心象スケッチ (19〜15)ダイジェスト版
心象スケッチ (19)    (会報41号 2002年10月25日発行)
   ひとり息子がよき伴侶を得ました
*秋風そよぐ青空の下で

 平成14年9月22日、私のひとり息子はよき伴侶を得まして、皆さんからも祝福を受けめでたく結婚しました。

 今年の夏は暑い日が続いておりましたが、式の当日は寒暖の差もなく、秋風そよぐ青空の下で、可愛いコスモスの花が見事に咲いておりました。

 結婚式の準備等は親の出る幕もなく、すべて自分たちで計画して、ハッピーな人生のスタートをしたのであります。

 約26年前になりますが、私は息子を出産の後しばらくして発病しまして、せめて息子が小学校へ入学するまで、いや、中学生になるまでは生きなければと。次は成人するまでと思い続けて今日に至ります。まさか、今年26歳になる息子の晴れ姿を見られるとは夢にも思っていませんでした。

*私の病と息子の成長とは時期を同じくして

 わが子が産声を上げた瞬間を、遠い記憶の中ですが、しっかりと覚えています。過ぎし日々は走馬燈のごとく早く感じますが、思えば、私の病と息子の成長とは時期を同じくして。幼い時期に背伸びをさせ無理をさせてしまったと、今は後悔先に立たずです。

あの頃を振り返ると胸の詰まる想いですが、夫の助けの下に不治の病と子育てとの両輪、悪戦苦闘の毎日でした。不甲斐なくとも、私なりに力の限りの母親であったのだと思っています。けれど、発病当初は病気のことはもちろん人間関係などさまざまな面で苦渋の体験を余儀なくされ、心身共にかなりまいっておりました。

その傷心していた私の唯一の支えは、まだ手のかかるたったひとりの幼い息子であったのです。エネルギーの源であったのかもしれません。

 余り強くない母親でしたが、息子は周りの方の大きな支えで無事に成長してくれました。結婚式の最後に、「ありがとう」の花束を贈られましたが、私の場合は「息子よ。今日までありがとう」です。

これからは自分のパートナーと一緒に長い人生を歩んでいくのでしょう。体に気を付けて、「二人で幸せになってね!!」と新米の姑さんは願います。

*支えてくれる周りの方たちを忘れて欲しくありません

 それから願いはもう一つ。息子には、母を支え、自分をも支えてくれた、或いはくれている周りの方たちを忘れて欲しくありません。皆さんには心より感謝をして。親子ですから改めて言葉多くはありませんが、息子に「結婚!!おめでとう。よかったね。」と、このような日を迎えられたことを共に喜び祝ってやれました。

 子の幸せを願わない親はいないと思いますが、しかしながら、離れていくのに一抹の寂しさも当然でしょうね。子どもは神様からの預かりもので大きくなったらお返ししなければならないようです。複雑な心境です。かつての私もそうだったのですが。

 そして、息子も独立しました。近くに住んでくれています。ときどき顔を見せてくれて、顔を見るとホッ!と安心したりします。「2〜3か月たつと、だんだん寂しくなるよ」と周りの方からのご忠告。本当にそうなると辛いかなぁ? そのうちに慣れると思いつつ、ちょっと不安かなぁ? 

 私の毎日はパソコンで文章を書いたり、メールをしたり、絵を描くなどしていて、ヘルパーさんや看護師さんの他にも人の出入りの多い生活です。息子は息子なので混同しては変ですが、随分救われます。ただ今、息子とのコミュニケーションはメールでの会話。これでよいのでしょう。

*夫と二人、白髪交じりの新婚さんです

 人の長い人生にはいろんなことがあるものですね。先のことはわかりませんが、これからもきっとあるのでしょう。

また、母親らしきことも十分できないままでしたが、親の役目をひとつ終えた気がしています。26年前と同じように夫と二人に戻ったのです。夫と仲良く喧嘩しながら、白髪交じりの新婚さんです。「次はお孫さんね」と声をかけられながら……。

