はじめに
私は以前から気になっていた島々があった。今回調べることにした、大東諸島である。この諸島は台風情報などで、たびたび耳にするものの、実際にどのような風景が広がっており、どのように生活しているのかは全く知らない。地図でその正確な位置を確かめてみると大東諸島は、本州はもちろん、沖縄県には属するものの琉球諸島からも相当に離れており、日本の島々の中では珍しく「絶海の孤島群」という表現が似つかわしいように思う。
そこで今回のレポートでは、大東諸島にはどのような自然が広がっており、文化や風習、産業などを調べることで、その自然のもとで人々はどのような暮らしを営んでいるかを探っていきたい。このような小さく、「外界」からも海で遮断されている「絶海の孤島群」で人々が生活をしているのには相応の理由があるのだろうか。
参考文献についてはレポートの最後に詳しく挙げるが、地形や土地利用を探るために地形図や、その暮らしの実態を探るために南大東村・北大東島の村役場が開設しているホームページなどを適宜利用していきたい。
第1章 大東諸島の自然
大東諸島の位置と気候
大東諸島は北大東島、南大東島、沖大東島(ラサ島)の三島からなるが、沖大東島は現在、アメリカ軍の演習場として利用されており、無人島となっている。以下の図に示すように、大東諸島は沖縄本島の東方約360kmの太平洋上に位置する。360kmは東京−名古屋間にほぼ相当する距離であり、この島が「沖縄」からかなり離れていることがわかる。大東諸島は周りを深さ2000mもある海に囲まれており、距離だけでなく地帯構造から見ても「沖縄」とは異質なものといえよう。南大東島は島の周囲が20.8km、面積が30.57km2で、北大東島は周囲が13.52km、面積が11.94km2といずれも半日もかからずに歩いて一周できる小さな島である。
南大東島地方気象台のデータを用いて、気候について見ていきたい。気候は温帯・亜寒帯に属するとされる日本の中でも、最寒月となる1月の平均気温は17.6℃と暖かく、熱帯気候の条件となる最寒月平均気温18℃以上をわずかに下回る程度であり、黒潮が流れる暖かい海に囲まれて海洋の影響を強く受けているため、亜熱帯海洋性気候に属するといわれる。気温を見てみると、東京など日本では一般に最暖月は8月であるのに対して、7月が28.2℃で最暖月となっている。これは太平洋高気圧に最も強く覆われる時期が沖縄地方では早いためである。降水量を見てみると、梅雨期の5~6月と台風期の7~10月にかけて多くなってはいるものの、年間を通して平均的に降雨がみられる。東京の年降水量1466.7mmと比べると1649.8mmと多いが、沖縄地方ではおおむね2000mmを超える降雨が見られることを考えると、沖縄県の中では降雨量はむしろ少ないといえる。また、冬は周期的に北東季節風が、夏は主に南東季節風が吹く。
大東諸島の成立
このような「絶海の孤島群」はいかにして成立したのだろうか。調べてみると、かなり特徴のある成り立ちを持っていることがわかった。大東諸島は他の大陸と一度も陸続きになったことがなく、地質学的にも沖縄本島と異なっているここでは大東諸島がどのように形成されてきたかを見たい。
まず、大東諸島は現在のニューギニア諸島付近で約4800万年前に火山島として誕生したといわれる。この火山島は右図のように周りを珊瑚礁が取り囲む裾礁の状態だった。
その後、フィリピン海プレートに乗って北上を続けていた火山島は約4200万年前に沈下し始めた。火山島が沈むと同時に珊瑚礁の堆積物が積み重なり、約2500万年前には左図のような環礁が形成された。
約600万年前にプレートの運動が西の琉球海溝へと方向を変え、そのプレートが琉球海溝に沈み込むことで形成されたたわみによって環礁が隆起し、礁湖の部分も陸地となって現在の大東諸島が形作られた。南・北大東島の中央に散在する大小の池や、南大東島のの北部にある大池の北端周辺にある湿地帯に群生する数千本のオヒルギ(本来は泥土質の海岸に樹林、マングローブを構成する)はその名残である。今もなお一年間に約5cmずつ沖縄本島の方向に移動を続けている。
大東諸島の地形
