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東梅田教会の合同例会において
こうして、皆さんの前でお話をさせて頂けることに感謝します。私は話しが出来ませんから、雅代が私の書いた原稿を読むかたちでお話しをさせて頂きます。

○ 飲み込まれた人生

 つい最近、喉頭ガンのために声を失った大学の教授があらかじめ録音した自分の声を合成して、教壇に復帰したことが報じられました。合成された声はとても自然に聞こえて違和感なく講義がおわりました。素晴らしい、10年前では考えられない技術です。

 もしも、この技術があったならば私の声をお聞かせ出来たのに残念です。

 私の声は、えーと。さて、困りました。

 自分がどんな声をしていたのか。実は私も自信がありません。

 40年近く毎日聞いていた声なのに嘘みたいですが、病気が40年を飲み込んでしまいました。

 飲み込まれたものは声だけではなくて、どんな仕草をして、どんな文字を書き……。 そんなごく当たり前に生きてきたニシムラタカシがALSという病気にのみこまれました。当たり前に生活していた頃が何十年、何百年も過去の出来事に思えるのはなぜでしょうか。 不思議な感じです。

 私から声や体の自由を、今も、奪い続けている病気は『ALS』日本語名は筋萎縮性側索硬化症。ややこしい 覚えにくい名前です。運動神経が冒されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病です。

○ 病気との出会い

 わたしがALSの診断をうけたのは1997年の12月ですから、もう11年です。 小学校に入学した娘の小さい手を引いて登校したのを覚えています。その娘が高校生になりました。今は絶対に手をつないではくれませんが、もし、仮に、娘がギュッと私の手を握ると、ボキッと折れてしまうでしょう。まるで漫画みたいな はなしですが、それほど私は弱くなり、子供は強くなりました。そう考えますと、この11年の重みを実感します。

月日を測る尺度によって10年も、短くもなり長くも感じるようです。主イェスの生涯、特に公に活動した月日はわずか3年足らず。このまばたきほどの一瞬は私たちには永遠の意味を持ちさえします。

時間の尺度を私の病気に当てはめて見ると、どうでしょうか。子供の成長とは全く違う月日がそこにあります。

 発病は37才の時です。3人の子供に恵まれ、仕事も楽しくなり、ある意味では人生の一つのピークでした。

最初に、異変に気がついたのは、97年の5月ころです。通勤定期の出し入れに手間取る。缶コーヒーのふたが開けにくい、などでした。

あまりにも小さな変化です。この時は (アレ、いやだなぁ、もしかして、四十肩かな。若いと思っていたのに)

 多忙な生活の中では忘れるほどの小さな変化ですが、体の奥深いところではALSの病気はかなり進行していました。

 この時には、すでに、全身の筋肉の8割は侵されていました。

筋肉をゴムまりに例えると、分かりやすいと思います。目に見えないほどの小さな穴が無数にあいた状態です。一見したところ、正常ですが空気は抜け続けています。いくら栄養という空気を補給しても時間がたてば、しぼんでいきます。

 5月に気がついた異変は7月には全身の倦怠感、足がもつれる。小さな段差につまづいたりするようになりました。 

 最初にこけたときは、恥ずかしくて、我が身の、どんくくささに、あきれていましたが、さすがに、度重なると、何かの病気を疑い始めました。秋頃になると、事態は深刻になってきます。

 普通に歩いていてこけた、とします。秋までは反射的に手をついて、怪我を最小限にとどめました。ところが秋になると、この反射能力が減退しました。転ぶとき、枯れ木のようにバタンと力無く顔から倒れました、めがねは吹き飛び、額から血が流れます。痛いよりも、なぜ、という疑問が先行します。

○苦しい宙ぶらりん

さあ、ここからが大変。

先ずは診療科目に迷います。とりあえず、近所のクリニックを訪ねてみました。はじめの問診からつまづきます。 

「どうされました」

「最近よくこけます。それに字も乱れるし、生あくびとか」

「はぁ、他には、どこか痛いとか、熱があるとか」

考えてみると、「よくこけます」といって病院に行く人はいません。

医師は

「単なる疲れ。心配しすぎ、」そして、

「何か仕事や家庭に不満でもあるのでは」

行き着くところはみな、同じでした。

地域で有名な脳神経の専門病院にも何度も通いましたが、診断はつきません。体の不調は確かなのに、いつも、

「どこも悪くありません。あなたの心配しすぎ、考えすぎ、」

この宙ぶらりの状態は病気そのものよりも苦しいかも知れません。身体の異変はたしかなのに、それを必死に訴えているのに、検査データと自分の知識と経験にしか向き合おうとしない医師の前で、私はドンドン小さくなっていきました。 