 今年は息子の結婚の日と、今夜、再び咲いた香り漂う月下美人の白い花。月下美人は精一杯大輪の花を咲かせ、一夜の数時間の命を生きる花です。子はどんな自分の花を咲かせるのでしょう。ここには思わぬほど長生きしております大輪の花? 自然の息づかいを感じながら、与えられた余命をまた異なる目的に向かって、一仕事終えた私も新たなスタートです。

杉本孝子さんの近況
 ラッコのように温水プールで浮かぶことを目標にしていた孝子さんの現在の目標は、シュノーケルを口にくわえて潜ること。そんなアホなという外野席の冷やかしをよそに、訪問看護師さんが定期的に練習させてくれて、呼吸リハにもなり、シュノーケルをくわえて呼吸もしやすくなったとか。やらずにあきらめる手前どもは反省します。 (編集側)

心象スケッチ (18)    (会報39号 2002年4月7日発行)
   私の怒り 介護事業所に
*人の出入りが多いと疲れます

 私の在宅療養は昼間の約12時間程度、家族不在のため、介護保険、全身性障害者介護人派遣事業100時間、医療(訪問看護)をフルに活用して、ヘルパーさんや訪問看護婦さんのお世話になって維持できている療養環境です。

 介護保険は3か所の事業所から、全身性事業は介護保険の不足分を補う形で利用して、ヘルパーさんだけでも7、8人の方がかかわってくれています。訪問看護婦さんにも入浴介助などのために週4回、来てもらっています。

 健康な方でもそうだと思いますが、毎日、人の出入りが多くなると心身共にかなり疲れます。限られた時間の中で、可能な限り続けて同じ方に入ってもらいたいと思っていますから、口頭では説明できないぐらい、曜日によって異なる時間配分、週間スケジュールは細かくて複雑になっていると思います。

*ヘルパーの新規交替を言われた

 いま、ある1か所のヘルパー派遣のA事業所から、近くヘルパーの新規交替をと言われています。私にはこれは一大事。非常事態であり大きな打撃であります。

 2月の初めごろに、この件でA事業所と話し合いをしましたが、どちらも譲歩せず、平行線のまま。「約2年半も同じヘルパーである」と。また「利用者が増えてきている」とか「ベテランのヘルパーにはいろんな利用者の所へ行ってもらいたい」などの理由によるものです。

 A事業所は、介護保険制度スタート前から利用しています。以前に利用していた市民生協は3か月のヘルパー交替で、社会福祉協議会は6か月となっていて、ようやく少し慣れてきたころに交替されて、大変困りました。A事業所にはそういう事情もあらかじめ説明し、社協の担当者も交えた話し合いの中で、「ヘルパーの交替はしないから、全面的に任せて欲しい」と言われ、その経緯もあり続けて来ました(そのとき利用していた社協は退く結果となりました)。

*お勉強のために来てもらっているのではありません

 A事業所からの2人のヘルパーさんは他の利用者の方へも行かれています。私も「永久に同じヘルパーさんで」と要求しているわけではありません。ヘルパーさん自身の体調や事業所を移られるなど個人的な不都合が生じた場合、あるいはヘルパーさんとこちらとの間に問題が生じた場合は致し方なく納得もいきますが、先の理由や方針が変わったなどの勝手な都合ばかりでは事業所に振り回されているようで、どうして納得がいきましょうか。いまも決裂状態です。本当に困り果てます。

 私にとって、慣れてくれているヘルパーさんの交替は死活問題です。お勉強のために来てもらっているわけではないのです。単刀直入に言えば私が生きていくために助けてもらっているのです。ですから、誰でも良いというわけにはいきません。当然でしょう。

 現在の私の身体的なことはもちろんですが、家事支援、生活リズム、コミュニケーションなど、すべてに私のスタイルがあります。私のニーズにあったケアは今日明日とすぐにできたものではありません。何事も信頼関係が前提にあり、さらにまた重要な部分ですが、私の精神的な面も支え、夫の糖尿病のことも理解して協力してくれています。この先、私の症状の急激な悪化はないと思いますが、それでも少しずつ進行しています。進行性疾患の患者をあらゆる面でケアしていくのは容易ではありません。

