|
★しばらく優勝しそうにないので、昔の思い出に浸って癒されようと思い、横浜ベイスターズの歴史を簡単に振り返ってみました。「栄光ある歴史」ですから、簡単になんて振り返っちゃいけないんでしょうが、面倒くさいので簡単に。
★管理人は、スーパーカートリオ時代からのファンですので、当然、観た事も聞いた事もない選手や出来事についても、読んだり聞いたりした知識を元にコメントしている場合があります。間違い等がありましたら、優しく教えていただけると幸いです。
★1949年11月
山口県下関市に(株)まるは球団設立。当時の新聞発表では、まるはホエールズというチーム名だったらしい。オーナー会社は(株)大洋漁業。
(株)大洋漁業の創始者である中部幾次郎を生んだ中部家が、出身地の林村(現神戸市)にちなんで屋号を「林屋」と称して、市場などで「○(まる)」にひらがなの「は」の字を書いて使用していたのが「まるは」の由来だとか。「波(ハ)を丸くおさめる」という意味も込められているらしい。
ホエールズというニックネームが(株)大洋漁業の主戦力だった捕鯨から命名されていることは、言うまでもないですね。
★1949年12月
読売ジャイアンツ・松竹ロビンス・大阪タイガース・広島カープ・中日ドラゴンズ・西日本パイレーツ・大洋ホエールズの7球団でセントラル・リーグを結成しました。(国鉄スワローズは翌年1月に加盟。)
大洋ホエールズの本拠地は下関。下関球場を主に使用していました。
★1950年(5位(8チーム):渡辺大陸総監督、中島治康監督)
社名を(株)大洋球団に変更。会社所在地を東京都千代田区に移転。
球団創立時の主なメンバーは、「史上初の三冠王(当時に三冠王という概念はなかったらしいが)」中島治康選手兼任監督、「プロ野球第1号本塁打」藤井勇選手、「堀際の魔術師」平山菊二選手など、錚々たる顔ぶれでした。
★1951年(6位(7チーム):中島治康監督→有馬義一監督)
★1952年(4位(7チーム):小西得郎監督)
★1953年(5位(この年から6チーム):新田恭一総監督、小西得郎監督)
松竹ロビンスと合併して、大洋松竹(洋松)ロビンスに。社名は(株)大洋松竹球団となりました。松竹ロビンスは、前身となる太陽ロビンス発足当時のオーナーの名前である「駒治郎」から「ロビンス(駒鳥)」と命名されていたらしい。
大洋松竹ロビンスの名目的な本拠地は下関と京都でしたが、準本拠地の大阪球場を主に使用していました。
讀賣から青田昇選手を獲得。この人、立派な大洋OBでもあるのに、讀賣面しかしませんでしたね。
権藤正利投手が最優秀新人となりました。
★1954年(6位:永沢武夫監督)
青田昇選手が最多本塁打者(31本)になりました。
★1955年(6位:藤井勇監督)
松竹がプロ野球から手を引いたため、チーム名が大洋ホエールズに戻りました。社名も(株)大洋球団に。会社の所在地は川崎市に移転。
大洋ホエールズの本拠地は神奈川県。名目的な本拠地球場は横浜の平和球場でしたが、準本拠地の川崎スタヂアムを主に使用していました。いつの間にやら、川崎スタヂアムが本拠地球場ということになったようです。
★1956年(6位:追畑正巳監督)
秋山登投手、土井淳選手が入団。二人は岡山東商、明大を通じてのバッテリー。秋山投手は、アンダースロー(写真で見るとサイド気味ですね)ながら「150kmは出ていた」と言われる速球を誇った、大洋を代表する大エース。75年からは監督も務めました。土井選手は、60年の優勝時に27歳の若さでコーチ兼任捕手としても活躍。80年からは監督も務めました。
青田昇選手が2度目の最多本塁打者(25本)になりました。
秋山登投手が最優秀新人となりました。
★1957年(6位:追畑正巳監督)
秋山登投手が最多奪三振投手(312奪三振)になりました。
青田昇選手が2年連続となる3度目の最多本塁打者(22本)になりました。
★1958年(6位:追畑正巳監督)
