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追 悼

悲しみを抱えながらも「楽しく生きろ」と
さくら会 東京都支部 川口有美子
 1995年から自宅で療養してきた母が9月6日に逝ってしまいました。22日に新宿で理事会があり水町さんに久しぶりに会ったら、私も同じ遺族になってしまったなと、きっと水町さんもお母さんを亡くした時は私と同じ気持ちだったんだろうと思って涙がでそうになりました。
 この13年の間、母はとても安定していて、風邪をひいてもすぐに治りまったく衰えを見せないALS患者でケアも楽だったのですが、具合が悪くなる最初の兆候は夏が始まったばかりの頃表れました。全身にむくみがでるようになり、中村先生に何度か利尿剤を打ってもらいました。その時、先生から昨年やはりALSで亡くなった近所の患者さんも同じような感じになって、突然、心停止がきたと言われて、母も同じ経過を進んでいるし、ステージが進んだことを言われていました。今年の夏は、出だしは涼しかったけど猛暑が続いていましたので、実家では24時間クーラーは入れっぱなしでした。猛暑は母にはしんどかったんだと思います。

先月の8月27日、京都の大学院で、非常に注文の多い患者さんの事例報告をしていたら、妹の千佳子から「ママの脈が15しかない」というメールが携帯に入って慌てました。研究会を切り上げて新幹線で大急ぎで戻り、中野の実家についたのが夜10時だったんですが、母はまだ生きて待っていてくれました。でも、パルスオキシメーターでも本当に脈が10しかとれなくて、血中酸素濃度も80%以下に落ちていました。もう手足が冷たく爪の色もチアノーゼ状態。血圧は上が40でした。それで私は大慌てで、がんばれがんばれで母の足裏マッサージをしたら、見る間にどんどん脈がもどってきたのです。足裏の刺激は侮れないと思いましたが、母はまだまだがんばれると言っていると思いました。実際にそれからの10日間、母は、最期の最後までりっぱに私たちの介護に応えてくれたので励まされるばかりでした。

中村先生がやってきて母を診て「もう何も出来ない」「今夜か明日」とおっしゃったのはその翌日28日。おしっこが出なくなって午前中に打った利尿剤も効かなくて。でも、翌日またお願いして2倍量で注射してもらっていました。妹が粘りました。「もうやれることはない」という先生に「利尿剤をお願いします」と。投薬も続けました。それで先生も普段は週一回の訪問を、日に二回の往診に切り替えてくださり、看護師さんも毎日やってきて、医療職の活躍の比重がぐっと増えました。そうやって手を尽くして、おしっこがでなくなって3日目にやっと、私が夜勤をしていた夜中に、ちょろちょろと尿がでるようになりました。それも透明な普通の尿で、腎不全ではないようでしたが、でも一難去ったらまた一難で、次は肝臓がやられたらしく母のお腹がバナナ色になり非常に悪い数値になり、先生もこうなったら徹底治療の方針に切り替えていろいろ提案をしてくれました。これが病院だったら、先生は、私たちの希望よりベッドを空けることを優先したとおもいます。先生の裁量ではとっくに治療停止の対象でしたから。でも、多臓器不全になっても諦めず、みんなでがんばって介護をするとバイタルもどんどん改善するのです。私も出張をキャンセルし、できるだけヘルパーと家族の2人体制になるように24時間の介護体制を組みました。

 前々から心配していたのは、母がどういう死に方をするかということでした。うちはヘルパーさんにほとんどの介護を任せて、私たち娘は平気で外出をしていました。夜中は同居している未婚の妹が二階で休んでいる間、ヘルパーさんが母の隣で見守りをして、日中もヘルパーさんに介護を任せてきました。

母のために作ったケアサポートモモの事務所は、実家のリビングダイニングを占領していましたから、母の様子をみながら隣の部屋で私は仕事はしていましたが、母の介護はしていませんでした。父に関しては最初の頃から、繊細なケアを要求する母に「触らないで」と言われていたので、やることがありませんでした。だから、もし家族がいない間にヘルパーさんが運悪く母を看取るようなことになったら、そのヘルパーさんに気の毒だと思って、それだけが心配でした。