*なぜ一緒の立場に立ってくれないのですか

 折しもそのころ、奈良保健所で「平成13年度難病在宅療養支援計画……」云々について会議があり、出席をさせていただき、そのときに今回のヘルパーさんの件をお話ししました。わかってくれたかどうかわかりません。

出席をされていたちょっとご年輩のベテランの保健師さんらしき方が、会議の後、私の側に来られて、「友達をつくる意味でも、いろんなヘルパーさんに入ってもらったら、また違った方と新しい出会いがあります。この仕事をされている方はみんないい人ですから」「馴れ合いになられることもあります」「事業所も調整するのが大変なのでしょう」などと言われた。

 もう長い間、人様のお世話になって闘病生活をしている私に一般的なことを言われても、事業所サイドのような言い方をされても、私が納得できるはずもありません。すぐに答えが見つからなくても、なぜ一緒に私の立場に立ち、考えようとしてくれないのでしょうか。残念に思います。

 介護保険制度は利用者が事業所を選べますが、地域のそれも徒歩5分の距離の事業所です。できればこのまま続けていきたいと思いますが、せめてこちらの気持ちや事情を察してくれた対応があれば、ヘルパーさんの新規交替を残念に思うけれど、私も考えるでしょう。

先ごろ話題の政治家じゃありませんが、世間では長く同じポストにいると癒着すると言われる方もいますが、癒着するのは双方に利害関係があるからでしょう。私を心身共に支え、体力だけじゃなく神経も使われて、多大な犠牲を払われているのです。利益的なことなど考えられるでしょうか。むしろ逆です。損得で考えるなど、ヘルパーさんに対しても誠に失礼です。

 安心して生活ができるよう支援しなければならない事業所が、利用者に精神的打撃を与え不安定な状態にさせる、それこそ問題です。

私は無理難題を求めているのでしょうか。ただ平穏な生活を望んでいるだけなのですが……。
2002年(平成14年)3月6日(啓蟄)。今年の春はまだ遠いようです。

*私の一大事は共通の悩みでした

 前回の会報39号に「私の怒り 介護事業所に」と題してヘルパーさんの新規交替問題を掲載していただきました。その後、会報を読んで下さった方々から、共感の声や感想を頂戴しました。やはり同じ想いをされている方がいて、問題となっているようです。私の一大事は共通の悩みでもあるのだと知り、書きっぱなしではこの問題が消えてしまうのではないかと懸念され、また結果を報告する義務をも感じました。

 それに私のわがまま事件として簡単に片づけられてほしくありません。慣れないケアのお互いの大変さをどうしてわかってもらえないのでしょうか。切実に思います。

 あれから介護保険の事業所は3か所から2か所となり、1か所の事業所が抜けた部分を全面的に引き受けてくれたおかげで、4月から新介護体制が整いました。しかし、問題が解決したわけではありません。結局、わかってもらえないままで、問題の事業所からの歩み寄りもありませんし、4月からの介護プランには入れられませんでした。

 ヘルパーさんの新規交替の件でその事業所と話し合いはつきませんでしたが、ヘルパーさんは以前と同様です。前から来てくれているヘルパーさんは私の状態をよく理解して下さって、協力してくれています。4月より新たに2人のヘルパーさんをお願いして、いまは10人ぐらいの体制です。新しいヘルパーさんは2か月近くたちます。私のトイレ介助など、まだ余裕のない厳しい状況です。早く介助のコツを体で覚えて欲しいと思いますが、難しいのは当然かもしれません。

 ヘルパーさんたちも新しい方を含め皆さん、積極的に私を支えて下さっています。本人が挫けるわけには参りません。これからも、介護の事業所や関係者の方々に、機会あるごとに理解を求める努力を惜しまないつもりです。

心象スケッチ (17)    (会報38号 2001年11月8日発行)
   「生きている実感」PartU
    三度目のプール行きが実現!
*担当の保健師さんとPTの先生も一緒に

 前々回の会報36号へ、昨年(2000年)の12月ごろ、27年ぶりにプールへ行った様子などを「生きている実感〜もう一度泳いでみたい〜」と題して掲載させていただいた。

