沖縄の歴史 池宮城秀意『戦争と沖縄』に見る沖縄の困難さとその役割
はじめに
 沖縄といえば、まぶしい太陽ときれいな海が思い浮かぶ。いわば南の楽園といったイメージがある。しかしながら、太平洋戦争末期の集団自決に代表されるような、厳しい過去を負った場でもある。
 第1部では 池宮城秀意『戦争と沖縄』により、その沖縄の歴史を見る。
 しかし、通読してみると、池宮城が描くその歴史には何か、日本という国への愛情と憎しみに引き裂かれた不思議な印象を受ける。その不思議さは一体どこから来るのだろうか。それについて、第2部では考えてみたい。
 
第1部 沖縄の歴史
第1章 琉球王朝時代までの沖縄
1. 沖縄の位置
 沖縄は日本とアジア諸国との間に位置し、その地の利は、貿易などで利益を上げ、独自の文化を持つ琉球王国の繁栄に役だったが、一方で、それは古くは薩摩藩による侵略、戦後はアジア政策のためのアメリカ軍の基地利用という事態を招くことにもなった。また、独自の王国を築きはしたが、沖縄の人たちは今日の考古学、民俗学、言語学などの研究によれば、まぎれもなく日本民族であるにもかかわらず、薩摩藩の侵略当時、沖縄は中国とより密接なつながりがあったため、日本本土では沖縄の人たちを異民族として、沖縄では薩摩の人たちを沖縄を侵略した日本民族としてとらえてしまい、沖縄の人たちは日本民族ではないかのような錯覚を生んだ。
 
2. 琉球王朝の成立
 沖縄の人たちは海洋民族として、アジアの国々を駆け回り、7世紀半ば頃からは大和朝廷に貢物を献上するなど、本土へも交易に向かっていた。歴史上初代の琉球王は舜天王であり、海外との交易が非常に盛んに行われて繁栄したが、全土を統治していたわけではなく、ただの有力勢力に過ぎなかった。その後領主間の争いが続き、14世紀半ばの察度王の時代には明の冊封体制下に入って進貢を行い、明との交易で繁栄したが、その王統も統一国家を打ち立てた尚巴志王によって滅ぼされた。この時代には中国やベトナム、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、朝鮮、日本の足利幕府などアジア全地域と交易が行われて、豊かな財政の下、北京をモデルとした首里城周辺の都市づくりや、寺院の建立がなされた。尚円王に始まる王統では尚真王の代に、進貢貿易を強化する一方、国王を頂点とする身分制度を確立し、さらには地方領主を首里に集め、武器を取り上げて紛争を防ぎ、学問や仏教が奨励された。
 
3. 薩摩藩による侵略
 琉球王国と日本本土との関わりは鎌倉幕府、室町幕府以後、盛んになり、沖縄に近い薩摩は頻繁に交流をしていた。沖縄はアジア諸国との貿易基地として有利な立場にあったことに加え、明は和冦取り締まりのために日本船の入港を禁じたため、琉球王国を日本本土の諸大名が手に入れようと争っていたが、徳川家康は薩摩藩の島津氏に「琉球征伐」を許可し、奄美大島に次いで、首里城にも攻め入られ、琉球王府は敗北し(1609年)、他国との貿易から日常生活に至るまで幅広く薩摩藩の管理下におかれることとなり、琉球政府は形ばかりのものになった。ただし、薩摩藩は琉球が中国との進貢貿易によって得る利益を目的のひとつとしていたため、薩摩藩の侵略が中国側に知られることは避けようと、中国の冊封使が琉球を訪れる際は「日本的」なものや人を隠していた。一方、日本国内に対しては、薩摩藩の威力を世に知らしめるために、薩摩藩はあたかも外国を支配しているのだと印象を与えるよう、中国風に装われた琉球王国の使者が江戸の送られた。
 
4. 琉球王朝時代のくらし
