| 母と過ごした日々 (2) | |||
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| 和歌山県海南市 前原 千珠 | |||
| (さし絵も) | |||
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平成15年6月から、私は週に3回、実家に通うことになりました。 一番の目的は、母にきざみ食を作り、栄養をとってもらうことと、少しでも楽しい気持ちになってもらうこと。 二番目の目的は、父の負担を軽くして、少しでも自由な時間を過ごしてもらうこと。 そして三番目は、雑然とした家の中を掃除することでした。 |
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| 刻んで食べられるのなら、何でも食べさせてあげたい | |||
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食生活はとても大切なことだし、また唯一の楽しみでもあります。 刻んで食べられるものなら、何でも食べさせてあげたいし、父も買ってきたお惣菜ばかり食べていたら味気ないし、栄養も偏ります。 私はきざみ食(母)と普通食(父)を二日分くらい作り置きして、いたみやすいものから順番に食べてもらうために、冷蔵庫のドアに張り紙をしました。 思えば、父がすべての家事をするようになってから、ちょうど1年が過ぎ、炊事、せんたく、掃除と、かなりがんばっていましたが、もうすぐ70歳を迎える父には限界というものがあります。 家の中は汚れ、特にキッチン収納棚からは、賞味期限が過ぎた、お中元やなんかのソウメンやら昆布やらがいっぱい出てきて、とにかく一つ一つチェックしながら整理していくことから始めました。 |
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| 母の状態は少し安定 | |||
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母の状態は‥‥というと、このころ、少し進行が止まったかのような安定した感じに見えました。 介護度 2 ・介護保険は、レンタルベッドのみの利用 ・4週間に一度の医大受診 ・同じく4週間に一度の下津クリニック受診 ・往診(毎週水曜日) ・マッサージ(毎週木曜日) ・OTの先生の訪問リハビリ(毎週火曜日) (訪問看護、ヘルパーなどは一切利用していませんでした) 自宅でのトイレ介助も楽で(病院のトイレを使用するときは、全介助になりますが)、ドアさえ開けてあげたら、自分で用を足せる、という具合でした。ただ、ズボンや下着の上げ下ろしが困難だったので、全部ゴムを入れ替えて、ゆるめると、スムーズにできるようになりました。指が動かないので、母は手全体を使って、ズボンを上げるのです。 一日のほとんどをリビングで過ごし、母専用のイスには背もたれのところに、父が座布団をくくりつけて、少しでも楽な体勢がとれるように工夫されていました。そして日課のように、家の中をゆっくりと歩き、母なりに積極的にリハビリをしていました。 |
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| ブーは母のよきパートナー | |||
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家にはネコがいて、名前は「ブー」と言います。コロコロと太った大きなネコです。母は家の中を一周すると、ブーの頭を足でなでてあげます。そして、また一周すると、ブーの頭を‥‥。何度も、何度も、繰り返して、母は自分のイスに戻るのです。
そんなブーの協力(?)もあって、母の介護には手がかからなかったので、私は食事作りと掃除に専念することができたのです。 それに日曜日には、私も長時間、母と一緒にいることができたので、父は魚釣りに出かけたり、ホームセンターにぶらぶらと買い物に行ったり、自分の時間を楽しんでいました。 母と私は会話を楽しみ、あまり病気を意識することもなく、おだやかな時間を過ごした。とにかく母はよく笑っていた。 |
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| 頑張れば頑張るほど、追い詰められて | |||
