|
ありがとう 英夫
二人だけの特別な時間を共有しました
奈良市・西口尚美
私の数学の先生
主人との出会いは、中学3年生の夏期講習でした。西口先生は、京大生でアルバイトに来ていました。私の数学の先生でした。高校の合格発表の後「ケーキを食べに行こう」と誘われて喜んでついて行くと、目のことを聞かれました。「網膜色素変性症といって治らないの。夜は見えないの」と話しました。私は、この目が大嫌いでしたが、隠すことはもっと嫌だったので、告白できたとき、初めて先生から英夫さんになり、お友達になりました。英夫さんは、毎日1時間以上の電話と手紙の嵐です。たまには、速達が来ると普通郵便と重なることも多々ありました(今、手紙は読めませんが私の宝物です)。
高校2年のとき、私は交通事故にあいました。気付くと、足を吊り、顔には包帯、ベッドの横には、母が倒れて寝ていました。英夫さんが飛んできましたが、私は「絶対に会わない。帰ってもらって」と言いましたが遅く、もう私の前に立っていました。驚いていましたが、恥ずかしそうにしている私を見て、優しく微笑んでいました。京都から毎日お見舞いに通ってくれた英夫さん。退院してから顔の傷や口の中の手術をしました。いつも手をひいてくれる温かい手は、目が悪いことも、交通事故の傷も癒され、励まされました。その手の温もりに安心感や信頼感がありました。
すべてだよ 愛しているよ
卒業まじかにプロポーズをされましたが、両方の両親は猛反対です。私が体調を崩し入院している間に、英夫さんは両親を説得してくれました。頭が良く、温厚で意志が強く、情熱的で優しく、温かい手を持つ英夫さんは、私のどこが良かったのか今でも分かりません。英夫さんに聞いても、「すべてだよ。愛しているよ」と言います。私はそう言われると気恥ずかしくなり、それ以上は聞けません。
2010年、主人は、糖尿病性腎不全のため、低たんぱくの食事療法を始めました。そら豆保存会にもお話を聞き、数か月頑張りましたが、続けることが難しく、透析を考え始めていたころ、腎友会や、ドナーの会で腎臓移植の話を聞き、「移植にかけてみたい」と言い出しました。主人は、母親や弟に声をかけましたが、移植には難色を示されました。かなり落ち込んでいる主人を見て私は、夫婦間移植に踏み切りました。主人は、子どもたちや私の両親に頭を下げ、説得しました。移植は怖かったけど、こんな私が生きているより、主人が元気で生きていてくれた方が子どもたちのためだし、何よりも主人に、もう一度仕事も、おいしい食事もしてほしかった。一度は「そこまでできない」と言った主人も「必ず元気になるから」と言って私に感謝してくれた。
S病院で移植のための検査が始まりました。S先生は「できる限りの検査をし、最善を尽しましょう」とおっしゃいました。まずは、透析をして体の中をきれいにします。嫌がっていた透析も積極的に通いました。でも透析をし始めてからどんどん足の動きが悪くなります。S先生は「水の引き過ぎかな。まあ移植さえすれば元気に歩けるようになりますから」と言います。しかし、わずか3か月であまりにも変わっていくので気になり、S先生には不安だとお話をしましたが、すべての検査結果は問題なしだったので、S先生は気にしていない様子でした。
腎臓移植成功
2011年4月、腎臓移植成功。手術当日の朝、主人が私の病室に来て手を握り「怖くないか……?」と尋ねました。私は「退院したらパリに連れて行ってくれるのでしょう? 正夢を見ている間に終わる。きっと怖くない」と言い、握られた手をギュッと握り返した。血漿交換をし、嘔吐していた主人が心配ではあったが、私も麻酔で眠った。翌日、歩けるようになった私は、真っ先に主人に会いに行った。チューブにつながれた主人は、私を見るなり涙がこぼれ「ありがとう」と言ってくれた。子どもたちに聞くと「手術後もお父さんはひどく嘔吐していて真っ青で、もうだめだと思った」と言っていた。
その後、私は予定通り退院し、翌日からは奈良から大阪のS病院まで迷子になりながら、白杖をつき毎日主人に会いに通った。主人は歩けるようになり、普通の食事も食べられ幸せそうだった。「今日はお水を2L飲んだ。部屋の外を歩いた」と得意気に話す主人を見て、私は、移植をして良かった、移植は本当に成功したんだと思い、とても喜んだ。ところが、退院前日、転倒した主人はなぜか神経内科に。たくさんの検査の後、一応退院。
腎センターを週に一度受信しながら神経内科でも検査をした。N先生は「ALSの可能性があります」と言い、最終的には筋電図を撮影、結果を待った。S先生は、足の動きが良くならないことを不思議がっていたが、他は異常がないとのことでした。退院後2週間もたつと良くなるどころか、足の動きはだんだん悪くなってきました。一人では歩くこともできなくなりました。主人はネットでALSでないことを祈るように、ALSに当てはまらないことばかりを探していました。
ALSの宣告 移植前に分からなかったのか
そのころ、神経内科のN先生にあっさりとALSと宣告されました。やはり、ALSなのか……本当に? 移植する前に二度も入院し、できる限りの検査をしたはずなのに。移植前になぜ分からなかったのか? 足のふらつきはS先生に何度も相談していた。医者がデータばかりを見て患者の声を聴かなかったからではないのか? 本当にALSと知らずに移植をしたのか? もし、ALSとわかっていても移植をしたのか? そう思っていても、これからもお世話になる先生にそんなことは聞けませんし、主人が聞かないのに私が聞けません。
二人で怒り泣きました。泣き疲れた私たち。これからどうなるの? どうしたらいいの? 胃瘻はしたほうがいいの? 人工呼吸器はつけた方がいいの? 運動はしたほうがいいの? 疲れてしまうだけなの? わからないことばかりです。主人はネットで民間療法や最新の情報を調べ尽くしましたが、これといったことを見つけられずにいたようでした。目が見えずパソコンも使えない私は何の情報もありません。主人に聞いてもあまり話してくれません。
私は何も分からないまま不安だけが頭の中で一杯になり、また泣いてしまいます。腎臓移植が終わり退院したとたんにALSとわかるなんてあまりにもひどいではないのか。なぜこのタイミングなのか。せめて、1年後なら納得できたかもしれない。「移植が原因でALSを発病したのではないのか」と両親に聞かれ絶句した。ひど過ぎる。悲し過ぎる。死ぬとわかっていて移植するのではない。元気になると信じていたのに。移植して本当に良かったのか。自分を責めたり、不安で泣いたり、頭の中がめちゃくちゃになった。
楽しいことを考えよう 優しい主人がそこにいた
主人も自分のことだけで一杯だったはずだが、不安と悲しみの毎日で暗く沈んでいた私を見て「楽しいことを考えよう。利尻に行こう」と言ってくれた。まだまだ、優しい主人はそこにいた。この優しい主人が、これからどんどん変わっていく。何でもできた主人。何でもしてくれる優しい主人が、できなくなることが多くなるだけでなく、怖くなっていくなんて思いもよらなかった。あっという間にできることがなくなっていく。苛立ちや悲しみ、惨めになっていく自分の姿、そして、死に対する恐怖と前向きに戦える人がどれだけいるのだろう。主人にとっても苦しい戦いだった。元気になりたいという一心で移植までしたのだ。その主人が移植からたったの2か月で完全に夢を絶たれるだけでなく、まるで移植の罰のような仕打ちを神様から与えられるのだ。絶望と恐怖と私への謝罪とで主人は、とても苦しんだ。
