難病ALSの母の介護から学んだこと (上)
日本ALS協会理事 川口有美子さん
NHKラジオ深夜便「明日への言葉」(2015.4.24?25放送)から
イギリスー日本 電話の向こうで泣く母
A:お母様がALSを発症されたのを、いつ知ったのですか?
川口:イギリスにいたときですね。1995年かな。母が最初、電話で聞いてきました。「変な病気になっちゃったの、筋萎縮性側索硬化症っていうの」って、母がまあ説明するんだけど、泣いているんですよね、向こうで。その電話はわりと短くて、すぐ切って。で、『家庭の医学』っていう、昔はどの家にも1冊あったじゃないですか。検索なんか出来ないから。
A:ええ。ネットがなかった時代に。
川口:ネットがなかった。で、それを持って行っていたので、読んだらクラっときましたね。とんでもない病気だと思って。ALSって進行が早いし、呼吸器をつけないと生きていけないということも書いてありました。わけがわかんなか

ったです。それだけだと生活のことがわからないですね。こういう病気だってことしか書いてないので。じゃあどうやったら暮らしていけるのかとか、生きていけるのかっていうのは一切書いていなかったから。ちんぷんかんぷんなままでした。
A:お母様を看病するためにお子さんを連れて、お仕事のために旦那さんをイギリスに残して帰国されるのですね。
川口:はい、そうですね。その決断に半年以上かかったのかな。イギリスの生活が本当に素晴らしかったのでエンジョイしていましたし、子どもたちもようやく英語を覚えだして、あとまあ3年くらい、いられるかなと思っていたんですね。ようやく軌道に乗ってきたっていうか。
またイギリスに戻るつもりだった
子どもを連れて、段ボール箱2箱ぐらいに身の回りの物を詰めて日本に帰ってきたときに、まだイギリスに戻るつもりがちょっとあったんです。母を看取ったらイギリスに帰ろうと思っていたのですよ、実は。
だから子どもの学校も、日本に帰国すると挨拶に行ったとき、校長先生に、「もしかしたら母を看取って戻って来るから、そのときはまたこの学校に入れて下さい」って、お願いしてあった。女の校長先生だったのですけど、「いつでもウェルカムです」って言ってくださって。だけど、帰れなくなった。
A:じゃあそのときは12年間介護するというふうには???。
川口:全然思っていなかったですよ。だって呼吸器をつけるって決まっていなかったし。母は、つけないってずっと言っていたから、だから看取るのかなと思って帰ってきて。でも何日か一緒にいるうちに呼吸困難になって。
A:じゃあもう本当に進行が早かったのですね。
孫の成長を見たい 生きたい
川口:そうですね。ギリギリのところでイギリスから帰ってきた感じでしたね。でも、有美子が帰ってきたっていうことで、母が安心して、「呼吸器をつけたい」って、そのときに言い出したんです。気持ちが変わったんですよ。一つは家族介護の問題がクリアした。私が帰ってきてくれた。あと孫も一緒に帰ってきた。これが大きくて、孫の成長を見たいという欲が出てきて、「まだ生きたい」って言ったんです。
A:ALSになられて症状が進むと、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、呼吸器をつけるかどうかの選択をしなきゃいけなくなるのですね。
川口:はい。私には2歳半下の妹がいるのですが、私がイギリスにいる間は、彼女がほとんど一手に介護をしていた。父もいましたけど、父はまだ現役でお勤めしていて、夜、母の介護をしていた。父と妹の2人で介護していたのですけど、大人2人でもできないくらい大変になって。帰国したときに、家族に笑顔がなくなっていた。その日は私が帰ってきたっていうことで2人とも寝ちゃったんですよ。私もイギリスからの長旅で疲れているんですよ。クタクタなのに、その私に介護を代わらせるっていうことの現実、介護の実際がわかったんです。
だから帰国したその日から看病を始めました。妹と父を休ませて。私は母のそばでずっと、そのときのまんま、その勢いで壮絶な介護生活に突入しましたね。
そういうのを見ているでしょ、母は。本当に家族を苦しめているって。私に対して生きたいとは言えないですよね。だから早く死ななきゃって思っただろうし、とてもこれは家族だけでは出来ないって。保健師さんには呼吸器はつけないと言っていたし、自分でそう書いて持っていましたね。
ある日突然呼吸困難 呼吸器をつける
A:それは、川口さんが帰ってきてからだんだんと心が変わって。
川口:はい。条件が整ってきたわけです。私が帰ってきたことによって、介護をしてくれる家族が3人になったわけでしょ、私と妹と父と。あとは楽しみを与えてくれる孫もいる。母の中では生きるほうにカジを切ることができた、ギリギリのところで。
