| 母と過ごした日々 (4) | |||
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| 和歌山県海南市 前原 千珠 | |||
| (さし絵・マンガも) | |||
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半そでシャツで過ごせるようになった 母に少し変化がありました。1年前は、冷房や自然の風さえも嫌がり、空気の抵抗を少なくするために長そでの服を着て汗だくで過ごしたのに、この夏(平成17年)は、半そでのシャツで過ごせるようになっていたのです。皮膚に感じていた得体の知れない苦痛感がなくなったのでしょうか。 母に直接、風が当たらないように扇風機を使い、家の中は少しさわやかになりました。でも、母の悲鳴のような訴えと、父のおトボケぶりはますますパワーアップし、仲裁役の私も自然とハイテンションに! テンションを上げて明るくしないと、一人でも落ち込んでふさぎ込むようなことがあれば、介護生活が難しくなるような気がしたからです。 食事の方は、すべてミキサー食となり、とろみ加減の微調整が難しくなっていました。市販のミキサー食やとろみ粉ではのどごしが悪く、母は動きにくい首を精一杯に振っては「食べられない」と訴えるのです。私は、いろんな食材を使って試作を重ね、母がOKを出したメニューは大量に作り、小分けにして冷凍室に保存。 不思議なもので、試食しているうちに、母が食べられる物は、私の舌と喉で実感し、わかるようになっていたのです。レパートリーは少なかったけど、食事はスムーズにできるようになりました。 |
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| 気ィ使うから、いやや | |||
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介護保険の利用は相変わらず、レンタルベッドのみです。私が仕事に行っている時間だけでもヘルパーに助けてもらってはどうかと思い、母に提案したのですが、「気ィ使うから嫌や」と、受け入れてはくれません。それに入浴も危なくなってきたので、ケアマネさんのアドバイスもあり、「看護師さんに手伝ってもらおうか?」と言っても、それも却下。ヘルパーも訪問看護も必要ないと言うのだ。 父も私も、健康には自信がありましたが、もしどちらかが1日でも寝込んだら……というか、私が倒れたら終わりです。私の代わりはいないのですから。“今から少しずつ慣れてくれたら”と母を説得しようと思っても、母はガンコに断り続けました。嫌だったらしょうがない、と私も開き直り、母中心の生活をすることに。 でもそれは少し忍耐力との勝負でもありました。 |
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| 入浴サービスを始めたころの父と母 | |||
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母の叫び声は私を必要としている |
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通院の日は仕事を欠勤したり早退したりして、急いで帰らねばなりません。夜、仕事に行くときも、買い物に出かけるときも、「早くかえらなくっちゃ!!」という気持ちがつきまとい、途中で知人に会っても、立ち話をすることさえ許されないような気がするのです。 それは“父の限界”をなんとなく感じていたからでした。私が帰宅したときに訴える母の叫び声は、私を必要としているのだということが十分に伝わってきました。 |
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| 訪問看護を受け入れる決意をしてくれた | |||
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9月に入り、母の要介護度は5になってしまいました。入浴もかなり大変です。体はぐにゃぐにゃで、頭もぐらぐら。父は、私がこの家に来たときに母の入浴介助から引退していたので、もう手伝ってはもらえません。とうとう母と私は二人で転倒してしまい、母のおでこにコブをつくってしまいました。 私が「ごめんよ! ごめんよ!」とあやまると、母は笑顔で「大丈夫!」と答えてくれてホッとしました。父もすっ飛んできて「大丈夫か⁈」とすごく心配そうで…。でもこういうのを“ケガの功名”というのでしょうか。母は今までのこだわりを捨て、訪問看護を受け入れる決意をしてくれたのです。 それからの入浴は、看護師とヘルパーが二人がかりで行ってくれるようになり、週に2回お願いすることに。 |
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あんなに嫌がっていたサービスを母が受け入れてくれたことで、私も介護負担が軽くなり、本当にありがたいと思いました。 何よりも、一生懸命お世話をしてくれて、その上の、楽しい会話でなごませてくれる彼女たちの人柄に母は安心感を覚え、私たち家族にとって、また余裕が生まれたのでした。 |