こんなときでも移植後だから、腎センターのS先生は、週1度で診察の予約を入れた。主人は、まだ何とか乗れる車を運転して通院したが、歩行器がないと歩くことも難しかった。病院のエレベーターを降りるとき、人が主人に当たり転倒した。腎センターの前だったのでS先生が飛んできた。「腎臓は大丈夫でしたか? 打ちませんでしたか?」と尋ねた。そのとき、私の心はブチッとつぶれた。もう腎臓なんてどうでもいい! 透析でもいいからALSを治してよ! 涙がこぼれた。言葉を殺すのが精一杯だった。その後も何度か転倒をしたり水分が取れなくなったが、最後まで腎臓は全く異常はなく、移植自体は悲しくも大成功だった。
7月、「利尻、礼文に行こう」と主人は言い出した。主人は、無理と言ったけど私はトワイライトエクスプレスにも乗りたかった。なんと、ロイヤルスイートも取れた。まるで北海道に行ってもいいよ、と神様に言われているようだった。ホテルも、タクシーも予約した。さあ出発の日。朝からS病院。「旅行に行きたいです」と言うと、S先生は「人の多い所はねぇ……手術して3か月だし……」。すかさず「利尻、礼文です。人込みではないです」と言う。「いつからですか?」と聞いたので、「今日これからです」と言うと、S先生は驚いていたが、もう荷物を持ってさあこれから空港というところだったので呆れていた。
落ち込んで時間だけが過ぎていく。そんなのは嫌だった。死への恐怖から逃げることにエネルギーを使うより、生きることにエネルギーを使いたかった。もちろん、個人旅行なので計画はいつものように主人が立てた。そうしている間は病気のことを考えている暇はなかった。楽しいことだけを考えていられた。主人は嫌がっていた車椅子も手動のものをレンタルした。一日が早く過ぎた。
利尻・礼文へ 山盛りのウニ丼
JALで利尻へ。一つ問題があった。車椅子を目の見えない私が押すこと。主人は「危ない! 右! 左! はあ〜……」と怖がったり疲れたり。私も叱られてばかりでくたくたになった。私は必死で初めての車椅子を押した。主人は命懸けだし、自分の思い通りに動かないから声が大きくなる。食事のとき、移動のときなど親切にしてもらっても、主人は良い顔をしない。「手伝ってもらわないと私一人ではできないよ」と言っても、人に甘えることをしてこなかった主人は無言で頑張っていた。
免疫抑制剤を飲んでいるので生ものはダメと言われていたが、刺身や、生うにも食べた。腎臓移植したのに食べられないなんて嫌だったらしく、死ぬ気で何でも食べていた。ただ露天風呂は不衛生で危険なのでやめた。散歩にも行った。丘の上の郵便局で絵ハガキを買って私の里に出した。車椅子を押すのは重たくて大変だった。主人は楽しそうに「頑張れ〜 頑張れ〜」と私に言いながら笑う。「ふんだ! あなたは座ってるだけで、楽ちんやね〜」と私は言ったが楽しかった。
フェリーで礼文に行く。タクシーで高山植物を見て回った。私には見えないので、車を止め、植物に触れさせてくれた。帰り、フェリー乗り場の2階に生うに丼のおいしいお店があると紹介してくれたが、エレベーターもないし、持ち帰りもできないとの話だったので諦めるつもりでいたら、タクシーの運転手さんが通りかかって食堂の方に話してくれた。フェリーで食べることを条件で山盛りの生うに丼を作ってくれた。値段はそのままで、たくさんサービスしてくれた。甘くておいしい。「たくさんの人の親切が詰まっていておいしいね。タクシーの人と仲良くなっていて良かったね。ラッキー!」と、言うと主人は「尚美はすぐに誰とでも仲良くなるね」と呆れた。「そのおかげで、おいしい生うにが食べれるんだからいいやん」と言いパクパク食べた。甲板で食べながら景色を見たり写真を撮ったり楽しかった。あのときの心地良い風と甘いうにの味は私の心に今も強く残っている。
札幌に戻りホテルへ。お寿司、ジンギスカン、アイスなんかも食べた。低たんぱくの食事療法をしていたときが嘘のようだ。食べるの大好きな主人は、どこが病気なんだというぐらいに食べていた。「こんなことだから糖尿病になるのでしょ!」と私は怒った。「来年は銀婚式よ。今より大きなトウモロコシ人形を買ってね」と約束してもらう。「このトウモロコシ人形は新婚旅行で買ってもらったものより小さいようだけど、愛情の大きさの違いかしら?」と主人を見つめると主人は慌てた。「冗談ですよ。これで十分ですよ」と、笑う私を見て主人も楽しそうだった。
トワイライトエクスプレスのスイート
そして、トワイライトエクスプレスに乗り込んだ。右にお部屋、左が通路になっていたが、通路が狭くて車椅子は入れなかった。仕方ないから、駅員さんが横で主人を支え、私が後ろから抱きかかえ部屋に入った。車椅子ぐらいは通れるように設定しておいてほしい。使いやすそうなお部屋。ソファアがベッドに代わる。シャワー室、テーブル、洗面所、アメニティも充実していた。スリ
ッパや部屋のキーもオリジナルで格好良い。スイートというだけあって大きな窓からは景色が良く見える。主人は部屋のキーを持って帰ってきた。もともと、電車大好きな主人は、とても喜んでいた。
フランス料理も食べに食堂車まで行った。電車でしか味わえない雰囲気ある料理で、おいしかったし、車窓から夕焼けや田園風景、山や真っ暗な夜景が見えていたようだ。
かなり揺れるのでワインをつぐのに技術が必要になる。「お上手ねえ」と、話しかけるとにっこりと微笑んでくれた。電車でのフレンチは特別なムードもあるし、思っていた以上の料理とサービスで私たちの期待を裏切らなかった。寝ながら楽しかった旅行の話もたくさんした。病気のことは何一つ話さなかった。
この旅行は、腎臓移植をして3か月ということもあり、まだ薬も多くインシュリンを打ったり、血圧を測ったりと、することが多かった。主人も私も体力もなかった上、手動の車椅子を私が押したことで大変疲れた。だが、人の親切に出会えた素敵な旅行だった。
今まで主人は車椅子を乗りたがらなかったが、帰るとすぐに、電動車椅子を頼んでいた。電動だと自分の思い通りに動けると思ったようだ。私が車椅子を押すことは自殺行為だと気づいた。主人は人に助けてもらうことに抵抗があったようだ。ありがとうと笑顔で言うことの大切さがわかったようだ。私が人にお願いする様子を見ていて感心していた。「私にできることは、笑顔でありがとうと言うことだけだから」と言うと、黙って車椅子をくるくる回して何か考えているように見えた。「私は、いつもあなたにも上手にお願いして、何でもしてもらっていたでしょ?」と笑って見せると主人はニコニコしていた。
私の腎臓よ ひとりで決めないで
保健師さんが奈良市保健所の交流会に誘ってくれました。近況を話したり、医療知識の交換、真剣で切羽つまった感じが伝わってきました。一人は呼吸器を考えていた。一人は胃瘻を考えていた。一人は車いすで来られていた。一人は手の動きが悪いので補助具を使っているとのことでした。そして主人です。主人は、ショックを受けました。でもそこには同じ病気で戦っている仲間がいました。声をかけてくれた方と涙を流し話していた主人を見たとき、私が1日中一緒にいても主人は孤独だったのだなあと思いました。
この会の参加者はなぜ、こんなに少ないのかと不思議でしたが、半年後の会で理由が分かりました。半年後の会には主人は参加しませんでした。保健所まで行って話をし、皆で泣いても治らない。それに半年であまりに変わった自分の姿を見られたくない。見せたくない。そのころには主人は覚悟を決めていたようです。胃瘻も人工呼吸器もつけないと。
私は、どうしても生きていてほしかった。だから「私の腎臓よ……一人で決めないで」と言って泣いてしまった。主人は無言だった。もし、人工呼吸器を付けたとしても、透析にでもなれば通院もできない。自分の進行の速さからいっても瞼が落ちるのも早そうだ。そうなればコミュニュケーションが取れないまま透析をして入院生活になる。自分にそれだけの覚悟があるのか。尚美に介護ができるのか。子どもたちの足手まといにならないのか。そんなことは何も話してくれなかった。毎日、主人の手や足をさすりながら私が勝手に思ったことだ。私は迷っていた。何が何でも生きていてほしかった。でも動けず話せず食べられず真っ暗な世界で生きるというのは耐えられるものなのか。
