ALS を気ままに生きる
      和歌山市 林 静哉さんの講演
 
私は在宅生活をしている、ごく普通のおっちゃんです。
Picture 89_89実際に呼吸器をつけてみて、パソコン環境が整い、ヘルパーさん等の人員が確立できれば、こんなに自由気ままに生きられるのかと思っ
た次第です。
 
 
 
この会報にもときおり原稿を寄せてくださる林静哉さんが、和歌山県の ALS 患者・家族交流会で講演をされました(2017 7 8 日、主催・和歌山県難病・子ども保健相談支援センター)。妻・千津子さんのすすめで故郷・潮岬に帰ったことが転機となり、いまやパソコンを駆使して、阪神タイガースの試合を見たければテレビのスイッチを自分でつけ、歌を聞きたければユーチューブ、会話がしたくなればフェイスブックにコメントを入れ、「ALS を気ままに生きている」という林さんの話は、出席した患者・家族に大きな勇気をあたえました。
その概要をお伝えします。
 
自己紹介
和歌山市在住の林静哉と申します。
ALS 16 年。出身は串本町潮岬。年齢は 61歳。家族は妻と息子一人です。 現在の残存機能はわずかに動く左手の親指でパソコン操作をしています。瞬きで文字盤でのコミュニケーションができます。顔の表情筋も残っているので、笑顔も嫌な顔もできます。それから自発呼吸も 30 分位残っています。 私は在宅生活をしている、ごく普通のおっちゃんです。いまでこそ誰か来てくれるとヘルパーさんや妻が文字盤を離せないほど、よくしゃべりますが、ここまで来る前のことを少しお話しさせていただきます。
まずは、ALS の発症から現在に至るまでの、身体の変化と心の移り変わりについて、お話ししますので聞いて下さい。
 
発症
45 歳になったばかりの 2000 年の秋ごろ、右腕が異常にだるくなり、痙攣を繰り返すようになりました。おかしいと思いながらも、病院には行かずに、接骨院に行ったり、市販の鎮痛スプレーで誤魔化したりしながら会社に行ってました。 そのうちにゴルフクラブもまともに握れないほどの握力の低下を感じるようになり、日常生活にも徐々に支障をきたしてきました。さらに足にも同様の症状が出始めてきて、さすがの私も不安になって近所の医院に行き、血液検査を受けました。その結果、CPK の値が異常に高いので紹介状を書くから、それを持っ
て、総合病院の神経内科で、診察を受けるよう指示されました。
 
告知
2001 年7月、私は紹介状を持って、ある病院ですぐに検査を受けました。このころ、私は症状からネットで ALS の検索をしていたので、この病気だけは違っていて欲しいと心から思いました。
私は一通りの検査を終え、数日で筋萎縮性側索硬化症と告知をうけました。残念ながら、私の悪い予感が的中したわけですが、この病名を聞いたときは、まさしく地獄の底に突き落とされた思いで、目の前が真っ暗になり、この世の終わりかと思うくらいのショックでした。
そのとき覚えているのは、今のうちに、おいしいものを食べに行ったり、家族旅行をするように勧められたことだけでした。
それから病院に行くたびに人工呼吸器を着けるか否かを先生は聞いてきました。告知を受けたばかりでショックを受けている患者に対して、生きるか死ぬかの選択を迫ってきたのです。そんなに早く決めなければいけないものなのでしょうか。皆さんも先生から聞かれませんでしたか?医師の告知の仕方ひとつで、その患者の生死(延命)に係わる選択に大きく影響するため、患者の心理面についても、もう少し配慮してほしいと心から思いました。 病は気からと言いますが、精神的に弱かった私は、告知を受けて 2 か月ほどでしゃべりづらくなり、食べづらくなり、手足が動きづらくなってしまいました。しかし真綿で首を絞められるが如く徐々に進行するより、かえってこの方が良かったかもしれないと、今は思っています。
 
セカンドオピニオン
2002 年1月、友人の勧めもありセカンドオピニオンのため京大病院に行き、2週間の検査入院をして、最初の病院以上に痛い検査をしたにもかかわらず、診断は変わらず、絶望感が増しただけでした。
 
主治医との出会い 胃ろう造設 気管切開
受診のたびに人工呼吸器を装着するか否か聞いてくる医師の態度に嫌気が差し、ケアマネさんに頼んで往診をしてくれる開業医の先生がいないか、探してもらうことにしました。そして出会えたのが、今お世話になっている先生です。 先生は専門外ですが、ALS のことについて、いろいろと教えてくれました。
この先生と出会ったことで、告知を受けた病院には行かなくなりました。
 