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コスモス畑 |
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| 「難病と闘う母」が美術展に入選‼ | |||
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ちょうどこの時期、私はまた、美術展に出品する絵を描いていた。実は昨年、私に絵を描くことをすすめてくれたのは友人Yさんでした。そのときに「今度はお母さんの絵を描いてあげたら?」と何気なく言われた一言が忘れられなくて、今回は県展には風景画、市展には母の肖像画を出品することになったのです。 当然、入選なんてするはずがない‼と思っていたけど海南市美術展の最後の日、仕事に行く途中でYさんを誘って美術展を観に行きました。すると見覚えのある絵が! タイトルは「難病と闘う母」。 「うそ⁉」私は会場の壁に飾られてある自分の絵を見て、飛び上がらんばかりに喜んだ。車いすに座り、すました顔の母。一生懸命描いた一枚の絵を「生きている証」として皆様に見ていただいたのです。 訪問看護師さんに入浴をお任せするようになって2か月が過ぎ、母の状態も安定していました。食事もスムーズで、歩行も以前と変わらず、両脇を抱えれば、トイレまで行けます。 ただ、大変なことといえば、母が「待つ」ということができなくなったこと。 |
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パソコンをしている母は楽しそう |
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トイレに行きたいときやパソコンの画面をみてほしいとき、体位を変えてほしいときなど、母は足元にあるチャイムを鳴らして呼ぶのですが、すぐに行かないと、母は連続で「ピンポン♪ ピンポ~ン♪」と鳴らし続けます。 「ちょっと待ってよ~」と言えない状態なのです。 私が食事中であろうが、天ぷらを揚げている途中であろうが、待ってくれないのです。「パソコンのことだったら、後で見てあげるよ~」と言っても、母はますます興奮するばかりで、まるでダダをこねる子どものようでした。それでも、パソコンをしているときの母はとても楽しそうで、その姿を見るとなぜかホッとするのです。 川端さんの奥様とのメールも欠かすことなく続けていました。着信メールを開くときの母の笑顔は今も忘れることができません。母がワクワクする瞬間は私の楽しみでもありました。そして母は私にもメッセージをくれました。 |
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千珠へ 毎日、仕事や家事、私の 世話までしてくれて、 それだけでも大変なのに 疲れた顔を見せず、笑顔 で接してくれて ありがとう もしかしたら、すべてを理解してるのは母なのかもしれない。胸が熱くなりながら「いいえ、どういたしまして」と答えるのが精一杯だった。 母が気遣ってくれるその言葉で「明日も頑張ろう」と思えるのでした。でも、人というのは順番に問題が起きるようになっているのでしょうか。 お父ちゃん! いつものように、わが家はにぎやかな朝を迎えていました。父が母の食事介助をし、私は父の昼食と母のミキサー食の準備をして仕事に出かけようとしていました。 |
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そして父が母に薬(リルテック)を飲ませようとしたそのとき。マグカップを使って水を飲ませようとしているのです。母は専用のプラスチックのコップしか使えないのに…。 「お父ちゃん! コップ間違えているで、いつものコップは?」 すると父は「わえは(父は自分の事を“わえ”と言う)は、いつものコップで飲ましてるんや」と平然として言うのです。 |
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| 父の肺に腫瘍が | |||
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私は父のこの一言に、ただごとではないものを直感しました。“認知症”の始まりかもしれない。出勤した私は、すぐにケアマネさんに朝のことを話し、さりげなく父に診察を受けさせるように段取りをしてもらいました。ケアマネさんからDrに認知症の疑いがあることを伝えていただき、 私は父にはわからないように「健康診断を受けに行こうか」と言って、一緒に病院に行った。その間は、訪問看護師が母を看てくれて、長時間にもかかわらず、快く引き受けてくれました。 そして、いろんな検査の結果、医師から思いがけない言葉が伝えられたのです。「肺に腫瘍があります。悪性の可能性が高いですね」。私は頭の中が真っ白になりながら、医大への紹介状を受け取り、帰宅しました。 やっと母が入浴だけでも他人を受け入れられるようになった矢先に、父が病気? 「こんなことって…」 母には「ちょっと検査でひっかかったんで医大に行かなあかんのよ。お父ちゃん、入院せんなんかもしれへんで」と言った。母は悲しい顔をしたけど、隠しておくわけにはいかない。それに、もしかしたら腫瘍は良性かもしれないし。医大への通院は、兄が引き受けてくれました。 |