誰かに相談したかった。どうすればいいのか。どうしたら幸せでいられるのか。主人の言っていることは本心からなのか。答えがないのは分かっていても、これからどうなっていくのか、何を選択したらいいのか。私は主人の気持ちを分かろうと努力したが、分かりきることなどできなかった。主人には主人の思いがある。でも家族には家族の思いもあるのです。病気って、患者は自分のことで大変だけど、支える家族だって大変なんです。私が網膜色素変性症で悩んでいたとき、両親はもしかしたら私以上に悩み悲しい思いをしていたのかもしれません。主人を看病して初めて家族の気持ちを考えました。
主人が亡くなって2年が過ぎました。今の私は何もできませんが、同じように苦しみ悩んでいる仲間やその家族の人たちが、その不安や苦しみから少しでも解放されるような仲間作りを皆でしていけたら、ALSの患者や家族、もしかしたら遺族の方とも繋がっていけたら、不安や悲しみ、絶望感や孤立感、諦めといったことも軽減されるのではないでしょうか。
フランスに行こう 誕生日をパリで祝おう
「フランスに行こう! 尚美の誕生日をパリの3つ星レストランで祝おう」と言い出した。S先生は「絶対に無理です。飛行機の中で風邪にでも感染したら引き返さないといけないし、薬の飲み忘れをしやすくなる。怪我でもして感染したら二度と日本の土は踏めませんよ」と脅す。お世話になった阪大の移植コーディネーターに相談してみた。「先生の言うことは正しいけど、私なら行くかもね」。その一押しで私たちは行く決心をした。私が荷物を持ち車椅子につかまり、主人が車椅子で手引きをする。二人で一人である。
S先生に「パリ・ローマに行きます。これは決定です」と報告した。S先生は「こんなに早くではなく、1年後でいいのではないのですか」と言う。腎臓のことしか考えてない。ALSでなかったら私たちも当然そうしている。私は「1年たてば必ず元気になるのですか」とにらむ。何も言わずに紹介状を書いてくれた。「8月末に行くということは手術して4か月です。今は安定していますが薬の調整中です。病気や発熱、怪我などしたら二度と日本には帰れないと思ってください」と念を押された。日本に無事に帰れたらきっと奇跡が起こる! 最悪のことも考えて、子どもたちには帰れなかったときのことも話し、覚悟をして出かけた。
JALでパリに。トイレや食事も私が介助した。アテンダントが手伝うと言ってくれたが、下手に動かすと痛いので「私の目になって下さい」とお願いした。主人は私の目になり説明してくれた。阿吽の呼吸にアテンダントも驚いていた。
パリに着く。まずは、凱旋門を見て夕食に行く。移植して何でも食べられるようになった主人は、おいしそうにぱくつく。「パリの夜に乾杯!」と何度言ったかな?「本当に来ちゃったね。連れて来てくれてありがとう」と私が言うと、「尚美が一番行きたかった街だからね」と主人が笑顔で言う。ホテルに帰り、お風呂に入ろうとしたが、猫足のお風呂は高く、主人の足を上げられない。仕方なくシャワーにした。
ギ・サヴォアで乾杯! 泣きそうになった
朝からルーブル美術館に行く。大変混雑していたが、障害者には優しく全く並ばなくてよい。すぐ近くで有名な絵画を見られる。主人は、大感激!
今日は私の誕生日。ギ・サヴォアでディナー。私は、暗くて何も見えないが、主人が、いつものように説明をしてくれるので問題なし。まずは、シャンパンで乾杯。「43歳おめでとう」と主人。「ありがとう、英夫」と私は最高にうれしかった。私が泣きそうになると、主人は「泣かない、泣かない」と笑う。おいしく楽しく、いただく。
私の一番気になっていたデザートに。その前に、大ハプニングが……主人はトイレに行った。でも一人で立ち上がれなかったので私を呼んだ。私が一緒に入るとスタッフがドレスを着ているマドモアゼルにさせられないと言う。私は、にっこり笑って「ありがとう」と言いトイレに入り出てきた。デザートをいた
だいた。デザートの種類の多いこと! もう食べきれないと残した。帰りに、お誕生日のプレゼントにお店の名前入りのデザート皿をプレゼントしてくれた。お土産だと言って食べそこなったデザートも箱詰めしてくれた。「残りのワインもお部屋で飲むか」と聞かれたが、「もう飲めないからお店のスタッフでどうぞ」と言うと喜んでくれた。サービス、雰囲気、料理すべてが、さすが三ツ星! 日本とは違うおもてなしに大満足。「また来年も絶対に来たいな」と言ってしまった。主人は、ニコニコしていた。
教会や美術館を見ながら次のホテルに移動。移植後で水分を多くとっていた主人は、トイレと言う。倉庫のようなトイレに入ったが、暗くて鍵が自動でかかり怖かった。お金を入れないと開かない。怖すぎ! これからもトイレには苦労することになる。
50段の階段を4人の男性が担いで
ホテルの中では、戦争だった。主人はお風呂を嫌がるし、怖がるのを無理やり怒りながら入れた。できないことばかりが多くなってきているのが悔しかった。「私がこんなに頑張っているのだから英夫も頑張ってよ!」なんて無理なことを言った。無理やり、力ずくで持ち上げ、フラフラになりながらお風呂タイムの終了。そこまでしてお風呂にこだわらなくてもよかったのに、私は意地になっていた。
お風呂ぐらいというか、お風呂にも入れないということの悔しさからなのか、本当に頑張らなくてもいいことまで必死になった。主人には、辛く嫌な思いをさせたのに、主人は「できる。できる」と言って頑張ってくれた。着替えてベッドに寝る。「気持ち良かったよ」と言ってくれた主人。疲れたし、しんどい思いをしたと思う。ごめんね。私は一度に教えてもらうことが多く、イラついて怒ったり、できないと泣いてしまうこともあったが、楽しい旅行にしたかったので、朝には忘れているように心がけた。
長いスロープの先にある船着き場から船に乗り、シテ島のノートルダム大聖堂に着く。ところが、船から降りると、50段はありそうな階段だけだ。降りられないね……戻るしかないね……相談していたら、男性4人で担いでくれると言う。最初は断った。危ないし階段も多いし、車椅子は電動でとても重いからと。でも任せておいてという勢いで皆が準備をするし、観覧者も出るし勝手に盛り上がってきた。男性たちが、主人を車椅子に乗せたままで一気に階段を上がった。皆の大歓声と拍手がすごかった。私は、日本から持ってきた飴を配りまくり、お礼を言って別れた。
スロープで転倒 でも救急車には乗らない
ノートルダム大聖堂で祈った。私たちがいつまでも幸せでいられますように……涙がこぼれた。ポツポツポツと雨が降ってきた。風邪でもひいたら大変。私がタクシー乗り場を聞いてくると言ってお土産物屋さんに入った。主人は、私のことが心配になり、店の横の急なスロープを勢い良く上った。そのとき、車椅子はバック回転して転倒した。いつも付けていた転倒防止の補助輪を外していた。パリは石畳が多くガタガタなので補助輪は取っていた。主人は、もちろん知っていたが、スロープが目につき、思わず上がって来てしまった。
頭から血が流れた。手も足も動かない。そんなときでも主人の手は腎臓をかばっていた。すぐ救急車が来た。間もなく救急隊員が動かない主人を見て、私に話しかけてくるが、動揺していた私は、涙しか出てこない。主人は、腎臓移植をしたことや免疫抑制剤を飲んでいること、ALSのことを話し、日本からの紹介状を見せた。でも、救急隊員にはよくわからなかったようだ。主人は救急車には乗らないと言う。入院したら旅行が続けられなくなるし、日本に帰れなくなると思ったらしい。ALSを発病している限りは、悪くなっても良くはならないからだ。「大丈夫です。後で必ず病院に行きます」と言い、救急車を帰した主人。お店の人は、親切でマイペース。鼻歌を歌いながらストールを主人の首に巻いてプレゼントしてくれた。
