが、それをきちんと短歌にしてくだ
歌集 花の輪
難病のわれとも知らず花の道千倉の浜辺に花摘み遊びき

立つこともできずわが病背丈ののびり孫達と背比べもできず

がんばってがんばれ祐子とはげましの年賀状届き涙にかすむ
さって、しかも母の心を傷つけないような上手な指導の仕方をしてくださって、私は本当に感謝しています。母はALSというひどい病気になりながら、出会っていく人々はとても温かくすばらしい人ばかりです。
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