鈴木隆投手、近藤和彦選手が入団。鈴木投手は、TVKで解説をしている、あの鈴木さんです。優勝した60年の6月の讀賣戦では、セ・リーグ記録となる8連続奪三振を達成するなど、先発からリリーフまでフル回転の活躍をしたそうです。近藤選手は、「天秤打法」で有名な巧打者。名前を文字って「ドンコ(鈍行列車)」とニックネームがつくほど鈍足だったらしいのですが、61年には盗塁王にもなるほど塁を盗む技術に優れていたそうです。
★1959年(6位:森茂雄監督)
桑田武選手が入団。桑田選手は、メガトン打線の4番として活躍。オートレース八百長事件で逮捕されて引退しました。
桑田武選手が最多本塁打者(31本)と最優秀新人になりました。
★1960年(優勝:三原脩監督)
セントラル・リーグで初優勝。日本シリーズでは、下馬評では圧倒的有利とされていた「ミサイル打線」の大毎オリオンズに対し、“大エース”秋山を全試合に投入するという「三原魔術」が炸裂。全試合1点差のストレート勝ちで、初の日本一になりました。
近藤昭仁選手が入団。そう、ベイスターズの初代監督である、あの近藤さんです。近藤選手は、新人ながら日本シリーズでMVPになる活躍をしたそうです。
秋山登投手が最優秀防御率投手(1.75)になりました。
★1961年(6位:三原脩監督)
長田幸雄選手が入団。長田選手は、メガトン打線の中心選手として活躍。「ポパイ」のニックネームで有名ですね。外野席からのヤジに激怒した長田選手がスタンドで大乱闘の末、退場処分となった逸話は有名です。
東映からスタンレー橋本選手を獲得。橋本選手は、球団初の外国人選手ですが、大した活躍はしていないみたいです。
桑田武選手が最多打点者(94打点)になりました。
近藤和彦選手が最多盗塁者(35盗塁)になりました。
★1962年(2位:三原脩監督)
高橋重行投手、稲川誠投手、松原誠選手が入団。高橋投手は「パラシュートボール」と呼ばれる超スローカーブが得意。稲川投手は63年には年間勝利の球団記録となる活躍。秋山投手、高橋投手、稲川投手で、当時の大洋先発投手陣を支えていました。松原選手は大洋時代の通算本塁打、通算安打、通算打点が球団記録となる活躍。引退後は、大洋、横浜を含む多数の球団で打撃コーチとしても活躍しました。
★1963年(5位:三原脩監督)
マイケル・クレスニック選手(登録名クレス)が来日。駐米日本領事館員に三原監督宛の紹介状を書いてもらっての単身来日で、シーズン途中からのテスト入団でしたが、メガトン打線の中心選手として活躍しました。
川崎スタヂアムの名称が、川崎球場に変更となりました。
★1964年(2位:三原脩監督)
高橋重行投手が最優秀新人になりました。
★1965年(4位:三原脩監督)
平岡一郎投手、江尻亮選手が入団。平岡投手は、入団以降、王選手(讀賣)へのワンポイントリリーフとして起用され続け、通算50打席を本塁打0(ゼロ)に抑える「王キラー」として有名でした。江尻選手は、休養に入った須藤監督の後を受けて監督代行をした、あの江尻さんです。早大時代には投手でしたが、プロ入り後は外野手に転向。メガトン打線の中心選手として活躍しました。
★1966年(5位:三原脩監督)
★1967年(4位:三原脩監督)
平松政次投手、福嶋久晃選手が入団。平松投手は、「カミソリシュート」を武器にエースとして活躍。故障が多かったことから“ガラスのエース”とも呼ばれました。福嶋選手は、プロゴルファー福嶋晃子の父親であることでも有名ですね。オールスターに3回出場するなどの活躍をしました。
ディック・スチュアート選手が来日。スチュアート選手は、ア・リーグ打点王にもなったこともあるメジャーリーガー。帰国後はメジャーに復帰しました。
★1968年(5位:別当薫監督)
小谷正勝投手、中塚政幸選手が入団。小谷投手は、球団初のストッパーとして活躍しました。03年からは投手コーチも務めています。中塚投手は入団当初一塁手でしたが、70年から外野に転向し、俊足巧打の一番打者として活躍しました。
★1969年(3位:別当薫監督)
野村収投手が入団。野村投手は、入団当時こそ成績が振るわなかったのですが、72年にロッテに移籍してから頭角を現します。その後、日ハムを経て、78年に大洋に戻ってからも、最多勝を獲得するなどの活躍をしました。その後、阪神に移籍し、史上初の12球団から勝ち星を挙げる快挙を成し遂げました。
