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母と過ごした日々 (3)
和歌山県海南市 前原 千珠
(さし絵も)

平成16年7月。

 親子3人のにぎやかな生活がスタートしました。

 「なんや、家族が3人増えたくらい、にぎやかやなあー」と、父が満足げに言った。
父も母も、私も安心

 朝起きたら、朝食をとり、洗濯をして掃除をする。家族で一緒にテレビを観て、ゆっくりお風呂に入る。こんなにも平凡で、あたり前で、すごく人間らしい生活をどれほど心待ちにしていただろう。

 父は、家事や介護の負担が軽くなり、しばらくやめていた野菜作りを再開した。母は、安心して食事や入浴ができるようになり、私も時間に追われることがなくなった。

 まさに“一石三鳥”ってところでしょうか。3人が3人とも楽になり、背負っていた荷物が軽くなったって、感じでした。

 私が母の入浴介助をするようになってからは、父は二度と母の入浴にかかわることはありませんでした(やっぱり苦になっていたのですね)。

 母は日に日に元気を取り戻し、“このままいくとALSが治るのでは?”と思うくらい、家の中を歩き、よく笑い、よくしゃべった。
母が変わった

びにきてくれていました。私は下津の実家では、ほとんど暮らしたことがなかったので、「娘さんがおったんかいな」と言う人までいて、最初は自己紹介ばかりしていました。

 でも、おどろいたのは母の対応。昔は世間体ばかり気にして、私のことを“恥ずかしい娘”とか言っていたクセに、いまはニコニコしながら「娘はバツイチ」なんて、人に紹介しているのです。あんなにマジメで堅物だった母が、こんなに変われる⁇と、少々とまどったくらいです。でも、そのたどたどしい母の言葉のおかげで、私は緊張感がなくなり、ありのままの自分でいられることができたのでした。
若いころの母
三人の絶妙なバランスから生まれる笑い

 気づいたら、母の言葉がだんだんと不自由になっていったのと同時に、父の耳も遠くなっていました。

 両親の言葉のやりとりにはカン違いも多くて、うまくしゃべれない母と、耳が聞こえにくい父との、小さな“もめごと”はしょっちゅうでしたが、笑えるようなネタばかりだったので、平和そのものだった。いま思えば、あのころのやりとりをメモっとけばよかった、と思います。それくらい、母は笑顔が絶えなかったのです。

 それでも、父と母が二人暮らしのころは、笑顔どころか、父に言葉を伝えることができない母は、ずいぶんイライラし、悔しい思いをしたそうです。

 私が間に入ることで、母は言いたいことを言い、父はとぼけて話をそらし、私がツッコミを入れる。3人の絶妙なバランスで“笑い”が生まれるのです。

 楽しい毎日でしたが。真夏の暑さはやっぱり残酷で、私たちはいつも汗だくだった。母は「風にあたると、体がだるくなる」と言い、クーラーや扇風機もダメで、風の吹く日は、「窓も閉めて」と言います。

 閉めきった部屋の中は、まるでサウナ状態。母はさらに「肌が空気に触れると、辛い」と、長そでのシャツを着て、汗を流しているのです。人一倍、汗かきの母は、髪の毛からもポタポタと汗が流れ落ちます。

 唾液も一日中流れるので、汗を拭いたり、よだれかけを交換したりと、毎日40〜50枚のタオルを使いました。

 マイペースな父は、自分だけ扇風機の風にあたりながら、テレビを見ています。母が大変な思いをしているときも、父はとてもリラックスしていました(笑)。
リハビリ中のおしゃべりも楽し

 私は週に3日だけ居酒屋に仕事に行っていたので、訪問リハビリの先生となかなかお会いすることができなかったのですが、ある日、台風で仕事が休みになり、初めて私は自宅でのリハビリを見学させてもらうことができました。先生はひとつひとつていねいに説明をしてくれて、関節を曲げたり、伸ばしたり、コツを教わりました。

 私は自分にもできそうなことだけ覚えて、翌日から、一日一回、教わったとおりに母にリハビリをしてあげることに。リハビリ中は、一方的に私が会話をし、その日の出来事や父の“おとぼけ話”に花が咲いた。

 父はときどき、部屋に入ってきては、「何、話してんの?」と、そわそわしている。母と私は「別にィ〜」と意味深な返事をした。

 前原家に平和な時間が流れていました。

 汗だくで過ごした、きびしい夏も終わり、さわやかな秋がやってきました。生活もすっかりと落ち着き、十分な自分の時間が確保できるようになったころ、私は久しぶりに絵を描くことにした。とはいえ、高校生のとき以来なので、うまく描ける自信もありませんでしたが、美術家協会に電話をし、県展に出品する準備を始めました。
母はレッツチャットに挑戦

