| 母と過ごした日々 (6) | |
|---|---|
| 和歌山県海南市 前原 千珠 | |
| (さし絵・マンガも) | |
| 救急車で入院 | |
|
母を乗せた救急車は、海南市にあるK病院に到着しました。K病院を選んだ理由は、発病してからの母の状態を知って下さっているスタッフの方々とのつながりがあったので、安心できると思ったからです。通院や往診、訪問看護・訪問介護・訪問リハビリ、ケアマネ、そして私の職場、すべてがK病院の系列だったので迷わずに決めました。 処置室では体の様々な数値が測定され、採血などの検査が行われていた。「もう、これで安心や」。でもホッとしたのはほんの束の間で、私は急に不安になった。救急車を呼ぶ前に訪問看護師に痰の吸引をしてもらって、落ち着いていたはずなのに、母は苦しそうにゴボゴボと咳をしているではありませんか。この時すでに新たな痰がたくさん溜まっていたのです。吸引が繰り返され、その後ICUに運ばれた時には母はヘトヘトで、まるで病人のようでした(病人ですが)。 ICUと言っても、大病院のICUとは違い、家族の入室は許されましたので、しばらくの間母の側に座り、少し落ち着いてから職場に「2〜3日休ませてください」と連絡をした。夜は『家族ルーム』に泊まり、時々母の様子をうかがった |
|
| 母の目力にはとても迫力がある | |
|
翌日、病棟の大部屋に移動したのですが。 24時間付き添わなくてはいけない現実をいきなり突き付けられたような気がしました。看護師は定期的に吸引やオムツ交換、体位交換を行ってくれますが、母はオムツ交換の時間を待つことなどできるはずもなく、頻繁に「オムツ替えて」と言い、唾液や汗を拭くのは絶え間なく続き、体の位置を整えるのも私にしかできないのです。ある程度のことは看護師にお願いして、わかりやすくするために画用紙に母の全身の絵を描きコメントを入れました。「顔はこれくらいの角度」「手はこの位置」「足はこんな感じ」というふうに。 看護師は皆さん若くて感じの良い人達ばかりで、母に「これでいい? つらくない?」と献身的に看て下さったのですが、やはり母は、長時間私が離れる事を嫌がり「行かんといて!」と目で訴えるのです。母の目力(めぢから)には、とても迫力があり私をビビらせました(笑)。 胸部レントゲンの結果、軽い肺炎を起こしていたことがわかりました。飲み込みが悪く、むせることが多くなっていた母は、誤嚥をして食べ物が気管に入り、炎症を起こしたのだろうということでした。 |
|
| 仕事のことが頭から離れない | |
|
数日後、飲み込み時の造影検査が行われた。 その結果、母は口に入れたものがダラダラと流れていくだけだということがわかったのです。普通はあたり前に“ゴックン”と飲み込む、そんな作業がもうできなくなっていたのです。見た目にはゴックンしているのですが、実際にはもうほとんどその筋肉は動いていなかった。“胃ろう”の選択しかないことは、私にもすぐにわかりました。でも母は嫌がり、主治医も無理に勧めることはしませんでした。でも栄養はとらないといけないので、鼻からチューブを入れて経管栄養をとることになった。 入院して2週間が過ぎた頃。父は2〜3日に1度、3時間程度病院に来て母を看てくれたので、私は交代をして家に帰ったり用事に行ったりしていた。でも一番気になって頭から離れないのは「仕事」のことでした。たびたび、職場に電話をしては「もう少し様子をみます」「迷惑かけてすみません」と、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 支援センターの所長さん(母のケアマネ)は、「そんなに、しょっちゅう報告するのも辛いでしょう? あと1週間はゆっくりとお母さんのそばに付いてあげて。仕事の事は気にしないで」と優しい言葉をかけてくれました。 居酒屋のママも入院直後から病院に来てくれて、私の食事を数回分まとめて持って来て下さり、本当に感謝しました。病院の冷蔵庫を借りて、少しずつレンジでチンしていただきました(この後も、ママの差し入れは退院まで続いたのです)。 |
|
| 母が病院で使っていた体の位置の図 | |
![]() |
|
| 仕事を全部やめる決心をした | |
|