だから、呼吸困難にある日突然なってしまうんですけど、救急車を呼んで搬送して、そこでどうするか決める。病院で「気管切開しますか」とか聞かれて、そのときに、「いや、ここまで来て、死にますとは言えないでしょう」って私も言ったんです。妹も私と同じ考えで。母は、もう身を任せるしかないという感じだったから。でも生きたいっていうことはちょっと言ったんですね。私が帰国してすぐ、前向きになりたいってことは言っていたので、それが母の自己決定だったというふうに理解して、呼吸器をつけたという経緯がありました。
A:呼吸器をつけて、入院先から家に戻ってきてからまた大変な介護が始まるのですね。
川口:はい。
A:どうですか、いま振り返ると。
川口:想像を絶して大変でした(笑)。しばらくは病院にいますよね。すぐには在宅にならなくて、病院に泊まり込みでずっと母のそばにいて、ナースコールも押せなくなっていたので、母の手に鈴を縛りつけて、動かしたら鈴が鳴る。その鈴の音でガバッと起きて、吸引したり、体位交換したり、排泄の介助をしたりして、ずっと24時間張り付く介護が病院で始まったんです。
介護の仕方っていうのはそのときは全然知らなかった。テレビで見たり、認知症の方の介護とか、私のおばあちゃんも認知症だったから、母がすごく苦労をしていたのを見ていたので、高齢者の介護は知っていたんですけど、全然種類の違う重度身体障害者で、しかも意識がハッキリしている人の介護という、大変特殊な介護、しかも呼吸器がついている。やり始めてこれはちょっと大変というか、いつまで続くのかなとすぐ思いました。
離れずそばにいて 文字盤でコミュニケーション
A:ALSならではの大変さというのは、どういうところにあるのですか。
川口:頭がはっきりしているので、体はもう末期っていうか、そういう感じですね。ノドに穴が開いているし、おなかにも穴が開いて管を入れて。
A:ああ、胃ろうですね。
川口:胃ろうを作ってね。どこも自分で動かせないし、ベッドから起きるわけではない、寝たきり。だけど意識ははっきりしている。家族としては、何て言うかな、楽しさ、生きていて生活している感じになってもらいたいわけですね。
A:はい。
川口:楽しくなってほしいの、そういう体でも。いろいろ工夫して、一番大事なのは、言いたいことが言えないといけないから、母は言いたいことがありそうだと目をパチパチってやるから、文字盤というものを持って。透明のボードに五十音を書いてあって、それをこう、母との間にかざして、母が目で見つめたところの文字を拾っていって、それでコミュニケーションをとるんです。母の起きているあいだ中、ずっとそれをやっていました。
言いたいことを無視するのは虐待ですから、とにかく離れずそばにいて、文字盤で言いたいことを拾ってあげて、それに従って介護をする、そういう介護の仕方。だから私は自分のことをする時間が全くないんです。ぜんぶ母のことに時間を使っちゃう。これは何かすごいことになってしまったぞって(笑)。
A:それは交代交代で毎日やられるわけですね。
川口:はい。妹はまだ仕事に出かけていたので、日中は私が朝の8時から夜の8時までとか。妹は働いて帰ってきて、またそこから母の文字盤とりをやる。夜は寝てもらうんですけど、母は3時間くらいで目が覚めちゃうんですね。夜中に何かバトルしていたみたいですね、母と。でも仮眠をしながら夜は妹がみていて、父が朝の4時くらいに起きて来て、ラジオをつけて、多分この番組を2人で聞いていたと思うんですけど。朝の4時くらいに妹は父とバトンタッチして寝床に入ってちょっと寝て、それからまた会社に行くっていう、そういう三交代をしていましたね。
文字盤をとって微調整 ときどき吸引 ときどき排泄
A:文字盤を拾うだけではなくって、床ずれっていうか、褥瘡が出来ないように動かしてあげたりとか、ご自身で体が動かせなくなるという介護の大変さもありますね。
川口:そうなんですよ。運動神経だけがやられてしまうので、皮膚の感覚とかは残っていて。そうするとシーツのしわ1本でもすごく痛いんですね。だから文字盤で背中が痛いとか、どこが痛いのって言ったら、それを探して伸ばしてあげたりとか。あと腕が重いとか言うんですよ。
A:動かせないけど重く感じるんですね。
川口:そうなんです。体の重力を感じて「体が重い、重い」って、みんな言うんですよ。体の重さをどうやってごまかすかというと、動かしてあげる。だから足とか手とかお尻とかずっと言い続けていて、それを「体の微調整」と私たちは呼んでいて。文字盤をとって微調整、文字盤をとって微調整。ときどき吸引。ときどき排泄。
A:吸引っていうのは痰の吸引?