ホテルに戻って夕食を食べた。サービスも良い。スロープもあるし、トイレも部屋も近いので気持ちが楽だ。夕食もおいしく食べていた主人を見て少し安心。日本から持ってきた紹介状の内容が、伝わらないと不安そうな主人。私は「移植技術はこちらの方が上だから安心していたら? 2週間のことなんだから大丈夫だって」と言ったが、本心は、もし熱が出たらどうしようと心配だった。この日は早く休み、様子を見た。
ベルサイユ宮殿 ここも障害者に親切
べルサイユに移動。トリアノンパレスというアントワネットが使っていた離宮に宿泊した。さっそく散策に出かけた。ベルサイユ宮殿は休館日。私たちは、ベルサイユ庭園と知らずに迷い込んでしまった。前にはベルサイユ宮殿がドーン! 綺麗に手入れされた広いお庭。誰もいない。「私たち二人で歩いていたらアントワネットとルイ16世みたいねぇ」と言う。目の前にはどこまでも続く美しい庭やいくつもの噴水。2時間ぐらい散歩した。こんなぜいたくな旅行者はいないだろう。知らないって怖い。
この旅行は、良かったことも悪かったことも奇跡と偶然の積み重ねで終っていく。神様の導きがあったとしか思えない。
ベルサイユ宮殿に行く。ここでも障害者には親切で、混雑している所は、守衛さんが別ルートに案内してくれた。そこは誰もいない静まりかえったベルサ
イユ宮殿の廊下。扉の向こうは人だらけ。二人っきりで歩いていた。ドキドキ。思わず写真を頼んでしまう。長く続く誰もいない赤絨毯の上を歩く私と主人。「メルシィー」と私が言うと、主人は「厚かましい」と私に言う。その廊下の先にルイやアントワネットの部屋、隠し部屋、子ども
たちの部屋が続いていた。素敵だったが私たちは、もっと素敵な思い出を廊下で体験していた。大満足。
後でお庭を歩く予定だったが、今日は人だらけだ。「昨日は最高だったねえ」と言い笑った。二人だけのベルサイユ宮殿に二人だけの庭園なんて! 素敵なベルサイユ。「ベルサイユって宮殿の中は、もちろんすごいけど、丘の上に立つ宮殿の中から見るベルサイユの街や庭園、運河、いくつもの噴水、田園風景、そのすべてがベルサイユで、素晴らしいんだね」と主人が言う。私にも主人の感動が伝わってきてその風景が見えるようだった。
ホテルの方やお客さんと旅行の話をして、お茶を楽しんだときときに撮っていただいた写真が主人の遺影になった。今、リビングにも飾っている。
モンマルトルの丘で お気に入りの油絵を
パリ郊外のモンマルトルの丘に移動。ホテルの部屋の窓からお墓が見えて主人は、気を悪くしたので部屋を変えてほしいと伝えたら、謝罪してくれてスィートルームに変えてくれた。
主人は病気になって眠れてなかったようだが、旅行で疲れてかよく寝ていた。いびきグーグー。元気なときは、いびきで寝られないと喧嘩になったこともあったけど、今は、いびきを聞くと安心して眠れた。
朝食はバイキング。私たちには無理だな……と思っていたら、スタッフが取ってきてくれた。私が見えない目で介護をしている様子を見て感動していた。朝食なのにテーブルには所狭しと並ぶ。「チーズは好き?」と聞かれて「大好き」と答えたら何種類あるのっていうほど並んだ。さすがはフランス!
坂道をどんどん上がると、パリ市内を一望できる丘の上に立つサクレクール教会に着く。入り口には長く続く階段。スロープもない。中に入れない。うろうろしていたら絵描きさんが近寄って来た。私たちは、教会に入りたいことを告げたら、知り合いの信者さんに相談してくれ、裏口を教えてくれた。裏に回ると静かで少し怖い。ベルを押しても返事なし。ここは無理かなと諦めようとしたとき、絵の修理をする人が入っていった。慌てて一緒に入った。訳を話し教会の上まで行きたいと話した。無愛想だし英語は通じていないようにも思えたが、必死で何度も話すと、隣の建物にエレベーターがあり、上に行けると教えてくれた。
鉄の二重扉の裏にそのエレベーターがあるが、古くボロボロ。エッ!板だけ? いき過ぎたら落ちるやん……でも主人は車椅子の運転に自信があるらしく、行こうと言うので、誰も乗ってない板だけのエレベーターに乗り最上階に行った。無事に動いて到着。そして、誰もいない廊下を通り、何枚かの扉を開けて進むと、ざわざわ……また奇跡が起ったと鳥肌が立つ。ドアを開けると、たくさんの人たち。手を合わせ、長く目を閉じた。「日本に帰れたら奇跡が起こりますように。どうか幸せでいられますように。主人に幸せを……」。何度も祈る。主人は何も言わずに涙を流していた。車椅子でここまで上がってきた日本人がいるのかしら?と思うと奇跡が起こりそうな予感がした。
主人は、フランス人の若い男の子が描いた絵を気に入り記念に油絵を買った。この丘から見たパリ市内の絵で点描画らしい。今、玄関に飾ってある。
ホテルのコンシェルジュに夜に楽しめそうな所はないかと聞くと、地元の人がよく行くシャンソニエを予約してくれた。早い時間だったせいか地元の人ばかり。日本から来た私たちのために聞き覚えのある曲を何曲か続けて歌って踊ってくれた。手も繋いでくれたので軽く踊った。聞き覚えのある曲もフランス語なので、あ〜こんな風に歌うんだ〜こんな風に踊るんだ〜なんて思いながら私たちはシャンソニエを楽しんだ。小さな小屋のシャンソニエ。気さくで陽気で楽しい人たち。簡単な食事と地元のワイン。昔から続く踊りや歌。フランス人の心に触れたような気がした。
ローマ バチカン市国 よくぞここまで
ローマに行く。ホテルに着いたら何と、フロントまで20段はあるかと思う下り階段が……すぐフロントに。「メールで車椅子でも大丈夫か聞いてあった」と交渉した。すると「立つことくらいはできると書いてあったから支えるし、階段を降りられる」と言う。「絶対に無理」と断る。スロープも急で無理だし、どうしようと思っていたらホテルの人が他のホテルを探してくれた。
トレビの泉に出かけた。以前、二人で来たときに、また来れるようにとコインを投げていた。「来れたね。コイン投げる?」と聞くと主人は、首を横に振った。写真もたくさん撮った。いつもは、私の写真ばかり撮る主人だったが、今回の旅行は、主人の写真を撮らせてくれた。
真実の口へ移動。ここもすごい行列だったが、並んでいた私たちに来るように合図するので行くと、エッ!と思う所の柵が開く。次の人を止め、私たちを
先に入れ、私の手を真実の口に突っ込み写真を一枚撮る。次は主人の手を入れてまた一枚撮る。もういいかと聞くから二人の写真もと言う。
バチカン市国に行き、教会を見て回る。主人と私は長く手を合わせた。私はいつも主人に幸せを……と祈る。よくぞここまでたどり着いたなと思い、感無量になる。
ローマの最後の晩餐は夏の夜らしく外で食べた。歩いていたら口笛を鳴らすので手を振ると、こちらに近づいて来る。主人に叱られてしょんぼり。立ち止まって音楽を聴いていたら話しかけてくる。これから食事だと言うと、ここの店が一番おいしいと言うので素直に最後の晩餐の店に決めた。飲んで食べて音楽を聴いて楽しんだ。
パリに戻り、空港の近くで宿泊する。
最後のフランスだ。2週間の旅行も何とか無事に終わりそう。心と体を休め優雅に過ごした。この旅行でどれだけの人たちに助けられただろう。アテンダント、車椅子を押してくれた人、車椅子を運んで階段を登ってくれた人、切符を買ってくれた人、道を教えてくれた人、ホテルマン、トイレを手伝ってくれた人、食事のお世話をしてくれた人、救急車を呼んでくれた人、スカーフを主人の首に巻いてくれた人、私が日本から持って行った飴が全部なくなってしまった。足りなかったぐらいだ。素敵な出会いやハプニングがたくさんあった。旅行中は病気の話は一度もしなかった。ゆっくりとお風呂に入り眠った。
最後の大ハプニング 地下鉄で行けって?