 ようやくたどり着いたのが、大学病院の神経内科です。

 初診でALSにターゲットをしぼり、2週間の検査入院を経て、確定診断を受けました。半年の苦しい不安な時間、とっても長く感じました。でも、そのことを患者仲間に話すと、

「わたしは誤診に次ぐ誤診、無意味な治療が繰り返されたわ」

他にもひどい体験を耳にするたびに複雑な気持ちになります。

○ 頼りない告知

 告知は私が全く無意味な検査を受けている間に、先ず雅代に、時間をおいて私にされされました。

ALSです。進行性の難病です。残念ですが、今のところ有効な治療法はありません」

 その他、私たちの質問に答える形で、私がたどるであろう病状を説明してくれました。

「個人差はあるけど、二、三年で車いすを利用することになることは仕方ないでしょう」

「個人差はあるけど、三、四年で全身マヒ、寝たきりになることは覚悟したほうが良いでしょう」

「個人差はあるけど四、五年で自力での呼吸が難しくなるでしょう。この時には人工呼吸器を付けるかどうか、決断しないと……。まあ、いまから21世紀のことを気にしても仕方ないでしょう」

「先生、余命は」

「本には5年とあるけれども、これはあくまでも、統計だから、あまり数字は気にしないで、 まぁ、その、医者もただの人間だからね、あと、何年生きるかは、神のみぞ知るとしか言えないでしょう。ものごとを悪い方に捉えないでないで、前向きに明るく頑張らないでどうしますか。あなたはまだまだ、若いし、なによりもまだ幼い子供がいるでしょう」

 きつねにつままれたような、何だか、頼りない告知だと思いませんか。

10万人に3人の発症率のALS、筋萎縮性側索硬化症、はじめて聞く病名です。難しそうな病名に、最初はキョトンとするだけです。

 ALSは難病のいわば代表選手のようなものです。いまもって、原因や治療法も分かっていません。

 晴れて正式な病人になれた喜びもつかのま、次の瞬間に、現代医療から、治療法はありません。ともいわれました。

 病人は誰でも、治ることに期待します、それが無理でもせめて、病気の進行を遅らせることぐらい、出来るでしょう。と聞きたくなります。

「残念ですが、ありません。」

きっぱり、断言されました。

ある患者の手記を読むと

「病名だけつけておいて、後は知らんぷりするつもりですか」

医師に怒りをぶつけたそうです。

私は、(そうだ、そうだ、もっと言え)なんてこの勇気のある患者にエールを送りました。

確かに医師の関心は治療にありますから、ALSと診断すると、医師の役割はこれで終わりと考えたとしても不思議ではありません。

 でも、やはり、過酷な将来だけを告げられるて、握られていた手を突然、離される感じです。まさに奈落の底に落とされる気持ちです。

 お医者様の名誉のために付け加えますが、私の周りには決して手を離さない方も沢山います。ご安心下さい。

○数字の魔力

 告知の時、最後に、一般論として、余命5年と宣告されました。それは、ショックでした。

 どの医学書を見ても、最後に余命5年と書いています。数字は魔物、不思議な力があります。数字にすると、学術的で客観的な事実に思えてきます。私も数字の魔法にひっかかりました。

 それからは時計の針を5年後、つまり自分の死から逆算して生活するようになりました。

 不思議で息の詰まるような濃密な時間の中をアップアップしながら泳いでいました。

 メメントモリ、あなた自身の死を覚えよ、という言葉があります。

 人は何時の時代でも高慢になるようですが、死を意識の表に出すことで、よりよい生き方を目指すものです。

 私は修行不足なのでしょうか。焦りと不安が心を重たくします。

○しがみついた信仰

 そして、もう一つ、足かせになったものがあります。皆さんなんだと思われますか。それは信仰でした。いえ、正確に言えば、西村隆が作ったクリスチャンとしての、あるべき生き方にしばられた。といえます。