川口:そうです、痰の吸引。喉からと口からと鼻から。それも代わりばんこ、15分おきくらいに吸引をして、その合間に目薬をさしたりとか。あと耳をちょっとかいてあげたりとか。ずっと体の管理というか、お手伝いをしつつ、文字盤を読んで、ときどきなごやかな会話になって。テレビを見ながらやってますから、ちょうどオリンピックだったんです。「この選手どうだね」とか言うわけですよ、母が。そうすると私もうんとかいって、一緒に応援したりとか、お相撲を見たりとか。
A:ご家族は本当に、精魂つき果てるというか。
もうボロボロ 家族は
川口:大変。もう尽き果てて、それでも、これでもかみたいな。家族も風邪をひいたり熱が出たりしますよね、許してくれないんですよ。高熱が出ていても、文字盤を取れって言うし、体が痛いと訴えてくるから。ちょっと休ませてって言うんだけど休ませてくれなくて。もうボロボロ、家族は(笑)。
A:お母様はもともとそういう方ではなかった?
川口:そうですね。とにかく人のために尽くすのが生き甲斐みたいな人だったから、この病気になってしまってすごく利己的になってしまった母を見て、まずそれを悲しんだんですよ、妹と。
A:ボランティアもたくさんされていたお母様だったんですよね。
川口:そうなんです。最初は病気のせいと思えなかったんですね。思おうとしても思えなくて、本当に腹立だしくて、「何でそんなに自分のことばっかり言うの?」って。ちょっと寝かせて、休ませてとか。一番腹が立ったのは、3歳の息子が、インフルエンザだったんですけど40℃近い熱を出して、小児科に連れて行きたかったんですけど、誰もいないので呼吸器をつけている母を置いて小児科にというわけにもいかなかった。でも、このままにしていたら、もしかしたら息子が死んじゃうかも知れないと思って母に言ったときに、母がだめって言ったの。で、「ママはあきらより自分の命なのね」とか皮肉なことを言って。母もバーッと泣いたんですけど、そういう壮絶さ。
A:家族の関係がバラバラになって行くっていう感じですね。
川口:はい。一番怖いのは家族の絆をズタズタにする。信頼関係なんかなくなる病気。それが一番残酷さですよね。もちろん病気自体も残酷なんだけど、でもそれは乗り越えられるもの。呼吸器をつけたりというのも慣れちゃうと、患者さんたちみんな、最初は嫌だって言うんですけど、だんだんだんだん、「呼吸器は友達」とか、「家族」とかそういう表現に変わっていって、「これは世界で一番すばらしい機械」とか、そういうふうに自分の気持ちを書きかえていけるんです。だけど家族の関係というのは修復が出来ないくらいズタズタにするんです。この病気は本当にそれが恐ろしい。
どんどん進行してしまう
A:ご自身の家族とお母さん、それから自分とお母さんとの折り合いというのはどういうふうにつけていったんですか。
川口:折り合いはつけられなかった。でもうまく出来ている方もいらっしゃいますよ、中には。私たちのときはまだ制度がなかったから、介護保険前ですから家族だけで全部やってくださいという時代だったから。私はもう実家に取られちゃったみたいになって、私の夫は、最初は、頑張って介護してあげなさいと言っていたんですけど、だんだんこんなはずじゃなかったって言い出した。
A:自分の生活がなくなっちゃったわけですよね。
川口:最初は両方がんばろうと思ったんです。イギリスのあの豊かな生活を、東京に帰ってきて、母の介護をしながらも、ひとつも諦めないで達成しようと思っていました。だから子どもにはいろんなお稽古ごとをさせていたんですけど、それをそのまま東京でも続けていたし、塾にも通わせましたし、母の介護も完璧にやろうと思って、両方ものすごく頑張っていて。
A:介護はもう嫌だって思われたことはなかったですか?
