母と過ごした日々 (10)
 
 
                 和歌山県海南市 前原 千珠
                         
 
ICU に運ばれる
 “ 病院に行くのは嫌だ”と私に目で合図をした母。それはわずか10 分前のことだった。
救急車に乗った直後、母の容態はさらに悪化した。隊員たちの声かけに反応を示さなくなったのです。モニター画面の数値はすべてエラーになり、緊張した空気が車内に流れた。隊員は「脈が弱いので数字が出ない」と私に説明をし、力強く母に声かけを続けてくれました。
“ 一刻も早く‼” と隊員どうしの言葉が飛び交い、その表情は真剣そのものだった。
病院に到着すると、ケアマネも駆けつけてくれていました。母は、一時は心停止状態にまで陥ったものの、医師や看護師の懸命な処置のおかげで再度命を助けていただいた。その後、母はICU に運ばれることになりました。
母を乗せたストレッチャーのそばでエレベーターを待っていたとき。
私は少しめまいがして「なんかフラフラする… … 」とつぶやいてしまいました。一緒にいたケアマネが、「もうどのくらい寝てないか、わかってる? 千珠さんまで倒れてしまうよ」と言った言葉に、私はハッと思った。
母を自宅で介護していたときも、長い長い入院生活をしていたときも、どんなに寝不足や体調不良でも、母の前では元気な自分でいようと思っていた。周りの人にはグチをこぼしても、母には「私は元気やから大丈夫! 」とごまかしたことも多かった。でもいま、意識のない母の前では弱気になっている自分がいるのです。
ICU に入るのは今回で3 度目でした。
昨年6 月に、初めて母が救急車で運ばれたときも、このICU だった。あの日と同じ空気と、機械音。モニターの音や、人工呼吸器のアラーム音がなつかしくさえ思えて、なぜかホッとします。
でもあの日以来、私にはどうしても悲しく聞こえる音があるのです。毎日、正午に町中に流れるメロディーと、隣の小学校から聞こえてくる子どもたちの元気な声。お昼の合図の何気ないメロディーがとても悲しげに聞こえるし、子どもたちの元気な声も、なぜか私を( たぶん母も? ) 孤立させて、淋しさを感じるのでした。
私はいま、この場所( ICU)にいることが、夢か現実なのかわからないような、フワフワした気持ちで( 寝不足のせいかもしれませんが) 母を見つめていた。
父はあまり現状がわからないまま、兄に連れられ自宅に帰っていきました。

静かにそばにいてあげることだけ

母はベッドの上で静かに眠っています。ときどき小さなケイレンを起こす以外は、全く反応がないけれど、一つだけいつもと同じ症状がありました。それは唾液が口元から流れているのです。母はALS を発症して、初期のころから唾液が多く、常に「口、拭いて」と、私に目で訴えていた。多い日にはティッシュペーパーを5 箱以上も空っぽにして、毎日タオルを何十枚も使い、洗濯物の山だった。
すぐに拭いてあげないと、母は興奮して、顔を真っ赤にして訴えていたのに… … 。
私はいつものようにティッシュやタオルを使い、無表情の母の口元を拭いてあげた。もう“ 頑張れ”と励ますことは残酷な気がして、いまの私にできることは静かに母のそばにいてあげることだけだと考えていた。
消灯の時間が過ぎて、しばらくの間、私自身もウトウトしながら、母の横顔を見つめていました。母はただ眠っているだけのように見える。私は母に話しかけた。
「おかあちゃん… … 私、ここに居るで。ずーっとそばに居るから」すると、母の閉じた目から一筋の涙がこぼれた。
「母には私の声が聞こえる! 意識はないけど、ちゃんと伝わっているんや! 」
そのあと、どんな話をしたのか、もう忘れてしまったけれど、私はまるで子どもに絵本でも読むように、母に語りかけていた。

