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母と過ごした日々 (1)
和歌山県海南市 前原 千珠
(さし絵も)

平成19年4月4日。

 桜が満開の日に、母は天国へと旅立ちました。

 とても安らかに、まるで笑っているような表情で。

 母がいなくなって、私はなかなか気持ちの整理がつかず、悶々としていた時に、日本ALS協会近畿ブロックの水町真知子様から励ましやアドバイスをいただき、もう一度、母と過ごした日々の記憶をたどってみることにしました。少し不安もありましたが、きっと母が見守ってくれているので、私にいろんなことを思い出させてくれると思い、書き始めようとしたのですが。

 何しろ私は、あまり記録をしていないので、母の発病がいつだったのかも覚えていない。とりあえず、母の医療や介護に関する書類を整理していると、母の字で書かれた一枚のメモが見つかりました。まるで天国からヒラヒラと降ってきたような、さりげないタイミングで。

ALSの始まりでした。母、61歳(私は34歳でした)。

 母は歯の治療で言語障害になったと思い込んでいた。

 このメモを見た瞬間、私の頭の中も少しタイムスリップしたような気がしたので、覚えている限りのことを書かせていただこうと思います。
ほんまに、よう働くお母さんや

 平成13年1月2日。

 私は久しぶりに下津町の実家に帰り、両親と兄家族5人、私と私の次男の合計9人で、昼食の鍋を囲んでいた時のことです。母の異様な食べ方に、がく然としました。とんすいを持って、おはしで無理にのどに押し込むように食べる姿に、ただならぬものを感じたことを、いまも鮮明に覚えています。

 母はそのずいぶん前から言語障害になり、聞き取るのがやっと、の不自然な会話でした。いくつかの病院で検査を受けていたのですが、どこに行っても「異常なし」とのこと。

 若いころから病気ひとつしたことがなく、風邪で寝込んだところも見たことがないほど、健康で明るく気丈な母だった。

 父と、くつ下の製造工場で働き、昭和45年に日高郡日高町に新工場ができたので、家族と移り住み、父が工場長として、母とそして30人ほどの従業員と共に働いていましたが、昭和55年に本社が倒産。私の高校卒業を待って昭和58年に、両親の生まれ故郷である下津町に帰って来ました。

 その後、母は近所の木工所で働き、定年の時に仕事中、貧血で倒れ、退職となったのです。母を知る人たちは「ほんまに、よう働くお母さんやったなあ」といまも言います。

 一方、このころの私といえば超ハードな生活。早朝4時半に起きて、朝刊の配達。その後、家事をして、居酒屋に行き(一応、調理師です)、「お昼の定食」の営業が終わると、夕刊を配り、週3〜4日は夕方5時から居酒屋で仕事をして、帰るのは夜10時、11時です。夜の仕事が休みの日は、新聞の集金に行ったり、自治会の役員を引き受けたりと、“貧乏ヒマなし”という言葉は私にピッタリ!と妙な納得をしていました。まる一日休みになるのは元旦の日だけ。そんな風なので、実家に行くのは年に2〜3度だけでした。

 仕事と時間に追われ、気持ちに余裕がなく、母の異変には気づいていたのに、「異常がないんだったら大丈夫」と軽く流していました。

お母ちゃん! 医大に行こう

 でも、その日の母の姿は私に大きなショックを与え、平静を装って食事をしながらも、「この症状が普通なわけないやん‼」と思い、私はとっさに「お母ちゃん! 医大に行こう! もう一回検査してもらおう!」と言ったのです。母は「うん、うん」とうなずいていました。

 お正月が明けて早速私は医大に予約をとり、母と一緒に口腔外科を受診しました。私が母を病院に連れて行ったのは、この日が初めて。そして私自身、仕事を休んだのも何年かぶりでした。

 でも口腔外科では「すぐに診断はつかないので、経過を見ていきましょう」とのこと。そして「精神的な病気もあるかもしれない」と、何種類かの薬の中には精神安定剤も処方されていました。

 私は母の病気が良くなることしか考えていなかったので、「この薬を飲めば治る」と安心して病院を後にしました。

 その後の通院は父が連れていき、私は変らない生活を続けていました。

 が、数ヶ月たったある日、母はこんなことを言いました。「なんかねぇ、薬が違うような気ィするんよ。全然良うなれへんし‥‥。試しに2〜3日わざと飲まんかったんやけど、なーんも変われへんかったわ」

 その年の7月。口腔外科では回復の見込みがないので神経内科を紹介され、10日間ほどの検査入院をすることに。

 母の病室は大部屋だったので、昼間は父が付き添い、夜は母一人で過ごしました。母はまだ言語障害以外の症状はなかったので、トイレにも歩いて行き、身の回りのことは自分で何でもできました。

