未登録です

私の歩んできた道(6)  大川 達さん
左眼球を失った私から見た経過(会報38号 2001年11月18日発行)
*左目に充血と痛みが 

 私は病(ALS)の進行で、約3年前から、左まぶたがきちんと閉じなくなりました。特に1年前からは、寝ていても、左まぶただけが3分の2は開いているため、眼の乾燥による痛みと充血がありましたが、在宅で眼科医(以下はこの先生をA眼科医と記す)の定期的な往診を受けて、目薬も配達してもらい、その目薬で痛みと充血はすぐに治っていたから、何一つ不安もなく、安心してお任せをしていました。

 それよりも、このALSの天敵といわれている、風邪からの肺炎(私はいまでも口から食べていますが、ゴエンによることも少なくない)を警戒して、無事に冬を乗り越えて「お花の季節を迎えること」を第一の目標にしていたため、その季節を迎えると、すべての面で解放された気分にもなるわけです。

 今年3月4日に、和歌山市で初めて行われた近畿ブロックの交流会は、皆様方のご協力を受けたおかげで、盛大に終わることができ、満足感にあふれた思いで3月を過ごし、お花の話題が多い4月を迎えることができたため、安心をして、気分は最高によくなりました。

 ところが、その喜びが1か月も続かない4月20日前後になって、左眼の乾燥による角膜の傷へゴミ(米粒の4分の1)が付着したのが悪かったのか、ここからA眼科医も目薬を取り替えるなど、早めの対応策を取ってくれましたが、まるでA眼科医や私の期待を裏切るように進行をしていたのか、左目は「角膜潰瘍に冒されている」と、初めて聞く症状を知らされました。

*激しい痛みに襲われる 

 そして4月30日から、にわかに痛み出したと思ったら、早くも5月1日に、左目は電池で照らされると、その光はかすかに見えますが、視力のほうは全くなくなり、痛みは日に日に激しくなりました。

 このため、A眼科医も心配だったらしく、5月の大型連休は1日も休まずに往診を受けましたが、連休初日の3日に耐えられない痛みに襲われてから、その激しい痛みは2週間余りも続き、特にそのうちの1週間は、痛み止めの薬も効かないほどで眠れないため、ラジオをかけて夜を明かす日が続きました。

 この激しい痛みは私の不安を大きくしましたが、A眼科医はこの時点から私に余計な負担をかけないように気遣ってくれたため、私もいくらか安心をしていました。ところが、左目の激しい痛みはまだまだ続いており、それからまもなくの日に、「眼内炎に冒されている」と、これまた初めて聞く症状を知らされたうえに、5月の中ごろになって、「白内障も出てきた」と言われました。

 どこまで進行するのか。私の不安はますます大きくなるばかりのため、5月20日に大阪で行われた近畿ブロックの交流会は、この苦痛を少しでもやわらげたい思いで参加させていただいたわけです。おかげさまで、交流会の参加後から、左目の痛みは日に日に治まっていくため、「これで峠は越えたか」と安心度は高まりました。

 ところが後になって考えてみると、これは化膿し過ぎていたため、目の神経が死んでしまい、痛みが治まっていたとしか思われません。その証拠に、6月3日の夕食後になって、私の左目を見た妻は心配そうに、「目から血と膿が出ている」と言いました。

 この日はちょうど日曜日で連絡が取れないため、4日の朝一番に連絡をすると、忙しさでその夜遅くに往診に来てくれたA眼科医は見るなり、「眼球に穴が開いて、そこから膿が出ているため、C病院かD病院に入院して治療を受けたほうがよい」と説明しました。

