上社【里曳き】 その前に





1日前に諏訪についた筆者は、事前の下見と関連の各所をみてまわろうと考えた。最初に向かったのは阿久遺跡である。

【阿久遺跡全景】(現地掲示板写真使用)
阿久遺跡は現在中央高速道路の下となっており実物を見る事は出来ない。発掘時の様子は遺跡末端部に掲載されている写真のみである。
さて! なぜ御柱と関係があるかを順に説明していく事にしよう。


【遺跡概要】
『八ヶ岳西南麓の丘陵、阿久川と大早川に挟まれた尾根上に立地する縄文時代前期を中心とした大規模な集落跡である。三期にわたり造り替えられているが最後の時期には、中央に広場があり、その周囲には環状の墓石群と土壙がめぐり、環状の規模は径120m、幅30mを計る。広場中央には立石、列石遺構がみられ大祭祀場と想定されている。また掘立柱施設(方形柱穴列)や住居跡も多く発見されており従来の考古学的知見をくつがえすような新遺構の発見が相次ぎ、「前期縄文時代観の転換」と評価された。なお、本遺跡は中央高速道路西宮線建設に先立って昭和50〜53年に発掘が行われ、貴重な遺構を後世に残すため保存運動が起こり発見された遺構を埋め戻した上に、中央高速道路を通す形で遺跡の保護を図った』(遺跡掲示板引用)


上記にでてくる「方形柱穴列(掘立柱施設)」とは、左記のようなものである。諏訪市文化財専門審議委員長・宮坂光昭氏は、92年「御柱のなぞを探る」講演の中で、御柱の起源について阿久遺跡・方形柱穴列(ほうけいちゅけつれつ)との関連性を指摘している。宮坂光昭氏は「御柱を奉る」起源として縄文時代の住居址説をとっているのだ。



実際にここから直のところには八ヶ岳西南麓遺跡群が存在し、この写真は「尖石」というもので一見すると普通の尖った石であるが、この石には人工的に作られた傷があったという。その傷は「石を磨いた跡」であり、縄文期共同で石器を磨くのに使用されたと考えられている。


その入り口には最近建てられた「縄文の御柱」が復元されており次の解説が添えられている。

『茅野市内の多くの遺跡から、柱穴が長方形に並んだ方形柱穴列が発掘されています。柱穴は直径1mにも及ぶものがあり、大きな柱が建っていたことが推測できます。どんな建造物であったかは不明です。  平成12年7月、茅野市では尖石縄文考古館の開館と千年紀を記念し、茅野市5000年祭を実施しました。大勢の市民と全国から集まった考古学ファンがモミの巨木を曳行し『縄文おんばしら』と名付けてここに建立しました』


本当に縄文時代から御柱の風習があったか否かについては、後「御柱造営の謎」の続編で闇の日本史が今まで取材した箇所を含め、じっくり検証するのでご期待願いたい。


この「尖石」の近くから先の「山出し」は行われた。



 ヤァアー メデタクゥーウー キヨクゥー  ツナワタリィー
 (めでたく清く              綱渡り)
 ヤァアー オコヤノォー カミサマァー   オノリータテー
 (御小屋の神様              御乗り立て)
 ヤァアー ツナワタリダデェー       オネガーイダァー
 (綱渡りだで               お願いだ)



【綱置き場碑】
八ヶ岳山麓「八ヶ岳中央農業実践大学」敷地に程近いところに綱置き場碑がある。当日ここからの道程は土砂降りの雨が降っており、筆者が本宮一之柱と合流した穴川からかなりの距離があり大変だった事を物語る。



 ヤァアー ココハァ ナンショダデェー   オネガアーアーイダー
 (ここは難所だで             お願いだ)
 ヤァアー オヅナーメヅナヲーッ      ヒキシーメテェー
 (雄綱雌綱を               引き締めて)


【御柱街道】
綱置き場からは下り隣かなり降りると民家の細い路地に入ってくる。ここには「穴川の大曲」といって難所がある。細い上に急な曲がり角。「てこ衆」の腕の見せ所だ。ここを過ぎると両脇に民家の街道となる。このルートを俗に「御柱街道」といい、菊沢には「御柱街道」の碑が立っている。筆者はここから合流したのだ。