 私は朝刊の配達を終えると、子どもの弁当を作り、送り出してから、すぐに病院に向かいます。毎日、母と2時間程度、一緒に過ごしました。同室の患者さんたちも、母の不自由な言葉を一生懸命聞いてくれて、会話を楽しんでいました。同じ病む者として、心が通じ合ったのでしょうか、すっかり仲良くなり、とても微笑ましい光景でした。
病名がわかったんや

入院して1週間ほどたったころでしょうか。

 兄から私に電話がかかってきました。「病名がわかったんや」

 私は「あ、そうなん?」と軽く答えたら、「メモあるか? 言うから書いてよ」。

 私は「うん」と言いながら、メモとペンを用意して、兄が説明する一文字、一文字を書きました。「筋・萎・縮・性・側・索・硬・化・症」

 「難病なんやて。進行するらしいわ」。その後、兄は進行したら、どういうことになるのか説明をしてくれました。私は頭の中が真っ白になっていくのがわかったけど、「でも、まさかあー。母は大丈夫やろ」と、心の中で思っていたのです。兄に「お前、大丈夫か?」と言われ、「大丈夫、大丈夫‼」と電話を切ったのですが、「えっ?えっ?えー?‼ はぁ〜⁇」と頭が混乱してしまって、それ以上考える気力もなくなりました。

 翌日、いつものように朝7時半に家を出て、病院に向かいました。朝は車が渋滞するので、病院に到着するのは9時ごろになります。私は昨日の兄の説明ですっかり打ちのめされて、車を運転しながらも、止めどなく涙があふれてきます。涙を拭きながら、やっと医大に着いたころには、目が真っ赤っ赤‼ 母のいる病室に入る前にトイレに行き、目の周りにファンデーションを塗って、「おっはようー‼」とあいさつすると、母も「おはよう」と明るい声。母はまだ病名を知りませんでした。
母は冷静でした

 退院して、しばらくしてから告知されたと兄からの報告がありました。母は意外と冷静でした。口腔外科から処方されていた薬に疑問を抱いていた母は、本当の病名がALSだということを知り、やっと納得できたのだと思います。でも、この時の母の悲しみや絶望が、どれだけ深いものだったのか‥‥と思うと、いまでも胸が痛みます。

 そんな状況なのに、両親はたまに私の家(和歌山市)にも来てくれました。高速道路を利用すると30分ほどで来られるのですが、みかんや梅、野菜を届けてくれるのです。母は、だんだんと重い荷物を持てなくなっていたにもかかわらず、一生懸命軽い物を持ってウチの玄関まで来るので、私と子どもたちはすぐ父の車に、他の荷物を取りに行きました。両親が届けてくれる野菜は本当にありがたいものだった。

 母が荷物を持てなくなったころから、私は自分ちの家事はそこそこにして、日曜日は実家に行くことにした。

 父は「そんなに毎週来んでも、お母ちゃんはまだまだ死ねへんでぇ」と冗談まじりで言っていたけど、母は確実に進行していました。せんたく物を干す時も、指先の力が弱ってきて思うように干せないし、少しずつ父の負担が増えていった。
私がいま、やるべきことは何?

 父は慣れない家事を手伝い、母は限界まで自分の力でしようとしているのが痛いほど伝わってくるのです。

 そして父は趣味の魚つりに行かなくなった‥‥(行けなくなった?)。

 私は自分自身に問いかける。「私がいま、やるべきことは何? 一生懸命休まんと働いてきた母が病気なんやで。子どもの幸せだけを願って生きてきた母に、今度は私が返す時とちがうの? じゃあ、どうすれば‥‥」

 平成14年に入ると、目に見えて手の力が弱ってきました。ドアを開ける、水道の蛇口をひねる、部屋の電気をつける、という作業が困難になり、父と兄は、その都度、器具を買ってきて改修し、母が自分で出来るように工夫してくれていました。母は、わずかに残された手の力で料理を作り、一人でトイレに行き、入浴も父の見守りで入ることができました。

 でも進行するにつれて唾液が多くなり、座っている時以外は必ずティッシュを口にくわえていました。唾液がポタポタと床に落ちるからです。

 医大の神経内科への通院は、父が一人で連れて行っていたけど、唾液が多くなってきたころから、予約の時間に間に合うように、私も行くようになった。通院の日は、昼の居酒屋の仕事を休ませてもらいました。診察が終わると、私も一緒に下津に帰り、できる限りの家事をして、おかずを作り、夕刊の配達時間に間に合うように帰ります。私が実家に行ける日は、日曜の昼と通院日、月に4〜5回くらいが精一杯だったので、時間を無駄に過ごしてはいけない、と常に思っていました。
会うたびに母の歩行はぎごちなくなり  

