母と過ごした日々 (9)
 
 
                 和歌山県海南市 前原 千珠
                         (さし絵も)
 
 
夢の在宅生活を実現するために
 平成19年1月。母の状態は相変わらず、あがったり下がったりで、不安定だった。リハビリ室に向かう母の車いす姿は、一見落ち着いているように見えるけれど、痰がたまってくるとすぐに病室に戻り、吸引の繰り返しです。
 2週間ごとのカニューレ交換も、待つことができず、粘い痰が管にくっついてとれなくなり、早いときだと4〜5日で交換していました。母の体はますますデリケートになり、要求はエスカレートするばかりで、四六時中、私に訴え続けた。
そんな中、常に様子を見に来て下さっていた主治医と師長が、「カニューレを別のものに替えてはどうか」と、検討していた。頻繁にカニューレを交換することは、母自身にとっても大変な負担だし、不安もいっぱいです。簡単にスッキリする方法があれば、それに越したことはありません。
 検討の結果、二重管のカニューレに替える、ということになった。痰が詰まりそうになると、内側のカニューレの管だけ交換するというタイプのものでした。外側の管はそのままなので、母の負担はありません。ただ、二重管になっている分、管(内側)は細くなり、吸引の回数がますます増えたりして、良いことばかりではないのです。
夢の“在宅生活”を実現させるには、安定した状態が続かなければならないのだ。でも、いまの前原家は課題が山積みなのです。
 
父は1月から週3回、デイサービスに通い始め、これで少しは安心か?と思えたのですが、残りの4日間は家にいるし、父が不穏なときには病院に連れて来たりして、私は病院と自宅を往復する生活が続いていた。
 
ALS協会近畿ブロックに相談
1月7日。父と母が安心して過ごせる方法が見つからないまま、私は日本ALS協会近畿ブロックの水町様に相談のメールを送りました。すると、すぐに返信メールが届き、水町様ご自身がご両親の介護を通して経験したお話や、いろんなアドバイスをいただき、私の気持ちも少し落ち着きました。そして、とにかく解決できるところから始めようと考えた。
父と母を同時に看るのはどんなにがんばっても無理なので、昼間は付き添い家政婦さんに母の看護をお願いすることに決め、計画を立てた。
母は他人にとても気をつかう性格だし、たぶん家政婦さんにもあまり要求はしないだろうと予測していたので、私の方から家政婦さんに細かく説明をしました。
母の目の合図の意味や、ケアの方法。枕の位置や手、足、服のしわなど、とにかく本人に頻繁に確認しながら、微調整を行ってほしいと頼んだ。
朝9時から午後5時まで、家政婦さんに母のことをお願いし、その間、私は自宅に戻って父と過ごすという生活が始まった。父がデイサービスに行く日を家政婦さんの休日にしたりして、何とか落ち着いてきたのは1月も終わりのころでした。といっても、落ち着いたのは父の生活だけで、母の不安(不満?)は解消されなかったようです。
5時に私が病院に戻ると、母の要求は延々と続きます。以前からのことですが、私が母から長時間離れた後には、必ずその反動なのか、我慢の限界を超えていたのか、母は私に要求をし続けます。もっとヘルパーや看護師に訴えてくれれば私も楽なのですが、こればかりは克服したくてもできない“永遠のテーマ”のようでした。
 
ALSという病気は、一日も休むことなく24時間体制の介護が必要。要求のすべてを私だけに向けられてしまうと、どれだけ他人に助けてもらっても心が解放されません。「頑張らなければ」と思う日もあれば、限界を感じた日もあります。特に寝不足が続き、私まで体調不良で苦しいときは、投げやりになってしまいそうな自分が辛くて悲しかった。
退院して自宅に帰りたい、という母の願い。認知症になり、自分中心に振る舞う父。1月、2月は私の心の中の葛藤が大きすぎて、いま、思い出そうとしても楽しい出来事を思い出せないのです。一日一日を無事に過ごすことだけしか考えていなかったように思います。
 