 ヤァアー チカラヲーアワセテェー     オネガアーアーイダー
 (力をあわせて              お願いだ)
 ヤァアー  ヒケヨーカミノコー      カミノォーツナァー
 (曳けよ神の手              神の綱)
 ヤァアー カケゴエーソロエテーッ     オネガアーアーイダー
 (掛け声そろえて             お願いだ)



 ヤァアー ココハァー ネノカミィー    トマリーィーバショォー  (ここは子の神              泊まり場所)

【上社御柱 御旅所の碑】
筆者が「本一(以降本宮一之柱をこういう)」を引っ張りはじめてから、かなり歩いたなぁと思った頃に細い道に入っていく。ここは御旅寝之神(子之神・寝之神ともいう)といって、昔は本一がこの辺りに差し掛かった時に夜を迎え夜明かしたといわれている。昔は本一が止まると総ての柱の曳行が終了したのだが、現在はここでお清めが行われるのみ。ここには「上社御柱御旅所」の碑が建っている。現在ではここから直の茅野高校まで引っ張って終わりとなる。




 ヤァアー ココハァー キオトシー     オネガアーアーイダー
 (ここは木落とし             お願いだ)
 ヤァアー キオトシーゴブデェー      オネガアーアーイダー
 (木落しご無事で             お願いだ)
 ヤァアー キオトシーゴブデェー      オメデータイー
 (木落しご無事で             お目出たい)


翌日「木落し」が行われる。その場所で車を止め見てみるとかなりの急坂、さながら上級者向けのスキー場といったところである。「山出し」では一番の見せ場となる。



 ヤァアー ココハァー ミガワー      カワワータリィー
 (ここは宮川               川渡り)
 ヤァアー ココハー カゴシィー      オネガアーアーイダー
 (ここは川越し              お願いだ)
 ヤァアー シラネガァー ハエタカー    ウゴカァーナイーッ
 (白根が生えたか             動かない)
 ヤァアー ドウエモー コウデモー     オネガアーアーイダー
 (どうでもこうでも            お願いだ)



木落しを終了すると、宮川の「川越し」となる。「川越し」は俗に「御柱洗い」ともいわれ、柱を水で清めるという意味もあるのだという。その川を渡りきったところに「御柱屋敷」という柱を保管する場所があり、ここで一ヶ月間寝かせる。
そして「山ノ神返し」の木やりが唄われる。


 ヤァアー ココハァー アンコクジィー   トメオーキダー
 (ここは安国寺              止め置きだ)
 ヤァアー ヤマノォー カミサーマァー   オヤスーミダー
 (山の神様                お休みだ)
 ヤァアー ミナサマァー ゴブジデェー   オメデェータイィー
 (皆様ご無事で              お目出たい)
 ヤァアー ゴソウホーオテウチィー     オヒィー キトリィー
 (御双方御手打ち             お引取り)




そして明日柱に山の神が呼び戻され「里曳き」となる。その前に下見をしておかねば!
今までも「本宮一之柱」といっているように、上社には「本宮」と「前宮」がある。実際には先発隊である「本宮」隊は里曳きでは早くに出発するのだが、後発の「前宮」隊が「御柱屋敷」から前宮まで近いので早く到着する事になっている。
ではその前宮へ行って見よう。

【前宮】
余り予備知識無く行った為か妙に気になった事があった。一般的に神社は「天子南面す」といって、北を背に南に鳥居が建てられているものである。ところが前宮の場合鳥居は北東、つまり鬼門の方角を向いているのだ。以前鹿討の神事で奥三河の諏訪神社に行った際にも、御神体が置かれている箇所は通常のガラスが張ってあるのみでびっくりしたが、一体ここの御神体はなんなのかと疑問にかられた。