空港行きのバスに乗る。すると、最後の大ハプニングが……道が工事中。途中から地下鉄で行けと言われ、バスを降ろされた。えーっ!と思ったが仕方ないから降りるとバスは、すぐにいなくなる。ドキドキしながら駅に行くと何と!階段とエスカレーターだけ。やっぱり……こんな所が多いのよね。エレベーターは工事中だった。階段が20段くらいだったけど主人には無理。困っていたら女性が声をかけてくれた。降りるのを手伝ってくれると言う。主人は一人では立てないと言うと、男の人を呼んで手伝ってもらえと言う。私が主人の後ろを支え、男の人が主人の前に立ち支え、エスカレーターに乗る。主人はスーツケースを離したらダメといったが、取られてもお土産と着替えだけだと言って私は荷物を置いた。女性が荷物と車椅子を持って降りてくれた。
治安が……なんて思わなかった。私一人では、どうしてもできないことがある。誰かに助けてもらわないと仕方ない。何が大事か考えたとき、主人をとれば荷物は捨てるしかない。二人で日本に帰るためにはこの二人を信じるしかない。結局、二人とも時間がないのに足を止めてくれて、手伝ってくれた。最後にまた良い人に会えた。「日本に来てね」なんて言ってお別れした。疑わない私を主人は呆れたが、疑っていたら二人では帰れないから仕方ない。
無事に空港に着く。私は、帰りの飛行機の中で気づいた。行きより主人の体が重たく感じる。たった2週間で悪くなるはずがないと思いたかったが、手も足も動きが悪い感じだ。思い過ごしかも……と打ち消す。
無事に日本に帰れたが奇跡は起こらなかった。
車椅子 ド・ゴール号と名づけて
パリから戻り、主人は、電動車椅子にド・ゴール号と名付けて毎日外に出かけるようになった。途中でランチもした。移植して何でも食べられるようになった主人は車椅子が入って行ける所は、どこでも入り、何でも食べていたが、それもつかの間で飲み込みにくくなり、咳き込むようになり、食べられないものが増えて、外食ができなくなる。毎日通った大好きなパン屋さんもダメになり、外食はやめた。
車椅子のハンドル部分も工夫に工夫を重ねていただいた。それでも手がうまく動かなくなり、くるくる回る。できなくなることばかり。維持することもできない。どんどんできなくなっていく自分の姿に気づきたくなくても気づかずにはいられない主人。ショックを受けたり、ため息ばかりになる。それでもまだ工夫をすれば何とかなると思っていた。この部品さえ変えれば何とかなると。それでも諦める時が近づいてきた。
1月25日は二男の誕生日だった。私たちは、ふらふらくるくるして、うまく動かないながらも車椅子で5キロはあるだろうケーキ屋さんに行けた。家族揃ってお祝いした。このときまでは家族4人の笑顔があふれていた。
2月6日、主人の50歳の誕生日にはもう車椅子で出かけられなくなっていた。うれしいはずの誕生日がこんなに悲しくつらい日になるなんて……つらくて笑えなかった。主人は、ケーキを食べようとしてもすぐに咳き込んでしまうので一口しか食べなかった。
そして、手動の車椅子を押せない私はもう2人で外に出ることはなくなった。できなくなるときは一気に進む感じ。早い変化に私も主人もついていけない。
食事 食べることが大好きだったのに
水が飲みにくくなるのが最初だった。少しずつとろみをつける。味やカロリーの制限がないのはありがたいが、咳で口の中のものを飛ばす。手を口に当てられないから周りに飛びまくる。私は、汚いと怒ってしまう。怒っても仕方ないのに……わざとではないのがわかっていても怒ってしまう。主人は、苦笑いをして気まずそう。食べる量もどんどん減ってきて痩せてくる。なんとか自分の手で食べていたが、手が上がらなくなり、私が手とスプーンで食べさせた。
最初は主人が顔をうまく動かして食べてくれていたが、首が動きにくくなってからは、目の見えにくい私がスプーンを使っても、うまく主人の口には、入らない。スプーンの裏表が逆になっていても気づかなかった、鼻に突っ込んだりと悪戦苦闘だ。主人も嫌な顔を見せるようになった。食べることもままならないのだから当然だ。飲み込みにくくなる。食べられないものばかりになった。
腎臓移植をして何でも食べられるようになったのに、またレトルトの介護食になった。悲し過ぎた。食べることの好きな主人だったが、もう食べたいと言わない。おなか空いたとか食べたいとか全く言わなかった。食べることさえ苦痛になっていたのだろう。どんどん痩せてくるのがわかる。見ていてつらい。食べられるように工夫しても、すぐに食べられなくなる。胃瘻を作ろうよと私は何度も言ったが、主人は返事をしない。首を縦には決して振らなかった。そのころから人工呼吸器もつけないと決心を固めていた。主人は死を意識していたはずだ。
お風呂 週3回の訪問入浴に
お風呂は、毎日入った。ヘルパーさんは、いらないと言う。看護師さんも中には入れない。お風呂の外で待機してもらい、足を上げてもらって湯船に入れたり出たりのお手伝い。気持ち良さそうな顔をしていた。「毎日でなくてもいいのでは?」と言われたが、これぐらいの楽しみしかなくなったんだもの。頭も毎日洗う。溺れるように思うらしく怖がるのでシャンプーハットを使う。お風呂から出るのが難しくなる。風呂場の移動も危な過ぎ。看護師さんに足を動かしてもらうのも怖いから怒る。
もう二人で入るのは危な過ぎと、週3回訪問入浴をお願いした。主人は可動域が少ないので着替えが痛い。すぐ私を呼ぶ。ベテランの看護師さんが来てくれているが、主人は自分の思うように動いてくれないのが苦痛のようだ。一生懸命主人の話を聞いてくれているが、うまく伝わらない。私が看護師さんたちに口出しをしすぎても嫌な思いをされると思って見ていたが、主人があまりに怒っているので見ていられなくなり、着替えだけは私がした。でも入浴中は私は別の部屋で休憩していた。唯一の私の時間だった。主人も私の気持ちを察してくれていた。見えにくい私に代わって爪切りや耳掃除をしてもらう。この頃から家に訪問医もお願いした。こんな状態でも私にはほとんど怒らなかった。怒るのはいつも私一人だった。まして他人に大声を出している主人を見たのは初めてだった。
トイレ 悪戦苦闘が続く
最初は自分で行っていた。私が入ろうとしたら、出ていくように言われた。「エッチ!」と笑う。そのうち入って見ているようになり、一人で立つことが難しくなってきた。自分一人で立ち上がれるトイレと、なんだかんだと言っても一人では立ち上がれないトイレに分かれていき、一人では行けるトイレが一つ二つとなくなり、運が良ければ一人でできたというようになる。そのころは、ずいぶんとトイレの評価をしたものだ。ここは、広いとか狭いとか、持つところが高いや低いとか、使いやすさに点数をつけていた。できなくなっていく自分を見るよりトイレの点数をつけることでトイレのせいにしていた。