川口:ああ、もうそんなのはしょっちゅうですよ(笑)。
A:あるいは呼吸器をつけないでいてくれたら良かったのにとか、そういうふうに思ってしまったことってあるんですか?
川口:それはない。そういう発想はなかったんだけど、ただどんどん進行してしまうので、私は呼吸器をつけたら進行しなくなるっていうふうにどこかで思いこんでいた節があるんです。でも呼吸器をつけてもどんどん進行するから、主治医の先生に「呼吸器をつけても進行するじゃないですか」って言った覚えがあります。
A:ええ。
川口:ちゃんとわかっていなかったんですよね。一生懸命、協会のケアブックという本を読んで勉強をしていたつもりなんだけど、ちゃんとわかっていなくて、「ああ、どんどん悪くなってしまう」って、そういう後悔はありました。だから、無駄なことをしてしまったのかなとちょっと思っていましたね。母がどんどん悪くなっていって、最後は本当に目も開かなくなってしまって、そうなったときに「ごめんね」って思って。あのとき呼吸器をつけなきゃよかったね、だから私たちが励まして呼吸器をつけてしまってごめんねっていうのと、それからまあ無理矢理イギリスから帰って来なかったら良かったのかなとか。
徹底的に自分を責めてしまって
A:自分を責めるほうに。
川口:もう、徹底的に自分を責めてしまっていました。それで落ち込んで、ごめんね、ごめんねってあやまって。でも多分その「ごめんね」は間違っていましたね。
A:間違ったっていうのは?
川口:母はまあ頑張って生きているわけですよ。頑張って生きている人に対して、こういうふうにして生かしてごめんねというのは、存在を否定することだから。それは後から気がついたんです。後から勉強して、そういう体で最初から生まれてくる人もいて、そういう体で生まれた子どもたちに一生懸命介護をしている親たちがいて、そういう論文とか本とかを読んだ。それから他のALSの患者さんたちに会ったりしたときに、「ああ、そういう発想は間違ってるんだ」とね。常に生存は肯定していかないといけないというふうにわかったときがあったんです。それはだいぶ後ですけど。
つまり自分は自責の念にかられて、あと殺意にいったんですね。今度は母を殺さなきゃいけないと思って。
A:殺意が芽生えたんですか?
川口:殺意が芽生えたんです。母も「殺せ!」とか言うしね。親子喧嘩になりますでしょ、文字盤を挟んで。そのときに「呼吸器を取って!」とか言うんですよ。売り言葉に買い言葉で。それはただ単に親子喧嘩なんですけど、すぐにそういうふうにいうんです。そうしたら「じゃあいいわよ、呼吸器外してあげるから」って本当に外しちゃって。
A:外したんですか。
川口:で、だんだんチアノーゼになって。あ、やばいと思って、またつけるんですけど。あのまま見ていたら本当に死んじゃうんだけどね。そういうパフォーマンスは私だけじゃなくて、妹も父も何か似たようなことがあって、喧嘩をするたびに母は「殺せ!」とか「呼吸器を取って!」とか言うから。「じゃあやってあげるわよ」みたいなことがあって。でも殺すことは出来ないわけでしょ。だからすごく怒るんですよ。「何てことをしてくれるの」って。「だからママが呼吸器を取れって言ったから取ったんだよ」って。でもそんなことをやっているうちに、何で日本は呼吸器を取れないのかなと。日本は呼吸器を外せない国ですから。
A:ええ。呼吸器はいったんつけたら自然に亡くなるまでは外せない。
果敢にも学者にメールを打ちまくり
川口:そうそう、そういうことだから何で呼吸器を取れないのかなと思って、呼吸器を取れるようにしなきゃいけないと。倫理の研究始めた最初のきっかけはそれですよ。