 その後、今年の春に2度目がかない、6月23日の梅雨のころには3度目のプール行きが実現したのである。2度目は初回のときのように馴染みのヘルパーさんたちがボランティアでお手伝いをして下さり、プール行きが実現できたのであるが、3回目は私のリハビリの目的もあって、担当の保健師さんからPTの先生に同行を求めてもらってかなったのである。

 3度目に選んだプールの施設は前回のような天井から陽がさんさんと降りそそぐガラス張りの新しい屋内プールではなく、少し遠いので思案もしたが、25年ぐらい前に建てられた奈良市総合福祉センターと隣接をした普通の屋根付き屋内プールとなった。夏の間は厳しい日差しがやはり怖い。真夏の直射日光には長時間耐えられない超モヤシの、か弱い?私の希望もあったのである。

 プールはスロープもあって、移動箇所には段差もなく、シャワー室や更衣室も車椅子で利用できることがいつも必要最低条件となる。フィットネスクラブなどの会員制のプール教室も多くなり、どのようなプールでも利用できると良いのだが、相も変わらず条件の整ったところは限られてしまう。このたびは一緒に行ってくれる保健師さんにお願いをして、私が利用できるかどうか事前に施設の状態を調べてもらったのであった。

*気持ちが燃えているから大丈夫

 当日はあいにくの雨。集中豪雨的な大雨は困るけれど、暑くなくて幸い。街の緑もしっとりと雨に濡れ、車のウインドーに流れる小さな雨粒を眺めながら車で30分。施設に着くと、PTのN先生と保健婦さんはもう先に来てくれていた。今回、同行してくれたメンバーはヘルパーさんが2人、保健婦さんが2人とPTのN先生である。

 このプールを利用するのは皆さんも初めてと聞いているが、私の着替えの介助もスムーズに運び、早速、プールへと向かう(介助者が必要な私にとって、シャワー室や更衣室のスペースが若干狭く感じられたが、当時とすれば最新の設備を整えた施設であったのだろう)。

 N先生はすでにシャワーの側で待っていてくれて、天井と側面に防災スプリンクラーのごとく取り付けられた豪雨のようなシャワーを私も浴び、プール用の車椅子を押されて、プールの底まで続いているスロープを車椅子で進む。一応は温水プールなのだが、温度差に徐々にしか順応できない体は小刻みにガタガタと震える。それでも一向に差し支えはない。体はそのうちに慣れてくると楽観的。気持ちが燃えているから大丈夫だなんて、たまには言ってみたいものである。

 最初はPTのN先生と保健婦さんやヘルパーさんの介助で水中ウオーキング。次なるメニューは以前と同様に頭や体を支えてもらって足の曲げ伸ばし。とにかく泳いで?いた。ある程度顔が水に浸かっても平気でいられるようにと、入浴時、洗面器に水を入れ、顔を浸ける練習もしてきたが、いざ本番となるとうまくいかない。

 しばらくして、ちょっと水慣れしてくると気持ちにも余裕が生じ、どうにかしてひとりで浮いてみたいと思う。今回の最大の目標は先ず独りで浮けることなのだ。しかし、やっぱり独りでは沈んでしまう。試しに、施設に置いてあった普通のビート板を貸してもらったが、コンパクトすぎてうまくいかない。そこでまた一思案。保健師さんが「これはどう」と差し出した多少大きめサイズのビート板。どうやらセンターの係員の方に頼み、探してもらったようであった。

*ひとりで浮いた! まさかのまさか

 そのビート板を脇に挟み込んでもらい,浮かしてもらうと,安定感があり、「これならひとりでも浮けそうだよ」とN先生。

私もそんな気はするが、自信はない。先生は支えていた手をそっと離したその瞬間、ブクブク!っとあわや沈むのかと思ったが、私の体は頼りなく水面に浮いていたのである。

 街には小雨降る日の一世一代の大仕事? まさかのまさか。奇跡が起きたようであったが、なんのことはない人の体は浮くようにできているのだそうだ。私は無駄な力が抜けないから沈むのだろう。まるで、溺れそうにアップ!アップ!してもがいていた、過去の私とよく似ている。なぜかすぐさま自分の歩みと重ねてしまう。まだどこか払拭されない部分があるのだろうか。