そんなころ、ポーチから家に入る前に間に合わずに粗相をしてしまった。恥ずかしそうに悔しそうに情けなそうにしていた主人。長男がいたので呼んで着替えを手伝ってもらったが、しょんぼりしていた主人。長男もショックだったのだろう、何も言わずにポーチを洗っていた。そして粗相する前にと言い、紙おむつを勧めた。腎臓移植後で水分をかなりとっていたのでトイレの回数が多く、仕方なかった。最初は嫌がった。早めに言うからと言ったが、外に行くときだけはしておこうと言いながら、私も泣きそうになった。いざ、紙おむつをする前には、ふざけて落書きをして怒られた。嫌そうだったが、我慢してもらった。でも外で転倒する心配だけはなくなった。外のトイレで倒れたら私一人では起こせないと、すごく心配していた。これで安心して外に行けた。
トイレだけはそれからも悪戦苦闘が続いた。家でもだんだん大変になってくる。見えにくい私がトイレの介助をするには、ある程度主人が自分で足を動かせないと無理である。私の片手で主人の体を支え、片手でトイレや部屋の壁を触って移動する。主人の足が一人で動かせなくなる、私一人では主人をトイレに連れていけない。
トイレに行けなくなるまでにそれほど時間はかからなかった。尿のときは紙おむつにしても、便のときはトイレに行かないと頑張れないからと、やっとの思いで便座まで連れて行き座っても、腰に力がなく、滑り落ちそうになっていく。腹圧も弱くなる。おなかのマッサージをしながら綿棒で肛門を刺激したり、それでも出なかったら摘便をした。最初は怖いし、本人も私もかなりの抵抗があった。そこまでしても出ないときは看護師さんを呼んで浣腸をした。最後までトイレですると言っていたが、最終的にはベッドでするしかなくなった。このことだけでも何時間もかかることもあった。主人も私もくたくたになった。それでもベッドでしたのは入院する3日前からで2回だけだった。進行がはや過ぎて私の努力が追い付かなかったが、その分主人は嫌な思いは少なかったのかもしれない。
ケア 他人にしてもらうのは苦痛だったはず
歯磨きもできなくなる。布でふき取るようになるが、そのうち口を開けるのもだるくなり嫌がった。
足は水虫になる。免疫抑制剤のせいか体が弱ってきたからか、週に3日お風呂に入れてもらい、外出もしてないのに、まるで弱くなった体がわかっていて襲われているようだ。看護師さんに爪や歯のケアをマメにしてもらっていたが、よくならない。かゆいとも気持ち悪いとも言わない主人。怒りやすくはなっていたが主人はかなり我慢をしていた。いつも清潔できちんとしていたもの。私ができないことが多いからかわいそうだ。当たり前にしていた自分のことを自分でできなくなって他人にしてもらわないといけないのは、かなりの苦痛であったはずだ。
通院 何の薬も治療方法もない……
腎センタ−のS先生は腎臓のことしか考えてないから旅行はダメとかクレアチニンの数字とかばかり気にしていた。もうそんなのどうでもよくなっている。主人が生きていくのに何が必要か考えてくれていない。モルモットにしか思っていないように思えた。奈良からの通院がこんなに大変なのに……尿検査? トイレで尿を採ることがどんなに大変だと思っているのか。通院回数を減らしてくれたらどんなにか助かるか……。
移植をしていなかったら人工呼吸器を付けて生きる道を選んでいたかもしれない。薬だって飲めたかも。どのように変わっていたかもしれない。ALSと知っても移植したかもしれないし、してなかったかもしれない。でもALSとわかっていての選択なら納得もできた。何も知らずに移植して、手術後2か月でALSの宣告はあまりにもひどいではないのか。
ALSの進行がはや過ぎた。神経内科にも月1回診察に行くが、何の薬も治療もないようだ。近況を話すだけ。体全身に脈が走っているから始まり、足が動きにくい、手が動きにくい、水が飲みにくい、食事が呑み込みにくい、首が落ちる、言葉が話しにくい、怒りやすくなる、散歩が行けなくなる、痰が貯まる、どんどん続く。そこからは胃ろうを造るかどうか聞かれた。主人は造らないと首を横に振って見せた。言葉は話せるが、声は出さなかった。
N先生は無理には勧めない。造らないとどうなるか説明はするが、それ以上のことは言わない。呼吸器のことも何度か説明をしてくれたが、主人が付けないとばかりに首を横に振って見せるとそれ以上は勧めなかった。私は基本的には先生と主人の話には割り込まないようにしていたが、さすがに人工呼吸器の話なので不安になり先生に聞いた。「先生がこの状態ならどうされますか?」と聞く。きっと答えないと思ったけど、しっかりと私たちを見て、「自分なら付けない、でも家族なら付けてあげたい」と言った。主人は、涙を流してうなずいた。
コミュニケーション 頑張って訴えようとしていた
話し声も小さくなり、何を言っているのか、わかりにくくなる。私には主人の目の動きを読めないので、透明文字盤は使えない。私は主人の目に手を当て、声で、「あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ」と言い、主人に目をパチパチとしてもらい、言葉を繋げていった。
私を呼ぶときは声ではなく、緊急に呼ぶボタンを使う。すごい音だ。飛んで行って言葉を聞き取り、用事をする。手を右にとか、かゆいとか、水とか。そして私が席を立つと1分とたたないうちにまた大きな音で呼ぶ。その繰り返し。聞き取りを間違えたら大きい目を見開いて訴える。怖い。
大きな声でうなるように訴える。何を言っているのか聞き取れないし、顔の表情が見えないので想像がつかない。聞き取るのに時間がかかる。かゆいとか気持ち悪いとか、生理的な欲求だから仕方ないのに、何度も呼ばれると私もまたかと思ってしまった。もう私を呼ぶ音が頭から離れなくて変になりそう。私は、泣いたり怒ったりイラついたりした。でも、なぜか変になれなかった。私がいないと、私がしっかりしないと、という気持ちがあった。こんな状態でもヘルパーさんをお願いしようとは考えなかった。私たちは二人の時間を大切にしていた。誰にも邪魔をされたくはなかった。
主人がイラついたり、怒るようになるのは当然のことだ。かゆさを我慢したりしんどさに耐えたりは誰でもつらい。それでも主人は自分の欲求を頑張って訴えようとしていた。この頃までは。
痰の吸引 私の英夫が必死で闘っている
痰の吸引が始まると、かゆいとか、手を動かしてほしいとか、そんなことで呼ばなくなった。息苦しいばかりになる。それはもう言葉ではない。顔のゆがみや、ガラガラという喉の音で示した。できないことのつらさや我慢、生理的な我慢を通り超え、ただ苦しさと恐怖の訴えになる。私はそんな主人の様子を見ているのが怖くなる。必死に訴え苦しんでいる主人。怖かった。主人の恐怖が伝わってくる。私がしなければ。私がしっかりとしないと英夫が死んでしまう。寝ていても呼ばれているように錯覚をした。
溺れかかっている主人。私の目の前で助けを呼んでいる。痰の吸引をして助けても、またすぐに溺れかかる。私が苦しいかと聞くと、目をパチパチさせて必死に訴える。「大丈夫よ。吸引にも慣れてきたわ。上手くなったでしょ?」と声をかけているが、手は震えていた。私は、怖くない、私にもできると、自分に言い聞かせていた。