 具合が悪くなってから24時間1時間おきにバイタルチェックをしましたら、亡くなる3日前ほどからかなりよい値に落ち着いて、エンシュアの量も元に戻り、先生が「よくがんばりました。もう大丈夫だ」と言って、携帯心電図やエコーなどの機材を引き上げ、それまでは夜間もヘルパーと私たち姉妹の二人体制だったのですが、この晩からは妹も安心して、二階でようやく休めるようになった途端、母の心臓がぴたりと止まりました。その日の夜勤は松井ちゃんで、うちの母とみさおさんのところで働いて2年目のヘルパーさんです。それまでは、都内のホテルのベッドメイキングをしていたのを、さくら会の研修会でヘルパーの資格をとって、今ではみさおさんの口文字も読み取れるほどです。

私も自宅で安心して休んでいたのですが、夜中の2時半過ぎに電話があって、自転車で駆けつけたら、妹が母に馬乗りになって心臓マッサージ、松井ちゃんは母の片足をもって一生懸命屈伸させていました。まるでERみたいでした。でも妹が「ダメみたい」と冷静に言って、「瞳孔が開いているみたい。」というので懐中電灯で見たら、母の瞳の奥が空洞のように覗けました。母の療養中13年の間に何匹もネコを看取ってきたので、ネコの看取りには慣れていましたから「ああ、母は死んだな」とわかりました。それで、ふたりに「もうママは死んでいるよ」と言って、心臓マッサージをやめさせました。まだ朝まで時間があったので、3人で「本当に死んじゃったね」と語り合いながら母のあちこちを擦って、まだ体温もあるし、本当に死んでいるのが嘘みたいに思えて。でも、呼吸器は相変わらず動いてくれているから、もし息を吹き返したとしても安心でした。外が白々としてきた5時に父を起こし、6時にうちの事業所の所長で母のヘルパー1号だった塩田さん、中村先生に電話しました。

 大きな台風がきて気圧が下がったから、母も寝ている間に、自然に血圧が下がったんではないかと私は勝手に思っています。下の息子も平成4年8月の大型台風の夜に生まれましたので。だから、子が生まれるのも母が亡くなるのも私には同じような体感です。風がビュービュー吹き荒れていたけど、ちっとも怖くなかったです。

8時ごろに中村先生がやってきて、母が亡くなったことを改めて宣言しました。それで呼吸器を外した時が、正式な死亡時刻になりました。そのあと、記憶はもう薄れているのですが、父方の親戚がやってきて、母の友人で中野区議の佐藤ひろ子さん、元保健師の黒田さん、近所の清水さん、稲毛屋さん、うちで介護をしてくれていたヘルパーさんたち、私の友人の石川れいこさん、妹の友人らが訪れてくれました。誰が尋ねてきたかメモしておくようにれいこに言われましたが。あと中村記久子さんが二日間ともおにぎりをもってきてくれました。陣中見舞い。ご飯を作る気力がないので助かりました。

先生に紹介してもらった世田谷の葬儀屋は7日の午前にやってきて、手早く母の支度を整え葬儀の算段をしていきました。冷たくなるとファンデーションが浮くというので、慌ててお化粧をしましたが、昔の母の顔が戻ってきて表情も豊かになりました。斎場が込んでいて告別式はなんと一週間も先の11日になり、それまで母を斎場の地下で冷凍保存しておくために、9日の夕刻台風の経過をみて母を迎えに来るということになりました。それまでは遺体が傷まないよう大きなドライアイスの塊を母のお腹の上と身体の脇と頭の横に対に置いていきました。