 また私は、再びどうして泳ぎたいと思うのだろうか。耳や鼻に水が入り、苦しくてたまらないのに、なぜ求めるのだろうかと、ときどき考える。実際に体で体験することや夢中で何かをする楽しさもさることながら、わずかでも目的が達成されれば、喜びも数百倍。それだけじゃない気もするが、おそらくその辺りに生きている実感のようなものが感じられるのであろう。

しかしながら、ままならないのは世の常である。この先も失敗の連続で、もしかして沈没?!挫折するかもしれない。顔を浸けつつ、あるいは単独で泳ぐなんて私には不可能に近いと思うのである。少々弱気かなぁ。でも、諦めないでいたい。いつかきっと、海中でスキューバダイビングもしてみたいと思っているのだ。

*私、オリンピックに出るわ

 これは余談だが、今年の6月より訪問看護ステーションが替わり、現在、週4回の入浴がかなっている。その訪問看護師さんの中に、なんとスキューバダイビングをされる方がいて、体験者がこんなに身近にいて驚いた。看護師さんのダイビング情報では、体の不自由な人が潜る場合、ダイビングチームを組んでくれるところもある様子。介助があれば私にも可能性はなきにしもあらずだと思うのである。

 初めてビート板で浮くことができて、「オリンピックに出るわ」などとメル友に冗談を言ったら、うれしいじゃない、同病のメル友が応援団長を引き受けてくれるとのこと。オリンピックにダイビング、エトセトラ。「さあ、私も忙しくなってきたわ」とどこまで本気なのかわからない毎度ノリのいい私である。

 プールも最初は浮くだけでも良いと思っていた。だが、ドンドンとエスカレートして行き、皆さんに支えられて夢が夢で終わらずに現実のものとなって行く。そしてこれからも、ビート板を抱えた私のラッコ泳ぎ?はまだまだ続くのであろう。

心象スケッチ (16)    (会報36号 2001年3月21日発行)
   生きている実感
    〜もう一度泳いでみたい〜
*秘めた想いをヘルパーさんが目覚めさせてくれた

 昨年の12月9日、27年ぶりにプールに出かけることができた。メンバーは私を含めて4人。いつも来てくれているなじみのヘルパーさんたちと一緒である。

発病してそろそろ24年くらいになるだろうか。今年は2001年である。世紀は新しくなり、私は何の因果か、四半世紀近くも闘病生活をしているわけだ。患うもの故の過去のさまざまな体験を忘れてはならないと思いつつ、自身の毎日は病人であることなどトント忘れている。周りの人たちのおかげもあって、辛苦をバネとしたところもあるのだが、けっこう充実した日々を送っているのである。

しかし、こんな暮らしも長くなると、毎日の生活の中にはない、何か新しいことをやってみたい衝動に駆られるようである。私の日々の暮らしは決してはなやいだものじゃない。コツコツと積み重ねていく、ときには挫折もある、地味で単調なものなのだ。だから、たまには別のことをして楽しみたいと思うのであろう。

海もプールも、泳ぎ方を忘れるほどのご無沙汰。特に水泳が得意だったわけでもなく、冥土のみやげ話になんてこともないのだが、かなえられるなら、この先もう一度くらいは海がプールでも行ってみたいと思っていたのであった。

もちろん、ひとりでは行けないので、半ば想いだけが胸の奥底に秘められ、ねむっていたのであろう。眠れる森の美女?のそばで、目覚まし時計役をしたのは、ヘルパーさんたちであろうか。これは責任重大?!であるかもしれない。

*通販で赤い花模様の水着も買った

 家族の次に身近な存在であるヘルパーさんたちは、それだけ重い役を担っているといえるだろう。会話の内容はかなり多種多様だが、ヘルパーさんたちと、ときどき世間話をする。ヘルパーさんたちから、いろんな情報をもらって、私の好奇心は刺激され、感化されることも少なくはない。

