生きて きた道

沖田 繁 さん

(兵庫県 73歳)

            昭和13年生まれです

私は昭和13年に生まれて、戦争末期の春4月に尋常小学校に入学したが、時々B29が低空飛行し、空襲警報の半鐘が響き渡り、近くの防空壕に入ったことをかすかに覚えている。

29年、中学校を出るとき親から、農繁期に人手がないから定時制に行ったら、と言われて洲本高校の定時制に入った。33年に卒業して家の仕事をしていたが、周りも農業の収入が安定しないため出稼ぎに行くようになった。私も淡陶会社(ダントー)に臨時として行くことにした。工場周辺の掃除や、手不足の応援にいかされた。6か月ほどして正社員の募集試験を受けて採用された。

 

タイルの製造は石灰石や粘土などを粉砕調合する一工程、タイルの型を作る二工程、素焼したタイルに釉薬を塗る三工程、さらに本焼きしたタイルを検査して箱詰めする四工程に分かれていた。私は二工程に配属された。粉状の原料を金型に詰めて、30トンの水圧で押してタイルの原型を作る。押した瞬間粉塵が飛び散り、頭髪や眉毛まで白くなった。珪肺という職業病になる人もあった。

組合の組織、活動もしっかりできていて、春3月の賃上げ闘争、夏冬のボーナスの交渉、併せて職場環境の改善など、年中行事として行われていた。

私も組合活動に興味を持ち勉強していたら、推されて執行役員になっていた。

           

40年代に入り、世の中上向き景気で建築も増え、タイルの需要も多くなり、会社は中国、関東方面に販路を拡げるため、淡路の二つの工場以外に、広島に福山工場、栃木に宇都宮工場をつくった。従業員も4工場合わせて一時1500人を超えていた。

しかし43年後半頃から建築工法が変わってきて、風呂などユニットになり、内装タイルの需要が急激に減ってきたため、会社はいち早く輸送に不便な淡路の2カ所の工場を減産に切り替え、福山、宇都宮工場へ出向派遣を進め、併せて年長者など対象に退職金を割り増して希望退職者を募り、50名余りの人がやめていった。

また会社は、今までの年功序列制の賃金体系を改め、一部職務職能給を取り入れたいと通告してきたので、永年勤めてきた年長者から不満続出したが、当時の労働界の状勢を見て、組合側から「適正な人員配置と調査をしてから」という条件をつけて協議に入ることにした。

昭和45年の定期大会は、福山に4支部から100人の代議員を集めて、運動方針など協議したが、総評に入っていて鋭い意見の関東勢と、同盟系で穏当な意見の淡路勢に食い違いがあったが、原案どおり承認されて無事大会は終わった。

           左眼 摘出手術

帰ってきて二、三日後に三男が生まれた。稲刈りも終わった昭和45年10月末、夜勤から帰って、あまり天気が良いから子牛を運動場に放したら、うつむいて草を食っていた牛が突然頭を上げた瞬間に、角が顔面にグサリと刺さった。しびれて痛さはなかったが、タオルを当てたら真っ赤になっていた。見てもらったら、牛の角で左目を突かれていた。すぐに医者に行き応急処置をしてもらい、「すぐ県病に紹介するから行くように」と言われて行ったら、即入院させられることになった。

しかし当時県病には眼科医は常勤していなかったので、傷の治療だけして退院してきた。四、五日して徳島大学病院に眼科で有名な教授がいることを聞き、早速行ったら即入院になった。

3日間の検査後、教授が診て、「眼底の傷が大きいから、視力回復は無理、そのままにしてたら交換性眼炎になることもあるから、摘出しといた方が安全。片目で慣れたら生活に支障ない」と言われ摘出手術をした。1週間の治療をして年末に退院してきた。

正月をゆっくりと休み、1月中頃から職場に復帰できた。

しかし勤めながら将来のことを考えて、春闘に入る前の2月末に役員を辞め、3月末に会社を退職した。昭和46年(35歳)4月末、失業保険の手続きに職安に行くと、二、三箇所紹介されたが条件が合わないと断り、現在の家業である「酪農業」に専従して働くことにした。左眼を失明した生活にも何とか慣れ、ALSを発病する55歳頃までの約20年、一生懸命働くことができた。

行くなら2人で行け

今から18年前の平成4年10月末、いつものように新聞を見てたら、北海道旅行の募集広告が目にとまった。そのころ(54歳)もう足が痛くて歩きにくくなっていたので、「最後のチャンス」と思い、息子に言ったら、「一人では危ない。行くなら伴を連れ、2人で行け」と言うから、妻と2人分の申し込みをした。11月初旬、4泊5日の旅行だった。息子が学生時代一緒にいた北海道の友達に、牧場見学も頼んでくれた。出発の前の晩から伊丹に行き留めてもらい、翌朝空港まで送ってもらった。100名ほどのツアーだった。