結婚式みたいに何でも松竹梅(という名称があるわけではないが)の中から選ぶ。カタログがあってどんどん。右から左へ。便利だけど明瞭会計というわけではないようです。個々の値段を考えている暇も余裕もないのだから、言われるままになってしまう。それも仕方ないと思いました。母のためにお金を使える最後だったので父も大判振る舞いでした。以前、母と文字盤で葬式の相談をしましたが、母は私には密葬を希望していましたが、妹にはそうは言っていなかったどころか散骨して欲しいとか言っていたらしく、お骨を持ち帰ってから考えようということになりました。

 そうこうしているうちに、母の遺書を仏壇の奥にしまっていたことを思い出しました。遺書ということになっているけど、私はとうに封を開けて読んでしまっていました。その時、封筒を切ったので新しい封筒に中身を入れ替えて、同じ場所においておいたのを思い出して、父と妹に見せたら、妹はそれを読んで泣き出して、もっと早く読んでいたらよかったと言いました。という妹は、介護をしながらも心のどこかで誤ったことをしていると思っていたようです。母はいつも苦しそうではありましたが、この遺書を読めば内心もっとも恐れていたのは、私たち姉妹が母の介護を始めたことを後悔したり、この体験を惨めなものにすることだったとわかります。母は私たち姉妹に母を失った悲しみを抱えながらも、すぐさま楽しく生きろといっています。生きているうちが花だとも。私は映画「タイタニック」の最後の場面を思い出しました。残された人は前向きに楽しく生きていかねばならない。亡くなった人の分まで。それが正しい弔いということなのだと。

事業所は休みにできないので、母が死んだ日もみんないつものようにうち来て、うちの居間で仕事をしていました。私は気持ちは忌引きなんだけど、週末にはキャンセルできない仕事もいくつもあるのですっぱり休むことも出来ず、実感がわかないまま時間が過ぎました。

9日、母を斎場に連れて行くために午後から父方の親戚と母の妹がやってきて、台風が通り過ぎたのをみて午後6時ごろ部屋のベランダからみんなで抱えて外に出しました。父やおじさんたち、夫、息子が頭のほうを持ち、私と妹が足をもちました。シーツに包まれた母は柔らかく重量感があった。久々に家の外に出たがあの空。夕方の6時過ぎなのに、台風が大掃除した後の都会の空は清浄で、夕焼け雲が流れて水色とピンクの入り混じった複雑な模様を描いていました。母を乗せたバンもピンクに染まっていました。

その後は、告別式の日まで、主人がいなくなったベッドの上でごろごろして仕事をサボって過ごしました。

 母がこの13年間見てきた光景を体験すると、「同じ天井ばかりみている」とか言い表されるALSだけど、それが母にとってどんなに良いことだったかよくわかりました。

同じ天井ばかり見ていられるのが安心で楽だったと、母の気持ちが伝わってきました。母はロックトインして6年もまぶたも自力で開けられない状態だったんですが、ずっと同じ場所に居られて、同じような介護が繰り返されるだけで安心だったというとことがふつうの人々には絶対にわからない。これが重症のALS患者のささやかな幸せの一部です。病人にしかわからない物事や価値というものがあると死んだばかりの母が伝えてきました。

11日の通夜と12日の告別式には大勢の人、懐かしい人たちがお別れに見えました。母は寝たきりになり外出もほとんどしなかったけど、町の人々に忘れられていなかったんです。葬儀も言うなりに右から左へで、もうあまり覚えていませんが、火葬場でボイラーの両開きのドアが開けられたら、部屋の装飾はりっぱなのに釜の中は真っ暗で狭く飾りがなく、そこに母の棺が入っていく瞬間はどうにもやるせなかったです。

告別式の朝は大雨だったのが、読経の最中だんだん晴れて外が明るくなるのがわかりました。

 そして、その日の夕刻も母を自宅から送り出した日と同じような空模様だったのです。葬儀から戻って居間で仕事をしていたら、外がだんだん赤くなってきました。大急ぎでサンダルをつっかけて外に出て、デジカメでパシャパシャ写しました。夕焼け雲の葬列です。自然が大好きだった母は台風と共に去って逝ってしまいましたが、お別れの挨拶代わりに見せてくれたと思います。
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