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●聖なる子供
メリークリスマス・ミスター・ローレンス
ロレンス・ヴァン・デル・ポスト原作の・・
映画「戦場のメリークリスマス」(監督 大島 渚) として知られている話が紹介されています。
「日本の捕虜収容所にいた時、ぞっとする葛藤が進む中で、多くの処刑が予知されていた。
突然、彼(ロレンス)の側の囚人の一人で、以前に拷問を受け、重い病気になっていた人が、目を輝かせながら・・この事態を救うことをやってみようとしていると彼に告げた。
そして最悪の瞬間が来た時、彼が突然中庭に並んだ捕虜の列を離れて歩きだし・・収容所長のところへ進んでゆき・・・それはかなり無礼なことだったので、皆は驚きのあまり彼を止めることすらできず・・彼は所長に接吻したのである。
・・日本の観点から見れば、それは卑劣な侮辱であり、西洋の角度から見れば、衝撃的なことだったので、皆、度を失ってしまった。あらゆる議論は止み、捕虜たちは各自の独房に戻り、日本の将校たちは各部署に戻った。
その男性は彼の行為に対して命と云う代価を支払ったが、全体の状況を救ったのだ。
日本人将校は後にあのような馬鹿げた、子供じみた、狂気じみたことをして決定的な瞬間に事態を救った天分を持っていた人に感じた、その深い尊敬を示し、故郷の彼自身の先祖が奉られている霊廟に、その髪を一束奉納するためにとっておいたのである。
それは神聖な子供の霊感のようなものであった。
決して計算することのできない何かであった。
もし・・あなたが人間的な場の軸か中心を変えるために、何か馬鹿げたことをする決心をしていたならば、決してそういうことを考えることはできなかっただろう。
しかし、人が・・すでに重い病気などで精神水準が低下していれば、 彼は無意識からの霊感をうけるようになり、和解の身ぶりとして、愛の身ぶりを意味する、あの考えを得たのである。
その通りにはうまくゆかず、理解されなかったにもかかわらず、 それはうまくゆき、多くの人の命を救ったのである。
聖なる子供が虎やライオンの間を歩く、多くの神話がある理由がそれである。 虎やライオンは否定的な破壊的な感情である。
一般的に破壊的な人間的状況が起る時には、破壊的な感情が蓄積されていて、そうなると誰もそこから抜け出すことができなくなる。
しかし、だからこそライオンの頭に手を置いたり、あるいは蛇に一撃を与える子供の神話が存在するのである。 それは何か否定的感情に捕らえられていないものがあるからだ。そういう行為のみが場を救うことができる人間的な状況がしばしばある。
われわれは皆、内にそういうものをもっていて、そういうことが起こりさえすれば、安全で、再び正しい道を見つけ出せるということに時々気がついているので、それが子供は自己(Self)の象徴であるという理由である」
ぼくは、この話にある原作の映画に当時とても感動したことを覚えている。
とても大きな話だと感じていて、不思議に深いその内容に、大袈裟にいえば、大切な、人種の壁を超えて、人として理解しあう秘密が隠れているようなそういう感じがしていた。
後日ある時、このM.フランツの本を読んでいて、あの感動の理由が明らかにされているような、そんな驚きを持ってこの話を読んだ。「子供という象徴・聖なる子供」というキーワードで、禅の話やこういった話につながる著者の洞察力に感心した。
ロレンス・ヴァンデル・ポストはユングとかなり親交があったという話を聞いた。しかし、紹介されている話は実際にあった話のようである。
この話を発掘し映画化した大島 渚の感性と、映画の出来に満足しているという原作者のロレンスに感謝を感じるし、この話にある謎のような希望にも、これからも関心を持ち続けてみたい。
このページの引用部分は「おとぎ話のなかの個性化」 (M.フランツ)の日本語版からの抜粋である。
写真は映画「戦場のメリークリスマス」 (1983年作品)の特集雑誌記事より。
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