大東諸島は環礁が隆起して成立したことはすでに述べた。従って、大東諸島の岩盤は石灰岩を主としてできている。ここでは、石灰岩が生み出す特殊な地形を見ることができる。地形図を見てみると、等高線の内側に突き出しを持っているものや矢印がかかれているものがある。これは凹地を示す記号である。つまり、周りから見れば窪んでいるということだ。これらの地形は石灰岩の割れ目に雨水が入り、溶食されて形成されるすり鉢状の凹地、ドリーネや、ドリーネが複数結合してできるウバーレと呼ばれる。また、石灰岩が地下水に溶食されてできた地下の洞穴である鍾乳洞も点在しており、南大東島の星野洞は観光スポットとして整備され、公開されている。また、文献等で確認はできないものの、大東諸島の写真を見ていて気がつくのは、畑に限らずとも、土が異常に赤っぽいということだ。おそらくこれも石灰岩の風化によって生まれた地中海沿岸のテラロッサと同様の理由によるのだろう。
隆起によって成立したこの諸島を特徴づけるもう一つの点は、島を取り囲む海食崖である。第2章で詳しくまとめるが、この海食崖は船が接岸できないなど島の暮らしに大きな影響を与えている。より卑近な例としては砂浜がないため、「沖縄」であるにもかかわらず、一年中、海水浴ができないということがある。昔は島の子どもたちはこの崖の下で泳いでいたようだが、サメが出没するなど危険であったため、現在では岩をくりぬき、海水を引き込んだプールが作られており、文字通りの「海水浴」が楽しめるようになった。
第2章 大東諸島の暮らし
大東諸島は元々は無人島で、人々が上陸し、開拓が始まったのは1900年のことだった。人々はまさに大東諸島の自然に引きつけられる形で「絶海の孤島」での暮らしを始める。ここでは、どのような自然に人々は引きつけられ、その営みはどのようなものであったのか、今の暮らしはどのようなものであるのかを明らかにしたい。今の暮らしについては自然を地形、気候、海、さらには文化の観点から見てみようと思う。
島の「発見」、開拓から現在へ
大東島は古くから「うふあがりじま(はるか東の島の意味)」として琉球人の間ではその存在が知られていたものの、西欧が大航海時代に入り、スペイン人によって大東諸島が「発見」され、17世紀には世界地図に記載され始め、「世界」に登場する。その後もアメリカやフランス、ロシア、ドイツの艦隊が大東諸島を「発見」・確認していくが、日本は調査を経て1892年には大東島を日本領土と世界に公表した。
島の開拓は、八丈島で絹織業を始め、1887年に鳥島を開拓し、羽毛の採取によって一躍巨万の富を積んだ玉置半右衛門の事業として始まる。島の周囲が切り立った崖のために上陸は困難を極めたが、1900年に八丈島出身の一行23名が南大東島に上陸してさとうきび栽培を中心とした開拓が始まった。1903年には北大東島にも上陸し、そこではマッチや農薬の原料として使われる燐の採掘を主とし、気候を生かしたさとうきび栽培をも行う開拓が始まった。最盛期には年間22068万トンもの燐鉱石を搬出し、その出稼ぎ者によって島の人口は4000人にまでふくらむ。その死後、玉置半右衛門の経営した玉置商会から東洋製糖、大日本製糖が事業を引き継ぎ、さらに開拓が進められて両島は製糖工場と港の間をシュガートレインが走るほどに発展したが、戦中は米軍の攻撃を受けて農地は荒廃した。戦後はアメリカの統治に入り、北大東島では燐の採掘が終わり、さとうきび栽培がより進められた。1917年に国が玉置商会に南・北大東島を払い下げて以来、その全農民はプランテーション的な経営のもとでの「小作人」であったが、1964年には土地所有権認定の発表がなされた。1972年には日本復帰し、テレビ放送の開始や飛行場の開港、海水の淡水化による簡易水道の完成を経て、2001年の南大東島の人口は808人、2000年の北大東島の人口は671人となっている。
地形と暮らし
島と外部とのつながり
大東諸島と外部との交通の手段には空路と海路の二つがある。空路は、1955年に南大東空港、1978年に北大東空港が開港され、現在は一日一便が那覇との間を1時間強で結んでいる。興味深いのは海路のほうである。那覇と南・北大東島を13時間で結び、週に1、2便が運行されている。ここでは南大東島を例に見たい。南大東島には北、西、亀池港の3港があり、船はその時々で利用する港を使い分ける。北大東島にも同様に港の使い分けが存在する。なぜ1港に限定されていないのかといえば、強風や波浪によって船の「着岸」が困難であるとき、風下側の港が利用できるように選択肢が用意されているからだ。しかも、大東諸島の島々の周囲は切り立った崖であり、「着岸」も通常のもとは異なる。その人や荷物の積み降ろしは左の写真のようにクレーンによって行われている。
防風林
