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「要塞」とは何か |
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「要塞」の定義 |
要塞とは、国防上重要な地域・港湾・海峡等に敵が侵攻しないように設けられた防御営造物のことです。
具体的には、重砲を備えた砲台を複数箇所に築き、その射程内に敵を近づけないようにするものです。これを補完するために、軽砲又は機関銃用のトーチカや、対戦車壕が築かれることもあります。
日本では、明治時代~昭和時代にかけて陸軍によって堅固に築城され、地名を冠して「○○要塞」と名づけられ、要塞司令部や要塞重砲兵などの守備部隊が置かれました。
※このサイトでは、政府により正式に「○○要塞」と名づけられて運用されてきたもののほか、実質的に要塞として築城された防御陣地について紹介をします。
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「要塞」の役割 |
要塞に最も期待される役割は、敵に要塞の存在を恐れさせ、要塞に守られた地域・港湾・海峡等に、接近・侵攻を許さないという戦闘抑止力を発揮することです。
日本国内においては、明治時代~昭和時代に、重要な港湾や海峡への敵艦侵入を防ぐことを目的に多数の沿岸要塞が築かれました。そして、要塞の存在をあえて公表する(*)ことによって敵艦の接近を防ぐ戦闘抑止力を生みました。その結果、港湾内・海峡内における艦船の通行の安全や、
都市・工業地帯の安全が、守られてきたのです。
*要塞の存在を公表するのみで、要塞施設の詳細は軍事機密として公表しません。情報漏えいや諜報活動を防ぐために、要塞施設の周辺地域は「要塞地帯」に設定され、「要塞地帯法」「軍機保護法」によって様々な規制がかけられました。
※要塞を評価する上で最も重要な基準は、この役割を果たせたかどうかです。敵を近づけない戦闘抑止力を期待して要塞を築いたのですから、「どれだけ敵を近づけなかったか」といった観点で評価しなければなりません。つまり、実戦がない方がより効果があったとされるべきなのですが、敗戦国となった日本では、戦後の軍事アレルギーから、「実戦がない=役に立たなかった」的な勘違いが多く見られます。
実際終戦まで、日本の永久要塞(臨時要塞ではないという意味)に防御された港湾・海峡には、潜水艦の侵入こそあれ、大口径砲を備えた戦艦が侵入できた例はなく、
当該要塞地帯内の都市・工場は艦砲射撃の被害にはあっていないのですから、要塞は国防上の功績を残したと言えるでしょう。
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「要塞」の学術上の位置づけ |
要塞は城の一種です。築城史の末端に位置するものだと理解してください。
城というと、皆さんは天守閣のある城郭やヨーロッパの城館をイメージするかもしれませんが、それだけではないのです。日本の城づくりは江戸時代で終わったと勘違いしている人が多くいると思いますが、明治時代以降にも、戦法の変化に合わせて、築城は継続されていました。兵器の進化が、城を「城郭」から「要塞」へと発展させたのです。
参考までに、「城」の定義について、井上宗和『城』(法政大学出版局、1973)の中の定義付けを引用します。
♦狭義の「城」・・・城とは人によって軍事目的をもって選ばれた土地と、そこに設けられた防御的構築物をいう。
♦広義の「城」・・・城とは人によって住居・軍事・政治目的をもって選ばれた一区画の土地と、そこに設けられた防御的構築物をいう。 |
つまり、「要塞」は、狭義の「城」の定義に合致するのです。
以下、かなり大雑把ですが日本の築城史の流れをご覧ください。
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| 戦国時代よりも昔の築城例 |
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| ↑ 吉野ヶ里環濠集落 B.C.2~A.D.3世紀 |
(写真はFree Photo Japanより) |
| 大陸伝来の稲作が広がった弥生時代には、権力争いから、他の集落(小国家)との戦争が本格化したと考えられている。当時の集落は、防御のため、櫓を構え、周囲に濠(堀)や柵をめぐらすようになっていった。国内における築城の始まりである。 |
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| ← 鬼ノ城 7~8世紀頃の築城 |
| (写真はWIKIMEDIA COMMONSより) |
| 飛鳥時代、663年の白村江の戦いで、日本は唐・新羅の連合軍に大敗。日本侵攻の危険性が高まったため、朝廷は九州~近畿地方に山城などの築城を実施した。この城もその一つと考えられている。 |
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| ↑ 元寇防塁 1276年の築城 |
(写真は福岡市の文化財より) |
鎌倉時代、日本を服属させようとした元が2度にわたって九州地方を襲撃した。その内、脅しや威力偵察が目的と考えられる1274年の文永の役では、元・高麗の連合軍に上陸され、博多市街が焼き払われるなど、戦いにおいては日本側が敗れていた。鎌倉幕府は2度目の侵攻に備え、博多湾沿岸一帯に防塁を築城。1281年の弘安の役では、敵の上陸を防ぐことに成功した。