 沖縄ではずいぶん昔から南方から伝えられた米が栽培されていたが、米は租税として収められていたため、士族以上の人しか食べることはできず、庶民は普段は麦や粟などを主食にし、ソテツを食べることもあるほど貧しかった。その後、1605年に野国によって中国から持ち込まれた甘藷は沖縄全土に広がり、食生活を潤し、これが薩摩から日本本土に広まったため、いつの間にか「さつまいも」になってしまった。
 衣服については、沖縄が王朝文化の華やかだったころには、王府や士族など上流階級向けに、紅型、琉球絣、宮古上布など多くの種類の美しい織物が作られており、そのほか、これは琉球王府に収められて交易品とされ、後には薩摩藩への租税ともされた。そのため、庶民は両者への納税に苦しまされ、また年に4、5回襲いかかる台風によっても被害を受け、身売りをするものも多く現れた。
 
5. 琉球王府の改革の時代と西洋との接触、薩摩の圧政
 1666年に摂政になった羽地朝秀は儀礼の簡素化、農具の製造、開墾、学問の奨励といった改革を行い、そのおよそ半世紀後には蔡温が経済安定のために百姓の守るべきことを定めた「農務帳」をの作成、河川の治水、護岸、灌漑、防風・防潮林の整備、農地の農民への分配、都会の住民の免税、士族の工芸業従事や学問の奨励といった改革を行った。これによって沖縄は文化の一大発展を成し遂げ、例えば医学の分野では、日本本土よりも先に種痘が実施されたり、麻酔を使った手術が行われた。また、染織物や陶器、漆器の技術、芸能も発達し、このような沖縄の文化は大正時代になって、例えば民俗学者の柳宗悦のように日本の学者や文化人に認められた。
 日本が鎖国政策を行い、世界から孤立している間に、ヨーロッパ諸国は近代化を推し進め、次第に東洋に進出してきた。沖縄にも1816年にはイギリスのバジル・ホールらが平和裏に訪れ、その「来琉記」によれば沖縄の人たちは最下級の人々まで礼節があり、手厚くもてなしてくれたという。その後もフランス船などが貿易やキリスト教布教を求めてきたが、1853年、アメリカの東洋艦隊司令官ペリーが訪れ、薩摩との関わりや前例から一度は拒否したものの、翌年には琉米和親条約が結ばれた。薩摩藩でも幕末期には倒幕派と攘夷派が対立をしており、倒幕派がフランスから軍艦を購入交渉に琉球政府も協力したため、倒幕派の島津斉彬の急死によって交渉が頓挫した際には、王府内で対立を生み、それに協力した玉川王子派は流刑に処せられるなどし、有望な人材を失うことになった。また、同時期の1861年に薩摩は、それまでは同価値として扱われていた銅銭を鉄銭の2倍の価値とするように琉球政府に命じ、その後も同様の命令を繰り返して7年9か月の間に銅銭の価値は鉄銭の32倍にもなり、これによる物価上昇で沖縄は大混乱となった。また薩摩はこの命令の一方で、琉球にやってくる異国船の打ち払いにかかる経費の捻出を口実に幕府に「琉球通宝」の鋳造を願い出たが、これは「天保通宝」の偽造を隠すためであった。このように薩摩は琉球を利用していたにもかかわらず、薩摩が生麦事件後にイギリス軍艦に砲撃された際には、琉球王府は沖縄各地の寺や神社で薩摩のために祈願し、お守りを送ったというまことに従順を通り越した姿を見せた。
 
第2章 琉球処分から終戦まで
1. 琉球処分
 明治政府下では1871年に廃藩置県が推し進められ、沖縄は鹿児島の管轄におかれることになったが、翌年に琉球の尚泰王は琉球藩王として華族に列せられ、明治政府はその3年後にまた琉球藩の処分に取りかかった。しかし、琉球王国は貿易の利を得るために中国から冊封を受け、中国へ進貢を行っており、事実上の属国ではなかったものの、これは両者の関係に大きな影響を与えていたため、琉球藩の廃止を琉球王国の日本への併合ととらえ、自分たちの身分が消えるのだと思いこんだ沖縄の人たちは琉球王国の継続を求める中国指向の頑固党と日本指向の開化党の2つに分裂した。琉球王府も自らの存続を訴え、清にも使者を派遣する一方、清もまた「琉球処分」に抗議して前米大統領グラントに調停を求め、これを機に「宮古、八重山を沖縄から分島して中国には渡し、日本には欧米並みの中国貿易を認める」という案で妥結したが、清国内の意見の相違やいわゆる台湾出兵でそれも立ち消えになり、「琉球処分」は尚泰王から首里城は明け渡され、沖縄を日本の1つの県とする形で決着した。
 