周囲に色々建てられている看板を読んでいくと、1つ目に止まったものがあった。それが下記であった。

【諏訪大社上社前宮神殿跡】
『ここは、諏訪大社大祝の始租と伝えられる有員がはじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、神殿は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。この神殿のあった地域を神原と言い、代々の大祝職位式および旧三月酉日の大御立座神事(酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われた。境内には打ち御玉殿・十間廊・御宝社・若御子社・鶏冠社・政所社・柏手社・溝上社・子安社等がある。文明十五年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内争による争いで一時聖地が穢れたことはあったが、清地にかえして大祝の居館として後世まで続いた。後、この居館は他に移ったが、祭儀は引き続いて神原に於いて行われてきた。諏訪大社上社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。』

少々誤解をしていたようだ御柱は本宮の方が大きいので、てっきり本宮が「主」で前宮が「本宮の前にある門」のように考えていたが、実はこここそが「諏訪信仰発祥の地」であり「前」とは「元祖」という意味も含んでいるようなのだ。これは押さえておかねばならない。そしてこの文章の中でここを「神殿」と称している事は以降「重要なキーワード」になるやもしれない。

【本宮】
多分多くの方は全く気が付かれないと思う(いや思い込んでいるかもしれない)本宮中心は鳥居から入って回廊を抜け神符守札授与所から進みお賽銭を投げ拝む場所である。ここを本殿とおもっている方がほとんどではないだろうか。ところがここは「拝殿」で「本殿」ではない本宮には「本殿」がないのだ。御柱はというと拝殿の方向とは無関係に鳥居から見て右手前に一之柱時計周りに1〜4の数字が付けられている。ちなみに拝殿は東を背に西をむいている。


御柱祭へ行かれると最も目に付く家紋はご覧のものだろう。これは上社の神紋で「諏訪穀(すわかじ)」といって「カジノキ」をモチーフにしている。江戸期には諏訪氏がこの紋を使用しいる他、現在も実際に家紋として使用している家もあるという。上社が使用するようになった由来は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)が鎮座した際に、カジと麻の木を植えた」という伝説に基づいている。


実際にはカジの皮は祭祀などに使用する幣帛(へいはく)に用いたといわれており、前述の諏訪大社上社前宮神殿由来にもあるように、祭祀を請け負っていた氏族が実際使用していた為ではないかと筆者は想像する。

次に下社の家紋も見ていただこう。「なんだ同じじゃないか」と思われる方も多いことと思うが、良く見ると違いが見えてくる。上社は足の数が「4つ」に対し下社の足の数は「5つ」なのである。上の方が同じだからといって同系列ではない。下社神紋名称は「明神穀(みょうじんかじ)」といい別物とされている。実は明治前まで上社と下社は同じ祭神でありながら別組織が運営しており、この為同じようだが足の数を変え「別物」としているのだ(ちなみに同じ組織になったのは明治4年)。


mg src="has_07_10.jpg" border=0 hspace=10 align="left"> 【春宮】
下社はJR下諏訪駅前に「春宮」がある。ここの造りは通常の神社と同じく北に社殿、南に鳥居がある構造となっており中央には神楽殿がある。拝殿奥(実際には見ることは出来ないが)には「東宝殿」「西宝殿」、その奥には「神木」がある。御柱はその周囲を囲むように建てられるが、奥の方は回り道をしないと行けない様だ。


【秋宮】
筆者は諏訪に来たのは二回目なのだがいつ行っても駐車場が一杯で困るのが春宮の東にある秋宮である。ここの構造は春宮と全く同じである。違いといえば社殿が向いている方向で、北東を背に南西に鳥居があることだろうか。


下社を訪れた筆者がハタと考えたことがある。この神楽殿といい、そこに掛けられた特徴的な注連縄。どこかで見たような気がしたのである。ではその回想した神社の映像をごらん頂こう。
この神社どこだと思われるだろうか?
これは出雲大社である。
諏訪大社の祭神は建御名方命といって出雲大社@大国主命の子供だという関連性もある。このお話は別なお話、「御柱造営の謎」の続編で詳しく述べていくことにする。 それにしても良く似ているなぁ!