 今回のプールの件は、私の興味もあってヘルパーさんたちに尋ねたのだが、新設されたプール情報や使用料、使用するにあたっての規則、車椅子は使用可能かなどの詳細な情報を入手し、教えてくれたのであった。

 家族や身内から「泳ぐのは、無理や」と指摘されたが、頭や体を支えてくれる人がいて、浮く程度なら可能性はなきにしもあらずである。プールは温泉のようにはいかないが、少し前に「おひめ様だっこ」をして温泉に入れてもらったことがある。

 水の浮力のせいか、私の体は軽かったそうだ。自由に動ける人と同じように泳げなくてもいい。浮くだけでもいいのである。とにかく一度実際にやってみなければ話にもならない。秋も日一日と深まりつつあり、冬の季節では温水プールといっても寒いはずだ。なるべく早くと話は決まったが、問題は水着であった。

 私の水着は30年も前の年代物である。わが夫は「泳いでいるときに、ゴムが切れるぞ!!」とおもしろ半分に私を脅し、からかう。その年代物の水着はビキニとまでいかないけれど、セパレートタイプなので、この年じゃちょっと抵抗があった。私も一応女性なので、あからさまに公表はできないのだが、それがその……体型も若いときと同じようにはいかないのである。

 いまはプールも年中泳げるようだが、シーズンオフで、水着など普通の店頭ではみあたらず、ちょうど、適当な水着が通信販売の雑誌に載っていることをヘルパーさんから教えてもらった。黒地に赤い花の模様が胸にある水着が気に入ったので、通販で買い求めた。車椅子でも入れるプールの施設は自宅から車で15分くらい。水着も買って、用意万端整い、日を決め、プール行きが決定されたのである。

*陽はまぶしく、さんさんとふりそそぎ

 そして、目的のプールへ出発。その日は12月とは思えないほどポカポカ陽気であった。この時期なら、はらはらと白い雪が舞っていても不思議ではない。「自分たちのために用意されたようなお天気ね」と言い合ったほどである。よほど精進のよい方がいるようだ。好天に恵まれて、みんな幸せ!

 ここはまだ新しい市営のプールである。一人のヘルパーさんは、この市営プールをよく利用されていて、利用の仕方も心得、様子がかわり、助かった。使用料は2時間800円だが、障害者割引で付添い人と本人は無料である。屋内はかなり広く、サウナもあり、車椅子用の更衣室やシャワー室も一度に車椅子二人は利用できそうだった。早速、みんな水着に着替え、プールへと向かう。天井はガラス張りで、全体が明るく、陽はまぶしいくらい、さんさんとふりそそぎ、まるで春のような感じであった。

 25メートルプールに沿って、手すりつきのスロープがプールの底まで延びていて、車椅子でも入れる。貸し出しの専用車椅子を使って入るのだが、ゴツゴツしていて、私のお尻は気の毒だった。水温は人の体温くらいだろうか。体が冷えてくると、プールのそばにある、少し高めの泡風呂のようなジャグジでしばらく体を温める。そこは温泉気分! 石鹸とタオルがあればなおけっこう!!なのだが……。

*私の前世はサカナであったのか

 プールは介助によって浮いていられ、手足も思ったよりもよく動くのである。すべての人にどうかわからないけれど、リハビリや運動には確かに効果的だと思えた。

 夢かまぼろしか、今回、現実のものとなったプール行き。私の前世はサカナ?であったのだろうか。海が、いやプールが、「おいで、おいで」としきりに私を誘う。それにいざなわれるがごとく、あたたかくなれば、また出かけてみたいと思うのである。

 心象スケッチ (15)    (会報35号 2000年10月19日発行)
   介護保険では全然足りない
 
*先の見えない介護保険の申請

 2000年4月から介護保険が手探り状態でスタートし、私の場合は市の方で要介護度認定が間に合わず、けっきょく5月からの開始となった。

 不十分な体制で開始されることは無駄な部分と要介護者にも不安を与える。私も例外ではない。ホームヘルプサービスの事業所も、介護保険について、はっきりと知らない様子であった。介護保険の遅れで、ヘルパー派遣が滞るなんてことはまさかと思うが、ヘルパーさんが来てくれないと、たちまち生活ができなくなり困るのは私なのだ。