意識が戻らないまま2日、3日

翌日( 4 月1 日)
母にかかわってくれている病院のスタッフや在宅介護スタッフの方たちがとても心配してくださり、様子を見に来てくれました。
私の携帯にも退院のときと同じように、何件もの励ましのメールが入った。本当に、本当に、どんなときも、母と私はたくさんの人たちに見守られていることを改めて実感し、感謝しました。
ICU で付き添うときは、夜は家族ルームで過ごします。ICU に入院している家族様専用の共同部屋です。たった3 畳ほどの小さな部屋ですが、今夜もまた、新しい出会いがありました。同じようにICU に入院している患者様のお嫁さんのH さんです。お互いに「こんばんは」とあいさつした後、H さんの方から、「さっきね、ICU のカーテン越しに、前原さんと看護師さんたちの会話が聞こえてきてね、とてもいいお話だったんで、全部聞いてしまったんよ」と話しかけられた。
このときの会話とは、以前、カンファレンスのときに話題になった“ 医療・介護・地域が連携をとることの大切さ”でした。
H さんは「私も連携をとることが大切ってずっと思ってたんよ。すごく共感できてうれしいわ」と人なつっこい顔で笑った。
私は直感で“ この人も同じニオイがする! ” と思い( 笑)、まるで昔からの友人のようにお互いの布団を並べて語り合いました。HさんはICU に入院しているおばあちゃん( 姑さん) の付き添いをしていましたが、みんなから「娘さん? 」と言われるほど、とても自然な関係に見えた。私も娘さんだと思っていました。H さんのおばあちゃんと私の母は同じようにICU に入院して、いまも同じような容態だった。H さんと私は同じくらいの心配と不安を抱えていたと思います。
母の意識が戻らないまま、2 日、3 日と過ぎ、母の口元からは唾液が流れなくなりました。心配な症状が次から次へと現れて、主治医は「会いたい人がいれば、おかあさんに会わせてあげてください」と言った。

さくらの花 満開のなかで、母は

4 月4 日
母は危篤状態に陥り、モニター画面が乱れ始めた。在宅でお世話になっていた訪看さんが出勤前に母に会いに来てくださり、「ヌイさん。私、仕事が終わったらもう1 回来るから、夕方まで待っててよ」と言ってICU を出て行かれました。
その後、母の兄妹が駆けつけてくれて、私の長男も三重県の鈴鹿から電車で到着した。みんな言葉少なく静かに母を見守っていました。
4 時ごろ。仕事を終えた訪看さんが再び来てくれました。
「ヌイさん、待っててくれたんや。よかった」それから間もなく、モニターの数値が大きく乱れ始め、やがて数字を示さなくなり、母は静かに息を引き取りました。
発症して9 年。告知から6 年。
3 月28 日に退院の救急車の窓から見たさくらの花はもう満開です。
母が最後に望んでいたのは自宅に帰ることだった。たった4 日間の在宅生活でしたが、私たちにとっては何年もいたような長い長い時間に思えた。兄の話では、母と私が家に帰った瞬間、家の中がパッと明るくなったと言います。ネコまでが喜んではしゃいでいたと… … 。父は認知症状がどこかに消えて、何もなかったかのようにくつろいでいた。
止まっていた時間が動き始めた、最後に家族で一緒に過ごした4日間でした。
私はしばらくの間、いま、何が起きているのか理解できずにボーッとして、母の安らかな寝顔を見つめていた。やがて主治医のDrが「管を抜きます」と言ったので、父と私は「よろしくお願いします」と答えた。Dr がモニターを外し、点滴を外し、そしてカニューレを抜こうとした瞬間、私は、『やめて! 抜かんといて! 呼吸ができへんようになる! 』と心の中で叫びながら、頭の中が混乱し始め、涙があふれ出した。気がつくと、周りの人や看護師もみんなが涙を流していました。
母は本当に安らかにほほえんでいました。2 月25 日には70 歳の誕生日を迎えていた。誕生日プレゼントを贈ったことなど一度もなかった父が、今年は母に花束をプレゼントした。認知症の父から病気の母へと贈られた花束が、最初で最後の誕生日プレゼント。そして、父の2 度目の肺がんの入院・手術も来週に控えていた。母は父の病気のことも案じて逝ってしまったのだろうか… … 。母には何もかもわかっていたのだろうか?