支援センターの所長さんが「お母さんに専念してあげて」と言ってくれてからの“1週間”が過ぎても母の症状は変わることはありませんでした。「もう、これ以上、職場に迷惑はかけられない」。私は悩んだ末に、仕事を全部辞める決心をした。 “仕事”という責任から開放された私は、母の看護に打ち込めるようになったので、付き添い生活が少し楽になり、悩みがひとつ解消した。6人部屋に私も住みつき、このころにはすっかり他の患者さんとも親しくなり、母も病院での生活に慣れてきたのだった。 母はどこにいても本当にラッキーな人だと改めて感じました。同室の患者様や付き添いの家族様に親切にしていただき、励ましてもらい、そして年配の方の苦労話などを聞かせてもらい、孤立することはありませんでした。 私がちょっと病室を離れた間に痰が溜まってきた時なんかも、となりのベッドの患者さんがナースコールをして、看護師を呼んでくれたこともしばしばでした。 それに母は夜中も眠れず、いろいろと私に訴えたり、ナースコールをしてバタバタしたりして、他の患者さんまで寝不足になっていたと思いますが、皆さん「そんなんお互いさまや!」と言ってくださり、家族同然に心配していただき、本当に救われました。 ですから私もおせっかいにならない程度に、私にできることを精一杯させてもらいました。 |
|
| 病院生活もすてたもんじゃない | |
|
病室はいつもなごやかで、母はみんなの会話を笑顔で聞いていた。「住めば都」とは言いますが“病院生活もすてたもんじゃないな”と思い、母と私は「もうここでずっと暮らす?」と冗談で言うほど居心地が良くなっていた。 それに環境が人の心を左右するのだということも実感していた。もし個室に入院していたら、母も私もテンションが下がってしまい、発熱のつらさや吸引時の苦しさも、何倍もの苦痛になっていたに違いない。 私がトイレに行ったり、シャワーを浴びに行く時も(病院内のシャワーですが)、お互いが不安でいっぱいになるだろう。大部屋を選んだおかげで明るい空気に包まれ、おだやかな気持ちで過ごす事ができたのだと思います。 実際、とても不穏な状態で入院してきた患者さんもおられましたが、日に日に落ち着いてきて少しずつ会話をするようになり、退院の時は明るい笑顔で、まるで別人のように変わっていました。 ほんの2〜3日の入院の人もいれば、長期入院の人もいます。なぜか退院の時は別れるのがつらく、お互いに涙を流したり、メールアドレスを交換したり、手紙をくれた方もいました。 まるでTVの「田舎へ泊まろう」の別れのシーンのようでした。病気の人にとって、大部屋は“特効薬だ‼”となんだか得をした気持ちでした。部屋料金も無料だし(笑)。 |
|
![]() |
こうして母と私の生活が一変したのと同時に、父の生活も変わった。父は兄と二人で自宅で過ごし、兄にはずっと泊まってもらい父の食事作りをお願いしました。父は今までとほとんど生活のペースは変わらず、ぶらぶらと買い物に行ったり洗濯をしたり、週に2〜3度病院に来ては母と一緒に数時間を過ごした。 父は、ちゃっかりと自分のお弁当をコンビニで買い、母のベッドのそばでおいしそうに食べていた。 母の洗濯物も父に頼んでいたので、病院に来る時には毎回、母のパジャマやタオルなどを持ってきてくれていました。 |
| 父のおトボケ全開 爆笑させてくれます | |
|
でも相変わらず、おトボケ全開で、どう考えても病院では必要のない“足ふきマット”や“失禁パンツ”などもその中に入っていて私達を爆笑させてくれました。 今思えば、母と私がいない生活が父にとってどれほど淋しく不安とストレスが大きくなっていったのか、この時の私には知る由もなかったのです。 同じALS患者の波多野さん、川端さん、と私とのメール交換は日記のように続けていました。そして波多野千賀子さん&裕子ちゃんが、母を励ましに来て下さったのです。波多野さん親子の明るさとテンションに母は体のつらさも忘れ、笑顔満開! 毎度のことながら、楽しい会話は途切れることなく、でもやっぱりメインテーマは、お互いの父親のおトボケぶり。本当に共通点が多く、笑いのネタには最高でした。妻思いで、どこか抜けていて、とても優しい父親たち。とにかく、いやしてくれるのです。 このころの母は小康状態を保っていましたが、今の状態で家に帰ることなどできるはずがありません。胃ろうの造設と気管切開は、母にとって大きなカベだったのです。鼻からの吸引では、なかなか気管に溜まった痰がスッキリ取れないことが多く、母は特に気管が細いので看護師も苦労をしていました。血管も、細くもろくなり、点滴の途中で液が漏れて、そのたびにナースコールをし、やり直してもらうという日々でした。 入院して以来、二人ともぐっすり眠れた日は一日もありません。続けて眠れる時間は長くて3時間。調子が悪いと1時間おきに苦痛を訴えます。吸引やオムツ交換、体位交換やベッドのギャッジの角度など。少しでも楽になれるように、できること事を解消していくしかないのです。 |
|
| 次男から電話 実は入院してたんよ | |
