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母と過ごした日々 (7)
和歌山県海南市 前原 千珠
(さし絵・マンガも)
母の目力が弱い

平成18920日。

 母がK病院に入院してからもう3か月近くが経過していた。1週間前には胃ろうの造設も無事に行われ、一安心した矢先のことでした。

 前日からの不調が今日も続いていた。特別にどこかが悪いわけではなく、数値的には何も問題ないのですが、母の目力(めぢから)が弱々しいのです。

 昨日の夕方、母は「千珠の後ろに…」と、私の背後に誰かがいるといって皆を驚かせ、私自身とても気になっていたし、母の表情の変化に何とも言えない不安を感じて“もしかしたら体に異変が起きているのでは!?”と、いやな予感さえしたのです。

 午前中は何ごともなく無事に過ごし、もうすぐ昼の注入が始まろうとしたとき、私はあることに気付いた。

 「そういえば、母は朝から何も要求していない」

 いつもだったら、「オムツ」「吸引」「体の位置」など次々と要求するはずなのに、今日は何も訴えないのだ。

 看護師が病室に来て「注入食の前に痰の吸引をしますね」と言ったのに対して、母は「けっこうです」と、目で合図をした。看護師と私は、顔を見合わせ、「こんなこと(吸飲を拒否したこと)初めてやな」と言い合った。看護師は呼吸状態や血中酸素を確認して、痰が詰まっていないことや数値に異常がないことを説明してくれました。

 良い方に考えたら、「今日の母は体調もよろしく、痰も詰まっていないから何も要求しないんだ」かもしれないけど、私にはそう思えませんでした。

 ALSを発症してから、母の要求はエスカレートする一方だったし、不快感を解消することでなんとか穏やかに過ごしてこられたのです。“要求しない”ということは母にとっては非常事態なのです。

午後からも母は静かに過ごし、弱々しい目で私を見つめながらも苦痛は訴えませんでした。逆に、わたしの方が、「オムツ替えよか?」「体の位置しんどくない?」「吸引は?」と聞き、そのたびに母は「大丈夫」と目で合図をした。

午後4時ごろ。

母が口をパクパクと動かし、何かを伝えようとした。

母の声は言葉にならず、全くわからない。私は、画用紙に書いた文字盤を使って一文字ずつ確認しようと、いつものように「あ、か、さ、た、な」と言っても、母はまばたきをしてくれないのです。

同室の患者さんたちもとても心配してくださり、「調子が悪いんか~?」「どうしたんやろねえ」と、気にかけてくれていた。

そのあとも、「お母さんの言葉わかった?」と何度も尋ねてくれたけど、「それが、まだわからんのよ~」と繰り返し答えた。
「ありがとう」に涙がとまらない

5時半ごろ、母はまた口をパクパクして私を見つめていた。私はゆっくり「あ、か、さ、た、な」と言うと、母は“あ”でまばたきをした。あ行であることがわかったので、次に「あいうえお」と言うと、“あ”でまばたきをし、最初の言葉が“あ”だという事がわかった。次は“り”、そして“が”……つないでいくと、「ありがとう」だった。

病室の中がシーンと静まり返った。

私は精一杯に「どういたしまして」と答えた。

母はこのあとも口をパクパクした。

何度も何度も「ありがとう」と言う母に、「ありがとうは一回でいいんやで。何回も言わんでいいんよ」と言いながら、私はトイレに駆け込んだ。あふれる涙を止めることはもうできませんでした。

私は顔を洗って平常心を保とうとしました。でも、病室に戻ってもまたすぐに涙が出てきて、何度もトイレに行った。
母の口パクの訴えがなかなか伝わらなかったのは、“母は何かを要求している”と私が思い込んでいたからだと思います。何かしてほしいんだ、どこか苦しいんだ、と思いこみ、母の苦痛を和らげることばかりを考えていたので、まさか「ありがとう」を伝えるためだったとは、思いもしませんでした。
ヌイさん! しっかりして!