あとはパソコンというものが家にきてメールが打てるようになって、その検索という技を覚えて、安楽死っていうキーワードでいろいろ調べていて、安楽死できる国があると。2000年にオランダでそういう法案が通って、世界初めての。ああオランダはすごいと思って。オランダみたいにならなきゃいけないと思って。だから正反対のところから入っていったんです、私は。
A:じゃあその当時は安楽死っていう選択肢も用意して欲しいと思った。
川口:そうですよ。もう絶対必要だと思っていたから。それで安楽死が出来るっていう国があるのになんで日本は出来ないのかなって、それでいろいろ調べ始めたんですね。で、それを質問したいと思って、学者に果敢にもメールを打ちまくり(笑)。
A:直接、学者の方にメールを送って。
川口:恐ろしいですけど、今考えると。でも「私はALSの家族です」と書いて、ALSで、しかもうちの母がこういう状態でこうこうこうなんですって書いて、こういう人はかわいそうだから死なせてあげたいんですけどと。いろんな人にメールして、返事はね、森岡正博先生と立岩真也先生から来て。会ってくれたのは立岩先生だったんですけど。
A:立命館大学にいらっしゃる先生ですよね。
川口:はい、私はしばらくするとその先生に弟子入りするんです、大学院に通うようになる。
でもそのときはそういう素朴な質問でした。そうしたら、出会った友達がいて、障害者の介護保障運動を教えてくれて。障害者が自分で探してきた人をヘルパーにして使っている。だからALSもそれは出来るはずだと、入れ知恵をしてくれる人が何人か現れたんです。知らなかったから、ずっと家族だけでやるもんだと思っていて、それで頑張っていたんですね。
へえーって思って、それを区に問い合わせたら、なんとそういう制度があるとそのときに教えてくれて。
なんだ、もっと早く教えてくれれば良いじゃないと思って。じゃあそれを使いたいと思った。そういうふうにしてだんだん有償ヘルパーが1人、2人と増えて、私が楽になっていった。何か芋づる式に制度というものにたどり着いたんです。制度なんて知らなかったですから。
人とつながると いろんなことを教えてくれる
情報がやっぱり命ですね。情報がなかったの、家族だけでやっていたときは。家族だけで頑張ろうとしていて、結局殺意になって、全否定する、母の命を否定するというふうになったんだけど。インターネットのおかげで制度とか、人と繋がるようになって。そうするといろんなことを教えてくれるんですよ、外から。こうだよ、ああだよ、やってみな、誰かに会ってみなと。人に会わなくてもインターネットで、メールのやりとりが出来るようになって、それからですよね。
A:そういうふうに他の人が入ってくると、殺意とかも少し……。
川口:いやもう、その時点でね、薄れてきます。私にとっても、他の人が出入りするようになってくると、その時間は会話が出来るでしょ、その人と。
確かに、介護ヘルパーが入る前は訪問看護の方がいましたから、看護師さんとは話ができたんです。看護師さんが来るとすごい楽しくて、お茶入れたりして、もうちょっといてという感じで。他の人が入ることによって、家族で囲い込んでいたものとか、責任を手放していけることをそこで学んだ。数か月かけて手放して。今度は楽になると、ヘルパーさんが来ると、安心して出かけるわけですよ。
A:そういうふうになってくると発想が変わってくるんですか?
自分がやりたいことをやり始めた
川口:はい。テンションが上がりますから、外へ行くと。この短い時間で何をやろうかって感じになって、自分がやりたいものをやり始めた。まずチェロをやり始めて。チェロを買って、小型車を買うくらいの値段ですよね。自分の貯金を全部使い果たしたときにすごくすっきりした。ああ私でもこういうことが出来るんだと思ってね。あの辺からタガが外れたって言うか。
A:何かきっかけがあったんですか?