2. 明治、大正、昭和初期の沖縄
 以上のような過程を経て琉球王国は沖縄県として日本の一つの県となったが、明治政府は県庁の重要な部署に他府県出身者を派遣し、蔡温による共有林、杣林を鹿児島承認や県の役人、華族など特権階級に農民を欺き、払い下げるなどの圧政を引く一方、なるべく摩擦を避けようと旧制度を温存した。例えば人頭税制度もそのひとつであったが、沖縄の人たちの運動によって、国会において廃止され、これは共有林払い下げ反対の運動とともに、県政の刷新運動、参政権獲得運動へと発展した。明治政府の近代化政策の重要な柱である義務教育、徴兵制も沖縄に大きな影響を与えた。当初は学校を開設しても生徒が集まらなかったものの、次第に定着していき、薩摩藩が沖縄の日本化を厳しく禁じていたのとは逆に、生徒たちに対して沖縄の方言、文化、習慣を否定して「日本人化」をはかり、沖縄の方言や文化が未開の低俗なもののような錯覚を抱かせ、沖縄の人たちは「軍国主義教育をされた人」「御国のための皇民」となっていった。本土から25年遅れて1898年に徴兵制が施行された当時は、日清戦争での志願兵の死を目の当たりにしたこともあったことに加え、戦いを知らず本能的に戦争を嫌い、軍隊を嫌い、徴兵を忌避した沖縄の人たちだったが、その教育によってそういうことも薄れていった。第一次世界大戦時には砂糖の輸入が困難になったことから、沖縄ではさとうきびが増産されたが、戦争が終わると輸入が再開されて砂糖の価格は下落し、沖縄県民はソテツで飢えをしのがざるを得ないほど困窮した。既に1899年から1909年の間にハワイへは1万人以上がの移民として渡っていたが、この困窮は県外への出稼ぎ労働者に加えて、ブラジルやペルー、アルゼンチン、フィリピン、南洋諸島にさらに移民を送り出すことになった。この沖縄の移民の特徴は移民地での永住を望まず、いつか「儲けて郷里に帰る」といい、移住地で働いて得た金を貧しい郷里を家族に送金することだったが、例えばハワイへの移民の開拓地での生活は惨めなものであり、結局はアメリカ人となった。
 
3. 戦時中の沖縄
 沖縄戦の悲劇はサイパン島の日本軍が玉砕されたことで、戦火が沖縄に及ぶ恐れが出てきたために始まった老人や婦女子の疎開の一環であった学童疎開船対馬丸が1944年8月に撃沈されたことに始まる。このとき、他の2隻と護衛艦は無事であったのに、救助することはなかった。これで疎開は一時期敬遠されたが、10月の激しい空襲の後、約7万人が県外へと疎開した。1945年に入り、アメリカ軍が沖縄に迫り、4月には日本軍の予想とは異なる中頭郡から上陸したが、日本軍は持久作戦をとっていたこともあって、戦闘は起きなかった。アメリカ軍は沖縄半島を縦断し、本島の南北間の連絡を絶ちきり、その後日本軍は大本営の命令などを機に攻勢に転じてはいたものの、西海岸側の部隊と島中央の部隊、東海岸側の部隊と3つの方向から日本軍の拠点であった首里を目指して南進した。しかし首里に至るまでには激しい戦闘が始まり、4月下旬には日本軍はたくさんの兵力を失い、海軍も陸戦に参加するようになった。5月中旬になると日本の守備隊はあちこちで孤立し、武器や弾丸などの少なくなった日本軍は弾丸を減らして人間を使う肉迫攻撃を増やす状況に陥り、首里から島尻郡へと撤退したが、その撤退中にも消耗し、残った兵の大部分は普通の社会人を急に招集して軍隊に仕立て上げた防衛隊であり、役立つ兵はわずかしか残らなかった。