★1970年(3位:別当薫監督)
平松政次投手が最多勝利投手(25勝)になりました。
★1971年(3位:別当薫監督)
平松政次投手が2年連続となる2度目の最多勝利投手(17勝)になりました。
★1972年(5位:別当薫監督→青田昇監督→宮崎剛監督)
高木由一選手が入団。高木選手は、相模原市役所からのテスト入団でしたが、チームの中心打者として活躍をしました。88年から二軍、93年から一軍の打撃コーチを務め、98年優勝の原動力となったマシンガン打線を育て上げました。
ロッテから江藤愼一選手を獲得。江藤選手は、中日時代とロッテ時代で史上初のセ・パ両リーグ首位打者という記録を成し遂げています。大洋に移籍してからも、チームの中心打者として活躍しました。
クリート・ボイヤー選手、ジョン・シピン選手が来日。ボイヤー選手は、ナ・リーグでゴールド・グラブ賞を獲得したこともある名手。名門ヤンキースで5連覇を経験している超一流メジャーリーガーでした。牛込さん曰く「ボイヤーこそ最高の男。私の仕事の原点です」という、後に外国人選手を獲得する際の模範となった選手でもあります。引退後も打撃コーチとして活躍しました。シピン選手は金髪のロン毛とヒゲがトレードマークで、ニックネームは「ライオン丸」。守備も一流でしたが、球団初の3割30本を達成するなど、30本塁打以上を3度達成する活躍をしました。
★1973年(5位:青田昇監督)
田代富雄選手、長崎啓二選手が入団。田代選手は、当時の年間最多本塁打の球団記録と年間最多三振のリーグ記録を保持するなど、豪快なバッティングを武器に、長年の間4番打者として活躍しました。「オバQ」というニックネームで有名ですね。長崎選手は、六大学野球初の春秋連続首位打者。球団初の日本人首位打者ですが、大洋はタイトル獲得の為に、最終戦の中日戦で打率2位の田尾選手(中日)を全打席敬遠し、世間様から非難の嵐をいただきました。
★1974年(5位:宮崎剛監督)
山下大輔選手が入団。山下選手は、8年連続でゴールデングラブ賞を獲得した、球界を代表するショートストップ。甘いマスクで六大学野球時代からスターだった山下選手の出身地にちなんで、この年から静岡カラー(橙=ミカンの色&緑=お茶の色)のユニフォームが採用されました。03年の監督就任後も人気に衰えはなく、「大ちゃんス打線」と命名されるほどでした。
中塚政幸選手が最多盗塁者(28盗塁)になりました。
★1975年(5位:秋山登監督)
★1976年(6位:秋山登監督)
★1977年(6位:別当薫監督)
斉藤明夫投手が入団。斉藤投手は、右投手としては球界初の100勝100セーブを達成するなど、先発、抑えに活躍。遠藤投手と共に、当時の大洋投手陣を支えました。
斎藤明夫投手が最優秀新人になりました。
初の球団歌である「行くぞ大洋」が出来ました。作曲と歌担当の三鷹淳さんは、なんと、讀賣の闘魂がなんとかって歌まで歌っている人なんです。あと、帰ってきたウルトラマンの歌とか。因みに、当サイトの題名は、この歌の歌詞からとってます。
★1978年(4位:別当薫監督)
チーム名を横浜大洋ホエールズに改称。会社所在地は横浜市に移転。
横浜大洋ホエールズの本拠地は横浜。横浜スタジアムを主に使用していました。
遠藤一彦投手、屋鋪要選手が入団。遠藤投手は、速球と落差のあるフォークを武器に、エースとして孤軍奮闘の活躍をし、大洋ファンからは“遠藤様”と崇められました。88年、試合での走塁中にアキレス腱断裂の重傷を負うも(三塁ベースまで“ケンケン”で行ったアレです)、90年にリリーフとして見事に復活。カムバック賞を獲得しました。屋鋪選手は、ご存知「スーパーカートリオ」の3番打者。自慢の快足を武器に、3年連続盗塁王、ゴールデングラブ賞5度獲得、そして、プロ野球大運動会でも大活躍しました。当時のテレビ番組に「筋肉番付」があったら、ショットガンタッチで活躍したことでしょう。