 その年の秋ごろだったか、事件は起こりました。

 母が浴室で転倒してケガをしたのです。つまずいて、そのまま頭から倒れ、救急車で運ばれるという事態になってしまいました。気が動転した父は、近くに住む兄の自宅に電話をし、兄が救急車を呼んでくれて一件落着。

 目の上あたりを8針縫って、入院はせずにすんだそうです。

 私がこのことを知ったのは、次に母に会った時でした。母は手の力が弱っているだけではなく、足にも症状が出てきているのだ、と思い知らされました。

 そして会うたびに母の歩行がぎごちなくなるのを見ながら、私は何ともいえない不安感や、父に対しての心配が大きくなっていった。

 料理を作ったことのない父が朝食にはおかゆを作り、昼・夕食にやわらかくご飯を炊いて、おかずは卵豆腐やもずく、マグロのお刺し身をミンチにしたものとか、温泉卵、それに卵ご飯、etc‥‥と、豆腐や卵ざんまい。母はもう家事は一切できなくなっていた。
平成15年1月2日

 昼食の鍋を兄と私で作って、みんなでいただきました。

 ここで少し兄の紹介をしたいと思います。

 兄は私より2つ年上で、同い年のお嫁さんと3人の子どもたちがいます。実家から車で10分くらいの所に住んでいますが、兄は車の板金、塗装の商売を実家でしているので、昼間は両親のそばで働いているのです。お嫁さんは数年前から体調が思わしくなく、だから兄のところも大変な状況なのです。 

 そういうわけで、みんなが集まった時は、兄と私で食事を作っていたのです。

 私はなぜか毎年1月2日に実家に帰るのが恒例。元旦の日は唯一の休日だったので、自宅でゆっくりしたかったし、3日からはフルタイムで仕事になります。もう、いつのころから泊まってないのか思い出せないくらい、私は実家に泊まったことがありませんでした(これって、ちょっと親不孝ですね)。

 この日も母はしっかりと自分の手で、専用おわんと専用スプーンで少しずつ時間をかけて食べていました。やわらかく煮ると、野菜でも魚でも何でも食べられる。食べることにとても努力していました。それに母はゆっくりとぎごちない動きでしたが、足だけは進行が遅く、それが唯一の自慢でした。

 でも、お正月が明けて医大の診察に行った日のこと。

 「エスカレーターは、もう危ないのでやめとこ」と言ったのですが、母は「行けるよ」と頑張っていました。父と私はそれぞれ母の前後からカバーし、母を真ん中にはさんで慎重に乗っていましたが、診察が終わって帰る時、下りのエスカレーターで足がもつれて転倒しそうになり、この日を最後にエスカレーターをやめて、エレベーターを使うようになりました。

 それでも医大の三輪先生は「こんなに進行の遅い人はめずらしい」とほめてくれて、私たちは不安になりながらも喜んだ。

 とはいえ、飲み込みが難しくなってきた母は胃ろうの造設を勧められるようになり、そして栄養を補うためにエンシュア・リキッドが処方されるようになったのです。

 それからしばらくして身体障害者手帳の申請をしました。

 3月25日に交付された手帳は一級でした。
お花見に行こう!
 季節は春になっていました。桜が咲き、世間は行楽でにぎわっています。母の歩行は少し危なっかしく、トイレに行ったり、立ち上がるたびに、家族の視線はさりげなく母に集中。転倒の恐れがあるからです。それでも頑張り屋の母は、家の周りをゆっくりゆっくりと歩きながら散歩していました。

 私は思いきって「温山荘に遊びに行こう! 桜も満開やし!」と誘いました。母と私はあまり一緒に遊びに行った記憶がない。「母と娘」としての思い出がないのです。私の頭の中は、母と一緒に遊びに行くことでいっぱいになり、いろんな想像をしていました。「やっぱり、お弁当は重箱に詰めるのが一番良いよなあ〜。母の食べられる物、いっぱい作ろう!」とはりきったのですが、母の返事は「疲れるから行けへん」と一言。たぶん「世話をかけてはいけない」と遠慮したのでしょう。私もそれ以上、無理には誘えませんでした。

スーパーでの買い物も難しく

 外出がおっくうになった母でしたが、医大の診察の帰りにスーパー「オークワ」に買い物に行くことだけは楽しみにしていました。父が買い物カゴを持ち、母と私は手をつないで商品を選びます。指がほとんど動かなくなった母は、手首や腕をうまく使い、商品をカゴに入れていきます。