朝晩問わず24時間だ。長男と二人で看病をし続けた。今、思えばかなり無理をした。主人もしんどいし、私たちも限界だった。いろんな方法を考えるべきだったのかもしれない。毎日必死で向き合って気が変になりそうになっていた私には、誰にどんな相談をしたらいいのかさえ見当もつかなくなっていた。今を必死にこなしていた。自分の時間がほしかった。逃げ出したかった。でも、こんな私を主人は頼ってくれた。私も主人をほっておけない。誰にも任せられない。私の英夫が必死で闘っているのだから。
マッサージ 手はいつも触っていた
主人は私が体をさすると気持ち良さそうに笑う。私が足コチョコチョとか、お手てツンツンとかすると楽しそうにしてくれた。肌の感覚は、問題なしなのでたくさん触った。特に手は、横にいる間いつも触っていた。そんなときなんかは、時間をかけて旅行の話をした。たくさん撮った写真や失敗談を思い出した。主人は私の写真を見ては、「かわいい」と言ってくれた。「きっと目も悪くなってるのねぇ」と笑った。「たくさんの親切な人たちに会えて良かったね。楽しかったね」と言いながら何回も写真を見た。主人はすぐに涙ぐむ。
だんだん手もグーッと握りしめるようになったが、私は指を一本ずつ緩めて手をつないだ。だから手だけは意識がなくなるまで固まらなかった。私の手には、今も主人の手の感触が残る。細く少し小さくなった手、少し汗ばんだようにしっとりした白い手。か弱く、力なくなった手、それでも私の手を握ろうとしてピクピクと指を動かしていた。男の人の手なのに優しい手。温かさも優しさもしっかりと残っていた。
ベッドへの移動 できるだけ二人きりで頑張る
車椅子からベッドに移動するのにも体は重く、硬直していて難しくなる。バランスを崩すと後ろや私に倒れかかる。失敗をして畳の上に滑り落してしまった。そうなると私一人では起こせなく、弟と母に来てもらう。シーツをひいてハンモックの様に持ち上げる準備をした。私は、涙をポロポロ流し「ごめんなさい」とあやまった。もうどうしても自分だけでは無理なの……どうしていいのかわからなかった。弟に足のほうを持ってもらい、私が頭の方を持ちベッドに戻した。そのときも弟は「頭の方が重いからお姉さんは足を持って」と言ってくれたけど、頭の方を弟には任せられないと思った私。大変そうな様子を見た母は手伝いに来ると言うが、私たちは、二人きりで頑張る道を選んでいた。主人もそう望んだし、私もできるだけ主人との時間を大切にしたかった。誰にも邪魔はさせないと思っていた。
いくらなんでもお母さん一人では無理やろ?
2011年4月腎臓移植をしたころは、家族4人揃っていた。子どもたちは、移植には難色を示していたが、移植の必要性を話すと「お母さんがどうしてもすると言うなら仕方ないやん」と言い、手術前のカンファレンスに参加してくれた。6月にALSと宣告されたが、すぐには子どもたちには知らせなかった。
8月のパリ・ローマに行く前にALSのことを告げてから出発した。長男23歳、次男21歳、学生。旅行から帰ると2人とも、ALSの病気のことや治療のことを自分なりに調べていた。「なんで移植前にわからなかったの?」と言い、涙を浮かべた。
10月ごろ、人工呼吸器や胃瘻の話をした。「また手術するの? お父さんの体、食べることも呼吸することも人工的にするなら、サイボーグみたいになるやん……それで本当にいいの? それしかないの?」「もう一度、ALSかどうか調べ直してもらったら……僕も最新の医療を調べてみるから。どこかの大学病院で治験しているかもしれない」
普段は、私ができないことは素直に手伝ってくれた。血圧を測り、血糖値を測り、インシュリンを打ち、記帳してくれた。私が困っていたら助けてくれるお助けマン的な存在であった。
2012年3月には、次男が仙台に行くことになり家を出た。私は、少しほっとした。これ以上大変になっていく姿を見せたくなかった。長男は、就職先も決まっていたが留年すると言い出した。
「いくらなんでもお母さん一人では無理やろ?」「何言ってるの! あんたは卒業して働きなさい!」と言ったが、もう決めていた。私は長男をかわいそうに思ったが、ありがたくも思った。長男は「お父さんには元気になってほしいけど、人工呼吸器のことは、お父さんが決めたようにしてあげよう。その結果、僕にできることを考えるから」と言った。
お母さんに時間をプレゼントしてあげよう
6月に亡くなるまで私が髪を振り乱し、お化粧もしていないときなんかは、急に帰ってきて「お母さんに時間をプレゼントしてあげよう」と言い、私が私らしくなれるようにしてくれた。主人が紙おむつを初めて付ける前、長男が先につけて登場した。私は、かわいく絵を描いた。主人は、呆れて怒ったが、笑いながらおむつを付けてくれた。
夜の痰の吸引も文句一つ言わずに眠い目を擦りながら代わってくれた。それでも、基本的には主人と私の二人の時間をいつも大切にしてくれて、私ができることを取り上げたりはしなかった。彼が何かあれば助けてくれると信じていたから、主人も私も二人の生活を選べたのだと思う。
最後に入院したとき、長男は高熱で倒れ、涙を流していたようだ。私の前では、いつも明るく、ひょうきんだった。主人の意識がなくなったとき、私は半狂乱に泣いてしまった。そのときも彼は黙って私を支えてくれた。
次男も知らないうちにこんなことになっていて驚いたが、電話をしたら飛んで帰ってきてくれた。疲れている長男に代わり次男が頑張ってくれた。私が病院を留守にする間、お父さんを見ていてくれた。寝ているお父さんを見て「起きそうやけどな……」といいながら涙ぐむ。
覚悟しないといけないと思ったに違いない
5月に熱が出て救急車でS病院に入院した。家ではベッドやマットもかなり微調整をして生活をしていた主人には救急車も病院のベッドも辛いのだ。入院中も早く帰る、帰ると言う。熱が下がったら次の朝には帰ると言う。先生の言うことも聞く耳なし。先生は、次に入院したらモルヒネを使うと言った。どうして本人に直接話したのだろう。主人は覚悟しないといけないと思ったに違いない。二度とここには来ないようにしないとと思ったはずだ。
家に帰ると主人はほっとした顔をしていた。本当にうれしそうにしている。家が良いんだなぁと思った。当然だがまだまだ死にたくないんだなと思った。
最後の1か月 私も必死で吸引器を持つ
最後の一か月。胃瘻も付けていない主人。栄養も足りていないからおなかが空いているはずだが、何もほしがらない。食べては咳き込む。痰もたまるし、呼吸が苦しいみたいだ。少しずつとろみをつけた水分や栄養ドリンクをスプーンで飲むぐらいになる。痩せてくる。唾さえ飲み込めず、唾で咳き込むようになる。ごろごろと喉を鳴らす。家で吸引器を使うようになる。