このころの私は食べられなくなっていたので、体重が 30 `以上も減り、ガリガリの状態でした。このままだと命が危ないと、先生は胃ろうを勧めてくれました。先生の説得もあり、私自身も腹に少し穴を開けるだけで少しでも長生きできればいいかと、胃ろうを造設することにしました。
主治医の先生の紹介で、県立医大に入院していよいよ胃ろう造設の時がきました。しかし説明を受ける中で、胃ろう造設をやっているときに、命に危険を及ぼ
す場合もあるので、できれば気管切開をやった方が良いと言われたのです。
 
私は気管切開をすると、家族が 24 時間介護を強いられるし、経済的な負担も出てくるし、自分自身の生活も一変して、何をするにも家族や他人の手を借りなければいけないので、正直迷い苦しみました。
そこまでして、家族に迷惑をかけてまで生きる価値が私にあるのだろうかと。しかし妻や息子がお父さんは、どんな姿になっても生きていて欲しいと言ってくれました。私はその言葉で息子の成長を見たくなり、気管切開を受ける決心をしました。
声を失ったショックは想像以上でした
でも、声を失ったショックは想像以上のものでした。
しかも自分の身体でありながら、ほとんど動かせず、食べる楽しみもありません。とにかく辛すぎて、鬱状態になってしまいました。
退院の前日に業者がパソコンを持ってきて説明してくれましたが、私は上の空で聞いていました。
退院後はひとりでいるのが不安で四六時中、ブザーで妻を呼び続けたのです。
パソコンは単なる妻を呼ぶためだけの道具でした。
情けないことに、このころの私は自分のことに精一杯で、他人を思いやる気持ちなどなかったのです。
妻の疲労は MAX に達し、我が家からは、いつしか笑顔が消えていました。 このままでは、みんながダメになると、ある提案を妻がしてくれたのです。
 
妻からの提案 お正月にふるさとに帰ろう
なんと、お正月に私の故郷である、潮岬に帰ろうと言うのです。寝たきりになって以来、外出らしい外出をしていなかった私は、正直言って帰る自信はありませんでした。しかしそれ以上に、故郷の母親や友達に会いたい気持ちが強くなっていたのです。故郷は私たちを、あたたかく迎えてくれました。親戚の者はすでに実家で待機してくれ、幼馴染みは先生に声を掛けてくれ、同窓会を開いてくれました。
このとき、心から思いました。帰って来て本当によかったと!
このことは、二度と外出なんかできないと思っていた私に大きな自信を植え付けてくれました。このことを境に私の気持ちが劇的に変わったように思います。 うちに戻ってから直ぐにパソコンを開きました。今度は妻を呼ぶためだけにじゃなく、メールをみんなに送るために。このころから、やっとパソコンが、外部の人とのコミュニケーションの手段としての、役目を果たし始めたような気がします。
 
呼吸器装着
気管切開後の呼吸状態が良かったので、呼吸器装着は7年たった 2011 年の1月でした。このときは気管切開から年数も経ち、少し落ち着いていたので深く考えることなく呼吸器を着けることができました。 今でも自発呼吸は残っています。呼吸器装着後も生活は何ら変らず、外出の頻度も特に変わりありません。
 
当時の近畿ブロック会長との出会い
少しは落ち着いたとは言え、まだまだ不安な気持ちで一杯でした。そんなときに保健師さんが当時の ALS 近畿ブロック会長を紹介してくれたのです。
メールをやり取りするようになり、交流会で初めて会長にお会いしたときの素敵な笑顔が印象的でした。
私はそれまで自分の姿を人に見られたくなかったし、また同じ病気の人の姿を見たくなかったので、交流会等の患者の集まるところは避けていました。
しかしこの会長と出会い、お世話になっているうちに、生きる喜び、生きているからこそ味わえる楽しさ等、たくさんのことを教えていただきました。
この会長の存在はとても大きかったです。
 
パソコン師匠との出会い
もうひとりの方は、私のパソコン師匠です。
ご自身も ALS の患者でありながら近畿ブロックの患者のためにパソコン全般のサポートをしてくれ、パソコン環境を良くしていただきました。
パソコンのスイッチも身近にある物で症状に合わせて作ってくれました。またパソコンの知識や楽しみ方を教えていただき、在宅生活が大きく変りました。
この方の存在がなければ私は本当に寝たきりになっていたでしょう。
 