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| ヘルパーさんに慣れるようケア計画 | |||
| 今後のことも考えて、母が少しずつでもヘルパーに慣れてくれるように、ケアマネさんに計画を立てていただきました。そして、とりあえず、12月19日より、昼間の1時間だけ、食事介助を中心にヘルパーさんに入ってもらうこととなったのです。 | |||
| 娘が何人も増えたようでした | |||
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年が明けて、平成18年1月。 父の何度目かの検査で結果が出た日。仕事中に私の携帯に兄からの電話が入りました。 「あかん…やっぱり悪性やったわ」 私は頭がくらくらして、同時に胃が痛くなってきた。電話を切って、その場にいたケアマネさんたちに事情を話すと、みんなとても心配して下さり、真剣に考えてくれました。そして母も納得の上で、毎日長時間のケアをしていただくのを前提に、本格的にケアプランを立てることになったのです。 翌日、さっそくケアマネさんと共に市役所に行き、支援費の申請をして、ヘルパーの手配もしていただきました。1か月に使える支援費は、身体25時間、家事25時間、ということでした。父の入院を数日後に控え、昼間の3時間半と夕方の2時間、ヘルパーが来て下さるようになり本当にいろいろと助けていただきました。 皆さん、明るく優しい方たちばかりで、母はいっぺんに娘が何人も増えたようでした。 たぶん母は、ラッキーな人だと思います。心根の良い方たちにいつも恵まれていましたから。そのおかげで、私は安心してその後も仕事に行かせてもらい、夕方は父の病院にも行くことができたのです。 |
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父は手術後、妄想の世界に |
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2月8日 父が肺ガンの手術を受けた。 腫瘍は少し大きくなっていたけど、左肺を半分切除し、術後の経過も心配ないと言われ、ホッとしました。が、ひとつ心配なことがあったのです。麻酔からさめたときに一過性の認知症になる可能性があるというのです。私は内心思った。父は99%なるやろな(ヒドイ娘ですね)。そして、予感は的中し、目覚めた父は、自分がどこにいるのか、兄や私のことも、誰なのかわからず、点滴を引き抜き、ベッドの上に立ち上がります。 父の主治医は「麻酔が完全に切れると、自然に回復しますよ」と言ってくれましたが、私は半信半疑でした。それから2日が過ぎ、3日が過ぎても、父は妄想の世界に入ったまま。さすがに心配になり、もう一度「本当に回復するんでしょうか?」と聞いてみた。主治医は「もう麻酔は完全に切れています。回復するかどうかわかりませんが、自宅に早く帰って、日常生活に戻るのが良い方法かもしれません」と言われ、兄と私はその言葉を信じた。 |
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家に帰れば何とかなる |
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点滴やチューブが体から外されたのは術後5日目。抜糸もしないままの異例の退院となった。意味不明な言動をしている父を、兄と2人がかりで車に乗せて(しかもパジャマのまま!)連れて帰った。 自宅にいる母と病院にいる父を二人同時に看るのは、どんなに頑張っても無理です。家に連れて帰ればなんとかなるという安心感もあったのです。 家では、母とヘルパーさんが待っていた。それから3日間、父は家の中を徘徊し、部屋を荒らし、寝かせても寝かせてもゾンビのように起き上がってくるのでした。兄には3日間、泊まってもらって夜中も交代で看た。 |
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そして退院して4日めの朝。父は立ち上がって長い時間、窓の外の景色をながめていました。その顔はとても穏やかで、まるで“つきもの”が落ちたように以前の父に戻っていました。 長い長い夢からさめて、やっと現実の世界に戻ったのです。少し認知症の症状は残ったもののほとんど元通りに回復しました。 そして、まるで何もなかったかのように、にぎやかな朝を迎え、母中心の生活が始まるのでした。“変わったこと”と言えば、父が母の介護ができなくなったこと。 |