告知直後、ある集会で話しをする機会がありました。この時の精神状態はとても不安定、一種の興奮状態です。

 どうしたら、ALSという受け入れがたい現実、を自分にどうして納得させようか。その最大の武器は、クリスチャンとしての生き方。

集会では、

「病気に冒されても全く絶望しない。それどころか、信仰がかえって、強くなった。」

と証ししました。

 話しをする直前まで、ガタガタと震え、何度もトイレに行っては涙をふいていました。ところが、いざ前にたつと、一変して気持ちが晴れて、証ができました。不思議な感覚が10年が経過した、いまでもおぼえています。15分ほどの短い話しは、その当時の精一杯のおもいでした。

全くうそはありません。正確に言えば、信仰にしがみついていました。わらをもつかむ、よりもはるかに頼りがいはあります。

人によってしがみつくものは、色々あります。仕事だとか、絶対になおってやる。というのもあります。名誉や名声もある人はそれに、しがみつきやすいでしょう。

周囲も私を見て、

「さすが西村だ」と感心されたら、根が単純なわたしです。その気になって、りっぱなクリスチャンとして生き抜くことが、与えられた使命だと確信しました。

二、三年はトボトボよろけながらでも、歩けましたし、話しもできましたから、何回か話しをする機会があり、また、文書をかきました。

例えば、こうです。

「何故、私が病気になるのか」

これは不条理な現実を前に誰もが発する問いかけです。

私が見つけた答えは、

「私だからこそこの病気をひきうける」

そんな覚悟でした。

勇ましいですね。

このころは、本の中や人の生き方に、慰めや生き方を求めていました。この手の本は山のようにあります。夢中で読んだのは、『夜と霧』で有名な、ビィクトール フランクルやウイリアム オスラーのものです。今でもとても勇気づけられます。二人とも医師として著名ですが、ヒューマニストとして、多くの人から愛されています。

特にオスラーのものは最近、日野原先生が訳されたものがあります。

オスラーは私に話しかけます。

「何故、こんな病気を背負うのか、」とか「人生とは何か」に対して、オスラーは答えます。

「何をぐずぐず、難しい顔をして悩んでいるのか。決して見つからない答えを考えることはやめて、私なら家族や隣人のために行動する。」

単純だけれど、力強い言葉が並びます。私は彼ら、人生の達人から学び、生き方の指針にしました。共通しているのはクリスチャンであることです。

ALSの患者、ご家族、支援者にもどんなに支えられたことか。そのことを話し出すとキリがありません。

今日、水町さんがお話しをされますが、凄い迫力ですよ。人の命を含めて全人格を支える姿を見て、尊敬しています。

たくさんの人に支えられて力強く生きている。

これも 私の偽りのない告白、姿ですが、もう一つの、影の私もいます。

○繰り返す小さな死

 例えば、歩けるうちに、まだ歩けるうちに家族旅行にいこう。そして気持ちの上では

「これが最後の旅行になる、かも」

少し大げさかも知れませんが、そんな覚悟を毎日していました。

実際に最初の5年間は体重も20kg ? 以上減りました。

お腹の脂肪や贅肉が落ちるならば嬉しいのですが、落ちていくのは腕や胸、肩などの生活に不可欠なものばかりでした。

 それに比例して、体の自由が利かなくなりました。

 身体の中の微妙な変化は どんなに近くにいる、家族にも分からないほど小さなものなのですが、私にはその一つ一つが心を痛める大事件です。

どんどん萎縮する肉体、発病して五、六年は毎日、自分の身体をにらみつけては、変化を探しました。65kgあった体重がアッという間に40kg台に減りました。

 そして出来ていたこと、昨日まで当たり前にできていたことを次々にあきらめていきます。

○月×日ペンがもてない。さらばペンよ。

○月×日お箸が使えなくなる。

○月×日エンジンキーが回せない。運転をあきらめる。

 毎日書いていたパソコンの日記には出来なくなったことが短く書いてあります。

 繰り返される喪失体験がALSの特徴です。ある社会学者はこの喪失体験のことを「小さな死」と定義しています。まさに実感です。

それは自分が崩れていく、価値が無くなる体験でした。

○本当の姿

どんな偉大な人の言葉や慰めも、みことばさえ、私の魂の闇を照らしてはくれません。ひたひたと近づいてくる5年のリミット、日々味わう無力感、確かに信仰は絶望からは救ってはくれました。でも、喜びや恵は実感できません。