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| 戦国時代~江戸時代の築城例 |
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| ↑ 姫路城 1601~1609年の築城 |
(写真は姫路市-姫路フォトバンクより) |
1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、西日本の豊臣方武将を牽制するため、娘婿の池田輝政を姫路入りさせた。輝政は1601年より約8年をかけて、姫路城を現在の姿に近い大城郭に改築。竣工から約6年後、大坂の陣で豊臣が滅び、戦乱の世が終わった。
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| 幕末の築城例 |
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| ↑ 品川台場 1853~1854年の築城 |
(国土地理院蔵) |
| 1853年、米国のペリー艦隊が来航し、江戸幕府に開国を要求した。ペリー艦隊が去ると直ちに幕府は、江戸防衛のため、品川台場の築城に着手した。計画では品川沖に第一~十一台場を築城する予定であったが、翌年ペリー艦隊が再び来航し開国となったため、完成は一部にとどまった。第一・二・三・五・六台場は竣工したが、第四・七台場は未完成のまま工事が中止された。また、第八~十一台場は着工にいたらなかった。 |
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| ← 戸切地陣屋 1855年の築城 |
| 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 |
| 箱館(函館)の開港に伴い、道南の防衛を強化するため、江戸幕府が松前藩に命じて築かせた稜堡式の城である。 |
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| ↑ 弁天岬台場 1856~1863年の築城 |
(2点とも市立函館図書館蔵) |
| 1854年に日米和親条約が締結され、箱館(函館)が開港されると、江戸幕府は箱館を直轄領とし、箱館奉行所を設置。箱館の防衛を強化するため、弁天岬台場を築いた。 |
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| ↑ 五稜郭 1857~1864年の築城 |
| 箱館奉行所は当初箱館山(函館山)の麓に置かれたが、南下政策をとるロシアとの戦争になれば、艦砲射撃を受ける危険性があった。そのため、江戸幕府は、艦砲射撃の届かない位置に五稜郭を築き、その中に奉行所を移した。 |
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| ↑ 和田岬砲台 1863~1864年の築城 |
↑ 西宮砲台 1863~1866年の築城 |
| (写真は三菱重工-神戸造船所より) |
(写真は海辺のひろっぱ-昔写真館より) |
| 1858年に締結された日米修好通商条約の結果、兵庫(神戸)の開港が決まった。(実際の開港は10年後の1868年。)幕府は、大阪湾の防衛強化のため、多数の台場(砲台)を築いたが、上記の砲台はその一部である。 |
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| ← 龍岡城五稜郭 1864~1867年の築城 |
| (写真は旧臼田町=現:佐久市より) |
| 当時、江戸幕府の若年寄を務めていた譜代大名松平乗謨が、自身の居城を移転する際に、稜堡式で築城したが、明治維新により未完成に終わった。 |
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| ← 四稜郭 1869年の築城 |
| (写真は北海道教育庁渡島教育局より) |
| 戊辰戦争中の1868年、旧幕府軍は、蝦夷地(北海道)を支配することに成功した。翌年、新政府軍が反撃を開始し箱館(函館)に迫ると、旧幕府軍は五稜郭の背後を守るため、ここに稜堡式で築城を行なった。 |
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| 明治時代~大正時代の築城例 |
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| ← 東京湾要塞 観音崎第一砲台 |
| 1880~1884年の築城 |
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| ↑ 東京湾要塞 第一海堡 1881~1890年の築城 |
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| ← 函館要塞 御殿山第二砲台 |
| 1898~1901年の築城 |
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| 昭和時代の築城例 |
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| ← 東京湾要塞 大房岬砲台 |
| 1928~1932年の築城 |
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| ← 津軽要塞 汐首岬第一砲台 |
| 1929~1933年の築城 |
