姫路市 大多和 清子
前回のはなし
看護学生のナオミさんは、遠方にある病院で、実習を受けることになった。担当する患者さんは佐藤幸子さん、52 歳。病名は ALS。進行は止まっており、しゃべることもできるし、普通食も食べられる。ただ、心を閉ざしている。事前に提出したナオミさんの小論文を読んだ師長さんから「ぜひ担当してもらいたい」といわれて、2人で幸子さんの病室にむかった。
幸子さんの部屋はナースステーションから一番遠くにありました。4人部屋で幸子さんのベッドは通路側にありました。ドアは開け放たれ、気持ち良い秋風が吹き抜けていきます。部屋に入ると 2 人は「おはようございます」と挨拶をすると、食事介助をしていた看護師さん 3 人が挨拶を返してくれました。幸子さんにナオミさんが「今日から実習に来ている桜井ナオミです。1 週間よろしくお願いします」とおじぎをして頭をあげると、ナオミさんを凝視していました。
師長さんはナオミさんの肩に軽く触れ「ナオミさん、お願いするわね」と言うと部屋から出て行きました。残されたナオミさんは、幸子さんの顔を見ると、大きな目で今度は睨んでいました。顔は生気がなく、髪の毛は白髪まじりで、とても 52 歳には見えませんでした。
隣のベッドの患者さんに食事介助をしていた看護師さんが、「幸子さんは 9 時過ぎに散歩がてら屋上に行くのよ」と教えてくれました。「ありがとうございます」と会釈して、幸子さんに「散歩ご一緒していいですか?」と尋ねると、軽くうなずいたのには少し驚いたナオミさんでした。 ナースステーションに戻ると、心配そうにナオミさんを待っていた師長さんが「どうだった?」と聞いてきたのです。屋上に一緒に行くことを伝えました。師長さんは時計を見ながら「幸子さんは今から洗面所で歯磨きをするのよ。私たちが行ったときはすでに朝食は終わっていたの」。「ご自分で何でもやられるのですね」。その言葉に応えるように師長さんは 1 枚の紙を見せてくれました。それには、幸子さんの 1 週間のプランが書かれていました。
月曜日・水曜日・金曜日が入浴。火曜・木曜・土曜はリハビリ。いずれも午後 2 時から。入浴は 1 人では無理なので看護師さんと看護助手さんがサポートしている。食事の時間は、朝食は 8 時。昼食は 12 時。夕食は 5 時となっており、幸子さんがゆっくりできるのは 9 時過ぎから 11 時半までとなっています。その時間に、お話をするしかないということに少し焦りを感じていました。それを察した師長さんは「大丈夫!焦らないことよ」とナオミさんの背中を押しました。
幸子さんの部屋へ行くと、車椅子にのってナオミさんを待っていました。「ごめんなさい。遅くなりました。さぁ行きましょうか」と車椅子を押して屋上までエレベーターで行きました。屋上に出た瞬間、視界は開け、遠くの山の稜線まで見えて、空は雲ひとつなく青く澄み渡っていました。「ここでいいかしら」と車椅子をベンチの傍に付けました。幸子さんの特等席らしく、少し微笑んだような気がしたのです。
ナオミさんは、両手を上げ、思いっきり背伸びをして「あー気持ちいいわ!幸子さんもやってみたらどうですか?」と言ったところ、恐る恐る両手を上げ、ほんの少し微笑んだように見えました。ナオミさんは、幸子さんになぜ看護師になりたいのかを、ゆっくり丁寧に話しました。黙って聞いていた幸子さんは「あなたは幸せを絵に描いたような人ね」と無表情で言い放ったのです。 気まずい雰囲気になり、ただ秋風が吹き抜けていくだけでした。
ナオミさんは遠くの山々を眺めながら、紅葉も都市部より早く、冬には雪も降るだろうと思いをはせていました。
屋上の時計は、11 時半を過ぎたことを示していました。「幸子さん、そろそろお部屋に戻りましょうか」。幸子さんは軽くうなずきました。 部屋に戻ると幸子さんは、車椅子からベッドに、上手に両腕の力で移ったのです。腕の力だけで上手に足を伸ばしてテーブルを自分の前に持って来て、「除菌」のペーパーで綺麗に拭いていました。食事の配膳車が来たようなので、ナオミさんは最後に受け取りに行きました。