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ゆとりを取り戻したかのような、その生活は、一見優雅なようで、でも私にとって「ちょっとキビしいかな?」と思い始めたのは、それから間もなくのことでした。 少しでも父を助け、母が安心して暮らせるようにと思い、頑張れば頑張るほど、私は逆に追い詰められていったのです。 裁縫などの時間のかかる作業は家に持ち帰り、仕事から帰って夜中にやる、という具合で、睡眠時間がだんだん短くなっていった。朝食も、急いで作ったおにぎりを持ち、実家に向かう車の中で運転しながら食べるという行儀の悪いことをしていた。短期間のことなら、“気合い”で何とか乗り切れたかもしれないけど、いつまで続くのかわからない。進行していく病気。 実家に通い始めて3か月もたったころには、私はすっかり疲れが出ていた。自分の時間は全くといっていいくらい、なくなっていました。「この状態を続けていけるだろうか」と思いつつも、母に「忙しいのに、すまんなあ」と言われると、「全然! 私は元気やから大丈夫!」と、本当は時間に追われて焦る気持ちを抑えて答えた。 私は職場や周囲の人たちに、「もしかしたら実家に帰ることになるかもしれへん」と、漠然とした気持ちで話していた。 でも、私にとって、実家に帰って、両親と同居する、ということは究極の選択であり、できれば少しでも先延ばしにしたいと考えていたのです。23歳のときに離婚した私は、それから築いてきた自分の生活や仕事に執着して、妙なわだかまりがあったからでした。 |
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| 助っ人あらわれる! | |||
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そんな私の気持ちを理解してくれるかのように、助っ人が一人、二人、三人と増えていきました。 実家に行く日は、働いていた居酒屋のママが、おかずをたくさん持たせてくれて、私は調理をする手間がはぶけ、本当に助かりました。 そして、私のいとこのお嫁さんが、週に一度、母のところに6〜7品のおかずを届けてくれて、父も食事に困ることはありませんでした。 実はいとこのお嫁さんとは不思議なエピソードがあるのです。なんと偶然にも、居酒屋のママの姪っ子なのです。ママの姪っ子と私のいとこが結婚したのですが、もちろん最初は知りませんでした。結婚式が近づいてきて、ママが「もうすぐ姪っ子の結婚式なんよ」という話から、「あれ? ウチのいとこも、もうすぐよ」ってことになり、事実が発覚して、みんなびっくり仰天‼ 披露宴は居酒屋で行うことになったのですが、私は店員として接客をして、集まったメンバーはママの親類と私の親類。しかも仲人は、私の兄夫婦だったのです。“縁”というのは不思議ですね。 そして三人目の助っ人が現れました。 私は、父と母のズボンのすそ上げなどの作業は家に持ち帰っていたのですが、実は裁縫は大の苦手。そんなとき、近所のおばちゃんが「縫い物は全部、ウチにもっといで。やってあげるわ」と言ってくれて、お言葉に甘えて、お願いしました。 周囲の人たちに助けられ、私の睡眠不足は少し解消されました。感謝!感謝!です。 |
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| ALSの交流会に参加して絶句 | |||
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秋も深まったころ。ALSの和歌山での交流会があるという情報を聞きました。私は会報誌を読んだことがなく、協会があることも、あまり知りませんでした。交流会には、母の担当の保健師やケアマネジャーも参加してくださるということでした。
母の進行がほとんど止まっていたので、そんな大変なことになるとは思ってなかったからです。一生懸命生きている人たちに感動した反面、「まさか、母も?」と思ったのが正直な気持ちです。 そして私は、患者さんのそばで手際よく動く家族の方たちに釘付けになり、その姿をしっかりと自分の目に焼き付けた。 |
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| 自然体でいたい、という本当の理由 | |||
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その後の母は、胃ろうの造設は勧められていたものの、母自身が「絶対、いやだ!」と訴え、主治医のドクターも「ごめん、ごめん。もう勧めへんよ」となぐさめてくれるほどでしたが、徐々にやせてきて、体重は35㎏くらいまで減っていました。 母はとにかく自然体でいたい、と思っていたので、胃ろうや気管切開はしない、と言っていた。でも、その本当の理由は、「自然体でいたい」ということよりも、「家族にこれ以上の負担をかけたくない」という気持ちのほうが強かったと思います。私自身も、母が気管切開をする日が来るとは夢にも思わなかったので、深刻に考えることもありませんでした。 平成16年1月。 