連載第 19 回
思い出の場所


姫路市 大多和 清子



ALS を告知されてから気管切開をするまでの約1年9か月の間、夫といろんな所へ行きました。大好きな北海道へは杖をついて、翌年は車椅子で……。
浜坂温泉、天橋立、福井の三方五湖、播磨中央公園のチューリップ、京都の城南宮、そして和歌山のすさみが最後になりました。

いま 思いめぐらすのは……
人工呼吸器を着けて8年が過ぎようとしている今、ふと思い出すことがあります。あの場所は今どうなっているのでしょう……。
旅行は東北と沖縄以外は行っています。しかし、思いめぐらすある場所があります。

神戸市須磨区月見山です。

月見山は青春時代のほとんどを過ごした場所です。
山陽電車の月見山駅を下車して南に目を向ければ、真っ直ぐにつづく道。線路を渡ってすぐ西側に小さな本屋さんがありました。本はたいてい三宮で買っていました。その本屋さんに一度入ったことがありました。中年のおばさんが店番をしていました。「ドクトルジバゴ」を探していたので、まさか小さな本屋さんにはないと思いつつ聞いてみたところ、「注文できますよ」と予期せぬ答えが返ってきました。早速、注文しました。約1か月たったころでした。ちょうどお休みで寮にいたとき、本屋さんのおばさんが、わざわざ注文していた本を届けてくれたのです。たった一度しか訪れたことがなかったのに……。70 年代初頭の下町の人情に触れた気がしました。今でも、そのおばさんの顔を覚えています。お元気でしょうか。

「ドクトルジバゴ」は先に映画を観て感動したので、原作を読みたくなって探していた本でした。

本屋さんの隣はクリーニング屋さん
本屋さんの隣はクリーニング屋さんがあり、よく利用したものです。
本屋さんの向かいに「ノンノン」という喫茶店がありました。私が好きだったメニューはピラフの上にカレーをかけた「カレーピラフ」でした。二度おいしさを味わえたのですからお得感がありました。そしてもう一つ「イタリアンスパゲティ」。ステンレスの楕円形のお皿に盛りつけされたイタリアンスパゲティの味を今も覚えています。
トマトジュースの美味しさを知ったのも「ノンノン」でした。

「ノンノン」の南を少し行くと角に銭湯があり寮のお風呂がお休みの日はルームメイトの京子さんと通ったものです。
その頃かぐや姫の「神田川」が流行っていました。

銭湯の東に路地が続いていました。昔からのお店が軒を連ねていて、お好み焼き屋さんが2軒あったのを覚えています。

駅からの道に戻ると、いきなり大通りにでます。視界が開け、少しいびつな十字路になります。西の角には銀行があり、南には「ミスタードーナツ」がありました。しかし、1度も行ったことがなかったのです。ドーナツを揚げる匂いが風のいたずらで寮まで運んでくれたからです。隣は小物家具や、カーペットなどのインテリアの店。隣には観葉植物の店。たった1度アイビーを買いましたが、すぐに枯らしてしまいました。

そして私が住んでいた寮が店舗の4階にありました。

その少し南には私が住んでいたころ、ジーンズショップがオープンして、この街で初めて洋服を買ったのでした。お母さんと息子さんの二人でやっているうど
ん屋さんが開店していて、2、3回食べに行った記憶があります。

道なりに南下すると「鳥光」本店がありました。現在のように焼鳥屋さんのチェーン店がない時代だったので貴重な存在でした。焼き鳥はもちろんのことキャ
ベツに塩をふって食べることの美味しさを再発見したのもこの店でした。