春の気配とともによい方向に
3月に入ると、春の気配とともにいろいろなことが良い方向に動き始めた。母は痰が詰まらなくなり、吸引の回数が少なくなった。不快感が和らいできたのと同時に、私への要求も少なくなりました。
父も認知症専門外来で処方してもらった薬が効果を発揮して、不穏状態になることが少なくなり、失禁することもなくなった。一人で自宅で過ごせるなど、落ち着いてきたので、家政婦さんとの契約も終了しました。話は順調に進み、“退院”に向けての準備が始まりました。
そして3月28日を退院日と決定!!
それからは、母の在宅介護に向けての話し合いが何度も行われました。
医療、介護、地域が連携をとることが大切だと教わり、母一人に対して、何十人もの方たちがかかわってくれていることに本当に感動した。前月は被害妄想に陥って悲観的になっていたのに、気がつけばすっかり立ち直っていました(笑)。
退院が決まってからは、母の病室に毎日のように在宅スタッフの方々が来て下さり、いろんなパターンを想像しながら、対処の方法を話し合った。
 
3月中旬ごろのことです。春の陽気と、退院する喜びでウキウキ♪ ワクワク♪♪……だったのに。まるで崖っぷちから突き落とされるようなショックな事件(?)が起こった。
私の携帯に兄からの着信。
「今日はオヤジの定期ガン検診に行ったんよ」
「うん。それで?」と私が返すと、
「ガンが右の肺に転移してるんやて。また手術や」
私は返す言葉がありませんでした。
うそやろ……!?
父は認知症だから、入院すると付き添いが必要です。それに、手術後また認知症が確実に悪化するだろう。またまた出口の見えないトンネルに入ったような気がしました。でも、このころの私は退院の準備の忙しさでテンションが上がっていたので(笑)、もう前に進むしかありません。退院日を変更することなど全く考えませんでした。海南市の川端さんの奥様、幸子さんはいつもメールで「心配無用。なるようになる」と力づけてくれていたので、その言葉を合い言葉に「一緒に頑張ろう」とお互いに支え合っていたような気がします。
そして退院直前の最後のカンファレンスが行われた。父の入院や、認知症の悪化も前提に話し合い、ケアに必要な物品や、ケアプランが完全かどうかの確認もこまかく行われました。
 
退院前日 まるで修学旅行気分
3月27日。退院の前日。母は体調もよろしく、とても安定していました。退院が決まった時から、きっと母の心は、わが家に帰った気分になり、いちだんと元気になっていたのだと思います。看護師や他のスタッフの方達が次々と病室を訪れてくださり、別れを惜しんだ。
退院のうれしさと同時に、お世話になった人たちとの別れはとても淋しく複雑な心境だった。母は一日中笑顔を振りまき、スタッフの皆様から「まるで修学旅行の前日みたいな気分やろ〜」と言われていた。そして私の携帯には、何件もの「おめでとう」のメールが送られてきた。
明日は退院、在宅生活が始まります。昼間は訪看とヘルパーが助けてくれるけど、夜間は私一人で対応しなければなりません。今夜はできるだけ睡眠をとらなければ……。
と、思いつつ、私も興奮してしまって、夜中までメールをしたりして……。修学旅行気分は母だけではなかった。
まずは、めでたし、めでたし。
3月28日。母がまだ眠っている早朝に、荷物の整理をした。私が使っていた付き添い用の寝具と冷蔵庫を返却し、生活道具一式を車に積み込んだ。
母と私が9か月過ごした場所には、いつの間にか物があふれていました。そのまま車を運転して自宅に帰り、荷物を適当に家に置いてから、病院まで兄に送ってもらいました。退院時はK病院の救急車で搬送していただくので、その前に車を自宅に置いておく必要があったからです。
病院に戻ると、当然、母は目覚めていた。昨日と同様、スタッフの方々からのお祝いの言葉をいただき、今日も母はニコニコ笑顔。別の病室の付き添いの家族様まで激励に来てくださり、朝から病室はにぎやかです。
 
