(上) 函館水雷衛所の試験室 写真提供:函館在住の翼様
 函館水雷衛所は、函館山(臥牛山)の尾根の一つである観音山の山腹、標高約190mの地点に築かれた。海軍が築いたものであり、厳密には要塞(陸軍所管)施設ではないが、函館要塞とともに函館湾への敵艦侵入を防いだ重要施設である。
 海軍軍令部『極秘 明治三十七八年海戦史 第七部 巻十六』には、この衛所の試験室について、「試験室ハ敷設水雷ト電纜トノ導通電流ノ可否ヲ検査スル所」・「下士以下八名此処ニ起臥ス」と記されている。
 日露戦争時、この試験室の出入口の手前には、便所へつながる廊下が設けられていた。

海軍函館水雷衛所(大湊敷設隊臥牛山衛所)

 ※この函館水雷衛所のページの現地写真は全て、函館在住の翼様よりいただいたものです。また、翼様より情報も教えていただきました。ありがとうございました。

海軍函館水雷衛所の略年表
1897(明治30)年11月 函館要塞砲兵大隊の編成。
1898(明治31)年6月 薬師山砲台・御殿山第一砲台の起工。・・・函館要塞の主要砲台の工事が始まる。
1898(明治31)年7月27日 勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布。
1898(明治31)年9月28日 陸軍省告示第十一号により函館要塞周辺区域が明示された。
1899(明治32)年7月14日 法律第百五号として「要塞地帯法」が公布。
1899(明治32)年8月11日 陸海軍省告示により函館要塞地帯が明示された。
1900(明治33)年4月 函館要塞司令部開庁。
1902(明治35)年10月 立待堡塁の竣工。・・・函館要塞の主要な五つの砲台が完成。
この頃、函館山の陸軍省用地の内、観音山一帯を海軍省へ移管。
1903(明治36)年2月3日 『函館要塞防御要領書』を改正。観音山に築城予定だった框舎(機関砲4門)を計画から削除。
1903(明治36)年3月 海軍軍令部は「函館港ノ水雷防御ハ薬師山ノ北西八六五呎山ノ西麓ヨリ茂辺地川口ニ向ケ二線ニ敷設セル浮標水雷及ヒ電気触発水雷ニ依ルモノトス」と防御計画を策定した。
・・・観音山(標高265m)の西麓より函館湾の対岸にある茂辺地川の河口に向けての海中に水雷を設置し、ここを敵艦が通過することがあれば爆破させるということである。この計画に基づき、観音山に水雷衛所が築かれた。
1903(明治36)年12月31日 陸軍大臣より函館要塞射撃準備の内達。
1904(明治37)年1月17日 御殿山第一・第二砲台、千畳敷砲台の射撃準備完了。
1904(明治37)年2月4日 御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。
[海軍]井上横須賀鎮守府司令長官が宮岡大湊水雷団長へ、明治36年度防御計画に基づいて函館その他各方面の防御を実施するよう命じる。
1904(明治37)年2月5日 函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。
[海軍]大湊水雷団本部を函館船渠株式会社内に移す。
1904(明治37)年2月9日 日露戦争勃発。
1904(明治37)年2月10日 [海軍]大湊水雷団が函館湾口の水雷敷設に着手。
[海軍]函館湾を防御海面に指定。陸海軍以外の船舶の夜間通行を禁止。
1904(明治37)年2月11日 [海軍]側防砲台として、函館第一〜第三急造砲台(急造堡)の工事に着手。
1904(明治37)年2月12日 函館戦時指揮官に函館要塞司令官秋元盛之大佐が任命された。
[海軍]大湊敷設隊司令森亘が函館防御部長となり、函館戦時指揮官(函館要塞司令官)の指揮下に入る。
1904(明治37)年2月13日 ロシアのウラジオストック艦隊が津軽海峡西口付近に現れ、日本の商船名古浦丸を撃沈。
1904(明治37)年2月14日 函館要塞の本戦備完了。
勅令第三十六〜三十九号をもって、長崎要塞地帯、佐世保要塞地帯、対馬及びその沿海、函館要塞地帯が「臨戦地境」と定められ「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」された。
1904(明治37)年2月15日 [海軍]函館第一〜第三急造砲台(急造堡)の完成。各2門ずつ計6門の十二斤速射砲が据え付けられた。
1904(明治37)年2月21日 [海軍]大湊水雷団が函館湾口に、浮標水雷56ヶと電気触発水雷49ヶの敷設を完了。
1904(明治37)年2月22日 [海軍]大湊水雷団本部を大湊に復帰し、函館船渠株式会社内に大湊敷設隊本部を置く。
1904(明治37)年7月 ウラジオストック艦隊が、20日に津軽海峡を東に抜け、30日に西に抜けた。
同艦隊は函館要塞に近づかなかったため戦闘は無し。要塞があると敵艦が近づかない戦闘抑止力が証明され、函館は無事だったが、敵艦の津軽海峡通過によって、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立した。
(ウラジオストック艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅)
1905(明治38)年1月1日 旅順のロシア軍が降伏。翌日旅順開城規約が調印された。
1905(明治38)年4月18日 [海軍]函館防御海面を解除し、新たに津軽海峡防御海面を指定。
1905(明治38)年5月19日 [海軍]津軽海峡防御司令部の設置。宮岡大湊水雷団長が司令官を兼任。
1905(明治38)年5月28日 [海軍]日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅。
1905(明治38)年6月 「函館戦時指揮官」を「津軽海峡戦時指揮官」と改称。
[海軍]大湊水雷団や津軽海峡方面の艦船は津軽海峡戦時指揮官(函館要塞司令官)の指揮下に入る。
1905(明治38)年7月1日 [海軍]函館臨時敷設隊・津軽海峡臨時敷設隊が編成。大湊水雷団所属の函館方面海陸の防御部隊・艇船は、これらの敷設隊に編入される。
1905(明治38)年9月5日 日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印された。
1905(明治38)年10月16日 [海軍]函館、津軽海峡の水雷防備の撤去開始。
1905(明治38)年10月19日 [海軍]津軽海峡の防御海面を解除。
 