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| ← 宗谷臨時要塞 宗谷砲台 |
| 1939~1941年の築城 |
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| ← 勇払陣地 二宮トーチカ |
| 1944~1945年の築城 |
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日本が要塞を築いた時代背景 |
18世紀半ばにイギリスが成し遂げた産業革命は、19世紀にはフランス・ドイツ・アメリカ等の欧米諸国に広がっていきました。それまでの工場制手工業から工場制機械工業に移行した国々が必要としたのは、安く原料を手に入れ、できあがった製品を売りつけるための市場でした。そのために、欧米諸国は、自分たちよりも発展の遅れている国々(アジア・アフリカ)を武力で制圧し植民地とするようになっていきました。
その頃、日本は江戸時代で、鎖国政策をとっていた幕府が異国船打払令を出して、日本に立ち寄ろうとする外国船を砲撃して追い払うよう命じていました。もし、砲撃によって欧米諸国との戦争に発展していれば、武力に劣る日本は植民地にされていたと考えられます。たまたま、お隣の清(中国)がアヘン戦争でイギリスに敗れたことから、幕府は欧米諸国の強さに気付いて政策を転換することができ、日本滅亡の危機から逃れられたといった有様でした。
明治時代になると、ますます欧米諸国によるアジアの植民地化が進んでいきました。そのため、新政府は、日本の植民地化を防ぐために、富国強兵をスローガンに様々な改革に取り組みました。明治時代の日本にとって、最大の脅威はロシアでした。ロシアは冬でも凍らない港を確保しようと、各地で南方への侵略を繰り返していました。日本は、ロシアによる侵略を防ぐための防御壁として朝鮮に目を向けます。しかし、当時の朝鮮は、清の属国であり、李王朝の腐敗政治によりすでに国家としての体を成していない悲惨極まりない状態だったのです。このまま放置していれば、ロシアが朝鮮を侵略し、その次は日本へ侵略するであろうと、予測されました。日本は、朝鮮がロシアの支配下にならないよう、朝鮮が独立して国力を増強していくことを望み、朝鮮の政治に干渉していきました。しかし清は、朝鮮の独立に反対し、日本と敵対しました。
こうして、清が日本へ攻め入ってくる危機感が日本国内に蔓延する中、国防のため東京湾口と対馬、関門海峡、紀淡海峡に要塞が築かれていったのです。
その後、日清戦争が勃発し、日本が勝利する結果となりました。しかし、ロシアは日本に対して三国干渉を行い、日本が賠償で得た遼東半島を放棄させた上、その半島に進出し旅順に軍港と要塞を築きました。日本が最も恐れているロシアによる日本侵略が現実味をおびてきたのです。ロシアから日本を守るため、広島湾と芸予海峡、鳴門海峡、佐世保、舞鶴、長崎、函館、基隆、澎湖島にも要塞が築かれていきました。
日露戦争は、日本が旅順要塞を陥落させ、ウラジオ艦隊・旅順艦隊・バルチック艦隊を壊滅させたことにより、講和に持ち込むことができました。日本国民は、日本の勝利と思ったようですが、これ以上戦争を継続すれば、国力の持たない日本が敗退するというギリギリのところだったのです。
日露戦争後は、他国による日本侵略の危機が去ったため、国内の要塞の見直しが行なわれるようになりました。例えば、大砲の射程が伸びてきたこともあり、函館要塞が津軽要塞に改編され、津軽海峡の封鎖が可能となりました。また、豊予海峡を封鎖する豊予要塞が新設されると、瀬戸内海にある広島湾要塞や芸予要塞は不要となり廃止されました。
第一次世界大戦では、国土が戦場とならなかったこともあり、米国と日本は経済成長を遂げました。しかし、当時は軍拡が各国の重荷となっており、米・英・仏・伊・日の五カ国が締約するワシントン海軍軍縮条約が調印されました。この条約により日本は主力艦の保有量を対米英六割と決められ、余剰となった軍艦を処分することとなりました。処分する軍艦の艦砲が多数不要となったため、要塞の砲塔砲台に改造されました。
その後、世界恐慌が発生し、世界中の資本主義国家が不況に苦しみました。日本も例外ではなく、対策に失敗して政府の威信が低下していく中、軍部が暴走を始めてしまいます。政府の方針に反して、勝手に中国に対しての侵略を進めていきました。首相や大臣がクーデターで暗殺される時代となり、だれも軍部を止められなくなってしまいました。侵略を進める日本に対して、米・英などが経済制裁に乗り出しました。
日本はついに米・英との開戦を決意し、アジア太平洋戦争が始まりました。はじめ、日本は空母と艦載機の活用によって優位に戦争を進めていきましたが、ミッドウェー海戦で空母を沈められてからは敗退を繰り返し、ついにはサイパン島を奪われ、連日ここからB29による空襲をうけることとなりました。
日本は開戦に至るまで、航空機による攻撃を軽視していたため、全国の要塞には満足に高射砲が行き渡らず、あってもB29の高度には届かず、役に立たない状況でした。全国の要塞は、敵の戦艦を近づけない効果こそ維持していましたが、空爆には無力でした。
1945年、日本は降伏。要塞は武装解除され、守備兵は復員となりました。
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■更新履歴
2002年12月1日 公開 ⇒ 2011年8月4日 加筆修正 |
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