以上上社・下社をざっと見てきた。ここで妙に気になるのが明日より行われる御柱祭で建てられる柱の順序である。この時「一之柱」がどこに建てられるかが決定すると全ての配置が決まる。その順番方式はあくまでも筆者の想像であるが陰陽説でいう<方向の法則>

 《陽》は前進・右旋・上への運動・右への運動
 《陰》は後退・左旋・下への運動・左への運動

から、縁起の良い《陽》の方向に順に番号が振られる。
一之柱の位置は、どうやって決められているのだろうか?

どうも気になるのだ。 そこで推理することにした。
まず各社殿の正確な見取り図と御柱の配置を各々画像化し、御柱期間中駅などで配っている地図の上に貼り付けてみた。それが下記である。(社殿は青色 柱は黄色丸、鳥居は赤丸 ちょっと小さくて見難いのはゴメンナサイ)



この時社殿の方向が全くばらばらであるので、関連性が無いように見えるが、筆者はあることに気がついた。ひょっとすると思い黄色直線を引いてみた。つまりこういう法則となる。

「一之柱は、社殿で一番諏訪湖に近い角である」(あくまで推測)

これだけでは真実味が無い推理に過ぎないが今年1月31日新聞にある記事が載った。それは諏訪湖に「御神渡」が出現したと言うものである。これを「諏訪大社の関係者が確認した」と書いてあった。
御神渡というのは「諏訪湖が全面結氷し、一夜の内に氷がせり上がり割れ目が湖を縦断する現象」のことをいう。(「御神渡」を広辞苑で引くとなぜか出雲大社の事が出てくるのも気になるが、詳細は次回に廻そう)
諏訪では「上諏訪の諏訪明神が下諏訪の女神のところへ通った道」と考えられており、その判定には諏訪大社関係者が行うという。上記の推理がまんざらデタラメではないことを伺わせる。


では全くバラバラの社殿方向が物語っているものとは何か?

これから推理できる事は前述にもあるように上社・下社で御柱の形態が違う事を物語っている。
下社各社社殿・鳥居の直線の接点はJR@下諏訪駅付近となっているのに対し、上社は全く違う方向を向いている。明治以前各社は別の組織が運営していたといわれているが、その痕跡が社殿の方向にも現れているのだ。多分前述の「御神渡」のみで上社・下社は通じ合っているだ。

その中、上社本宮社殿方向が妙なのである。本宮は実際入ると分かるのだが、鳥居から拝殿に行く為には東西に通じる回廊を通って神符守札授与所近くの入り口からのみ入ることが出来る。鳥居方向には木の壁と回廊がある、つまり仕切りがあるということ。そして本宮は鳥居の配置とは全く無関係の方向を向いている事が画像で読み取れる。

それがどこに向いているかと言うと、御覧のように「前宮の方」を背にしている事になるのだ。つまり拝殿から拝んでいる人は実は「前宮」を拝んでいる事になる。
話しは全く変わるが上社の場合柱はクジで決まり本宮一之柱だと絶賛されるという。柱が建てられる順序は上社・下社共通で「一之柱」から建てられる。この法則でいくと最も「主」であるものは、「速くに建てられたもの」ということになる。ちょっと軽視されているような感があるが一番速く建てられるのは「本宮」ではなく「前宮一之柱」なのである。このことは非常に重要な意味を持っている。
絶賛している本宮は諏訪発祥の地である神殿『前宮』を向き、柱を建てる順序もそれに準じており、「柱」の神事は「重要性を今に伝えている」ということになるのだ。つまり、諏訪大社御御柱造営祭および諏訪大社を構成する要因の中で最も重要視されなければならないのは、今は小さな社「前宮」なのではないのか。柱が建てられる順序。それが古代から伝わる諏訪信仰の中枢なのではないかと筆者は推測するのである。それがなぜ「上」と「下」に分断されたかは定かではない。

その「前宮」が向いている方向こそが諏訪信仰の中枢だと筆者は想像する。
諏訪信仰の中枢とは一体なんだったのだろうか?
下諏訪・下社の木遣りは御柱伐採時に、こう唄う。

 奥山の大木 里に下りて 神となる ヨーイサ

次回に続く。






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