退院おめでとう
 そしていつもならお昼ごろに訪れる向かいのベッドの家族様も、退院祝いにと、手作りのアートフラワーにフクロウが乗っているものをプレゼントして下さり、母も大喜びです。
「フクロウには意味があるんやで。“不・苦労”というて、これから先、苦労せんでもええようにと思て、作ったんや」
母と私は胸がジーンとなった(感動)。
そういえば、隣のベッドの娘さんからも、手作りのフクロウのストラップをいただいていたのです。
もうあと30分ほどで出発だと思っていた時、
「あー良かった! 間に合った」と、明るい声と共に姿を見せたのは、隣のベッドの娘さんでした。
「退院おめでとう!」の言葉と同時にプレゼントしてくださったのは食料品だった。これには、私の方が大喜びでした。
 
そして退院のときが、ついに来た!
母をストレッチャーに乗せたあと、手早く最後の荷物をカバンに詰めて、また、買い置きをしていたティッシュペーパーなどは、同室の患者様たちに「使ってください」と配りました。
スタッフの方たちやお世話になった家族様、本当にたくさんの人たちに見守られ、母は救急車に乗りました。救急車が動き出してからも、「ヌイさん、お元気で!」「千珠さん、無理したらあかんで!」という声が聞こえて、母と私はうれしさのあまり、涙がこぼれた。あと20分後にはわが家に到着です。
 
桜よ 桜が咲いている
同乗してくださっていた看護師長は、救急車の窓から景色を見ながら、「ヌイさん、外の景色見える? 今、藤白まで来てるで。もうすぐ、家に帰れるんやで」
そして救急車が冷水を通過したとき、
「ヌイさん、見て! 桜よ! 桜、咲いてるで!」
母はとても満足な笑顔だった。
 
予定どおりに家に到着すると、家ではたくさんの在宅スタッフの方たちが待機してくれていて、「お帰りなさい」と温かく迎えられた。母をベッドに移動させるとすぐに、携帯用のボンベから在宅用のO2に切り替えられ、吸引器やケアに必要な物品は完璧に用意されていた。
早速、吸引や体位の微調整、オムツ交換を行い、ネブライザーでの加湿、注入など、一日がバタバタとあわただしく過ぎて、ホッとひと息つくヒマもなく夜になった。
 
母のベッドのそばで父は語りかけ
在宅生活というのは、母の介護だけではありません。家事はもちろんですが、認知症の父もいるのです。でもありがたいことに、父は一見認知症には見えないほど安定していました。私がキッチンを片付けていたとき、ふと気がつくと、父は母のベッドのそばにイスを置き、そこに座って母に語りかけていた。まるで病院での生活を再現しているようだった。
 
私は久しぶりにマイルームに入り、部屋をながめた。
袋の中に入ったままのたくさんの荷物と山積みになった郵便物。出しっぱなしの扇風機にホコリが積もった家具。引きだしを開ければタンスの中身は夏服だった。前原家は、母が入院した昨年の6月26日のままだった。母と私がいなかったわが家は時間まで止まっていたのだ。父が認知症になったわけがわかったような気がしました。私はずっと病院と自宅を行ったり来たりしていたのに、父と母を看るのが精一杯で、自分の部屋を片付ける余裕すらなかったことに気づいた。
夜は、母のベッドのそばに私の布団を敷いて眠った。もちろん、ぐっすりと眠れる状態ではないけれど、母はホッとした様子で、夜中に何度か吸引はしたものの、わりと落ちついていて、朝の目覚めもスッキリ。
 
母の笑顔が少し淋しげ
在宅2日目。吸引道具の煮沸から一日は始まりました。いままで病院側が行ってくれていたことも、今日からは自宅でしなければなりません。でも在宅介護には良いこともたくさんあります。昼間は訪看とヘルパーの長時間のケアをしていただけるので、あせらずに家事ができるし、父と一緒に食事をしたり、お風呂にゆっくり入ることもできます。このまま、いつまでも在宅介護を続けられると思っていました。慣れてきて落ちついたら、私自身も買い物やウォーキングに行けるだろうと信じていた。
この日は、母の退院を知った近所に住む母の友人や親戚の人が母に会いに来てくれました。皆さん「良かった。良かった!」と喜んで下さり、母は精一杯の笑顔で応えていました。
このときの母の笑顔が、少し淋しげで、元気がないように見えたのですが、そう思ったのは、私だけだったのだろうか?
 