フェリックス・ミヤーン選手が来日。ミヤーン選手は、ナ・リーグでゴールド・グラブ賞を獲得したこともある名手。「笛吹き打法」と呼ばれた独特の構えから、球団初の首位打者となる活躍をし、大洋に在籍した3年の間、52三振(平均6.3試合に1三振のペース)しかしませんでした。97年に連続打席無三振記録を作ったイチロー(オリックス)でさえ、平均で3.8試合に1三振ということを考えると、どれだけ驚異的な数字か分かりますね。
野村収投手が最多勝利投手(17勝)になりました。
斉藤明夫投手が最多奪三振投手(162奪三振)になりました。
★1979年(2位:別当薫監督)
平松政次投手が最優秀防御率投手(2.39)になりました。
フェリックス・ミヤーン選手が首位打者(.346)になりました。
★1980年(4位:土井淳監督)
★1981年(6位:土井淳監督→山根俊英監督)
高木豊選手、山崎賢一選手が入団。高木選手は、「スーパーカートリオ」の1番打者。俊足巧打で活躍しましたが、球団初の1億円プレーヤーをかけて年俸調停を起こしたり、年間守備率最高記録を作った年にゴールデングラブ賞を獲得できなかったことに噛み付いたりと、トラブルメーカーとしても活躍しました。山崎選手は「こけしバット」をトレードマークに活躍。89年には4番打者も勤めました。熱狂的私設応援団「山崎一家」も有名ですね。
★1982年(5位:関根潤三監督)
斉藤明夫投手が最優秀防御率投手(2.07)になりました。
長崎啓二選手が首位打者(.351)になりました。
★1983年(3位:関根潤三監督)
阪神から加藤博一選手、ロッテからレオン・リー選手を獲得。加藤選手は、バットを寝かせて構える独特の打法で、「スーパーカートリオ」の2番打者として活躍しました。応援の前に行われた「ひろかず〜(×3)」コールが、加藤選手の人気を物語っています。レオン選手は、メジャー経験こそなかったものの、ロッテ時代から兄であるレロン・リー選手と共に活躍。大洋に移籍してからも、チームの中心選手として活躍しました。
遠藤一彦投手が最多勝利投手(18勝)と最多奪三振投手(186奪三振)になりました。
斉藤明夫投手が最優秀救援投手(32セーブポイント)になりました。
★1984年(6位:関根潤三監督)
遠藤一彦投手が2年連続となる2度目の最多勝利投手(17勝)と同じく2年連続となる2度目の最多奪三振投手(208奪三振)になりました。
高木豊選手が最多盗塁者(56盗塁)になりました。
★1985年(4位:近藤貞雄監督)
高木豊選手、加藤博一選手、屋鋪要選手と、1〜3番にスイッチヒッター2人を含む俊足巧打の選手をならべた「スーパーカートリオ」誕生。翌年には、4番にカルロス・ポンセ選手、5番にダグラス・ローマン選手を迎えて、1〜5番まで走れるチームとなりました。
★1986年(4位:近藤貞雄監督)
中山裕章投手が入団。中山投手は、先発・抑えとエースとして活躍を期待されていましたが、例の事件で解雇。ホント、惜しいことをしました。復帰署名なんかがあったみたいで、94年に中日入団という形で球界復帰。大洋解雇時には、高知商の先輩である須藤監督も、シーズン途中で休養しました。
カルロス・ポンセ選手、ダグラス・ローマン選手が来日。二人はブリュワーズの同僚で、共に口ヒゲをはやしていたため、「スーパーマリオブラザーズ」のニックネーム(ポンセがマリオね)で人気者になりました。ポンセ選手は、87年に外国人選手としては球団初の最多本塁打選手となるなど、チームの中心選手として活躍。応援前にファンファーレが鳴ったのも人気の証ですね。ローマン選手は、打撃だけでなく外野守備でも強肩を披露するなど、チームの中心選手として活躍しましたが、翌年、メジャーの大物シクスト・レスカーノ選手獲得に伴う2軍行きを拒否して退団。しかし、当のレスカーノ選手は、わずか20試合の出場の後に「ボールが怖くなった」と、涙の名言を残して引退してしまいました。
遠藤一彦投手が3度目となる最多奪三振投手(185奪三振)になりました。
斉藤明夫投手が2度目の最優秀救援投手(28セーブポイント)になりました。
屋鋪要選手が最多盗塁者(48盗塁)になりました。
★1987年(5位:古葉竹識監督)