 妻は大変な心配をしながら深夜まで入院準備をし、私は悔しさと悲しみがこみ上げて、眠れない夜を過ごしました。

*右目を守るため左眼球摘出を決断 

 そして5日には私からC病院への入院を望み、A眼科医の紹介を受けて、朝からわが家をたち、C病院へ向かいました。このとき私は悲しくも左眼球の摘出を覚悟していました。

 それでもC病院ですから、摘出のほかに何とかならないものかと、大きな期待をしていたのも真実です。ところが次の6日にはすでに手遅れだったらしく、C病院の眼科医(以下はこの先生をB眼科医と記す)から、「寝たままでは正確な検査はできないが、これでは見えるようには治らない」と言われました。

 さらにB眼科医から、「簡単な手術で左眼球を残す方法もあるが、この症状が良いほうの右目にも移らない保証はできない」との説明を受けて、私は右目を守りたい思いから、再び左眼球の摘出を覚悟すると、耐えられない大きなストレスが襲ってきました。

 6日の昼食後になってから、私はB眼科医に、「右目を守りたい思いから、左眼球の摘出を覚悟している」ことを伝えると、B眼科医は「それなら少しでも早いほうがよいから、手術に備えて、あとは何も食べないように」と指示しました。

 私は健康時には麻酔が効きにくい体質でしたが、このALSに冒されてまもなくのころに、胃の検査でカメラをのむため、のどへ液体の麻酔をふくむだけで意識を失い、3時間余りも寝込んでしまいました。目が覚めてからも、手足の感覚がなかなか戻らず、酔っ払いのように家に帰ったことがあるため、B眼科医に「この病は麻酔が効き過ぎることはありませんか」と確認を取ると、B眼科医は早速、神経内科や麻酔科と打ち合わせをしてくれました。

*局部麻酔で痛みに耐えられるか 

 そして、その様子を報告にきてくれたB眼科医から、「やはりこの病気は全身麻酔をかけると、この呼吸器(持参用)では難しくなり、もっと大きな呼吸器が必要となるため、これまでのように在宅療養に移れない可能性が強いこともある」と説明を受けた私は、これは間違いないご指導と素直に受け止めたとき、B眼科医は妻を廊下に連れ出しました。

 この間、私は痛みに耐える自信があるから、「局部麻酔でも大丈夫だろう」と簡単な考えでいましたが、廊下ではB眼科医から妻に、「局部麻酔でも痛みに耐えるショックで心臓に負担がかり、手術室から帰れないこともあるから、覚悟をしていてくれ」と説明があったらしいです。

 ところが妻は、私がこのALSで大きな苦痛を乗り越えているため、それくらいはと思ったらしく、その件を一人で受け止めずに、「本人に説明してください」と言ったから、B眼科医はびっくりしたそうですが、仕方なく私に説明をしに来てくれました。

 それを聞かされた私は、短時間でいくつもの決断をしなければならないゆえに、もし意識不明になったときは、介護(特にウンチ)の方法や、それに死んだときは家族のためにも息子たちにがんばること、主治医と近畿ブロック同病者へお礼、最後は妻に「長い間、世話になったな」を伝えると、手術室から迎えにきてくれました。

*「低血糖に気をつけてください」妻のひとこと

 このときの私は死を覚悟していたから、ほかに言い残すことはないかと必死の思いで考えながら手術室へ向かっていたのですが、そのとき妻が「糖尿病だから低血糖に気をつけてください」と言ってくれました。

 私は死ぬことしか考えていなくて、「生き抜くための第一条件」を忘れていたことに気づき、妻に感謝をし、「がんばれば生きられるかもしれない」と思ったとき、同伴の関係者が全く筋違いなひとことを言いました。私はこれでは駄目だと必死の思いでそれを訴えようとしましたが、通じないばかりではなく、関係者から手術スタッフへ伝わらないまま手術室に入ることになり、それに夕食時間をだいぶ遅れそうになってきたため、土壇場になってから限りなく大きな心配事を背負うことになったわけです。

 そして手術のため局部麻酔を打つと同時に、心配していた低血糖が襲ってきました。これまで私は低血糖に冒されたことが3回もありますが、いずれもびっしょりと冷や汗が流れて小便をしたくなる初期症状で対処していたから、これ以上の症状がどうなることかさっぱりわかりません。それにこの低血糖状態が長引くと、意識不明になると聞いていたため、それが気になって仕方がありませんでした。