私と長男が吸引をする。朝も昼も夜もである。長男は家にいるが、昼間は就活や大学が始まっていていないので私がするが、主人にしても見えない私が喉にチューブを突っ込むのであるから怖がる。それでも吸引したら楽になるとわかると吸引したがる。私もだんだん慣れてきてうまくなった。
言葉を読み取る、吸引をするの繰り返しになり、家のことも自分のこともできなくなった。トイレに入っていても呼び出し音が鳴る状態が続く。夜は寝ていても息苦しさと恐怖が襲うようである。寝られない日が続いていた。昼間、寝ているのがしんどいから車椅子に乗りたがるが、車椅子だと唾がたまりやすく、吸引がやりにくい。寝ることも多くなる。目を大きく開けて訴えている。苦しそう……痛そうに顔をゆがめる。私も必死で吸引器を持つ。手がしびれる。おむつを替える。摘便をする。呼び出し音が鳴る。言葉を聞く。スプーンで食事をとる。歯を磨く。水分をとろみをつけて飲ませる。体を動かす。お風呂介助に来てくれる。人がバタバタ出入りする。昼間はそんな感じで過ごす。
夜は長男がいてくれるので吸引を手伝ってもらう。私は主人のベッドの下で寝ていた。何かあればすぐに起きられるようにだが、主人は不安や考えることもあるし、痛みもあるし、夜はなかなか寝ていられないようだった。夜も吸引をしないといけないので、長男がいないと1時間も寝られない。交代に寝るようにする。
私は、夜は昼より目が見えにくくなるので動きが鈍くなる。慎重にしないと間違いが起きたらとも思うから余計に遅くなる。チューブを落として探したり、消毒をしたりも時間がかかる。主人は大きな目を見開いて喉をガラガラと鳴らし苦しいと訴える。私は慌ててしまう。初めてのことばかりで怖いし見えないから自信を持ってできない。教えてくれる看護師さんも見えない人に教えたことがないようで困っていた。もともと危険が伴う行為なのに私の目でさせるのだ。また他にする人もいないのだから困るのは当然だ。
世界の中で二人だけだった時間
私も主人も二人だけの生活を望んだが、それが一番良い選択だったかどうかは後で考えると違ったようにも思える。うまく人に頼り、楽しい介護を選んでいたらどうだっただろう。二人っきりで誰にも邪魔をさせない介護は主人や私にとって、しんどいことだった。しかし、それはそれで納得がいくというか、後悔がないというか、特別な時間の共有をしたように思う。
結局は、二人だけで生きる道を選んで良かったのか、助けてもらえば良かったのか、わからないままである。ただ主人が亡くなるまでの数か月は私と主人にしかわからない世界で特別な時間の共有をしたと思っている。そして今は私の胸の中にだけしかあのときの主人はいない。世界の中で二人だけだった時間。私だけが知っている主人。それでも主人が幸せだったか、どう考えて過ごしていたのか、いまさら知る由もない。主人の体の重みが残る。曲がってしまった私の指に痛みが残る。今はその痛みも消えた。
熱が出て救急搬送
ベッドから滑り落してしまった日、熱が出た。看護師さんを呼び、訪問医に来てもらう。主人は病院にはいかないと言うが、訪問医は家より病院の方が痰の吸引も良いのがあるし、熱もあるから病院に行った方が良いと言う。S病院には、行かないと言う。主人の意思を尊重してN病院に救急搬送した。主人は熱さえ下がればすぐに帰るつもりで入院した。熱はすぐに下がった。もちろん、主人はその日のうちに帰ると言ったが、先生は「今帰っても同じことです。またすぐ入院です。食事ができない限り入院した方が良いです」と言う。いま思えば、なぜ絶対に連れて帰ると、言いきらなかったのだろう。悔やまれる。
主人は、それならS病院に行くと言う。すぐに電話して、次の日、S病院のN先生と相談することにした。N病院では、ベッドが痛いし、話が通じない。看護師も忙しさにかまけていて、ゆっくりと聞こうという姿勢が見られない。「とにかく一晩だけ我慢して」と言い、私は帰ってしまった。次の日、私は急いでS病院に行く。先生に話すと今はベッドが空いてないという。そんなことなら電話で話してくれたら良いのにと思った。
急いで戻ると主人は看護師に一生懸命に訴えていた。私がS病院のことを伝えたらショックだったらしいが、2、3日でS病院に行けるよと伝えた。それまでに家に帰れるかもしれないしね。もうそんなに待てるだけの体力がなくなっていることに気づきもしないで。私は、主人を待たせてしまった……家に連れて帰るかS病院に連れて行くかしないといけなかったのに。一刻も待てなかったのに……その日も私は帰ってしまった。主人を看護師さんに任せて。毎日の看病で疲れていたし、家で休みたかった。静かに過ごす時間がほしかった。それに看護師さんに任せて安心だと思っていた。痰の吸引も上手だし栄養も点滴で取れている。何より私と違ってプロだものと……。
お父さんの様子がおかしい
次の日、長男に朝一番に病院に行ってもらった。するとすぐに電話がかかってきて「お父さんの様子がおかしい」と言うので飛んで行った。すると主人はぐったりしていた。やっとの思いで言葉をたどったら、「あの看護婦悪い」。私が帰った後で何があったのかわからないが、私が家で休んでいた間、主人は寝ないで戦っていたと気づいた。「ごめんね、ほっといて」とあやまる。
それからはもう亡くなるまでの1週間は、一度も主人一人にはしなかった。完全看護でもALSに慣れていない病院では、とてもではないが任せてはおけない。泊まり込んで一日中私が一緒にいた。二男も帰省してくれ、三人で交代しながら看病をした。いつものように、「あ・い・う・え・お」を口で言うと目で合図をしたが、主人はもうあまり話さなかった。疲れていたのだろう。諦めていたのかもしれない。「明日にはS病院に行くからね」と言い励ました。主人にとっては1分も待てなかったはずなのに……私はなんて薄情な言葉を軽々しく使ったのだろう。1秒たりとも待てない主人の様子を考えてせめて家に連れて帰ってあげたら良かった。もっとわがままを言えたのに……少しでも楽にしてあげられたかもしれなかったのに……次の日には薄眼を開いたままになった。もうS病院への移動も無理になる。
「家から近いこの病院で家族みんなに看病されている方が良いと思う」と長男が言う。「お父さんの意識がなくなった今は家族皆で見ていてあげよう」と言う。そして病院の先生がモルヒネを考えようと言う。長男は、そこまでしないでほしいと言う。私は主人との約束だから苦しまないようにしてほしいとお願いする。先生は私たちの意思を尊重してくださり寝ている状態にしてくれた。
ありがとう さようなら英夫
なんだか話したそうな感じ。腕が動いたようにも思う。まつ毛が動いたようにも思う。今にも、目を開けてくれそうなのに寝ていて起きない。苦しくはないはず。「お願いだから起きてよ」。何度も耳元でお願いした。もう一度だけ目を開けてほしかった。私を見てほしかった。でも心臓が止まる……これで苦しみからも恐怖からも解放される。私たちのことは大丈夫よ。安らかに眠って。ありがとう。さようなら英夫。
|
| ページトップ |