どう表現したらいいのでしょうか。義務的な信仰とでも言えるかもしれません。

明るく振る舞い、クリスチャンとして振る舞う一方、一人になると病気や自分自身を受け入れてはいませんでした。

この時の自分の姿を日記にはこう記しています。

 「 《泣きたいのに泣けない》、

  一度泣き出したら、涙が止まらない気がするから

  《祈りたいけども祈れない》 神様が怖いから 」

 この時、神様のみまえにたてませんでした。

 裸でいる自分の姿を恥ずかしいと思い、神を恐れて隠れたアダムとイブの姿と自分の姿が重なります。

 祈りたいことは山のようにありました。その多くは神様への問いかけ、そして抗議です。

 「何故、私に病気を与えたのですか、私はこの病を与えられる程の罪をいつ犯しましたか。」

 この外なる自分と内なる自分、理想と現実、理性と感情が対立し、ぶつかり合い、私を苦しめました。

精神的に一番、苦しい時に生まれたのが、止揚(しよう)です。

○大きな転機

2000年7月に生まれた 止揚はダウン症という先天的な障がいがありました。

止揚の障がいを含めた全てを家族は受け入れ、その誕生を喜び、彼を愛しました。 わたしも家族もごく自然に止揚の障がいを受け入れたことに周りの人が驚いていました。 わたしは障がいを持つ若者の作業施設で働いていたので、ダウンの子供を育てる苦労を少しは理解しています。同時に喜びも沢山味わいました。

考えてみると、わたしの病気の時も、家族は自然にうけいれていました。

 これは、雅代が私に取っている終始変わらない態度スタンスの影響が色濃くあります。

 あわれんだり、かわいそうなどという思いで、見ない。病気は彼の一部ではあるけれど、全てではない。哀れみは隆の生き方の壁になることはあってもプラスになることはないとの信念がありました。その根底にはクリスチャンとしてのわたしへの信頼があります。

 もう一つには現実の問題があります。仕事に家事、育児と雅代の担う用事は山のようにあります。そんなに私にばかり、構ってはいられないこともあります。

私が自分が崩れていく不安を感じている、そのすぐ横で家族の日常生活がありました。

私を悲劇の主人公にさせない、病人としてはあつかわない。

これが私を苦しみから解放してくれました。

人はよく悲劇の主人公になりたがります。私もそうです。安っぽい悲劇ドラマなら、すぐにでも書けそうですし、そう、実際に心の中で書いたかもしれません。

止揚の生後、数ヶ月がたったある日、雅代が私に一つの提案がありました。

「膝に止揚を寝かしてミルクをあげてみたら、楽しいわよ、きっと。」

「えっ、そんなこと、できるかな」

「出来るわよ、工夫すれば」

オドオド、ビクビクしている私に

「頼むわね。止揚を落とさないでね」

ずっしりと、止揚が膝に乗ります。

  もちろん、私の腕の力は鉛筆さえ持てません。ひざだけのバランスで止揚を支えます。

 皆さんが見られたら危なっかしくて見てはいられないでしょう。私を信じて止揚をひざの上に乗せてくれた雅代もたいしたものです。

はじめのうちは、

(えー、そんな無茶だよ、)

と思いましたが 忙しく働く雅代を見ていると、せめて、数分ぐらいは、なんとかがんばるつもりでした。

止揚が膝に寝かされた瞬間から、

(もしも、泣き出したらどうしよう、もしも落としたら大変だ。もしも、もしも)

 沢山の不安が気持ちを支配します。

(よし、5分したら、雅代を呼ぼう。)

時計をにらみながら、必死にミルクをあげました。私には長い5分でも、忙しく動く人には短いものでしょう。

5分が過ぎ10分、15分と過ぎるうちに、不安定なひざのうえで、かすかな、寝息をたてて気持ちよさそうに寝ている止揚に気がつきました。

ずっしりと重たい止揚の鼓動、ぬくもり、そしてかれの未来を確かに感じながら、安心を感じていました。 

すーうと、にらみつけていた時計が消えて、暖かなものに包まれました。

私が確かに感じたのは、神さまに抱かれている自分の姿です。全く無力な私であっても決して手を離されることがない安心です。

この安心感を得てから日常の風景が全く違って見えました。

○不思議な体験

 病気に身も心も飲み込まれていた私が、逆に病気をゴクンと飲み込んだ瞬間です。

 時間にしたら それこそ30分にも満たない僅かな時間、ただ、身体の不自由な父親が赤ちゃんにミルクをあげている平凡な日常風景です。

 ただし、雅代以外ならば絶対に私に止揚を預けなかったでしょう。止揚が不安を感じて泣き出しても、私が不安ばかりが先立ち、雅代の申し出を断れば、私はまだ、いろんなものにしがみついていたでしょう。