川口:イクタさんっていう訪問看護師さんがいて、その看護師さんが、妹に、妹も私ぐらい苦しんで介護をしていたから、「あなたたちきょうだいは、どんな悪いことをしても許されるのよ、神様に許してもらえるから」と言って帰ったって。それを妹が「お姉ちゃん、どういう意味だろうね」って言って。それがずっと頭の隅っこにあって、悪いことって何だろうと思って。いま思うに、呼吸器を外しちゃっても良いということを言ったのかしらって。そういう意味もたぶん、ぜんぶ引っくるめて、「あなたたちは何をしても神様が許してくれるのよ」って言わしめたんですね。それぐらい大変だったんですよ、はたから見て。
それが念頭にあったので、当時の私にとって悪いことというのは、ルーティーンの仕事をやめる。介護を人に頼むのもそうだし、子どもの教育、夫のために尽くすとか、そういう真面目な、生真面目な良妻賢母をやめるということだったと思うんです。それをやめたんですよ。当時、娘にバイオリンを習わせていたんです。2歳になった途端にバイオリンをやったんですけど、バイオリンをやめさせた。というのはそれキイキイしちゃうから、私が。
A:はあ。
川口:イライラして。それがストレスになって、私にとっても子どもたちにとっても、そういうギリギリの環境の中で、そういうお稽古をするっていうことが全く楽しくなかったんです。楽しくないことはやめようと思って。だから私が自分に圧力になるものをやめるようにして、整理していった。子どもにとってもたぶん、親からやらされているものは良くないだろうと思って。だからほとんど全てのお稽古ごと、英語もやっていたし水泳とかもやっていたり、塾もやっていたりとか、それ全部やめちゃった。その代わり、私がやりたいものをやり始めたんですね。母親だから、自分のことは一切我慢していたんです。介護と育児が最優先だったので、それまでは自分のやりたいことはやらないで、お友達にも会わないし、長電話もしなかった。で、まず自分でチェロを買って、自分のパソコンを買って、それらにのめり込んでいった。その辺りから変わっていったというか、そうしないと私が持たなかったですね。
なんだ 私は全部抱え込まなくてよかったんじゃない
A:それから、メールで皆さんとつながっていくんですか?
川口:そうです。情報収集を始めました。そうするといろんな方法が思いつくようになって、「あっ、なんだ、私は全部抱え込まなくてよかったんじゃない」って。母のこともそうだし、子どものことも。全部自分できちっとやらなきゃいけないって思いこんでいた節があって。なんか客観視できるようになったんですね、自分を。たぶん、そういうことなんだと思います。で、この大変な私に何があれば楽になるかな?という発想をするようになって、それに必要なことを始めたんですね。
A:チェロも始めた。お子さんの習いごとをやめさせて自分が習いことを???。
川口:そう。自分のやりたいこと、フラメンコもそうです。フラメンコを習いに行くなんていうのは昔の私からは考えられないこと。だけど本当はそういうのが好きな人間で、実はラテン系の人間だったのを押し隠していた(笑)。ラテン系になっちゃったんです、途中から。子どもたちも教育ママから解放されてほっとしていましたね。
A:もう介護で突き抜けちゃったの?
川口:突き抜けちゃった。はじけちゃったともいうけど。
A:自分が生きたいように生きると決めてから、最初はお母さんを安楽死させなきゃいけないんじゃないかと思っていたのも変わってきたんですか?
川口:変わってきましたね。だってあれは完全に自己責任で、私たちが何とかしないといけないと思っていたときに、そういう、私が殺してあげなきゃいけないという発想に。
A:うん。楽にしてあげたいと。
川口:真面目だとそうなりますよ。だから尊厳死もそういうところからくる。私が死なないと家族に迷惑をかけるとか、そういう発想って、家族の中で完結しているからそういう話になるんです。たとえば家族だけじゃなくて、もうちょっと広い範囲で、みんなで母をみていこうとなったら、大げさな話だけど、百人の家族がいれば、自分の番は数分ですよね。そういう発想です。だから、そうか、仲間を増やそうと、そっちに発想が変わっていった。そのためには有償じゃなきゃいけないから会社を作るという方向にいくわけです。