午後からはDrが往診に来てくれました。
そして、その場にいた、訪看・ヘルパー・ケアマネと私はDrに「ちょっと…」と声をかけられ、リビングでの話し合いが始まった。Drは在宅酸素の危険性を説明し、「人工呼吸器ではないから急変する可能性も高い」と宣告された。
ケアマネは救急隊にも連絡をとり、急変したときはすぐに対応してもらえるように母の状態を報告してくれていました。
母は人工呼吸器を否定し続けていたので、「このまま変わらず暮らしていきたい」と願う気持ちしかありませんでした。母の念願が叶って、やっと帰ってきたわが家で、まだまだ楽しい事もあるはず。
 
在宅3日目 母は不安定に
在宅生活3日目。母は体調不良なのか、下痢になり、私たちを緊張させて。
訪看は往診のDrにこまめに電話で報告をしてくれていました。私は昨日の母の淋しげな笑顔が頭から離れず、不安でいっぱいになった。家事や食事も手につかず、母の様子を見ていました。
そして、訪看が帰る前に、吸引を行ったとき。サチュレーションが下がり始めたのです。70ぐらいまで下がり、しばらく様子をみていると正常に戻ったので、訪看も「千珠さん、もしヌイさんの状態が悪くなったら、夜中でもいいから電話してきてよ」という言葉を残し、帰っていきました。
夜も吸引後は数値が下がり、しばらくすると回復する、という繰り返しでした。
私は眠ることができず、頻繁に母のサチュレーションをチェックしていた。
そして不安なまま在宅生活4日目を迎えた。
この日も吸引後はサチュレーションが一気に下がり、正常な数値に回復するまで、前日よりも更に時間がかかった。訪看はケアの予定時間が過ぎても「安定した状態でないと帰れない」と言って長時間、母のそばにいてくれました。
訪看が帰った後、私は予定どおりに、決められた時間にネブライザーで加湿をし、注入食を注入しました。注入後、母の合図で吸引をしたのですが…。サチュレーションが47まで下がってしまったのです。私の顔は青ざめてしまい。すぐに訪看の携帯に電話をした。状態を聞いた訪看は「千珠さん! O2をすぐに携帯用のボンベに切り替えて! Drに連絡をとったらすぐに千珠さんに電話するから!」
私はすぐにO2をボンベに切り替えました。するとサチュレーションが一気に70まで上がり、それから除々に回復していった。
 
救急車 呼んで! いますぐ!
訪看から、折り返しの電話がすぐに入り、
「救急車、呼んで! いますぐ!」
私は母に「救急車を呼ぶで! 病院に戻ろう!」と言い、でも母は、うつろな目つきで「嫌だ」と訴えていた。
私は急いで119番通報し、「前原ヌイです」と言うと「事前に聞いています。すぐに行きますから状態を教えて下さい」と言われ、私はありのままの状態を淡々と説明した。
どうして、こんなに冷静に語れるのだろうと思うほど、取り乱すことなく伝えることができた。いま思えば、「医療・介護・地域が連携をとることが大事」と、カンファレンスのときに教えられた意味は、このことだったのだ。連携をとることで“安心感”が生まれ、気持ちを落ちつかすことができるのだと思いました。
私は数分間のうちに、母の入院荷物を用意し、10分間もたたない時間で救急車が到着した。ホッとした私は、母と一緒に救急車に乗り込み、兄には、父と一緒に後から来てほしいと頼んだ。
そして救急車のサイレンは鳴り響いたのでした。
                        (つづく)