 9時に伊丹を飛び立ち、昼前に札幌千歳空港に着く。待っていたバスに乗り、函館に向かい、長万部で休憩。広い売り場に全道の名産物、みやげが売られていた。さらに下がって駒が岳を見ながら、大沼公園、トラピスト修道院を見学して、夕方函館山に登り、頂上展望台からすばらしい夜景を見て、湯の川の宿に着いた。

2日目は小樽に向かって上がり、小樽運河、ガラス工房など見学してから定山渓温泉のホテルに泊まった。

            ツアーと別行動

3日目は朝早く出発して、阿寒湖までの長距離バス旅行。札幌市内公園、時計台は車中から見て通り抜け、広い十勝平野を走った。昼ごろ小高い峠にあったドライブインで昼食、休憩。私はそこからツアーを離れて別行動をすることにした。しばらく待ってたら息子の友人の小野君が来てくれた。

まず彼が勤めている十勝種雄牛センターを見学。国内では優秀な牛が飼育管理されていた。次に息子が世話になっていた芽室町の鈴木ファームに行った。鈴木ファームは牧草畑の中にあった。前もって連絡していたので待っていてくれた。まだ若い夫婦と、小学6年を頭に5人の子供の家族だった。

暖房の入った部屋に通されて いただいた温かいミルクがおいしかった。数多くのトロフィーが並んでいたが、中でも平成3年に熊本県で開かれた全日本ホルスタイン共進会でいだいた名誉賞のトロフィーが輝いていた。

牛舎もきれいに掃除してあり、チャンピオン牛は別に独房に入っていた。「朝晩の子牛の哺乳は子供がします」と言っていた。

鈴木牧場を出たときはもう外は真っ暗で、家は少なく、暗い夜道を走り帯広に出た。市内の食堂で小野君と3人で食事をした。彼は姫路のサラリーマン家庭の二男で、母親は私達の住む淡路島の三原の生まれです、と言っていた。牛が好きで酪農大学を出て、いまのところで働いているが、冬の寒さ!は予想以上で手が赤く腫れて、「血が出て痛い」と嘆いていた。親から「もう帰って来い」と言われているようだった。私も「牛関係の仕事するなら淡路に来て酪農関係で働いたら?」と話をしておいた。(後に小野君は私が紹介して、三原酪農にヘルパー要員として入った。)

           乗り換えがしんどかった

10時過ぎ、小野君は宿舎に帰り、私らは帯広駅近くのビジネスホテルで宿泊。4日目は普通列車を乗り継いで旭川に向かったが、歩きにくくなっている私は2回の乗り換えがしんどかった。

特に富良野では短い時間に5、6本も線路を渡って次のホームに上がるのが大変だった。汽車の中は石炭ストーブが焚かれて暖かかった。旭川には昼頃に着いた。昼食を済ませて、石北本線の急行列車を待った。1時に汽車が入ってきて乗り、1時間くらい走ったところで層雲峡に行くのに上川駅で降り、待合室でストーブで暖まっていたら、横にいた人から「どこから来た?」と聞かれて、「淡路島から来た」と言ったら、「山は雪だからそんな靴はだめだ!」と言われ、滑り止めの防寒靴を買った。

路線バスで麓まで行き、そこからタクシーで層雲峡ホテルに行った。ツアーのバスはまだ来てなかった。しばらくロビーで待っていたら、バスが到着して無事に合流!一緒に夕食をして大理石を張った広い浴場でゆっくりとぬくもった。

想い出に残る旅行

5日目の朝早く起き、朝風呂に入った。大きな窓から青い空に、雪をかぶった黒岳の勇姿が立っていた光景は、今も忘れられない。この日は千歳空港まで戻るだけの行程、朝食後10時ごろに出発。まっすぐな広い道を走る。両側は原野にあちこち雪が積もって、家はほとんどない、北海道らしい風景だった。

午後3時前に空港に着き、伊丹行きの飛行機に搭乗。5時過ぎ無事伊丹に着き、解散。8時に家に帰った。長旅で疲れたが、想い出に残る旅行だった。

         寿命のある限り生きたい

帰ってからしだいに歩けなくなり、車椅子生活になった。以来18年、難病ALSと付き合ってきたが、紆余曲折いろいろな出来事、トラブルが起こり、大変な時もあったが、主治医の先生、看護師、保健師、ヘルパーさんらのおかげで助かり、73歳の正月を迎えることができた。これからも寿命のある限り生きたい。
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