最初の1人目の方がすごく良かったんです。そうしたら、こういう人を量産しようという発想になっていったんです。私はかなりそのときは柔軟な考え方が出来るようになっていました。全部手放した瞬間に柔軟性が生まれたんです、私の中に。でも、もともと天性のものだったと後になって気がつくんですけど。
A:はい。
今度は制度の勉強を始めた
川口:持って生まれたものが出てきたんですよ、たぶんね。ラテン系ですから、ああそうかと思って、これはもうどんどん他人に委ねていこうと。ガチガチに自分を縛るのではなくて。そのためには、この人たちは有償じゃなきゃいけないと。
A:長く続けてもらうためには。
川口:はい、仕事でやってもらわないといけない。ボランティアではだめだと思って。そのためにはどうしたらいいかと今度は制度の勉強を始めたんです。この人たちのお金をどこから持ってくるか。というか、どこからこの人たちを連れてくるか。要するに、最初はたまたま運良く紹介してもらったけど、毎回そういうわけにはいかないですよ。一般の人からヘルパーを養成していくというやり方は障害者がずっとやってきているから、障害者の団体のところに聞きに行ったんですよ。どういうふうにヘルパーを募集して、どういうふうにヘルパーを養成したらよいかと教えてもらったんです。
A:どうするんですか。
川口:「アルバイトニュース」みたいなアルバイト募集雑誌がありますね。広告を出して、無資格でもいいよと書いて、それでこういう仕事ですって。私は介護なんか初めてですって、そういう人を「いいです、いいです」と言って。でも最初にウチの母で(笑)。
A:研修????。
川口:研修。最初は母とテレビを一緒に見て、笑っているだけみたいな研修。で、次に文字盤を覚えてもらって。コミュニケーションが先にできるようにして。ウチの母で何人か、学生さんも引っくるめて育てていった。仲間が5人、6人、7人と増えて。それを自分の会社に登録して。今度はウチの母でできたから、他の人にもできるなと思って、他の患者さんのところに派遣を始めた。会社を立ち上げて経営をするようになったんです。
A:自分たちに必要な介護ができる人を自分たちで養成していくと。
必要なヘルパーは自分たちで育てる
川口:そうそう。それが一番いいですね。ALSとか、コミュニケーションに困難を来たす、しかも医療的なケアが必要な人たちのヘルパーは自分たちで育てないといけない、それはずいぶん早くからそう思ってました。
A:他の患者さんもヘルパーさん不足に困ってらっしゃるでしょうから、すごく喜ばれたでしょうね。
川口:そうですね、喜ばれるというか、区のケースワーカーさんが来て、こういう患者さんがいるんだけど、おたくから派遣してくださいって行政の人から頼まれて。それで行くと大変なんですよ。すごいことになっていて。でも、ちょっと前のウチと同じだから理解できるんです。
A:自分も経験したことだから。
川口:そう。だから、そういう意味では親身でしょ。一緒に泣いちゃったりして、大変だよねといってもらい泣きして。じゃあわかった、私たちでなんとかしますと言って。
A:ご家庭にとどまっていたのがどんどん開いていって、そして他の現場にも出かけていくことになったんですね。
川口:そうです。
A:その一方で、お母様は病気との折り合いというのはどういうふうにつけていったんでしょうか。
川口:最初はずっと落ち込んでいまして。たぶん後悔していたと思うんです。みんなに迷惑かけて。
A:後悔していたというのは?
ベッドの上から投票したい 母は訴えた
川口:呼吸器をつけないとずっと言っていた人が呼吸器つけたので、「こんなはずじゃなかった」とか。あと私たちがすごく辛い、疲労困憊しているのを見て、申し訳ないとか。そういうふうにずっと思っていたから、文字盤をしながらも暗い感じだったんだけど。
そう言われてみると、だいぶたってからですけど、あれは在宅郵便投票権訴訟のときなんですよ。もともと選挙大好きな母で、それは楽しみにしていたんです。
A:選挙を楽しみに。
川口:選挙を楽しみに。ちょっと変わっている母ですけど。元気だったときには認知症の家族を支援する会のメンバーの1人だったんです。そういうことをしていた人だから、割とこの介護の問題を社会問題というふうに最初からとらえていた人で、だからその政治とかが大事だと。参政権というのは母の中ではもともと大事なものだったんです。選挙は寝たきりでも、ベッドの上でも、できる、だから私は選挙したいと言って、郵便投票しようと思って取り寄せたら、なんと、自筆じゃないとダメ、自分で書いてくださいと、わざわざ書いてあるの。