沖縄県民は3月下旬の空襲以来、防空壕や墓の中に隠れており、アメリカ軍の南進とともに、防空壕を探し求めて南へと移っていった。防空壕の外では兵隊も、そうでない人も区別なくアメリカ軍から攻撃を受け、防空壕の中でも天井に穴を開けられ、そこから機関銃やガス弾で攻撃されたり、食糧不足や不衛生な環境に苦しめられたりしたほか、日本軍の兵隊が一般人をスパイとして殺したり、自分が生きるために、米兵に見つからぬよう泣きわめく乳児を殺したりというような状態になった。最終的には南へと逃れてきた日本の兵士、住民は完全にアメリカ軍に取り囲まれ、軍の司令官や参謀長らが自決し、組織的な戦闘は終わったものの、日本の兵士や住民は敵に捕らえられることは恥だと教え込まれていたため投降になかなか応じず、兵士には北部の日本兵と合流しようとして殺されたり、自決したものもいた。沖縄戦の悲劇は従軍看護婦として働く、16, 7歳の少女からなるひめゆり学徒隊や14, 5歳から20歳くらいまでの少年からなる学徒隊など非戦闘員であった者も戦場に送り込まれ、多くがアメリカ軍に殺されたり、自決したりしたことと、アメリカ軍の上陸によって地上戦になり、20世紀文明が作り出した新しい殺人兵器によって、沖縄中が血まみれになったことといえ、これをさらに悲惨な者に追い込んだのは食料の準備をせず、疎開や部隊の展開を行うなどした日本軍の無謀な行動だった。
 
第3章 戦後の沖縄
 軍人も非戦闘員も多くがアメリカ軍の捕虜となり、想像を絶するほどの死体の山と、見るも無惨に変わり果てた町や村の中を通り抜け、収容所へと送られた。そこでの生活は外出は制限されていたものの、地下壕にいたときに比べれば、食糧もあり、医療面も充実していて極楽郷のように感じられた。 日本が1945年8月15日に無条件降伏し、沖縄においてもアメリカ軍政府による統治が行われていたが、収容所内の知識人による「沖縄諮詢会」が業務を行うことになり、学校が再開されたり、男女平等の民主主義下での市長選挙が実施されるなどした。やがて、収容者は出身地に帰ることが許され、1946年4月には沖縄民政府が、1950年9月には群島政府が設立されたものの、それはアメリカ軍の指導下におかれたものでしかなく、沖縄はアメリカ軍自らがネコとネズミの関係にたとえるほどの圧政に苦しんだ。アジアに全体に目をやると、第二次世界大戦終結後、連合国は自らの勢力圏拡大のために戦争を起こし、国民政府・中華民国と共産党・中華人民共和国や大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国といった対立を生んでおり、アメリカはそれぞれ前者に荷担していた。このため、その中心に位置する沖縄の重要度が増し、アメリカは反共政策を露骨に進めるようになり、親米の琉球臨時中央政府(1951年4月)、琉球政府(1952年2月)を樹立させ、基地建設、土地収用が進めた。沖縄の人たちはそれに反対して軍用地料の支払い、その増額、一年ごとの更新などを要求し、島ぐるみの運動にまでなってアメリカ政府や議会にまで陳情したが、結局はアメリカの巧妙な運動の分断によってなし崩しにされた。そのような状況により、アメリカへの反発もあり、経済面などを考慮しての異論もあったが、知識人に加えて住民にも日本への「祖国復帰」運動が広がった。1951年9月に結ばれたサンフランシスコ講和条約においてはその期待は裏切られ、1972年5月15日になってようやく沖縄は日本に返還された。この「復帰運動」は、「琉球はもともとは日本であり、中国とは経済上の利得からのつながりである」との潜在意識によるものだった。ただその復帰は喜ばしいものでは必ずしもなかった。というのは、解放軍であると思っていたアメリカ軍は朝鮮戦争やベトナム戦争をひきおこし、それらの人民を大量に虐殺してしまう、あるいは沖縄に圧政をおこなう恐ろしい軍隊であり、軍隊とはやはり何よりも軍事が優先するのだとの認識を持っていた所に、平和でもなく、「戦争を二度とおこなわない」という平和憲法も、いつのまにかどこかへ消えてしまい、自衛隊という、戦前の軍隊よりもはるかに強力な軍隊を作り上げた国、日本への復帰が行われたからだ。
 