♪海のみえる放送局♪ テーマ曲はよく覚えています
南にはラジオ関西がありました。♪海のみえる放送局♪ そのテーマ曲は今でもよく覚えています。

当時、大丸百貨店の1階で「ベッコ スクエア」という公開生放送がありました。京子さんと私はよく大丸百貨店にショッピングに行っていました。その日も訪れていました。生放送のラジオ番組があるというので一番前の席に座りました。ステージと客席がそんなに離れていませんでした。この番組は今風にいうならインディーズのバンドやメジャーデビューしたてのバンドが出演していました。多分3、4組のバンドが出ていたと思います。最後は「アリス」が2曲歌い終わったあと、べーやん(堀内孝雄さん)が私たちに「君たちどこから来たの?」「須磨からです」と答えると、「僕の奥さんも須磨なんだよ」と気さくに話しかけてくれたのがまるで昨日のことのように思い出されます。ラスト曲「青春時代」を聞いたとき、なんていい曲なんだろうと思いました。その後「アリス」は次々とヒット曲を出しました。しかしあの「青春時代」は二度と聞くことはありませんでした。

私にとっては幻の曲となりました。

大通りの東は比較的新しい建物が連なっていました。一番南にはこの辺りではやや大きい喫茶店がありました。うろ覚えですが「ミンデン」という店名だったと思います。唯一、ひとりで入れた店だったのです。軽食と飲み物と読書でゆっくり時間を過ごせました。 私が住んでいた寮は○○須磨店の4階にありました。鉄階段を上がっていき、重い鉄の扉を開けると、驚きの光景が目に入りました。

私は朝霧店へ転勤のため鶴甲寮から転寮してきたのです。寮の2階が共用スペース、3階は寮生の清潔な部屋。4人部屋で夜には神戸の綺麗な夜景が見えました。休日には職場の同僚と散歩がてら六甲ケーブル下まで歩きケーブルカーに乗り六甲山の上まで行ったものでした。

扉を開けると、右側に2メートルぐらいの洗面台がありました。学校にある手洗い場のようなものです。右に行くと、廊下を挟んで西と東に寮生の部屋が 14 部屋ありました。部屋の中を見て驚きました。2段ベッドが3台並んでいたのです。6人部屋でした。私のルームメイトの妙子さんと私は同期、京子さんは1期上でした。他に1期上のTさんと3期上のお姉さま2人の6人でした。4畳半にみんなのチェストが置かれており、部屋の真ん中にテーブルを置くと、足を伸ばすことはできませんでした。私の1期下に正子さんが入ってきたときは、すでにお姉さまたちが結婚退職していました。そして 1 年後に真ん中の2段ベッドが外されました。

映画「スタンド・バイ・ミー」のように
ある年の4月、桜が満開のころ、みんな仕事がお休みでした。こんな陽気な日は出かけたくなります。しかし国鉄も私鉄もストライキが行われており出かけられなくなりました。そこで思いついたのです。早速、行動開始!4人で月見山駅から線路を歩いて須磨浦公園へ……。本当はいけないと思いながら楽しんでいま
した。今思えばまるで「スタンド・バイ・ミー」の映画のようでした。

みんなで旅行に行ったり、楽しい日々が続いていました。

しかし、そんな日々は長くは続かなかったのです。
寮は閉鎖されることになりました。老朽化していてこれ以上、寮生を受け入れられなかったのです。そのころ、西への出店が多く女子社員は芦屋寮などから通勤していました。
そして新しい寮が舞子に出来たのです。しかし全員が入寮できないのです。須磨から東の職場の人は鈴蘭台へ、須磨から西の職場の人は舞子へとばらばらになるのです。
京子さんと私は舞子へ。妙子さんはすでにアパートに……。正子さんは鈴蘭台へ。古い寮でもいつの間にか住めば都となっていました。

9月、秋晴れの引っ越し日和。私たちはトラックに乗り、引っ越し荷物と一緒に月見山を後にしました。

いまでも心の軸はぶれません
月見山に住んでいたのは数年間でしたが、私にとっては貴重な時間でした。今、
ALS と闘い、前向きに生きてこれたのはこの時代があったからです。ものの見方や考え方が、仕事にも積極的に取り組むことが出来たのです。そして強い心を
持つことが出来ました。今でも心の軸はぶれることはありません。

月見山の街がどのように変わっても、あのころの街並みはずっと私の心の中に生き続けるでしょう







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