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ヘルパーさんに用事を頼めない母 |
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私が仕事に出ると30分後にヘルパーさんが来てくれます。でもまたまた問題(?)が…。母の性格上、ヘルパーさんに用事を頼んだりできないのです。私の方からは、ヘルパーさんにしてほしいことを箇条書きにして渡していたのですが。 母は出勤前の私にできる限りの要求をしてきます。ヘルパーさんにしてもらえばいいことなのに、母は「してもらうのは悪いから…」とか言って、私に頼ってくるのです。ヘルパーさんたちも母の性格をよく理解し、話しやすい状況をつくってくれているのに、なかなか母からは言えなかったようです。 父が退院して1か月が過ぎたころ。術後の認知症も治り、車の運転をして買い物に出かけるほど、父はすっかり回復していました。母の食事やトイレ介助はできなくなっていたけど(母が嫌がったので)、もう以前とほとんど同じ生活ができます。 |
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| 夕方から仕事をしたいんですけど | |||
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私は、夜も仕事に行きたくてたまらなくなっていた。昼の「支援センター」の仕事は、ヘルパーさんのおかげで休まず続けることができていたのですが、夕方からの仕事は、父が入院をしたときから行けなくなっていました。私は自分なりに計画をした。 夕方4時半から9時半まで父と母に留守番をしてもらうことになる。ヘルパーさんには5時から7時まで来ていただき、夕食介助・歯みがき・就寝介助までお願いして、オムツをして寝かせてもらったらいけるのではないか? そして、ケアマネさんに話した。 「週に3日だけ、夕方から仕事をしたいんですけど」 一瞬、事務所の人たちの目が“点”になってしまった。 そして口々に「お母さんは大丈夫なん?」 「何かあったらお父さんが対処できる?」 「辞められへんの?」等々… みんなで心配して言ってくれているのは十分わかっているつもりだった。誰も間違ったことは言っていないし、父と母の状況を考えたら、私が家にいるのは当然のことだ。 でもこのときの私の気持ちは、そんなに複雑なものではなく、むしろ単純だったかもしれない。 |
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| いまなら働ける 働きたい | |||
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母は進行性の病気で、いずれは24時間介護になり、私は仕事を全部辞めなければならないときが来るだろう。それだったら、いま、少しでも父が協力してくれるときに、一日でも長く仕事を続けたい。ただそれだけのことだった。ギリギリまで働いていたい。今ならいける。だから行きたい‼ それ以上、説明のしようがない。 ケアマネさんはヘルパーの手配をしてくれて、私は夜の調理の仕事に復帰することになったのですが、重い責任も感じていた。 それから数日間は涙ばかりが出てきてどうしようもなかった。食事を作るときも、せんたく物を干すときも、仕事の帰り道も…。そして母の顔を見るのがつらかった。母が悪いわけではない。父が悪いわけではない。周りの人たち、誰のせいでもないのに。 私が一日でも介護を休んだら母は途方にくれてしまうだろう。私が倒れたら両親も共倒れするだろう。 頑張らなければ…頑張らなくっちゃ!! でもなんで? なんで涙が出るん? なんで止まれへんの? 私は久しぶりに自分自身に問いかけるのでした。 私はふと、数か月前にくれた母のメッセージを思い出し、「そうや! 悩んでいる場合じゃない。一番辛いんは母や」 |
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| 同じことなら楽しい時間を過ごしたい | |||
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さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに明るい気持ちになり(立ち直りがすごく早いんです)、また、父と母と私、3人の漫才のような会話が始まるのでした。 どうせ同じ時間を過ごすのなら、“楽しい時間”を過ごすのが良いに決まっている。暗黙の了解で私たちはそのことを痛感していました。 そして桜が咲き始め、いつの間にか春になっていた。 |
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| (つづく) | |||
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