エ ス ペ ラ ン ト の 話
二葉亭 四迷 ,
エスペラントの話を聴きたい。よろしい、やりましょう。
由来からお話しましょう。
といっても何も難しい由来がある訳ではないが、つまりは必要は発明の母ですね。
エスペラントの発明されたのも、ひっきょう必要に促されたにほかならんので、
昔から世界通用語の必要は世界の人がみな感じていた。
で、電信の符号のようなものを作って、○と見たらイギリス人はサンと思え、
ドイツ人はゾンネと思え、日本人なら太陽と読めといったような説もあったが、
そんな無理なことはとうてい行われん。
そこで、現在の各国の国語中いちばん広く行われている英語とかフランス語とかを採って
国際語にしたらという説も出たが、これも弊が多くてこまる。
なるほど英語が国際語になったらイギリス人には都合がよかろうが、
それでは他の国民が迷惑する。フランス語でもドイツ語でもそのとおり、
それに各国人それぞれに自尊心というものがあるから、
よその国の言葉が国際語になっては承知せん。
なんでも自分の国の言葉を採用しろと主張する。
とても相談のまとまる見込みはない。
そこで、これはどうでも何か新しい言葉を作って、
それを一般に行うよりほか手段はないとなって、
諸国の学者がこの方面でいろいろ工夫しているうちに、
1879年といえば明治12年にあたりますかね。
その年にヴォラピュクという新発明の国際語ができた。
かの符号などからみれば、よほど気がきいているけれど、
おしい事にはあまり人為的で、細工に過ぎていて、
これを人情風俗の違う各国の口へかけたら、どうやら支離滅裂になってしまいそうで、
どうも申し分が多いが、ほかにこれに代わるべきものもないから、
一時は相応に研究するものもあった。
しかし、1887年すなわち明治20年になりますかな。
その年の末に、はじめていわゆるエスペラントが世に公にされた。
これは、ロシア・ワルソーの人だからつまりポーランド人だ。
そのポーランド人のドクトル・ザメンホフという人の発明で、
かのヴォラピュクなどからみると、はるかに自然で無理が少ないから、
たちまちのうちに非常な勢いで諸国にひろまった。
発明後わずか20年たつかたたぬうちに、このとおり広まったのは、
一方からいえば人間の交通がますます頻繁になって、
世界の通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、
一方においては、エスペラントなるものが、
この需要を満足するかっこうの言語であることを証拠立てていると、まあ、いうべきでしょう。
まあ、試みにやってごらん。それは、ぞうさもないものだ。
文法はわずか16則で、語根が一千語内外、ちょっとでも読めれば、
会話もでき、手紙も書ける。かくべつ研究する必要もないくらいのものだ。
論より証拠、こういう私は、習ったといっても、
ただアルファベットの読み方を教えてもらっただけのことで、その他、何も習ったのでない。
しかもアルファベットも習いっぱなしで、いろいろ忙しかったものだから、
教科書はカバンの中に放りこんだまま、ついのぞいて見たこともなかったが、
北京でフランス人の手紙が届いたとき、字引きを引きひき読んでみると、ぞうさもなくわかった。
分かることはわかったが返事は書けるかしらと、
何してもこのときはじめてエスペラント語で書いたものを読んでみたのだから、
内々あやぶみつつ文法を読みよみ、字引きを繰りくりやってみると、
手紙もまたぞうさなく書けた。
もっともあまり名文でもなかったかもしれぬが。
とにかく意味の通じるほどには書けたつもりだ。
そうやさしくては複雑な思想は言い表せまいと思う人もあろうが、ところがそうではない。
すでにシェイクスピアのハムレットもエスペラントの翻訳になっている。
ディケンズのクリスマス・キャロルも翻訳になっている。
ハイネ、ゲーテの詩も翻訳されてある。
バイロンもプーシキンもトルストイも、シェンキェウィチも翻訳されている。
これらはみな美文だが、
哲学書にしてもライプニッツの単子論が反訳になっているくらいだから、
およそ今の人間の言語で言い表すことは、
どんなことでもエスペラントでいわれぬということはない。
まだエスペラントについては、だいぶいいたいことがある。
それなり英語なりドイツ語なり現在の外国語になると、
何ほど手に入ったといっても書いたものをすぐ出版できるという人は少なかろう。
多くは、ぜひ一度イギリス人なりドイツ人なりに、
筆を入れてもらわなければ安心して出版はできまい。
ところがエスペラントはどこの国の言葉というのでないから、
同じ文法によって同じ言葉を使いながら、各国みなそのスタイルが違うのだ。
たとえばイギリス人は英語を、ドイツ人はドイツ語を、
フランス人はフランス語をそれぞれエスペラントに引きなおして用いるから、
イギリス人のエスペラントには英語の臭味があり、
フランス人にはフランス語、ドイツ人にはドイツ語の臭味がある。
だから、日本のエスペラントは日本語の臭味があったとて、いっこうさしつかえないと思う。
これは非常に都合のよい話だから、
願わくは多数の力でエスペラントの日本式のスタイルを作って、
日本語の精神でエスペラントを使って、世界の人を相手にどしどし著作のできるようにしたい。
この他に、まだいいたいことはたくさんあるけれど、まあ、このくらいでやめておこう。
(表現を現代風に改めてあります。また省略した部分があります。)