Speech-3


興味深い言葉・話3-3
てんだねすの覚え書きより  ユング関係


★ 聖なる子供-戦場のメリークリスマスについて★


子供という象徴「おとぎ話のなかの個性化」  (マリア・フォン・フランツ)参考



●子供という象徴

 「子供という象徴には若さの要素が含まれている。
未来はすべて前方にあり、新しい出発、豊かな可能性の全てを有している出発点のもつ充実をまだ所有しているなにかがある。

 一般的に子供は、われわれが教育の影響を通して失う傾向にある正直さの精神をまだ持っている。
 子供は『おばあちゃん、あなたは年寄りでいつ死ぬつもりなの?』とかいった抑制されていないことをまだ言い、したがって人格の完全な自発性・真実を表現しており、 それは子供と馬鹿者が真実を話すという諺を説明している。

 子供が正直であるということが、時にその残酷な言葉でストレートに飛込んで分ることがある。
 しかし、だいたいが無邪気な真実で、なんの衒いもなくあからさまで、 社会の、その常識でコントロールされていない表現が大人をときにハッとさせることがある。
 大人・社会人になると、まるで放送禁止用語を避けるように、 いろいろと気を付けたり気を回したりして、そしてそれがあまりにすぎると、 どこか形だけの約束事で会話も行為も生き生きした直接的な交流も、腹を割った話しというものからも、常に遠ざかってしまっているような感じもある。
 時に、ずばりと悪意も抑制もなく表現された言葉や行為に、目を醒まされる時がないだろうか。
・・・・・・


 「時にあなたはあらゆるものが手に負えなくなる状況におかれたり、突然何かがあなたの口から 飛び出したく思ったり・・・あるいはあなたの影の像が状況を混乱させたがったり・・
 あるいはいかなる代価も支払っても・・その考えを呑み込まねばならないのか、言わねばならないのか分らない時があるだろう。

 そこから危険を犯すことによってのみ話すことができ、また多分そうすることが状況を救い、あらゆるものが正しい場所に収まることになる。
・・・それが救うということだったのである。
 恐怖で震えながらあなたは救いの言葉を言ったことを発見する。
 それはあなたの考えではなく、何かがあなたの中から飛び出して来たのであり、突然それを言いたいと感じたのであり、理由は分らないとしか言えない。・・」


 内なる子供・・という表現がある。
子供という象徴で、肯定的にも否定的にも使われるようだ。
抑圧され心の奥に追いやられた本当の自分とか、生き生きした無垢なエネルギーに満ちた本来の自然な自分・・。
無邪気に命を謳歌しようとするポジティブな自分・・。
生命エネルギーの源泉的な存在の象徴。
また逆に、幼児的な影として、抑制されず、わがままに、破壊的に作用して自身と他者を傷つける。
そういう意識的には未発達なせいで危険な、暴れ出すとコントロール不能に落ち入るパワー・・。

「それはあなたの内に子供の象徴や元型が湧き出て来て、状況に干渉したいと望む時に いつでも落ち込む厄介な点である」

・・・・・・

●禅の公案

「二つの僧のグループが猫の所有について対立していた。
瞑想や仏陀の教えを見い出す代りに全員が猫について争った。
老師は止めさせねばと思い、全員に向かって、彼は猫と刀を取り、誰かが猫を救うために何か言うか、何かしなくてはならない。そうしなければ彼は猫を殺してしまうと言った。

・・・誰も何もしなかったので、猫はあっさりと殺された。
・・このようにして心的コンプレックスを取り除いた。

後で老師の愛弟子が使いより帰って来たので、お前ならどうしたか?と尋ねた。
この弟子は、草履を脱いで、それを自分の頭の上に置いた。
それで『お前なら猫を救うことができただろう』と老師は感嘆した。


・・・それは常に目標は、この子供の自己(self)の振舞いを示すことである。
ということを読み取ることができる。
・・それは正しいことをする能力である真の自発性である。
象徴的に考えれば意味は・・・草履は立脚点を表し、あなたは単にあなたの立脚点を逆さにしなければならず そうすれば猫はもはや問題ではない。なぜなら・・あなたは、あなたの自我の意義申し立てを中止するからである。
猫にとらわれる、この心が真に存在したのは彼らの自我の「幻影の心」の中だけであり、だから立脚点を逆さにする、つまりどちらも猫を所有しないことで猫は救われていただろう。

しかしこの弟子は言葉で表現せずに、老師がすぐさま理解したように最も素早い、かつ真心からの身ぶりで表したのである。
それが子供であり、子供の内に存在する完全に自発的な能力が、その場を救うのである。

・・例えば、議論で事態が悪い方へ進むのを見て、もし正しい考えが得られれば何かできるのに・・と感じる。
しかし自我でそれに集中すればするほど、ますますあなたはそれが分らなくなってしまう。というものである。
一般的に、もし正しい言葉を言ったり、正しいことをする人間でありたいと望むと自分を見失ってしまう。
しかしもし、恩寵によって「道(TAO)」に従っていれば、あるいは正しい位置にあれば、その時は内なる子供は正しいことを言ったり、したりするだろう」