|
入院して1か月。 とても暑い夏の日でした。私の携帯電話に、私の次男の翔(かける)から電話が入った。実は、翔とはしばらく音信不通で、私の方からメールを送ったり留守電にメッセージを入れたりしていたのですが、返事がなくて心配していたのです。「まあ、便りがないのは元気な証拠かな?」と思いつつも子供たちのことはいつも気になっていました。 「あっ、おかん? 俺! 翔やけど。実は50日ほど入院してたんよ。今日退院して、もう大丈夫やから、いっぺん和歌山へ帰るわ」 三重県の四日市市に住む翔は、仕事中に転落して膝の皿を骨折し、入院をしていたとのこと。私が付きっきりで母のお世話をしている時に、息子の翔も入院をしていた。私が母から離れることができないのを知っている翔は、退院の日に連絡をくれたのだ。 |
|
| しばらくの間、屋上のベンチでもんもんと | |
| 私は深いため息をついた。 母から一日も離れることのできない現実。 つらい状況を話せない子どもたち。 一度、そう思い始めると、私の頭の中は“悲観モード”に切り替わってしまったのです。 生活のため、仕事ばかりで、子どもたちにご飯をよそってあげた記憶すらありません。子どもたちとのつながりは、毎日3食の食事をテーブルに置いておくことでした。どんなに寝不足でも、食事作りだけは苦になりませんでした。…というか、それしかできなかったのですから。 でも今、母のために仕事まで辞めて、いたれり尽くせりで介護をしている自分がいる。子どもに何ごとがあろうと、行ってあげることができない私のことなど、誰も気に留めないだろう。私がどんな気持ちで仕事を辞めたか、誰が分かってくれるというのか。 しばらくの時間、屋上のベンチに座り、悶々と一人で考えていたのですが、以前にも同じ心境になった時のことを思い出し、「そうか! 一番つらいんは母や。母が私の心の中のこと、全部わかってくれてるんや」。 被害妄想から脱出した私は「はよ降りよっと! お母ちゃん待ってるわ!」と階段を降りた。相変わらず立ち直りが早い自分が、なんだかおかしかった。 |
|
| 親子3人、3年ぶりにそろった | |
|
数日後に、母と私は久しぶりに翔と対面し、お盆には長男と彼女が一緒に帰ってきて、楽しく病院で過ごした。私達、親子3人がそろったのは3年ぶりだった。 父はさりげなく気づかいをしてくれて「ばあちゃんは、わえが看といたるさかい、おまえらは水族館にでも遊びに行ってこい」と言ってくれ、入院前に波多野さんと一緒に行った思い出の「自然博物館」に行きました。(K病院から近いので歩いて行けるのです)。子どもたちと再会できて、私にとっては嬉しい“8月”だったのですが、それとは反対に、母の体には大変なことが起こっていました。 |
|
| 母が大量出血 | |
|
8月6日、夕方。 オムツ交換の時に、わずかな出血が見られました。病院のヘルパーも一緒にいたので、「まさか、このトシで生理〜?」と冗談も言ってはみたものの、すぐに看護師に報告し、様子を見ました。 私は、次のオムツ交換が恐かった。母は便秘が続いていて、もう一週間以上排便はありませんでした。夜になって母は「便が出た」と言ったので、私がオムツを交換しようとしたら…。大量の出血が! 私の方が貧血で倒れそうになるほど、びっくりして血の気がひいた。母には、大量出血だと告げずにナースコールをした。すぐに看護師と到着のDrが来てくれて、「ちょっと出血しているんで、モニターをつけておきます」と言って、心電図や血圧、脈拍、血中酸素のモニターがつけられた。危険数値に達すると「ビービー」とアラームが鳴り、看護師がすぐに来てくれます。 その夜、母は何度も「また、便が出た」と言っては大量の下血をし、みるみる血圧が下がっていった。アラームが鳴りっぱなしになり、止血剤と血圧を上げる薬の点滴が投与され、輸血の準備が始まった。 翌日、輸血が行われ、落ち着いてから腸の検査をすることになったのです。“もしかしたら腸の病気かもしれない”と、とても心配でしたが、原因はすぐにわかりました。 それは、抗生物質の点滴だったのです。痰がスッキリとれない母は炎症をおこして発熱を繰り返し、抗生物質の点滴を何度となく続けた結果、腸に負担をかけて下血したのだそうです。以後、抗生物質の点滴を中止し、必要に応じて粉薬を経管栄養のチューブから入れることになりました。こうしてしばらく落ち着いていたのですが、10日ほどたって、また、同じ症状が起こってしまったのです。再度、輸血が行われ、眠れない日が続きましたが、下血は治まり、それ以来、再発することはありませんでした。 |
|
| ついに胃ろうの造設に母がOKの返事 | |