 といいますのは、いま、ここで私が意識を失えば、あの「痛みに耐えるショックで……」と一緒にされかねないかと不安になり、必死の思いで「低血糖である」ことを伝えようと口を動かしますが、手術のために顔にかけられた布は厚くて、わずかに動く口ではなかなか動かせず、手術スタッフも手術に一生懸命のため、意思が通じない不安はますます大きくなりました。

 それで、手術が終わるまではどうしてもがんばらなくてはならないと思っているときに、吐き気に襲われた私は、「この吐き気症状を最後に意識不明になるか」と覚悟をしていました。そのとき、「はい終わりました」と約2時間が過ぎ去り、顔にかけられた布を取り除いてくれた手術スタッフは皆さん、「うわっー、痛みに耐えてびっしょり汗をかいている」と慰めてくれました。

*お父さんが何か言っている 

 ところが私の吐き気はだんだんと激しくなるため、「もう駄目か」と、またも必死の思いで「低血糖である」ことを目で訴えますが、皆さんから返ってくる言葉は「よくがんばったね」の慰めで、私の意思が皆さんに通じるはずもありません。

 私は手術室の外へ出るまでのあまりにも長過ぎる時間を待ち焦がれて出してもらうと、無事に生還した喜びで妻は私の訴えに全く気がついてくれないため、私は片目で妻をにらみ続けていました。

 すると息子が「お母さん、何か言っている」と伝えてくれたため、早速「低血糖」だけを伝えると、左眼球摘出の痛みが一度に襲ってきました。それに激しい吐き気はだんだんと強くなるため、早くブドウ糖を頼みましたが、病室まで待たされたゆえに、待ち焦がれたブドウ糖を注射する前に、今度は頭痛が始まりました。私はまたも「この頭痛症状を最後に意識不明」になると思い、早くブドウ糖を頼みますと、5分もしないうちに吐き気や頭痛は完全に治まり、再び左目の痛みが襲ってきました。

*低血糖に脅かされて痛みに耐えられた 

 病室に落ち着いて手術のことを振り返って、結局はこの低血糖に冒されて素人なりの余計な心配事に脅かされていたため、大変な苦痛に耐えられたという思いでいるとき、B眼科医から「左眼球の摘出は正確な判断だった」と説明を受けました。これもB眼科医のわかりやすいご指導が私に正しい決断をさせてくれたと、感謝の思いがこみ上げて涙があふれたり、左目を失った悔しさと悲しみの涙があふれたり、涙、涙ばかりの2週間を過ごしていました。

 この間、妻は義眼についてのご指導を受けて、手術後の経過も順調ということで、6月20日には退院をできると聞きましたが、私と妻はこれからの大きな不安を抱いていると、B眼科医は「私から見れば、呼吸器装着の方がよほど危険に思う」と言ってくれたため、不安はいくらか和らいだ思いになりました。

 でも、在宅療養に移ってからの私は身動き一つできないため、見ることと聞くことの楽しみしか残されていないのに、「なぜ左目を失わなければならないのか」と悔しさと悲しみがこみ上げる思いが続きましたが、退院から2か月も過ぎれば、見る楽しみの一つしか残されていない右目を守るためにも、A眼科医の存在は欠かせない先生に思えてしかたなく、いまでは安心してすべてをお任せしております。

 独眼になってしまいましたが、近畿ブロックには私などよりも条件の悪い同病患者さんががんばっているため、私も負けないようにとがんばられる気持ちにもなりました。また、最後になりましたが、私の左眼球摘出手術前後の一番苦痛な時期に、近畿ブロックの役員さんや同病患者さんの皆さんに励ましのお電話やファックスをいただきまして、多大の面で助けられました。厚くお礼を申し上げます。
                         (2001年8月31日)

ページトップ