第2部 『戦争と沖縄』を読んで、感じたこと、考えたこと
 この本を読み、自分と同じぐらいの年の少年少女が軍の中に組み込まれ、彼らのうち数多くが悲惨な最期を遂げたこと、そして非戦闘員も多くが犠牲になったことを知り、非常に大きな衝撃を受けた。戦争の悲惨さ、卑劣さ、野蛮さを改めて心に刻みつけ、このような事態が二度と繰り返されることがないように願い、行動していきたい。
 しかし、この本を読み、大きな違和感を感じたこともまた事実である。それについて考えていきたい。
 
1. 反戦とは何か
 私は戦争に反対する。ただ、そのとき日本人である私には非常に困難な問題がつきまとうように思う。この本に感じた違和感もそれに関するものだ。
 この著者は戦争の悲劇の原因をアメリカ軍だけではなく、日本軍に求めてはいるものの(p80-p81)、結局それは沖縄という日本の地においての被害を主張しているに過ぎない。これには昭和館や平和祈念展示資料館と同様の限界がある。太平洋戦争、日中戦争において日本人が大きな被害を受けたのは紛れもない事実であり、そのことを振り返るといかに戦争が悲惨なものであり、あってはいけないものだと日本人である私たちは確かに感じる。しかし、これに普遍性は全くない。この戦争では、日本軍によって中国や朝鮮半島などのアジア諸国の人たちや太平洋地域の人たち、アメリカ人たちなどが、そして日本と同盟を結んでいたドイツ軍やイタリア軍によっても多くの人たちが、沖縄などの日本人と同様の、あるいはそれ以上の悲劇を味わわされているのだから、そもそも反ファシズム、民主主義を守るという誰もが否定し難い正義を掲げるアメリカをはじめとする連合国や朝鮮半島や台湾の人たちにとってみれば、日本人が害を被るのは当然の報いなのだ。例えば、ある強盗犯が近所の人たちによって、その被害者を守るために仕方なく殴られたときに、だから強盗はしてはいけないと強盗犯が主張しても説得力がないことに、これは似ている。もちろん、だからといって、連合国による非戦闘員をも対象にした攻撃や空爆、原爆投下といったことが許されるべきではないのも当然である。(先の例で言えば、近所の人たちが強盗犯を殺したりしてはいけないのと同じことである。)今なお、日本に対して戦争の責任を問う視線が向けられていることは、その是非は別にしても、この夏に中国・重慶で開催されたサッカー・アジアカップで猛烈に日本代表に対して浴びせかけられたブーイングなどに明らかである。本当に反戦を唱えたいのであれば自らの被害だけではなく、被害者ではなく加害者としての日本を見つめ直し、反省し、その被害者の思いも酌む必要があると私は痛切に感じる。ただ、後に詳しく述べるように、ここにいう反戦以外で、沖縄は重要な役割を果たせると思う。
 また、著者が沖縄の日本への復帰にあたっての複雑な心境を記している部分やアメリカの基地、政策の全否定に対しても違和感がある。確かに、そのような見方は今も存在するだろうが、世論調査においても、あるいは7月に行われた参議院選挙の結果においても、それは少数派である。私自身も今この状況で著者の見方はとることはできない。確かにアメリカの政策には独善的で支持し難い部分もあるが、戦後においても日本人の多くにとってはアメリカの掲げるそれは正義であり、少なくとも、ソ連が掲げるものに比べれば魅力的だったし、冷戦が終結した今、振り返るのであれば、なおさらアメリカへの支持は誤りだったとは言えないように思える。そのとき、自衛隊どころか何の武器も持たず、アメリカにもコミットしない道は果たして可能だったのだろうか。今の私にはどちらとも断定はし難い。これから、世界史や日本史を学んでいく中で答えへの手がかりが見つけられれば、と思う。
 