コミュニケーションの大切さ
これまでの寝たきりの生活で特に感じたことは、いかにコミュニケーションが、大事かと言うことですね。
コミュニケーションの方法は人により、さまざまですが、私はパソコンや透明文字盤を利用しています。ただ他人を介したりして文による会話だと時間かかるし、自分の意思が相手にうまく伝わらず、お互いに嫌な思いをする場合もありますね。しかし自分の意思を伝えることは大切です。いかにスムーズにコミニュケーションできるかが、ALS 患者の QOL 向上に繋がると思います。 意思伝達装置(パソコン)は重度障害者の補装具で申請できます。
 
 
 
 
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私のコミュニケーションツール パソコンとスイッチ  呼び出しコール
 
 
受けているサービス
主治医の往診 週 1 回   訪問看護  週5回 訪問リハビリ 週 1 回   歯科往診  週 1 眼科往診  月 1 回   耳鼻科往診  不定期 訪問マッサージ 週 4 回   訪問介護  週 6 訪問入浴  週 2
 
 
 
 
このように私はいろんなサービスを受け、多くの人に支えられて生きています。
だからどのサービスが欠けてもたちまち困った状態に陥るでしょう。
これからも出会う人とのご縁を大切に生きていきたいと思っています。
 
静哉 ないものを欲しがらず あるものを喜べよ
いままでの話でも、いかに私が ALS を受け入れるまでに時間がかかったかわかると思います。しかし歌の文句じゃないけれどどんなに苦しい出来事や悲しみだって時間が解決してくれます。
 
いろいろな不便もありながら、今の私に変えてくれたのは、もちろん時間の経過と多くの人との出会いのおかげもありますが、叔父の言葉の影響が大きかったような気がします。
似たような経験をした叔父の話を少しさせて頂きます。
現在 83 歳の叔父は、40 歳の時に突然の事故で失明してしまいました。だから当時小学生だった息子と中学生だった娘の顔はそのときのままです。孫の顔だってわからないのです。
一番つらい病気ってないのです。
誰だって自分のかかった病気が一番つらいのです。
その叔父は私が最も落ち込んでいたときに、よくこんな言葉をかけてくれました。「静哉、ないものを欲しがらず、あるものを喜べよ」 この意味合いを私は次のように捉えています。
失われた機能を嘆くより、残された機能に感謝して生きていけよと言うことかなと思っています。
この言葉で、辛いのは自分だけじゃないと気づかされました。そればかりか神
様はちゃんと私が生きていくための機能を残してくれたことを知りました。
 
自由気ままな在宅生活
現在私は自由気ままに在宅生活をしています。
阪神を見たくなればテレビを自分でつけて、歌が聞きたくなればユーチューブで、会話を楽しみたかったらフェイスブックにコメントを入れます。
私はもともと人と話をするのが大好きで、知らない人にまで話しかけていくほどでした。だからフェイスブックは縁を繋ぐにはなくてはならないものとなっています。それにフェイスブックで知り合った人が家に遊びに来てくれます。これはありがたいことですよね。
在宅生活と言えば、皆さん暗いイメージがあるみたいですが、結構毎日を楽しく過しています。このように障害があっても、誰もが安心して暮せる社会になればと願っています。
 
ALS 患者の初期症状と進行具合は人によりさまざまです。しかし最終的には呼吸筋を侵され、生きるためには人工呼吸器に頼るしかないのです。実際に呼吸器をつけてみて、パソコン環境が整い、ヘルパーさん等の人員が確立できれば、こんなに自由気ままに生きられるのかと思った次第です。
いまは医学も IT もすごいスピードで進化しています。だから私は今まで通り自分らしく生きて、ALS が難病でなくなる日を待っています。
 
吸引できるヘルパーさんが増えるようにご協力を
今日、専門職の方もご参加いただいているので、一つお願いです。
在宅療養するうえで、吸引できるヘルパーさんの確保が最重要課題です。基本研修受講後に看護師さんの指導の下で実地研修も必要です。基本研修がすぐに受けられなかったり、実地研修で看護師さんとヘルパーさんの日程調整が難しい等の話も聞きます。しかしせっかく法制化されても、ヘルパーさんの人員がなければ、家族の負担ばかりが増え、在宅療養が困難になります。
どうか一人でも多くの吸引できるヘルパーさんが増えるようにご協力をお願いいたします。
 
日本 ALS 協会近畿ブロック いろんな情報が得られます 最後に日本 ALS 協会近畿ブロックの紹介です。
3 回会報が送られてきて、他の患者さんの様子やいろんな情報が得られます。
1 回大阪で総会・交流会もあり、他の患者と情報交換することができます。入会ご希望の方は後でお問い合わせください。
 
Picture 696_696 以上で私の話は終わらせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。