 (上) 函館水雷衛所と水雷の位置 海軍軍令部「極秘 明治三十七八年海戦史」(防衛研究所蔵)
出典:アジア歴史資料センター
Ref.C05110108200
 赤色文字はWEB用に加筆。日露戦争時、28cm榴弾砲が据え付けられた函館要塞と、海軍の水雷によって、函館湾の守りは固められており、ウラジオストック艦隊がここに接近することは自殺行為に等しい状況であった。
 (上) 函館水雷衛所の主要施設の位置
海軍軍令部「極秘 明治三十七八年海戦史」(防衛研究所蔵)
出典:アジア歴史資料センター
Ref.C05110163900
 赤色文字はWEB用に加筆。
(左) 急造堡・弾薬庫・探海灯・信号所の位置
海軍軍令部「極秘 明治三十七八年海戦史」(防衛研究所蔵)
出典:アジア歴史資料センター
Ref.C05110164100
 赤色文字はWEB用に加筆。
 (上2点)(下) 試験室の内部
 天井にフックが残る。
 
(左)狙室と試験室の間取り
海軍軍令部「極秘 明治三十七八年海戦史」(防衛研究所蔵)
出典:アジア歴史資料センター
Ref.C05110146100
 赤色文字はWEB用に加筆。
 (上) 狙室(視発室、視発弧器室、弧器室ともいう)の出入口の外側
 『極秘 明治三十七八年海戦史 第七部 巻十六』には、この衛所の狙室について、「狙室ハ方位ヲ定メテ敷設水雷ニ電流ヲ送リテ爆発セシムル所トス」・「試験室ノ上方三十間ノ所ニ在リ、甲鉄板ト煉瓦石ト土壁トヲ以テ建築セル堅固ナル小室ナリ」・「日中二名夜間一名ノ兵員ヲ配置ス」と記載されている。
 (上) 出入口から見た狙室(視発室、視発弧器室、弧器室ともいう)の内部
 視発弧器を設置した台座が残る。視発法(目視により任意に水雷へ電流を送り爆破させる方法)をとるための施設である。
 (上2点) 上から見た狙室(視発室、視発弧器室、弧器室ともいう)の内部
 
 (上) 衛所の兵舎の間取り 海軍軍令部「極秘 明治三十七八年海戦史」(防衛研究所蔵)
出典:アジア歴史資料センター
Ref.C05110146100
 赤色文字はWEB用に加筆。兵舎跡は、狙室や試験室よりやや下側にあり、観音コース(函館山の登山コース)に接している。
 『極秘 明治三十七八年海戦史 第七部 巻十六』には、この衛所の兵舎について、「本衛所ハ山麓ヨリ高サ二百尺余ノ東北面一部ヲ開削シテ建築セル、木造瓦葺内部白堊壁ニシテ土間ハ「セメント」ヲ以テ固ム、通気佳良ニシテ室内清潔好個ノ兵舎タリ、飲用水ハ毎日常傭人夫ヲ使役シ、山麓ニアル発電機室ノ水道栓ヨリ採取運搬セシメ之ヲ水甕ニ貯蓄ス」・「分隊長海軍大尉一、上等兵曹一、下士以下十一名此処ニ起臥ス」と記載されている。
 
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