2. 琉球−沖縄と日本
 しかし、実は著者は1に述べたような日本の反戦の限界を十分理解した上で、主張を展開しているようにも思える。それは以下に引用する部分(p50-p51)などから感じられる。
 …
 当時就任したばかりの鈴木貫太郎首相は、沖縄の現地軍将兵や官民にたいする放送(四月二十六日)のなかで、一億国民が一致団結して戦い、天皇につかえなければならないとのべたあと、我が肉弾による特効兵器の威力にたいしては、敵は恐怖をきたしつつある。今後に日本独特の作戦にたいして、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は諸君がこの神機をつかみ、勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。
  私ども本土にある国民もまた時来たらば、一人残らず特攻隊員となり、敵に体あたりをなし、いかなる事態に立ちいたろうとも、絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて、終局の勝利を得んことを固く決意しておる。
と、のべました。
 しかし、事実がしめすとおり、この首相の決意は守られませんでしたし、日本は本土上陸などにいたらず、無条件降伏をしました。鈴木首相は特攻隊にもなりませんでしたし、アメリカ に体あたりをしたわけでもありません。それどころか、鈴木首相の回顧録によると、鈴木首相は、就任するときから終戦を決意していたと書いています。
  …
 これを読んだとき私は唖然とした。この本のタイトルは『戦争と沖縄』であり、第二次世界大戦において日本では唯一地上戦が行われたという悲劇を伝え、戦争の悲惨さを訴えるものだと解していたが、その思いと大きくぶつかるものをここに感じたからだ。鈴木首相の放送の引用後の段落で述べられていることは明らかに、沖縄だけが捨て石にされ、本土は地上戦による被害を受けなかったことについての恨みである。もちろん他の部分では戦争を、戦いを憎むメッセージを受け取ることができるのだが、ここからは、著者は実は戦争そのものについて反対しているのではなく、単に沖縄が被害を受けた戦争を憎み、本土を憎んでいるのではないかという疑念が生じる。つまり、著者は明治政府下の帝国主義政策に苦しめられてきた朝鮮半島や台湾の人たちと同様のポジションに自分をおくことで、日本人による反戦の難しさをクリアしようとしているのではないだろうか。
 ここまで強烈なものでなくとも、本土に対しての憎しみにも似た感情や琉球−沖縄の独自性の強調は、正反対の日本への強い帰属心とともに、かなり詳しく要約した第1部の至る所に現れている。このねじれは“ジュニア新書”だけに、“ジュニア”に対するまやかしなのであろうか。
 ここで思い出されるのが、多民族国家アメリカにおけるマイノリティの振る舞いである。例えば沖縄県出身者も含まれる日系人についてその経緯を見る。彼らのうち1世はアメリカに帰化ができず、土地も持てず、後には日本からアメリカへの移民自体が禁じられるなどの差別を法律の下に受けていたにもかかわらず、タカオ・オザワが帰化権を争った裁判(1922年)などに明らかなように、進んで“アメリカ化”した一方、1970年代になると、3世は1960年代のBlack Power運動に刺激されたYellow Power運動に加わり、積極的に“日系”というエスニシティを引き受けるようになった。