 禅の公案には、象徴的な寓話がよくあるようです。
西洋にもグリム童話・・マザーグースなどに残酷な話に見えるもので、印象的に伝える話も多い。

解説の解説は、危険きわまりないでしょうが、頭で考えていては・・堂々めぐり・・議論していては・・賛成・反対という対立から抜けだせないのは人間にとって内でも外でも、よくあることです。

よく前もってシュミレーションして、すべてをコントロールできると自分の中で整理し準備できたつもりでいて、いざその場で、思わぬ状況の変化や事態の進展などで、すっかり準備されたものがご破算になったりします。
自分の頭の中では、誰もが王様ですが、ほかの王様たちとの現場でのやり取りは、予期も予想もできないことが起きたりします。

・・・・・・


●聖なる子供   メリークリスマス・ミスター・ローレンス

 ロレンス・ヴァン・デル・ポスト原作の・・
映画「戦場のメリークリスマス」(監督 大島 渚) として知られている話が紹介されています。

 「日本の捕虜収容所にいた時、ぞっとする葛藤が進む中で、多くの処刑が予知されていた。
突然、彼(ロレンス)の側の囚人の一人で、以前に拷問を受け、重い病気になっていた人が、目を輝かせながら・・この事態を救うことをやってみようとしていると彼に告げた。
そして最悪の瞬間が来た時、彼が突然中庭に並んだ捕虜の列を離れて歩きだし・・収容所長のところへ進んでゆき・・・それはかなり無礼なことだったので、皆は驚きのあまり彼を止めることすらできず・・彼は所長に接吻したのである。

・・日本の観点から見れば、それは卑劣な侮辱であり、西洋の角度から見れば、衝撃的なことだったので、皆、度を失ってしまった。あらゆる議論は止み、捕虜たちは各自の独房に戻り、日本の将校たちは各部署に戻った。
 その男性は彼の行為に対して命と云う代価を支払ったが、全体の状況を救ったのだ。
 日本人将校は後にあのような馬鹿げた、子供じみた、狂気じみたことをして決定的な瞬間に事態を救った天分を持っていた人に感じた、その深い尊敬を示し、故郷の彼自身の先祖が奉られている霊廟に、その髪を一束奉納するためにとっておいたのである。

 それは神聖な子供の霊感のようなものであった。
 決して計算することのできない何かであった。
もし・・あなたが人間的な場の軸か中心を変えるために、何か馬鹿げたことをする決心をしていたならば、決してそういうことを考えることはできなかっただろう。

しかし、人が・・すでに重い病気などで精神水準が低下していれば、 彼は無意識からの霊感をうけるようになり、和解の身ぶりとして、愛の身ぶりを意味する、あの考えを得たのである。
その通りにはうまくゆかず、理解されなかったにもかかわらず、 それはうまくゆき、多くの人の命を救ったのである。

 聖なる子供が虎やライオンの間を歩く、多くの神話がある理由がそれである。 虎やライオンは否定的な破壊的な感情である。
一般的に破壊的な人間的状況が起る時には、破壊的な感情が蓄積されていて、そうなると誰もそこから抜け出すことができなくなる。
しかし、だからこそライオンの頭に手を置いたり、あるいは蛇に一撃を与える子供の神話が存在するのである。 それは何か否定的感情に捕らえられていないものがあるからだ。そういう行為のみが場を救うことができる人間的な状況がしばしばある。
われわれは皆、内にそういうものをもっていて、そういうことが起こりさえすれば、安全で、再び正しい道を見つけ出せるということに時々気がついているので、それが子供は自己(Self)の象徴であるという理由である」


ぼくは、この話にある原作の映画に当時とても感動したことを覚えている。
とても大きな話だと感じていて、不思議に深いその内容に、大袈裟にいえば、大切な、人種の壁を超えて、人として理解しあう秘密が隠れているようなそういう感じがしていた。

後日ある時、このM.フランツの本を読んでいて、あの感動の理由が明らかにされているような、そんな驚きを持ってこの話を読んだ。「子供という象徴・聖なる子供」というキーワードで、禅の話やこういった話につながる著者の洞察力に感心した。

ロレンス・ヴァンデル・ポストはユングとかなり親交があったという話を聞いた。しかし、紹介されている話は実際にあった話のようである。

この話を発掘し映画化した大島 渚の感性と、映画の出来に満足しているという原作者のロレンスに感謝を感じるし、この話にある謎のような希望にも、これからも関心を持ち続けてみたい。

このページの引用部分は「おとぎ話のなかの個性化」 (M.フランツ)の日本語版からの抜粋である。
写真は映画「戦場のメリークリスマス」 (1983年作品)の特集雑誌記事より。

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1999.11.1