 描き始めると夢中になり、毎日深夜まで絵を描いた。自分のために時間を使える境涯になったことに幸せを感じ、3週間で描きあげた。

 出品した絵はもちろん入選するほどの出来ではなかったけど、記念すべき一枚となった。

 自分のために時間を使い、楽しんだ分だけ、母にも何か楽しみを見つけてあげたい。そう思っていたとき、タイミングよくケアマネさんが「レッツチャット」のデモ機を持ってきて下さいました。

 「これで母も意思伝達ができる!」と思い、ケアマネさんと共に、母に勧めました。母は最初、「無理。できへん。別に、こんなのいらん」と消極的でしたが(機械には弱いので)、根気よく、使い方を教えると、母はみるみる上達して、あっという間に、メッセージを作成できるまで使いこなしていったのです。

 往診の先生が来られる日には、先生にもメッセージを作り、母が伝えたい思いを「レッツチャット」を通して聞いてもらいました。

 ケアマネさんは、たびたび訪問してくださり、母の上達ぶりを一緒に喜んでは、最善の方法を考えてくれていました。
「伝の心」のデモ機も借りられる!

そしてレッツチャットのデモ機をお返しするのと同時に、次は「伝の心」のデモ機も借りられるということになり、私の方が興味津々だった。意思伝達ができる上に、メールやインターネットもできる。なんて素晴らしいんだろう。きっと母の世界が広がるに違いない。

 母はとても明るくて、だれにでも愛想はいいんだけど、他人との交流が少ないのが少し気になっていました。

 元気なころは、花や野菜を育てたり、ウォーキングを楽しんだりしていましたが、もともと家庭の中だけで生きてきた人なのです。旅行や外食にも行かなかったし、友人と遊んだり、電話でおしゃべりをしているところを私は見たことがありませんでした。たぶん、仕事や家事や子育てが母の人生のすべてだったのだと思います。夫婦で外食や旅行を楽しむ余裕はいくらでもあったはずなのに、母の真面目な性格が、それを許さなかったのでしょう。

 いまからでも全然、遅くない。母が生き生きとして、友人を作っていってほしい。

 10月18日。

 私はケアマネさんに同行させてもらい、「伝の心」のデモ機を借りに行きました。

 行き先は、海南市の川端さんのお宅でした。

 “これも何かのご縁”と思い、ケアマネさんが運転する車の助手席で、私も必死で道を覚えました(私は方向オンチなのです)。
ああ、こんなにも頑張っている人たちがいる

 川端さんのおうちは、庭にはたくさんの季節の花が咲き、そして玄関にお邪魔すると、家族の写真がたくさん飾られてあり、“温かいふんいきだなぁ”と思ったのが第一印象でした。奥さまの幸子さんが快く迎えてくれて、私たちは部屋に通していただきました。

 人工呼吸器を装着したご主人と対面し、私は胸がつまりそうになった。ちょうど1年前にALS交流会に行ったときのことを思い出し、改めてこの病気の大変さを実感しました。

 そして、テキパキとご主人のお世話をし、まるで魔法のように吸引をしてあげている奥さまの姿。

 「ああ、こんなにも頑張っている人たちがいる」と思うと、何もかもが大切に思えて、何よりも命の大切さを、初めて、身近で感じたような気がしました。

 私はたくさんの勇気と元気と優しさをもらって帰宅しました。

 さっそく母に一部始終を話すと、母も感激した様子でした。

 母は発病して5年を過ぎていましたが、まだ同病者の方と一度も会ったことがなかったので、この日初めて“同じ病気と闘っている人がいる”と思い、とても励みになったようでした。

 翌日から「伝の心」の使い方の練習を始めました。レッツチャットをマスターしていた母は「伝の心」も楽勝で、ひらがなを漢字に変換することもすぐに覚えて、早速、給付の手続きをしていただきました。

母にマイ車イスをつくる段取りが始まる

 OTの先生も大変熱心な方で、このころには母の「マイ車イス」を作る段取りをしてくれていました。業者の方が家まで来てくれて、母の体型に合った車イスを作ってくれるというのです。

 完成まで数か月かかるということで、それまでの期間は別の車イスを持ってきていただき、母は座るのがとても楽になったようでした。体調もよく、1年前は35㎏だった体重が40㎏に増えていました。

 母専用のパソコンに母専用の車イス。

 いたれりつくせりで周りの人たちに感謝の思いでいっぱいになり、私たちに夢が大きく広がりました。
千珠さん、ウチに来てくれない?