ALS から大切なことを教えてもらった

母がALS という病気になったことで、私は言葉では表現することができないくらいの大切なものを教えてもらいました。
介護生活とは無縁だと思っていた自分が介護にかかわり、だんだんと症状が進んでくると選択を迫られることが何度もありました。
両親との同居。仕事と介護の両立。父の病気。徐々に私の行動も制限され、じわじわと追い詰められていった。一日も休むことのない介護生活では、私が病気になるわけにはいかなかった。仕事の帰りに寄り道もできなかった。欠勤届の理由は毎回、“ 母の通院のため” だった。入院をきっかけに24 時間介護になり、私は掛け持ちでしていた二つの仕事を退職することで、また悩んだ。9 か月余りの入院生活では、そのほとんどが母と私、二人だけの時間でした。
もう少しだけグチを言わせてもらうなら、朝までぐっすり眠った日が1 日もなかった。シャワーを浴びるだけで、ゆっくり入浴したことが一度もなかった。伸びてないカップ麺を食べたことがなかった。すべてが母中心の生活だった。でもどんなときも、父と母と私は同時進行で、3 人で一人前だったように思います。
泣いたり、笑ったり、悩んだり、あせったり。本当にコロコロと感情が変わる日々でした。心優しい友人たちとの出会いや、ささいなことに感動する気持ちは、ALS でなければ得ることもなかったでしょう。
父は、母がいなくなった後、認知症が悪化し、私は一息つくヒマもなく、父に付きっきりの生活になりました。ALS とは違う介護生活でしたが、体力とエネルギーはALS 以上だったかも( 苦笑)。夜中も元気なので、睡眠不足も続行しました( 笑)。
その父も、今年の6 月にがんが再発し、76 歳で亡くなりました。
最期は、正気に戻ったような発言もあり、周りをびっくりさせました。
父が亡くなった後で叔母さんから聞いた話ですが、27 年前、私が家を飛び出して帰らなかったとき、父は「千珠から連絡があるかもしれない」と毎晩、枕元に電話器を置いて寝ていたそうです。母は最終電車の音が聞こえなくなるまで玄関に座り、私の帰りを待っていたといいます。
地味でまじめで不器用な両親の愛情をずっと私はもらっていたのに、私がそのことに気がつかなかっただけ。
いまごろ、父と母は天国で再会し、仲良く暮らしていることでしょう。

今回で最後です。なんだか最初から最後まで自分中心のお話になってしまい、恐縮です。
6 月に亡くなった父も、母と同様、最後まで看ることができて、よかったです。そして7 月から、私、北海道にいるんですよ~ 。
結婚することになりました。本当に不思議な縁で、自分でもびっくりしています。いつもお世話になっていた叔父さんの長男といまは一緒に北海道で仕事をしています。もちろん家族もみんな一
緒なので、私を含めて7 人の大家族! 毎日が賑やかです。
去年くらいから、なんだか自分の意思とは違う大きな力が働いているような気がして叔父さんたちに話したら、叔母さんも「私もそう思っていた」 と言うんですよ。叔母さんは私が嫁に来ることが長年の願いだったと喜んでくれています。ヌイさんが天国で操ってるんかな~ ( 笑) 父も亡くなる前に「千珠を頼む」と言って、みんな空耳かと疑ったくらい。
正気の父に見せてあげようと、急いで花嫁写真を撮りに行って、生まれて初めてのウエディングドレス姿を見てもらったんです。本当にみんなが祝福してくれて幸せ者です。
これからもよろしくお願いいたします。
                                               前原千珠