幸子さんのテーブルの上に置きました。メニューはミートスパゲティと玉子スープ、野菜サラダ、そして、いちじく。幸子さんは「お水取って」とワゴンの下を指しました。開けてみると冷蔵庫になっており、お茶や水が沢山入っており、棚には梅干しや海苔の瓶が入っていました。そこから水を1本取り出しました。キャップを少し開けてからペットボトルをテーブルの上に置くと、幸子さんはほんの少し微笑んだ気がしました。そして、おしぼりの袋を開けて渡すと今度は、にっこりとしたのです。ナオミさんは初めてその光景を見たので驚きました。 幸子さんの、スープ・サラダ・スパゲティときちんと食べる姿は ALS の患者さんとはとても思えません。他の3人の患者さんは、腕が上がらないので看護師さんが食事介助をしているのです。誤嚥防止のため、ミートスパゲティは3pの長さに切られており、ミンチがからんで食べやすくしてあります。
いつの間にか、幸子さんは完食していました。「お下げしてもよろしいです
か?」と聞くと、満足気に微笑みました。ナオミさんはトレーを下げて戻ると、
「夕食の時、来てもいいですか?」と聞くと、笑顔で「いいわよ」と言ってくれたので、うれしくなりました。
ナースステーションに戻ると、師長さんが「その様子だと前進したみたいね」と肩を軽くポンと叩きながら、「昼食食べに行きましょう」と歩き出しました。
食堂は、6 階にあり、見晴らしは抜群で、医師や看護師などが食事をしていま
した。自動券売機があり、高くても 500 円で食べられ、人気がありました。
「カレーセットがとてもお得よ」。師長さんのお勧めのそれは 420 円なのに驚きながらカレーセットにしました。カレーの上にスライスしたゆで卵がきれいに乗っており、別のお皿には福神漬けとらっきょう。そしてやや多めのサラダと果物(いちぢく)。「すごいでしょう」と得意気に師長さんが言ったのです。ナオミさんは、一口、カレーを食べてみると、それほど辛くもなく万人が好む味だと思いました。「福神漬けやらっきょうも手作りなのよ。そして無添加なの」と師長さんは少し誇らしげに言ったのです。それらを食べてみると、福神漬けはシャキシャキ感があり、らっきょうは甘みを控えており、とてもおいしく、ナオミさんはあっという間に完食しました。その姿を見て師長さんは苦笑いをしました。
ナオミさんは、ナースステーションに戻ると、ノートに幸子さんの記録を書き始めました。朝、初対面で睨まれたこと。屋上でのこと。そして、昼食でのことなど自分の感想を書き、昼食のイラストもきれいに色鉛筆で仕上げました。2 ページに渡って書いたのです。しかし、夕食がまだ残っていました。
師長さんがやって来てノートを見て、「まぁ!美しいこと。イラストまで…… お上手だわ。文章もよくまとまってるわ」「最近の看護師は文字を読みやすく書けない人が多いのよ。虫眼鏡で見ないと読めないほど小さい文字や、反対に文字は大きくても、なぐり書きのような文字を書く人もいるのよ」。一息ついて「美しい文字を書ける人は貴重だわ」と改めてナオミさんのノートを熱心に見入っていました。
夕食はとても品数が多くて驚いたナオミさんは「いつもこんなに豪華なのですか?」と幸子さんに聞きました。幸子さんは軽くうなずきました。メニューは炊き込みご飯、味噌汁、サバの味噌煮、茄子とベーコンの炒め物、かぼちゃの煮物、野菜の白和え、漬物、いちじくです。
幸子さんはゆっくりとしたペースで食べながら「このメニューで私が好きなのは何だと思う?」と聞いたのです。ナオミさんは「かぼちゃの煮物ですか?」と答えると、満足気にうなずきました。それから、食べながら一品ずつ作り方を説明していきました。ナオミさんが「幸子さんはお料理が好きなのですね」と言った瞬間、顔を真っ赤にして「あなたに何が分かるというのよ!!」。今まで和やかな雰囲気が張り詰めた空気に一変しました。
そして「明日は来なくていいわよ!!」と言い放ったのです。
つづく
(このお話はフィクションです)