三星(韓国)から新浦壽夫選手を獲得。新浦選手は、68年に讀賣に入団。速球を武器に活躍をしましたが、肩痛から韓国球界へ移籍し、エースとして活躍しました。帰国後は遠藤投手と共に大洋投手陣を支え、カムバック賞を獲得する活躍をしました。
カルロス・ポンセ選手が最多打点者(98打点)になりました。
屋鋪要選手が2年連続となる2度目の最多盗塁者(48盗塁)になりました。
★1988年(4位:古葉竹識監督)
野村弘樹投手、盛田幸紀投手、進藤達哉選手が入団。野村投手は、93年に最多勝利投手になるなど、チームの中心的投手として活躍しました。盛田投手は、切れのあるシュートを武器に、佐々木投手とのダブルストッパーで活躍。92年には抑えながら規定投球回数をクリアし、最優秀防御率投手となりました。近鉄への移籍後、脳腫瘍の手術の後に奇跡の復活。スタジアムでのオールスターにも出場し、大声援を受けました。進藤選手は、3年連続でゴールデングラブ賞を獲得した名手。98年には、リーグ優勝を決める逆転2点タイムリーを打ちました。
ジェームス・パチョレック選手が来日。パチョレック選手は、90年に首位打者になるなど、在籍した4年間すべて3割をマークする活躍をしました。「長打が少ない」との理由によって何故か解雇され、その後は阪神へ活躍の場を移すことに・・・もったいない。解雇の翌年、須藤監督が休養に入らざるを得なくなったのは、パチョレックの呪いに違いありません。
カルロス・ポンセ選手が最多本塁打者(33本)と2年連続となる2度目の最多打点者(102打点)で2冠王になりました。
屋鋪要選手が3年連続となる3度目の最多盗塁者(33盗塁)になりました。
★1989年(6位:古葉竹識監督)
★1990年(3位:須藤豊監督)
佐々木主浩投手が入団。佐々木投手は、5度の最優秀救援投手になるなど、剛速球とフォークボールを武器にチームのストッパーとして活躍。マウンドに仁王立ちする姿から「大魔神」と呼ばれ、98年には当時の救援記録(セーブ、セーブポイント、連続セーブ)を塗り替えるなど、優勝の原動力となりました。優勝時には、横浜駅東口地下街に「ハマの大魔神社」が出現する社会現象に。00年にマリナーズへ移籍し、新人王になるなどの活躍。04年に横浜へ復帰しましたが、怪我などの影響から以前のような活躍はできませんでした。
ジェームス・パチョレック選手が首位打者(.326)になりました。
★1991年(5位:須藤豊監督)
R・J・レイノルズ選手が来日。レイノルズ選手は、俊足・巧打・強肩のスイッチヒッター。11打席連続安打のプロ野球新記録を樹立するなど、攻守に渡って活躍。ランナーがいる状態でライトにボールが飛ぶと、矢のような返球で球場を沸かせていました。
★1992年(5位:須藤豊監督→江尻亮監督)
島田直也投手が入団。島田投手は、97年に最優秀中継ぎ投手になるなど、中継ぎの中心投手として活躍。98年の優勝時にもフル回転しました。
ラリー・シーツ選手が来日。シーツ選手は、バリバリのメジャーリーガーでしたが、契約のもつれからイタリアのセミプロを経て大洋へ。そのため、わずか1年でメジャー復帰となりましたが、最多打点者になるなど、チームの中心選手として活躍しました。
盛田幸紀投手が最優秀防御率投手(2.05)になりました。
佐々木主浩投手が最優秀救援投手(33セーブポイント)になりました。
ラリー・シーツ選手が最多打点者(100打点)になりました。
★1993年(5位:近藤昭仁監督)
チーム名を横浜ベイスターズに改称。オーナー会社の名前も、(株)大洋漁業から(株)マルハに変わりました。社名も(株)横浜ベイスターズに変更。
ベイスターズというニックネームは、「ベイ」は港町横浜のイメージから、「スターズ」は、大洋ホエールズ時代の「ホームランスター」(選手がホームランを打つとヘルメットに星のシールを貼っていた)からとっているという説もありますが、ホントのところは分かりません。
五十嵐英樹投手が入団。五十嵐投手は、切れのあるスライダーを武器に、島田投手と共に中継ぎの中心投手として活躍。98年の優勝時にもフル回転しました。佐々木投手の「大魔人」に対して、「ヒゲ魔人」のニックネームは有名ですね。