 パソコンが届くまでは日にちもかかるだろうと思い、私は画用紙に50音の表を作って、母と言葉で遊びました。でも画用紙に書いた文字では、言葉を伝えにくいので、透明のプラスチック板に文字を書き、まばたきで合図をする練習をしたのですが、板が透明すぎて、これまた使いにくかったようです(残念……)。

 このころ私は、毎朝、家事を終えるとウォーキングをしていました。昼食の準備までは1時間以上あるし、父と母はテレビを見ていたので、なんだか時間がもったいないと思い、外に出ることにしたのです。私も元気なころの母と同じで、歩くことが大好きでした。

 ある日、ウォーキングから帰ると、ケアマネさんが家に訪問してくれていて、何やら両親と会話していました。私が「ただいまぁ〜」と部屋に入ると、ケアマネさんが「あ!ちょうどよかった。いま、お母さんに話したところなんよ。千珠さん、ウチに仕事に来てくれない?」。私は「はっ⁈」と答えました。

 「4時間だけだし、簡単な事務仕事だから!」。私は“事務”と聞いただけで拒絶反応をおこし、「無理、無理! 頭ワルイから事務はできへん!」と言ったのですが、ケアマネさんはていねいに説明をしてくれて、父も母もOKの返事をしているのです。私にできるかどうか半信半疑でしたが、面接を受ける約束をしました。

 私はケアマネさんの仕事もあまり理解できていないし、職場は病院の中。「いったい、どんな仕事?」と思えば思うほど、頭がこんがらがって、「やっぱり断ったほうがよかったかな〜」と、少し後悔しました。
在宅介護支援センターで働き始めました

 父は母の食事介助やトイレ介助もできたので、私が4〜5時間、家にいなくても何も支障はありませんでした。現に週に3日、居酒屋に仕事に行く日は、午後3時〜10時まで、私は家にいなかったのですから。

 私は11月2日に面接を受け、11月11日から、「在宅介護支援センター」でパートとして働かせていただくことになりました。週に5日のパートと週に3日の居酒屋の調理の仕事は、私にとってはちょうどいいペースでした。

 母の介護も十分してあげられるし、父のプライベートな時間も確保できる。それに、いままで知らなかった介護保険のことも働きながら勉強できる。苦手だと思っていた事務仕事に満足感を感じ、とても楽しく仕事をさせてもらいました。
母のメッセージをあちこちに配達

 11月26日。

 「伝の心」が、わが家に届きました。当日、ALS協会近畿ブロックの西村様が来て下さり、パソコンを設置していただきました。スイッチは、母にもできるように、足で軽く踏むと使用できるものを、取り付けてくれて、感激しました。下津町は遠いところなのに、西村様は電車で来て下さり、私たちは感謝の思いと同時に、頑張る勇気をいただきました。

 翌日から母はメッセージを作り、近畿ブロックの西村様にもお礼の手紙を送らせてもらい、のちに会報誌に、母の写真を添えて、掲載していただきました。

 私は仕事から帰って、母が作成したメッセージを読むのが楽しみでした。「伝の心」に打ち込まれた母の手紙をプリントして、その人に届けに行きます。毎日のように、あっちこっちへと届けました。遠方に住んでいる人には、私の手紙も同封し、送りました。

 受け取った方たちは、返信の手紙を送ってくれたり、家に訪ねてくれたりして、母はとてもうれしそうだった。
メールもできるようになった

 うれしい忙しさの中で新しい年が始まり、母の状態も安定していました。いいえ、安定しているように見えただけなのかもしれません。じわじわとALSは進行を続けていました。

 自分でできていた食後のうがいができなくなり、おかゆも、ごはんつぶの形がわからないくらいドロドロに炊かないと食べられなくなっていた。家の中を散歩しているときも、何度か転倒してしまい、背後から両脇を抱えてあげての歩行となりました。頭もグラグラで、父と私は交替で母のそばから離れられなくなっていた。

 「伝の心」を使用するようになって慣れてきたころ、母にもメール交換することの楽しさを経験してもらいたくなり、再度、ALS近畿ブロックの西村様に来ていただき、パソコンをインターネットにつなげていただきました(西村様、2回も来ていただいてすみませんでした)。

 母のパソコンは、めでたくインターネットやメールもできるようになったのです。「伝の心」にメールが届く毎日となり、期待どおり母の楽しみは何倍も大きくなった。

 ケアマネさんやOTさん、往診の先生や私の友達、いとこなどがメールを下さって、母はますますパソコンにハマっていったのです。
母は大切な友人と出会うことができた

 そのころ、私の携帯電話に一通のメールが届きました。なんと「伝の心」のデモ機を貸して下さった川端さんの奥さまからのメールだったのです。奥さまは会報誌を読んで母の状態を知り、早速メールを下さったのでした。