母がおかしいって言うんです。取り寄せて自宅で投票するというのは、身体が動かないからそうするんだ。なのに自分で書きなさいというのはおかしい、これはおかしいよと言い出して、それをかかりつけの訪問してくれている先生に言ったら、先生もおかしいねって言って。じゃあこれは取材してもらいましょうと言って、新聞社の記者さんが来たわけ。母が言いたいことは妹が文字盤でとって、母はこう言ってますって言ったら、新聞記者がそうですね、そうですねって聞い

てくれて。なんと、いつもあっちが痛いとか、こっちが痛いとか、そんなことばっかり言っているのに、そのときは母の目がキランキランしちゃって。ちゃんと言うわけですよ、これはおかしいって。そのときに私は「あっ、母が戻ってきた」と思ったんです。
A:昔のお母様が。
昔の母が戻ってきた
川口:昔の母が戻ってきた。母もそのときから変わって、ずっとそれを考えだしたんです。この病気は貧困の人がなったら大変だとか、生活保護のこととか、いろいろ言い出したんです。自分のことじゃないことを。それがたぶん母の生きがいになっていった。そこから、きびすを返したっていうか、たぶん底を打ったんでしょうね、不幸のどん底を打ったんですよ。で、あとは浮上するだけ。私たちも母が生き生きとしてきたので、介護のやる気が出てきたというか、どんなに大変でも母が生き生きとしているとがんばれるんです。
A:死にたいっていう言葉もだんだんなくなってきたんですか。
川口:そのときはもう、死にたいなんて言わないです。自分より大変な人がいるって母が言い出して、その人たちは参政権を持っていないと気が付いたんでしょうね。だからこれは在宅で投票できるようにしないと、こういう人たちの意見が政治に反映されないとわかったんですよ。これはなんとしても法律を変えなきゃいけないと。そこで母はベッドの上で自分の仕事があるとわかったんです。そうしたら生きる方にバッと行ったんです。それと同時ぐらいにうちもヘルパーさんが入り出した。だから私はその段階から楽になってきたんです、いろんな面で。だいぶかかりました。
A:そうするとお母様は、自分が変えていくべきことがあるというか。
川口:生きがいが見いだせたんだと思うんです。呼吸器をつけるときに、生きがいがないと呼吸器はつけないほうが良いと言われるんだけど、呼吸器をつける段階は生きがいなんてほとんどの人は見いだせないですよ。だって絶望してるんだもん。絶望しているときに呼吸器つけるんです、一番ひどいときに。
ALSの患者さんは、いまの身体でできることを見いだしていく
A:もう呼吸すら本当にできなくなったときに付けるのですものね。
川口:そうです。だからそれは、命を救うそれだけの目的でつけていいんですよ、たぶん。それからやっぱり何年も時間がかかって、でもそうやっていく中で新しい出会いとか学びが必ずあって、そこの中で自分が、いまの身体でできることを見いだしてくれるんですね。私はほんとうにたくさんのALS患者さんと出会っていますけど、見いだしていかれている方が結構いらっしゃるんです。
A:家族もそして見いだしていくんですか。
川口:家族はそれに引きずられるようにして見いだしていくという感じですね。もちろん社会的な意義ではなくても、ベランダでお花を育てて、それをすごく楽しみにしている患者さんとか、あとペットを飼ったりとか、孫の成長。一番大きいのは孫の成長ですね。孫の成長を見届けたいとか、あと末の娘が結婚するバージンロードを一緒に歩きたいとか。そういうことに生きがいを見いだしていく。
A:どんなふうになっても、楽しみを見つけられる能力が人間にはあるのですね。
川口:そうだと思うんですね。鬱になっちゃうと、それは本当に難しくなってくるけど、そうならない人はなんらかの形で、どこかで立ち直っていく。だからそこにALSの魅力があるんだと思う。私は当事者というか家族なので、否応なしにALSの世界に引きずり込まれちゃったんだけど、そうではなくて、家族にALSの患者さんがいなくて、だけど一生懸命になってALSの支援をしてしまっている人がいるんですよ。その魅力というのは人間性が露わになってくるところ。それからどん底で不幸そのもののところから立ち直っていくのをすぐ近くで見ている快感。それでALSにやられちゃったんですね、魅了されちゃって。
A:なるほど。ALSに魅了されつつ、ALSと付き合っていくわけですけれども、そこをでは明日またおうかがいしたいと思います。
(次号に続く)