 初めての介護制度で仕方がないというのは言い訳に過ぎない「けしからん」と怒る相手もなく、選択の余地もなく、納得のいかないまま、行き当たりばったりの先の見えない介護保険の申請をすることになったのである。

 介護保険下での新体制が始まり、以前よりも家事介護支援の時間数が増え、入浴も週に1回から3回となった。しかしそれでも家族やボランティアに頼る部分がかなり多い。ヘルパーさんは介護保険で提供されている時間をオーバーしても個人の善意で長くいてくれたり、「困ったことがあったら言って」と皆さん気持ちよくボランティアを引き受けてくれたりするのだが、そんな状態をいつまでも続けられるわけはなく、私としてはなるべくきちんと公的なサービス支援を受け、介護の体制を整えたいと常々考えていた。今もそう思っている。

 
*却下、却下!の連続だった

 あるところから市の予算があまっていると聞き、これ幸いチャンスとばかり、前からなかなか許可してもらえなかった全身性障害者介護人派遣事業の申請を申し出たのである。

 この制度は身体障害者手帳の内容がすべて1級であることや独居など厳しい条件があり「いつも却下、却下!!」。許可という言葉を知らないのかと思うほど、受け入れられずにいた。自治体により異なるようだが、在宅で家族と共に生活をされて利用している方も多いだろう。私も同様の生活環境である。それに、もうひとつの難問は手帳の1級の書き換えであった。

 市から手帳の内容をすべて1級に書き換えて下さいと言われたが、病院へ行くことすら容易ではなく大変なので、いまのままで申請をさせて欲しいと頼んだ。だが、やっぱり却下!! 役所の融通の利かない様に「ほんまにガンコアタマやわ!」などとひとりでブツブツ・ボソボソつぶやきながら他に手段はなく、支援してくれる皆さんの協力を得て、1か月ぐらい期間を要し、ようやく手帳の書き換えが完了したのである。

 同時に、全身性制度の申請をして、1日も早く利用できればと思っていたが、市の担当者が制度のことや時間数の件で、猛暑の中、わざわざ家に来て説明をしてくれるというのであった。

 
*これじゃ半分にも満たない

 数日後、市の担当者が来訪し、話を聞くと、私は介護保険を利用しているので、介護保険プラス60時間分しか利用できないとのこと。奈良市は全部で130時間になっているが、これじゃ半分にも満たない。そのような例はかつて聞いたことがなくて、私は当然130時間と思っていたので、驚いてしまった。

 もちろんそれでは困るから、もう少し増やして欲しい旨を市の担当者に要望すると「それじゃ、ケアマネジャーさんに頼んで、これだけ必要だという意見書を書いてもらって下さい」と言われた。そのとき、ちょうどケアマネジャーのMさんが一緒に話を聞いてくれていた。Mさんが身を乗り出して「はい! ケアマネジャーは私です」と言ってくれたので話は早い。こんな場でちょっと不謹慎だが、申し合わせたようなタイミングのよさに私は偶然のおもしろさを感じた。

 早速、意見書を提出してもらって、130時間とは行かなくても100時間利用できるようになり、何はともあれまずは一安心。

 しかしながらこの制度は介護人を自分で探さなければならない。誰でも良いというわけには行かず、これが厄介なのだ。改めて介護人を探すのはそう簡単ではないのである。すでに来てくれているヘルパーさんにも、全身性制度の介護人として登録をお願いして、他にも心当たりの方がいれば紹介をしてくれるように依頼した。

 
*介護人探しに明け暮れて

 冬が来て春が過ぎ、夏も終わろうとするころ、この制度の許可が下り、これまでもけっこう厳しい道のりであったけれど、ヘルパーさんからヘルパーさんを紹介してもらったり、介護人さん探しで明け暮れたりしたこのところの日々である。

 9月から、介護保険で不足していた部分を補う形で、私が必要とする時間帯を全身性障害者介護人派遣事業で埋めてもらっている。

 
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