 川端さん宅に訪問させていただいたときに、私は自分の携帯メールアドレスを教えていたのです。私はすぐに母のパソコンのアドレスを伝えました。

 それから、母と川端さんの奥さまとの毎日のメール交換が始まりました。いままでに見たことがないほどの楽しみようで、母は大切な友人と出会うことができたのです。

 川端さんからのメールを何度も読み返しては、返信のメールを作成する母。その表情はとても輝いていました。

 ALSという病気になったことは、とても辛いことだけど、ALSだからこそ、パソコンを通じて語り合える。母の気持ちがとても和らいでいるのが私にもわかりました。

 川端さんは、母だけではなく、私にも毎日メールを下さり、同じALS介護者として、どれほど勇気づけられたかしれません。ときにはグチったり、励ましたり、励まされたり……。川端さんの奥さまは、とても心がキレイな人なのです。母が亡くなったいまでも、川端さんご夫妻とはお付き合いをさせていただいています。

インターネットで見つけた介護記録

 母がベッドで休んでいる間、私はよくインターネットでALSに関する情報を検索していました。いろんな患者さんや家族さんのホームページを読んでいるうちに、ある人のページにたどり着きました。

 娘さんの立場として、母親を介護した記録が、そこには書かれてありました。私は自分とオーバーラップし、夢中で読んだ。文章の中に「ALSは“最後の○○”を体験する」という、お話が書かれてあり、私は「全く、同じだ!」と思いました。母も、ALSを発病してから、ひとつひとつの動作を限界まで頑張っていたからです。

 「最後の料理」「最後の洗濯」「最後の買い物」という風に、全部に思い出がある。「最後の○○」のときは、転倒したり、体が動かなくなって、次からは二度とできなくなっていた。できなくなる日まで自分の力で頑張るのです。

 そして悲しいけど、「最後の歩行」「最後の自力での食事」と進んでいったのでした。
マイ車イスが届いたけれど

 3月には、新しい「マイ車イス」が届き、大喜びしたのもつかの間で、母はすべてのことが全介助になり、このころからの母は、体の角度や手の位置、足の位置、服のしわなどの不快感を訴えることが多くなりました。

 汗が流れただけ「あー‼」と叫び、母の前に虫の一匹でも飛んでいようものなら、意味不明な言葉で騒ぎます。

 母の周りには殺虫剤をふって、まるで無菌室状態にしないと、納得がいかないのです。

母の車椅子が届いた日
 車イスには、頭を置くマクラが付いていましたが、少しでも角度が気に入らないと、「ちがう」「ちがう」と、何回も何十回もやり直しです。出勤前の私は、あせりながらも「これでいい?」「ちゃんとなってる?」と確認して仕事に行かねばならなくなりました。
ほんの少しの違和感が耐えられず

 仕事を終えて帰宅し、玄関を開けた瞬間、母が「千〜珠〜」と私を呼んでいます。同時に父も「千珠〜! 早う来てくれ! 助けてくれ〜‼」と。私が「何なんよ!何があったん?」と急いで母のところに行くと、何やらトイレ介助が気に入らなかったらしく、母は最高に興奮状態で、何を言っているのかは意味不明。父は父で「お母ちゃんにイジメられてるんやぁ〜」と半泣き状態。

 私がもう一度、母の衣服や尿とりパッドを確認すると……。原因がわかった! パッドのはしっこが折れ曲がっていたのでした。しわを伸ばし、車イスに座らせると、母はやっと満足げな笑顔になり、「お父ちゃん。ぜんぜんわかってくれへんわ」とボヤくのでした。

 母はほんの少しの違和感が耐えられず、顔を真っ赤にして汗だくになりながら訴えるのです。そのたびに父は「千珠!千珠!」と私を呼び、私は家事どころか、食事さえゆっくりとることができなくなってきました。

 でも、どれだけ母が興奮して、父を困らせても、父は決して投げやりになったり、逆ギレしたりすることはありませんでした。だから私も安心して、「ハイハイ。今度は何が気に入らんの?」と仲裁に入りやすく、最後はみんな笑顔になり、大変ながらも楽しくやっていけたのでした。  (つづく)
*この前原千珠さんの原稿は、会報56号(上)、会報57号(中)と掲載してきましたが、
とても評判がいいので、さらに引き続き書いていただくことにして、
今回から通し番号(3)を打つことにさせていただきました。
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