 母の夕食(注入)が始まり、少しの間、様子を見ていましたが、わりと落ち着いていたので、私も夕食をとることにした。この日、店のママが届けてくれたちらし寿司だ。

 でも途中で、母の様子がおかしいことに気づき、食事をする私の手が止まった。

 何だか時間まで止まったような気がしました。私を見ていた母の目が、私ではなく遠くを見つめていたのです。すぐにナースコールをして、看護師が駆けつけてくれました。

 病室が騒然となり、「ヌイさん! しっかりして!」という師長の声が響いた。この日は運良く、看護師長が夜勤の日だったのです。

 母は目を開いたまま意識を失い…そして呼吸が止まっていた。当直の先生と看護師が懸命に処置をして下さり、その結果、気管に詰まっていた痰がとれて、またアンビューバックでの呼吸で、母は自発呼吸を取り戻したのだ。その瞬間、母の意識が戻ったように見えたのだが、気のせいだったのでしょうか。母は目を覚ましませんでした。

このときに主治医から、危険になった場合は、気道を確保するために挿管を行っても良いか?と聞かれ、私は「よろしくお願いします」と答えた。
ICUへ

そして母はICUに運ばれた。

この時点では、落ち着いているかのように見えたのですが、しばらくすると血圧が下がり始めたため、血圧を上げる点滴が投与されることに。

師長さんに「血圧が安定したら大丈夫よ」と言われ、私は祈る思いで点滴を見つめていた。

でもその効果はなく、モニターのアラームが「ピー、ピー」と鳴り始めたので、私はとっさに兄に電話をし、父と共にすぐに病院に来てくれるように話した。

父と兄が到着して、しばらくしてから母の気道は確保され、人工呼吸器が装着されました。その後は、全身の状態も少しずつ回復してきて、血圧も安定し、危険な状態からは脱出したのでした。とはいえ、まだ意識を取り戻さない母から父も離れることができず、病院に泊まることになった。

父は談話室で仮眠をとり、私は母が居た病室のいつもの場所で少し眠った。疲れと心配で、もうろうとなっていた私は、なぜかいつもなら考えないような弱気な自分になっていました。

「母はいま、無意識ながらも安心した表情で眠ってる。もうこれ以上、苦しい思いはさせたくない。いっそ、このまま楽に……」(実は、母は「ありがとう」の言葉と共に「川が見える」と言っていたのです)

涙モードになっていた私は泣きながら眠りについた。

そして夢を見た。過去の母と私が現れたのです。
夢の中に、過去の私と母

昭和59年4月。

 母と私は箕島駅のホームのベンチに座っていた。私は大きなお腹を抱えて、全く見えない自分の未来に言葉が出ないまま、母とニチイで買い物をした帰りでした。

長い間会っていなかった母から電話があったのは当日の朝。「今日は簑島まで出てこれるか? ニチイで買いもんしたいんよ。でも誰にも内緒やで」。一番会いたかった母の言葉に私は大喜びで出かけた。