母は1年前と、ほとんど変わっておらず、小康状態を保っていました。おせち料理も、細かく刻むと食べられるので、ほとんど全品、少量ずつ食べました。 1年間、特に問題もなく進行もしていなかった母に、少し異変が起こったのは、2月ごろのことだった。 納豆や山いもなどのネバネバ食が食べられなくなったのです。のどにひっついて不快感を訴えるようになりました。それから間もなく、高野豆腐やじゃがいもなども、ざらざらしたものがのどにひっかかると言って、少しずつ食べられないものが増えていった。 それまでは、梅干しとかも、細かく刻んで食べていたけど、それも無理になってきたので、すり鉢ですりつぶし、梅肉にしたら、のどの通りもよくなり、多めに作り置きをしておきました。食材によって、刻んだり、ミキサーにかけたり、という風に、食事には一番気を使いました |
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| 父を追い詰めているのでは | |||
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もう一つ、すごく気になっていたことがありました。それは「入浴」です。私が「お風呂に入ろう」と誘っても、母は「お父ちゃんに入れてもらうさかい、かまへん」と断るのです。 母は自分自身の状態を、しっかり理解していて、そして父と私の状況もちゃんとわかっているのです。父にできないことは私に頼み、父ができることは父にしてもらう。私に少しでも負担をかけまいとしているのが、本当によく伝わってきました。 このころの母は、浴室まで自分で歩いていき、浴槽の内と外にすべり止めマットを敷き、シャワーいすを使って、父が体を洗ってあげていました。でも明らかに手抜き状態で、とてもキレイな体とは言えないくらい、母がくすんで見えた。 私はまた、自分に問いかけました。 「私が仕事をしながら実家に通ってるんで、母が逆に私に気を使って、父に依存している。父は、本当は入浴介助が苦手なはず。苦になっているに違いない。それって、父を追い詰めることになるんとちゃうやろか? だからと言うて、私が毎日、入浴させてあげるのは不可能なこと。私かて仕事があるし、生活もかかっている」 私の頭の中に“限界”という文字がチラついた。 「さあ、どうするかなあ〜?」と一人、家で考えました。 でも、もともと楽天家の私は、いくら考えても浮かんでくるのは母の“笑顔”と父の“おやじギャグ”ばかり。結論は「いまやるべきことを一生懸命やろう。あとのことは、あとで考えたらいいか」でした。 |
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| 転機が訪れた | |||
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そんなある日、突然、私に転機が訪れました。 友人Yさんの登場です。Yさんは私よりも10歳以上、年上で、子育ても介護も経験ずみの、とても人間味のある深い考えの人です。ずいぶん昔からの知り合いで、会うと世間話なんかはしてたけど、ある日、話のはずみで「一緒にご飯でも食べよう」ということになり、急速に親しくなりました。 一緒に食事しながら、何気なく「ご両親は元気?」と聞かれ、私はいまの状況を話しました。話しているうちに昔のことを思い出し、あまり人には話したことのない過去のことまで語っていました。18歳のときに実家を出て、両親に心配ばかりかけ続けてきたことを……。 6月1日の夕方。 いつものようにYさんと世間話をしていたとき、「ところで、千珠ちゃんのお母さんって、余命を宣告されてんの?」って聞かれ、「うん、5年くらいって聞いたけど」と答えると、「で、いまは何年めなん?」。私は「5年めかな?」と言いました。 |
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| お母さんのところに帰ってあげなよ | |||
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Yさんは「今日、千珠ちゃんが店の仕事、終わったら、家に行くわ」と言って別れました。私は早めに店の仕事を終え、9時半ころにYさんが来てくれました。 Yさんは少し怖い顔をしているように見えた。そして、いきなり「もう、お母さんのところへ帰ってあげなよ」と言うではありませんか。 「いま、帰らんと、絶対に後で悔いが残るで」という忠告に対して、まだ迷っていた私は「でも私は親にさんざん心配をかけてきたから、堂々と帰れる立場じゃないし、両親にとって本当に私が必要になったときは帰るつもり」と。 Yさんは「いいかげんに目を覚ましなよ。親のそばで、もっと助けてあげて。お母さんは、命を削ってでも、千珠ちゃんそばにいてほしいと訴えてるんや。何が大切か、優先順位を考えなよ」 その目は真剣でした。まるで命がけで語っているような……。そして、その目の中に母が見えて、私は吸い込まれていくようだった。 私は一瞬、“目からウロコが落ちる”とは、このことだ!と、生まれて初めての経験をしたような気がした。そして、何もかもがふっきれて、「そろそろ帰ろうかな」と決心した瞬間でもあった。 |