|
私は、内心、焦っていた。早く、胃ろうと気管切開の必要性を母に理解してもらわないと、母の体がボロボロになってしまう。体力がなくなってからでは遅すぎる。私は折りをみて母に話し、そして他のスタッフの方からも、さりげなく話していただきました。 鼻に経管栄養のチューブが入った状態で、もう2か月が過ぎていましたが、問題点もあったのです。それは痰の吸引の時に経管栄養のチューブと吸引カテーテルが気管の手前で絡まってしまい、栄養チューブまでが抜けてしまうことが何度かあり、そのたびにチューブを新しいものに交換しなければなりません。胃ろうの方が、楽だし安全だし、何よりも鼻がスッキリする。 私たちの勧めに、母は少しずつ抵抗感がなくなり、“もう少し楽になりたい。スッキリしたい”と思い始めたのは9月に入ってからでした。そして、ついに母は胃ろうの造設にOKの返事をしてくれたのだ。 |
|
|
9月12日。 無事に胃ろうの造設が終了。 |
|
| 思っていた以上に早く終わったのでびっくりしました。母は「あまり違和感がない」と言い、とても落ち着いていたので全員がホッとした。逆に、あまりの呆気なさに、悩み続けたのが嘘のようです。
病室に来てくれた看護師たちも「あぁ−、顔のあたりがスッキリしたねぇ〜」「ヌイさんのキレイな顔を初めて見たわ〜」と盛り上げてくれて、次に出てくる言葉は「もっと早く、胃ろうしても良かったかもね」。 どうやら、母も私も含めて、皆さん同じことを思ったようでした。 |
|
| 聞き取れないからといって、ごまかすことは許されない | |
|
大きな悩みがひとつ解決して、母も私も少し気持ちが楽になりました。このころの母は舌の動きが以前より悪くなっていたので会話はほとんどできませんでしたが、声のトーンや口の動き、視線などで、だいたいのことはわかりました。どうしてもわからない時は画用紙に書いた文字盤を使い、文字を拾いながら会話をしました。 母の性格なのか、ALSの特徴なのか、聞き取れない会話だからといって、ごまかすことは許されないのです。正しく伝わるまで母は言い続けます。でも母は、精一杯(?)妥協もするようになっていました。父に対しては、前ほど訴えなくなり、静かに過ごしていたようです。 もしかしたら父に訴えても無駄だと思い、余計なエネルギーを使わないようにしていたのかもしれませんが(笑)。 入院してからの母のすべての思いや要求は、私だけに向けられていたように思います。 |
|
| 運転の途中、涙があふれて | |
|
胃ろうを造設してから一週間がたちました。この日は、なんとなく母の調子が悪かった。体温や血圧、血中酸素などの数値は正常なのだが、私から見た母の顔がいつもと違う。弱々しい瞳で私を見つめているのです。看護師を呼んで診てもらいましたが、やっぱり体のどこにも異常はありませんでした。 それに母自身も苦痛を訴えないし、調子は悪くないと言います。午後は父が来てくれたので、私はうしろ髪を引かれる思いで自宅に帰り、手短かに家事と用事をすませてから、母の待つ病院に急いで戻ることにした。 自宅から病院までは車で15分くらいです。でも、なぜか運転している途中で涙があふれて止まらなくなってしまったのです。私は車を停めて、気持ちを落ち着かせようとした時、携帯電話が鳴った。 ビクッ!としたけど、「はい」と出ると、電話の向こうで「お母さんの調子はどう?」と言ったのは友人Yさんだった。私は、あいさつもそこそこに訴えた。「今日はお母ちゃん変なんよ! どこも悪くないのに、いつもと違うんよ。早く病院に戻らなあかんのに涙が出てきて運転できへんの!」 涙声の私の話を聞いたYさんは諭すように私に言った。 「なんで涙が出るんか教えたげる。それは“悔い”が残ってるからや。今までお母さんに心配かけて大人にしてもらったこと、その恩返しがまだできてないんや。今日からまた、頑張ったええ。できる限りのことしてあげたらええんや。泣いている場合とちやうで」 少し落ち着いた私は、病院に戻った。 母は特に体調の変化もなく、「おかえり」と言ってくれたのだった。でも、そのあと。 「千珠…うしろ…」と母が言ったので、「え? 後ろ? 誰もいないで」と答えると、「うしろ…うしろ…」と何度も言うので、私が笑いながら「誰か、いるんか〜?」と母に聞くと、母はうなずいた。この時に、私がもっと真剣に聞いておけば良かったのですが、サラリと流してしまったので、いったい誰が私の後ろにいたかは分からずじまいです(残念)。 |
|
| 母のベッドのそばで本を見ながら描いた「もののけ姫」の1場面 | |
![]() |
|
| (つづく) | |
| ページトップ | |