また、アフリカ系についても、第二次世界大戦中は労働者不足から北部へと移住し、国防産業で人種隔離が禁止されたり、労働組合への参加が認められるなどし、アイルランド系らとともに“アメリカ人”として地位を向上し、さらにマーティン・ルーサー・キングJr.牧師を中心とした公民権運動の結果、“アメリカ人”として法的平等を手に入れたのに対して、それに続くマルコムXを中心に社会・経済的平等を求めたBlack Power運動においては自らがアフリカ系であることを誇った。
 この平行関係は、やはり沖縄の人たち自身が、そして〈日本人〉が沖縄の人たちを日本のマイノリティ、〈琉球−沖縄人〉としてとらえ、扱ってきたからだろう。(以下日本と琉球−沖縄を互いを含まない概念として扱う際は便宜的に〈 〉を用いて表す。)著者は必死に〈琉球−沖縄人〉の存在を否定し、沖縄の人たちは日本民族であることを強調する。そもそも「あとがき」を読めばわかるように、この本の目的は「沖縄でのかつての戦争がどんなものであったか、そして、沖縄の歴史的な位置と戦後日本に復帰するまでの沖縄の歩みを、みなさんに十分理解していただく」ことであり、沖縄の歴史的位置、つまり著者によれば沖縄は昔から日本であることを伝えることもこの本のねらいの一つなのだ。しかし、私はここで大きな疑問を持たざるを得ない。それはそもそも著者の言うような意味での断定的な日本民族がそもそも存在するのか、ということだ。著者自身が認めているように(p132, p159など)、沖縄の人たちが自らを日本国民、皇民と認識するようになったのは明治政府下の教育によってである。これと同様に、それ以前は自らを日本民族だと認識したことは沖縄だけではなく、日本中どこでもなかったはずである。だからこそ、NHKで放送中の大河ドラマ「新選組!」で江口洋介の演じる坂本龍馬が自らの拠り所として提示する、“~藩”ではなく、外国に対する所の“日本人”という概念が、香取慎吾の演じる近藤勇にとっても、視聴者にとっても、非常に新鮮にかつ魅力的に映るのだ。つまり、日本民族という概念は、すぐれて近代の産物であり、多様性を持った人たちを抱え込んでいることを隠蔽するため、日本という国民国家統合のために、日本人、皇民という概念と同様に考え出されたものである可能性が高い。
 沖縄の人たちが自らを日本人としてとらえることを望むのであれば、それは私が意見を述べるべきことではない。しかし、そもそも大和朝廷の統一に始まる日本統一の歴史、文化を振り返るとき、もちろんその中にも多様性を抱え込むことにはなるが、ある程度は本土には共通性を認めることができ、その点では〈日本人〉が、また、沖縄は中国、韓国から日本本土とは違うレベルでの影響を受け、かつ日本からも影響を受けてきたとを考えれば、〈琉球−沖縄人〉が成立しうると考える方が自然なのではないか。また、本土内部においても様々なレベルでの相違点が認められ、〈~人〉が成立しうるだろう。ただ、重要なのはそれぞれに〈~人〉というレッテルを貼ることではない。それぞれが〈~人〉であると自らを考えることを望むときに、つまり自らの属する集団の特殊性を誇りに感じ、肯定的にとらえようとするときに、近代にできあがった、日本国民の均質性を主張する日本人や日本民族という概念がそれをはばもうとすることには不自然さがつきまとうということこそが重要なのだ。
 再び、アメリカに注目したい。そこでは先に述べたように、アフリカ系がBlack Power運動を展開し、他民族にも影響を与えたほか、各大学にエスニック・スタディーズを根付かせ、アメリカでは“サラダボール”や“モザイク”に象徴される多文化主義が生み出された。そこでは自らの固有性を誇りに感じることがアメリカ人であることと同時に成立させられるわけだ。確かに多文化主義は1990年代以降、これでは西洋文明を基盤とする「アメリカ」が空洞化し、国民統合が不可能になるとして反対の声も多いが、多文化主義自体がアメリカ統合の理念になるとも言われている。いずれにせよ、自らを欺く形での統合など、それ自体が虚構でしかなく、多文化主義には大きな魅力があるのは事実である。