 その日も順調に買い物を楽しんでいたのですが、パックに入ったお寿司を持った瞬間、落ちて、お寿司がバラバラになってしまいました。よく見たら、同じ商品の他のパックにはふたのところにセロテープがはられ、ふたが外れないようになっているのに、母が持ったパックはテープがはられてなかったのです。私はすぐに店員に話し、交換してもらいました。でも、それがきっかけで、母は二度と商品を自分の手で持つことができなくなってしまいました。

 このころには、介護保険の申請もして、介護用ベッドをレンタルすることに。住宅改修の手続きもして、トイレを和式から洋式に変えて、段差解消もしてもらいました。

 また、自宅から近い恵友病院、下津クリニックからOTの先生が週に一度、来てくれるようになり、その病院に通院もしていました。
呼吸器をつける練習 

 5月13日

 母は、動脈からの採血で、体の中の二酸化炭素が多いと言われ、病院のベッドが空き次第、医大に入院することになりました。呼吸困難になる恐れもあるので、そうなる前にマスク型の呼吸器をつける練習をしようということでした。

 私はALSに関しての勉強は全くしていなかったので、あまり意味はわからなかったけど、大変だということだけは理解できました。

 このころから母は、病院内では車いすを使うようになり、首の力も弱ってきていて、座っていてもすぐにガクンと首が垂れてしまいます。

 そして、5月26日から4日間、入院することに。

 母はトイレや食事も介助が必要になっていたので、個室に入院し、病室には父が泊まった。私は3日間、昼の仕事を休み、朝から夕方まで付き添った。
母の心だけは傷つけんといて

 入院の直後、病室に看護師が問診に来ました。氏名、年齢や発症の経過など、こと細かく質問され、言語障害がかなり重くなっている母をサポートするつもりで私が代わりに答えると、「患者さんが答えてください」と言われてしまい、少しショックを受けました。私はまるで、わが子を想うように「母にはこれ以上つらい思いをさせたくない。お願いだから母の心だけは傷つけんといて」と思うようになっていた。

 結局、母の言葉は看護師には伝わらず、「何て言ってるんですか?」と私が通訳することになりました。

 たぶん健康な時だったら、少々の言葉では、心が傷ついたりはしない。でも病気が進行してくると、ささいな言葉でも一喜一憂してしまう。人の優しさに触れたら涙が出るくらいうれしいけど、悲しいことがあると、母も私も、お互いが自分を責めてしまう。母の申し訳なさそうな顔を見ると、何を言いたいのか私にはわかるし、私がいくら明るく振る舞っても、無理をしているのが母には伝わってしまう。気を遣っているわけではないけど、「これ以上、母に悲しい思いをさせたくない」という気持ちしかなかった。

 この時の看護師も、悪気があったわけではない。そんなことは私たちも十分わかっていた。
長男は修行の旅に

 話は変わりますが、この入院の日、私の長男が家を出ました。大工の見習いの仕事をしていた長男がいきなり「修行の旅に出たい」と言って、行くあてもなく出て行き、私は親として心配もしたけど、長男を信じ、送り出しました。次男の方は先に家を出て働いていたので、ダンナのいない私はこの日から一人身となりました。子どもたちのいない生活は淋しいけど、結果的には良かったわけで、少しでも母のために時間を使えるようになったのです。

 4日間の入院生活を無事に終え、退院時は鼻マスク型の呼吸器が支給され、寝る時だけ使用するということになりました。
さあ、どうする?

 いろんな機能を失っていく母。

 私の自分への問いかけは続きました。「母はもう、きざみ食しか、食べられなくなっている。父はいまの状態が精一杯で、食事のことまで考える余裕はない。家事もおぼつかないほどだ。さあ、どうする?」

 私は、働いている居酒屋のママに「毎週水曜日だけ休ませて」とお願いしました。とっさの判断でした。

 母の退院後、私は週3回、実家に行くようにした。

日曜日は昼の仕事が休みなので、午前9時〜午後3時。

水曜日は居酒屋を休んでも夕刊の配達があるので、午前9時〜午後1時半。

金曜日は午前8時半〜10時。

 私にはそれが限界でした。それ以上、仕事を休めば、生活ができなくなってしまいます。

 父と母、そして私はギリギリのところに立たされていました。

 後で聞いた話では、ケアマネジャーが訪問看護や訪問介護を勧めてくれて、アドバイスもしてくれていたそうですが、気を遣う性格の母は、ずっと断っていたそうです。介護保険の知識のない私は、何もわからないまま、週3回の実家通いが始まりました。

 そして、この先、どんなに大変になっていくのか、想像すらできませんでした。                           (つづく)
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