 こんな偶然の積み重ね、まばたきほどの瞬間が私の気持ち、心、たましいの中で、パッと熱い光を放ちました。凍り付いたあらゆるものを溶かしてくれたときに、見えたもの、感じたものは、これまでのものとは180度、正反対の風景です。全てが一瞬で変りました。 少し興奮してしまいました。それほど、いまでも、すごい迫力を持ち続けています。

皆さんの中にも私と同じような経験をお持ちの方が何人かおられると思います。闘病記を注意深く読むと必ず、よく似た体験を見つける見つけることができます。

 鷲田(わしだ)清一(きよかず)さんは積極的にこのような不思議な体験について発言されている臨床哲学者です。鷲田さんが大きな病気をして、入院したときのことです。同室には末期と思える患者が居ました。一日中、ほとんど身動きしません。目を開けても力が全くありません。鷲田さんはこの患者をみて、 「生きるしかばね」と言う言葉を思い浮かべたそうです。

 ある日、見習いのナースがこの患者のベットに横たわり仮眠をしていました。鷲田さんは「なんというナースだ」と驚いたようです。誰だってそう思います。

 鷲田さんは、この仮眠を何回も目撃する内にある変化に気が付きました。 さてなんだと思いますか。

 見習いナースが仮眠するときに、この患者はしっかりと目を見開いて廊下を見張っていました。その目は力強くランランと輝いていました。

 患者はこのナースを休ませるという役割を感じたときに、生きる力を持ちました。このナースは偶然、無意識の内に患者に生きる力を引き出していました。 

 全く同じ構造があります。止揚が私に生きる力を引き出しました。生きる意味や価値をあれこれと思い悩むことは消えてなくなりました。

  この様な体験を、ある人は自分の心の奥深く、大事にしまいます。口にすると消えてしまいそうに思えるからです。

 多くの芸術家が言葉や音楽、絵画のなかにその瞬間を切り取り、多くのひとに感動を与えます。

○手放してみると、

 2004年に書いた、『神様がくれた弱さと微笑み』 は どこにでもある生活を描いています。あの本の原点が、この止揚とのふれあいです。

神様からの恵や啓示、語りかけは、私たちのすぐ近くにあります。でもそれに気が付くには人によって様々な道があります。私は病気という弱さが与えられて神様の恵を実感しました。

 それまでは、出来ないこと、不安や不満を数えていました。

 ところが出来ること、希望や満足を数えたら、驚くほど恵みに満ちた私たちの生活がありました。

 ようやく自分が必要としているものに気が付きました。

 今まで、しがみついていたものを、一切投げ出して、力を抜いて、神様に自分を預けきることです。

 私は何でも自分で決着を付けようとしました。命さえ5年と区切りました。自分の価値さえ、理性で追い求めましたが空しさがのこるだけです。今までの苦しみが、重荷がいちどに軽くなりました

 神様に抱かれた安心感は、弱い、不完全なありのままの自分を見ることが出来る勇気につながりました。

 病気で、自分では何一つ出来ない私を肯定することができました。これはすごいことです。何も自分の力で出来なくなったとき、新しい意味、価値、確かな平安を得ました。はだかのすがた、人には見せられない苦しみ、無力感をもっているわたしですが、この11年の歩みが豊かでいとおしく感じます。

余命、ではありません。これからが本番です。

わたしたちは神と人の前で正しく立派であろうとします。それはとてもたいせつですが、神は何よりも求める姿は、裸のしんこう。ありのまま、弱く、不安で祈ることさえできなくなった時でこそ、すぐ近くにいて、私たちに呼びかけます。

最後に、私の大好きな、患者のいのりを朗読して、お話しを終わらせて頂きます。
 会を終えて。  
最前列には、会報表紙絵の作者寺田猛志さん(向かって左)
ペンギンおやじHPの作者中江康智さんが参加。エールを送った。

患者の祈り
ニューヨーク・リハビリセンター研究所の壁に書かれた一患者の詩

大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに

より良きことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
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