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心象スケッチ35
一番の 親孝行
          奈良市 杉本孝子さん
長い闘病を支えてくれた母
 昨年の2月に、母が85歳で亡くなり1年と数ヶ月になります。母は私が発病した当初から介護のため、実家の和歌山から奈良まで通うなどして、長い闘病生活を支え続けてくれました。
 いつも私の体を案じていた母を思い出します。発症間もないころは埃にもつまずくと心配し、ケガや自分で起き上がれない転倒を案じ、「大丈夫だから!」と言っても、家に人がいないときは 「絶対!動かないように」 としつこく告げて外出です。這えば歩けの親心ではなくて、何もしないで……とにかく、安全第一主義。とにかく、動かぬは転ばぬ先の杖。神経質なくらい、雨が降れば雨を案じ風が吹けば風を案じると言った具合です。本人は自覚に乏しくて心配だったのでしょう。
 確かに、私は所かまわず何度も転倒していました。骨折やケガはありましたが、転ぶ瞬間に誰かが守ってくれていたのか、不思議と大ケガに到らず幸いです。本人は安全の保障がなくても、ADL(基本的な日常生活動作)が低下してしまうと判っていても、見守る人がいなければひとりでいるしか策はありません。震災の時にも家族が不在で、長く余震が続き怖い思いをした体験があります。実際、何事においても自分で対処できない身には危険はついて回ります。見守りの重要な意味を感じました。 
 周りの一族は心配性の母がショックを受けるからとしばらく私の病名を知らせずにいました。「なぜ治らないのか?」と幾度となく私に問いかけ、わかる範囲で病気の説明を繰り返す。「元の状態には戻らないみたい……原因はわからないのよ!」と返事を返しながら自分も誰かに尋ねたい心境。母は疑問に思いつつ薄々わかっていたようです。病と向き合って1つひとつ乗り越えなければならない道のりはありますが、親としては本人がどのように闘病をクリアしていけるか案ずるところだったでしょう。割り切れず、開き直りの心境にはまだ時を必要としていた頃でした。
共通の趣味を持つ母と共に
 私は生き方が云々と、難しく考えて絵をはじめたわけではありませんが、時に母は趣味の俳句をし俳画にも挑戦して私と一緒に絵を学び、共通の趣味を持って母と共に過ごすことができました。晩年、母はパーキンソンを患い介護が必要となり、私は姉達や妹のように介護はできませんでしたけれどお先に過ごした母との歳月です。
 共通の趣味は病気などに負けないで欲しいと自ら共有して力づけてくれたのかしら? と、いま振り返ればそんな気がします。私は介護を受ける側になりましたが、「元気だったら、おまえに老後をみてもらいたいと思っていたよ」とうれしいことを言ってくれたのも励ましだったかもしれません。老いた母には体力的に厳しい介護をしながら、あらゆる方向から守り続けてくれたのだと思います。

 数年後、母のパーキンソンは進行してしまい、末期は呼吸器の必要な時期もありましたが、気管切開のみで長期に重篤な状態でした。姉は意思表示のできない母に代わって延命を決めます。
 入退院をしていた母を頻繁に見舞うことは叶いませんでしたが、たまに会いに行くと、常にそばで介護をしている姉が「お母ちゃん、孝子がきてくれたよ」と耳の遠くない母に大きな声で伝えます。意識ははっきりしていないのですが、「孝子のことはわかるんよ」と姉が教えてくれます。本当にウルウルと涙目になり、「ほらね!」と……。不憫だったのでしょうか。きっと、記憶のどこかで覚えていて一瞬蘇るのでしょうね。
 しかし、憤る現実も知ります。ある日、状態の悪化を知らされて病室に行った時です。高熱に体が震えていて、母の高熱を「下げることはできないの?」と姉に尋ねると、他に方法もあるようでした。姉は母のスペシャリスト! 何でも問うてしまいます。みんなよくしてくれるけれど、こちらはよけいなこと?は言えないらしく治療の十分な説明もされず、家族は納得していません。言うと家族のものがいないときに意思の疎通の図れない何も言えない母がいじめられるからと言います。あってはならないことです。不信感はぬぐえませんが、特別なことではないのかもと悲しい想いでした。生きにくい立場を痛感します。
 そして、母は医師から度々危篤状態を宣告されながら復活を遂げてきたのです。さすが丈夫な私の生みの親だと思いますが、身代わりのような誤嚥性肺炎をしばしば繰り返していました 私は生き方が云々と、難しく考えて絵をはじめたわけではありませんが、時に母は趣味の俳句をし俳画にも挑戦して私と一緒に絵を学び、共通の趣味を持って母と共に過ごすことができました。晩年、母はパーキンソンを患い介護が必要となり、私は姉達や妹のように介護はできませんでしたけれどお先に過ごした母との歳月です。
 共通の趣味は病気などに負けないで欲しいと自ら共有して力づけてくれたのかしら? と、いま振り返ればそんな気がします。私は介護を受ける側になりましたが、「元気だったら、おまえに老後をみてもらいたいと思っていたよ」とうれしいことを言ってくれたのも励ましだったかもしれません。老いた母には体力的に厳しい介護をしながら、あらゆる方向から守り続けてくれたのだと思います。
いま生きている自分がいる

そして、そして母をおくること。今までに感じたことのない強烈に重いものでした。地面から這い上がり迫ってくる強い力。押し潰されそうで堪えきれず、側にいた妹に「重い〜!」と困憊するように呟いてしまう。もし立位ができたなら立っていられなかったその感覚は表現しきれませんが、母を送ることの重さはこの身体の隅々に刻み込むように深く浸透して行く、母が生きた一生分の重さのごとくです。確かに母は命の終わりの時を、力の限り生きたその存在を知らしめたのです。
 故にこの身は、私の生き方はあるにしても、尊い命を重さを自覚しなければならないと……。母は「どえらいものを残した!」と振り返り改めて思います。
 私はしばらく何をするにも気持ちが乗らなくてすっきりしないまま、ずーっと!悶々と燻り続けていました。人は生きている限り、某の存在を意味するそこに生きています。明日は今日になり現在は過去となり日々は巡っていきます。存在を否定することは死であり、明白なのは今生きている自分がいることです。1年の喪中とは言い得て妙です。物事を避けたい心境があり回避的でもないのですが、活力がわかない。気持ちが動かないと体も動かない。合図のように肩をポン!と叩いてくれた方がいて、気分が晴れていく自分の気持ちに気がつき、超した喪期(ソウキ)の1年を思います。大事なことは?わからないままですが、引きずっても母は喜びません。ちょっぴり自分を冷静にみられると感じます。長い療養中にはさまざまなことに遭遇しますが、それは生きているということですね。
 1番に病気を背負うことになった私の親孝行はどこかに飛んでいってしまったようですが、幸い順番を違えなくて1番の親孝行だと自分を納得させています。
 亡母の思い出は消えることなく記憶の中で生き続けます。宇宙のどこかにいるの? 和歌山にまだいるような気がします。青い空を眺める雲のすき間から「おっ! 孝子は元気だね!」と見守っていてくれることでしょう。
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