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| 幸せは、自分を愛してくれる人のそばにいること | |||
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Yさんは続けて語った。「仕事して、頑張って、生活を安定させるのも幸せかもしれへんけど、本当の幸せは、自分を愛してくれる人のそばにいることや。いまはわかれへんかもしれんけど、それが幸せになる一番の近道や。親子の溝は一瞬にして埋まるよ」 数日後、私は少し緊張しながら母に言った。 「私、そろそろ、この家に帰ってきてもよいかなあ」 母は笑顔になり、「どの部屋がいい? 好きな部屋を選びな」と、一番喜んでくれたのは母だった。 父は「おまえ、生活苦しなったんか! だから帰って来るんか!」と、的はずれなことを言って、母を笑わせた。 私は“長い間、心配かけてごめんね”と心の中でつぶやいた。 |
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実家に帰ることを、私の周りの人たちも喜んでくれて、励ましてくれた。そして、どの人の言葉も同じだった。「お母さんの思いが通じて、千珠ちゃんを呼び寄せたんやな」と。 |
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| みんなが応援してくれている | |||
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私はすごくうれしかった。この土地で16年間暮らして、地域に密着していた。子どもたちに目が届く範囲でと、住んでいる地域の新聞配達と集金を始めて、近所の居酒屋でも働いた。私を育ててくれたのは周りの人たちで、私の子どもたちを育ててくれたのは地域の人たちだった。 みんなが応援してくれている。もう思い残すことは何もない。いま、母は私を必要としてくれているのだから。 それから一か月間は、目の回るほどの忙しさで、パニック状態だったけど、なぜか私の心はスッキリしていた。 7月4日。 お世話になった近所の人や友人、たくさんの人に助けてもらい、無事に引っ越しの荷物を運ぶことができました。 この日は雲一つない晴天でした。 荷物を運ぶトラックの窓から景色を見ながら思った。 「今日から、母と一緒に暮らしていくのだ。もう悩むことも、迷うこともない。自分自身に問いかけることもないだろう」 私は、今日のこの青い空を一生忘れない、と誓った。 |
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| ここで母と共に生きてゆく | |||
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私の部屋は、縁側付きの6畳和室。 なんと、エアコンもついている部屋で、マイルームにするには、もったいないくらいの快適さだった。 ある程度、荷物を整理してから、夕食の準備をした。 こんなにも穏やかな気持ちで、夕食の支度をするのは何年ぶりだろう、と思いながら、父や母と会話をし、笑顔の食卓となった。でも、私には、まだまだ知らないことだらけで、母の食後の歯みがきも、父から教えてもらった。吸引器につなぐ専用の歯ブラシで歯をみがいてあげて、その後、口をゆすぐのは、母は自分でコップをかたむけながら、できるのだ。 こういうことも、父が毎日してあげていたのかと思うと、私のしてきたことは、母の生活にとって、ほんの一部だったのかもしれない。グチひとつ、こぼさず、黙々と頑張ってきた父に、私は頭が下がる思いだった。 夜は、母のベッドの横に、父が布団を敷いて眠る。私はマイルームに戻り、たくさん積み上げられたダンボールのすき間でくつろいだ。 21年ぶりに“同居”という形で帰ってきたわが家は、まだまだ違和感があり、落ち着かないけど、「今日から、ここで母と共に生きてゆくのだ」と思うと、明るい気持ちになった。 私は朝までぐっすり眠り、目覚めたときに、またまた思った。「こんなに眠ったのは何年ぶりだろう」って……。 私は朝食のおかゆを作りながら、両親の愛情をいっぱい感じていた。 (つづく) |
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