 買い物の途中で母がポツンと言った。

 「子供一人くらいだったら一緒に育てたるさかい、ウチに帰ってきてもええんやで」

 私は内心、「帰りたい、今日は連れて帰って!!」と言いたかったけど、意地っ張りの私は、「大丈夫。なんとかやっていくから」と小さく答えたのです。

 買い物を終え、駅のホームのベンチに座り、お互い別々の方向に帰る電車を待っていた。

 私は決心していた。

 電車が来るまでに「私も連れて帰って」って言おうと。

悶々とした時間が過ぎ、電車は来てしまった。私はとっさに「お母ちゃん、待って! 次の電車まで、ここに居て!」

「帰りたい」と言えなかった19歳の春

 そしてまた私は言葉を捜したけど、何も言えないまま、次の電車は来てしまった。

 私はあせって、「お母ちゃん、お願い! もうちょっと、ここに居て」と、もう一度言った。

「か・え・り・た・い」の5文字がこんなに重くて、つらい言葉だと初めて気がついた。

 結局何も言えないまま3本目の電車が来て、私は母に背中を押されるように、「もう帰りな。家のこともせんなんやろ」と言われ電車に乗った。

 19歳の春のことでした。

 この日も桜が咲いていたように思います。

 そしてこの日の出来事が、私の心の中の原点となったのです。

 母の愛情を感じた日。

 言葉では説明できないけれど、人生の途中にはどうすることもできない複雑な悲しみがある。

苦しいことがあるたびに、私はこの日のことを思い出し「私には遠くで見守ってくれてる母がいる」と、自分を励ましてがんばることができたのです。
母の意識が戻った

夢から覚めた私は、不思議な気持ちでした。そして、「母をこのまま楽に……」と思ってしまった自分を、後悔していた。

早朝5時ごろ、再び眠ってしまった私を起こしたのは父でした。「お母ちゃんのところへ行こう」と、不安げな父が立っていました。

父と一緒にICUに入ると、ちょうど夜勤の看護師が母のそばにいて、「よかった。今、ヌイさんの意識が戻ったとこなんよ」。

うれしい知らせと同時に、父と私は安心感でヘロヘロになっていた。

そして改めて、母は強運だと思いました。

偶然にも主治医の先生が当直だったし、師長さんが夜勤の上に、母の担当看護師も夜勤だったのです。素早い対応で母の命を助けていただいたのです。

意識を取り戻した母は、口パクで「ありがとう」「ありがとう」と何度も言い、私はわかった、わかったよ~。もうわかったから! どういたしまして!」と、久しぶりに3人の笑顔が戻ったのでした。

そして早速、父と私は主治医に呼ばれ、すぐにでも気管切開をする必要があるとの説明を受けた。

今度はためらうことなく母に話し、母もすんなり了解をしてくれました。

気管切開はこの日の夕方行われましたが、術後も順調で、驚くほどの回復ぶりでした。

ひとつ問題点があるとしたら……。それは人工呼吸器を装着したまま大部屋には戻れない、ということでした。

大部屋では、私の付き添い寝具を置くだけで、スペースがいっぱいになっていたので、納得できる話です。

個室に移動するのは少しさみしい気もしましたが、母の命には代えられません。看護師は「ここ(ICU)が空いてる間は、ここにいて下さい」と言って下さり、しばらくICUにいさせていただくことになりました(ICUは3床あるので、満床になったら個室に行く、ということで)。

それに、ICUだと常に看護師が居てくれるので、夜も安心です。私は「家族ルーム」で眠ることができるので本当にありがたいと思いました。

「家族ルーム」というのは、ICUに入院している家族様用の共同部屋なので、一人で伸び伸び過ごせる場所ではないのですが、皆さんの思いは同じで、家族を見守りたい一心でこの部屋に泊まっているのです。

初対面の方たちと語り合ったりして、貴重な時間を過ごさせてもらいました。
自発呼吸がしっかりできるようになった

人工呼吸器を装着して数日が過ぎたころ、母は「苦しい」と言い始めた。どうやら、自発呼吸がしっかりとできるようになってきたので、機械での呼吸が苦しくなってきたようです。

主治医は人工呼吸器の必要性を説明してくれましたが、もともと人工呼吸器を拒否し続けた母の意志を尊重して、自発呼吸に切り替える準備を始めてくれました。

気管切開部分から2~3リットルの酸素を流し、血中酸素が下がらなければ人工呼吸器を外せます。何日もたたないうちに母は安定した呼吸ができるようになったのですが、酸素を止めれば血中酸素も下がってしまうので、常に2リットルの酸素を切開部分に送っていました。

人工呼吸器に頼ることがなくなった母は、めでたく大部屋に移動することになり、以前とは違う病棟に“お引っ越し”です。そこは新館で長期入院の患者様が多く、また、認知症患者様も多い病棟です。病室の隣には詰め所があるので、以前の病棟よりも安心だろうという、先生や看護師の配慮でした。

荷物の整理を終え、母と私は久しぶりにゆったりとした時間を味わっていました。気管切開してからの母は体調も良く、とても安定していたのです。
母のきれいな心が友を呼んでくれる

夕食の注入が行われていたとき、隣のベッドに仕事帰りの娘さんが見えられた。お互いに「はじめまして」「よろしくお願いします」と言った時に、私はなぜか“同じニオイ”のようなものを感じました。

“類は友を呼ぶ”とでも言うのでしょうか。昔からのことですが、母と一緒に過ごすようになってからは特に、出会う人みんなが心根の良い人ばかりで、感動を与えてくれて、共感し合える人ばかりなのです。私はいつも冗談で、「同じニオイがするわ」と言っていたのです。

母のキレイな心のおかげで、類が友を呼んでくれたのだと、この日も思ったのでした(そして、この日出会った娘さんと、今も親しくさせて頂いています)。

もう9月も終わりです。

なんだか、さわやかな空気さえ感じていました。

今日からまた、楽しい入院生活が始まりそうです。
(つづく)
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