 著者は琉球−沖縄の文化を本土とは異なるものとして、誇る一面も見せているのは先に述べたとおりだ。これを日本人としての意識と共存させる、つまり、日本人の意識と〈琉球−沖縄文化〉への誇りを共存させることを矛盾なく成り立たせる方法として(もちろんアメリカで懸念されているように矛盾を抱え込んでいるとの見方もあるのだが)、多文化主義は有効ではないだろうか。
 
3. 別の形での反戦
 私自身は沖縄の独自性を主張するこの路線に、沖縄が反戦で果たせる役割への手がかりがあるように思う。実際に沖縄も、そして日本人全体もこの路線を志向しているように思う。
 アメリカのアフリカ系が公民権運動によって“アメリカ人”に、Black Power運動によって自らの独自性を主張したような経過が日本、沖縄にも見られる。沖縄アクターズスクール出身者の安室奈美恵やSPEED、DA PUMPなどが〈沖縄性〉を持たない音楽でJ-POPの中心を担ったことを前者の段階として、主演の国仲涼子をはじめ、ガレッジセールなど多くの沖縄出身者による、沖縄独特の文化や価値観など〈沖縄性〉を前面に出したNHKの朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」のヒットやゴーヤーチャンプルーなどの沖縄料理ブーム、さらには沖縄への移住ブームなどを後者の段階として、とらえることができる。
 このとき、著者が密かに記していた、中国や朝鮮の〈琉球−沖縄文化〉への影響(p169)が思い出される。つまり、沖縄は地理的に北東アジアの中心であるだけではなく、文化的にも周辺の様々な要素が入り混じった“中心”でもある。思い起こせばそうであったからこそ、決して大きいとは言えない島々が、著者が述べるような繁栄を築くことができたのだ。したがって、北東アジアの文化的な交流の中心的な役割を担うのは沖縄が非常にふさわしい。加えて、中台間では直接の交易は許されていないため、沖縄を経由して交易が行われていること(テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」2004年4月27日放送より)に表れているように、北東アジアの地理的な結節点としての役割も沖縄は今なお果たしている。北東アジアの人々が、それぞれの文化をさらに独自に発達させた〈琉球−沖縄文化〉を通じて、互いの文化に思いをはせて理解し、認めあい、さらには競い、向上しあう―それこそが一番の反戦であり、一番理想的な平和の構築ではないか。
 
おわりに
 毎年毎年、8月にはいると、広島、長崎での式典や終戦記念日には反戦が唱えられ、平和が訴えられる。しかし、それにそらぞらしさを感じるのは私だけだろうか。平和は、祈ったり、反戦を唱えて行進したりすればやってくるのだろうか。どのような所でも、どのような時代でも、平和を愛さない人などいないはずである。繰り返し繰り返し、平和を祈り、反戦を唱えてきたはずである。きっとこれでは何の進展もなく、平和のための戦争という理解し難い事態にきっと陥ることになるのだ。そのとき、反戦を唱え、平和を訴えること、そうしてきたことは免罪符には決してならないのだ。私たちは徹底して変わる必要がある。何に、そして、どうやって―これは私たちに今、いや古代からたてられ続けた問いである。答えは誰も知らないのかもしれない。しかし、私たちは探さなくてはいけないのではないだろうか。