グレン・ブラックス選手、ロバート・ローズ選手が来日。ブラックス選手は、90年にレッズがワールドシリーズを制した時の4番打者。ケタ違いのパワーで活躍が期待されましたが、怪我に泣かされ、本来の実力は出し切れませんでした。ローズ選手は、最多打点者と首位打者の二冠王になるなど、マシンガン打線の中心選手として活躍。98年の優勝の原動力となり、翌年の打率・本塁打・打点は、当時の球団シーズン記録を全て塗り替えるものでした。00年の涙の引退後、03年にロッテ入団という形で日本球界復帰。しかし、家族の帰国希望から、開幕を迎える前に退団しました。
野村弘樹投手が最多勝利投手(17勝)になりました。
ロバート・ローズ選手が最多打点者(94打点)になりました。
石井琢朗選手が最多盗塁者(24盗塁)になりました。
新しい球団歌「熱き星たちよ」、応援歌「WINNING」が出来ました。
★1994年(6位:近藤昭仁監督)
波留敏夫選手が入団。波留選手は、ヘッドスライディングやダイビングキャッチなど、ガッツ溢れるプレーで石井選手と共にマシンガン打線を牽引。98年の優勝時には、7月の月間MVPに輝くなどの活躍をしました。
讀賣から駒田徳広選手を獲得。駒田選手は、「満塁男」のニックネームどおり、勝負強いバッティングでマシンガン打線の中心選手として活躍。球団は、駒田選手の獲得資金を調達するため、当時の主力だった高木選手や屋鋪選手などを大量放出。大きな波紋を呼びました。
★1995年(4位:近藤昭仁監督)
佐々木主浩投手が2度目の最優秀救援投手(39セーブポイント)になりました。
★1996年(5位:大矢明彦監督)
斉藤隆投手が最多奪三振投手(206奪三振)になりました。
佐々木主浩選手が2年連続となる3度目の最優秀救援投手(29セーブポイント)になりました。
★1997年(2位:大矢明彦監督)
佐々木主浩投手が3年連続となる4度目の最優秀救援投手(41セーブポイント)になりました。
島田直也投手が最優秀中継ぎ投手(24リリーフポイント)になりました。
鈴木尚典選手が首位打者(.335)になりました。
★1998年(優勝:権藤博監督)
セントラル・リーグで38年ぶりとなる2度目の優勝。日本シリーズでは西武ライオンズに4勝2敗で勝ち、2度目の日本一になりました。
佐々木主浩投手が4年連続となる5度目の最優秀救援投手(46セーブポイント)になりました。
鈴木尚典選手が2年連続となる2度目の首位打者(.337)になりました。
石井琢朗選手が2度目の最多盗塁者(39盗塁)になりました。
★1999年(3位:権藤博監督)
ロバート・ローズ選手が2度目の最多打点者(153打点)と首位打者(.369)で2冠王になりました。
石井琢朗選手が2年連続となる3度目の最多盗塁者(39盗塁)になりました。
★2000年(3位:権藤博監督)
ファームチーム名を湘南シーレックスに改称。併せて、(株)横浜ベイスターズにシーレックス事業部が設立されました。
金城龍彦選手が首位打者(.346)と最優秀新人になりました。
石井琢朗選手が3年連続となる4度目の最多盗塁者(35盗塁)になりました。
★2001年(3位:森祗晶監督)
木塚敦志投手が最優秀中継ぎ投手(28リリーフポイント)になりました。
★2002年(6位:森祗晶監督→黒江透修監督)
オーナー会社がマルハ(株)から(株)東京放送(TBS)に変更となりました。
★2003年(6位:山下大輔監督)
タイロン・ウッズ選手が最多本塁打者(40本)になりました。
★2004年(6位:山下大輔監督)
タイロン・ウッズ選手が2年連続となる2度目の最多本塁打者(45本)になりました。
(株)横浜ベイスターズのシーレックス事業部が消滅しました。
★2005年(3位:牛島和彦監督)
三浦大輔投手が最優秀防御率投手(2.52)と最多奪三振投手(177奪三振)になりました。
門倉健投手が最多奪三振投手(177奪三振)になりました。
★2006年(6位:牛島和彦監督)
加藤武治投手が最優秀中継ぎ投手(35ホールドポイント)になりました。
★2007年(大矢明彦監督)
|