南大東島の地形図を見渡してみると畑の記号の中にその畑の境界に沿っていると思われる一直線に並んだ広葉樹林、街路樹として植えられたやし科樹林と並んで、島の外周などの針葉樹林が目を引く。これは1917年に東洋製糖が島民の生活と生産の向上という観点から防風林の必要性を重視するとともに本格的に植林計画を立てて生育に着手し、1921年から1926年にかけて年次計画でリュウキュウマツ等を植林したことに由来している。大東諸島の周囲には広大な海が広がり、妨げるものがないため、冬は北東季節風、夏は南東季節風や台風の影響を直接に受けることから、防風林の有効性は大きい。
海水淡水化施設
南大東島には中央部に大きな池が数多くあり、その水を処理して1976年から島の中心の集落である在所を中心に給水を始めたが、全島には行きわたらなかった上に、池の水質が悪くなったことによって、村民の願いにそってこの設備が作られた。これによって、飲料水の水質基準をはるかに凌ぐ良質の水が豊富に提供され、島の暮らしを支えている。ダムや河川を持たない離島ならではの水道システムである。
気候と暮らし
さとうきび農業
本来さとうきびは、生育期は高温多雨、収穫期は乾燥するサバナ気候やモンスーン気候が適する。第1章で見たように、大東諸島に乾期はないものの、ほとんど熱帯に近い気候がみられ、日本の中ではさとうきび栽培に適した気候であるといえる。開拓以来、両島で盛んに行われてきた、さとうきび農業は、今日もなお両島の主要産業となっている。もともとはプランテーション的経営のもとで行われていたため、畑は日本の一農家当たり耕地面積平均、1.53haを上回っている。例えば、北大東島の広々と区画整理されたさとうきび畑ではオーストラリアから導入した大型キビ刈り機ケーンハーベスターにより大規模な生産が行われ、農業従事者の高齢化や労働力不足が補われている。また、より高品質な作物の生産を目指して、近年ではさとうきびと馬鈴薯との輪作栽培が始まったという。南大東島には大東糖業、北大東島には北大東製糖の製糖工場があり、製糖まで、島で行われている。
風力発電所
防風林の所では邪魔者扱いされた風を有効利用しようという試みが風車によって発電を行う、風力発電である。南大東島に2000年に完成したこの施設は土地改良事業の一環で、灌漑用水汲み上げ用のポンプを回すために使われ、その出力は三百キロワットで、余剰電力は沖縄電力に売却する。北大東島には風力発電所はないものの、専門家の間ではその設置が期待される場所とされている。
大東そば
大東諸島で食べられている「名物」の一つに大東そばがある。この特徴は、麺にあり、ラーメンを作るときに使う「かんすい」の代わりに島の亜熱帯植物であるガジュマルの木の灰汁の上澄みを用いる点にある。
海と暮らし
漁場としての海
太平洋に囲まれた大東諸島の近海は、キハダマグロやカジキ、サワラなどが回遊し、本土から出漁してくるほど豊かな漁場となっている。ナワキリ(クロタチカマス)など沖縄本島近海では見られない深海魚が獲れるほか、イナダやキンメダイなど魚種も豊富で、季節によっては20kgもあるセーイカ(ソデイカ)が獲れる。南大東島・北大東島ともに年間約40トンの漁獲高を誇るものの、市場が遠く、漁港にも恵まれないため、小型船の操業と島内消費にとどまっている。しかし、南大東島では1989年度に掘り込み港となる南大東漁港の建設が開始され、2000年には一部利用が始まった。工事は遅れ気味ということだが、2010年の完成が予定されており、島民への漁業振興はもちろん、近海で操業する漁船の避難港や寄港及び前進基地としてなど、大規模な水産開発が期待されている。
大東寿司
大東諸島には近海で捕れた魚を生かした名物もある。それが大東寿司だ。これは醤油ベースの特製のタレにサワラ、マグロを漬け込み、甘酢めしで握ったもので、タレは数種類の調味料をブレンドして作られ、各家庭ごとにその味わいには違いがある。これは八丈島からの開拓民が持ち込んだ「島寿司」(八丈島や小笠原諸島で食べられているという)にルーツがある。
大東諸島の文化
大東諸島は八丈島からの開拓民によってその第一歩が刻まれ、そこに沖縄本島からの移住者が加わって開拓されたため、「日本」文化と琉球文化が融合・併存している。例えば北大東島では、旧盆にはエイサーが舞い、豊年祈願の大東宮例祭では御輿が島中を練り歩き、江戸相撲と沖縄角力が奉納され、さらには金刀比羅宮例祭では八丈太鼓で航海安全を祈願する。そもそも「沖縄」、つまり旧来は琉球と呼ばれた場所には神社信仰は存在しなかったはずであり、沖縄県の中ではこれは「異常」なことなのだ。これは南大東島でも同様で、いわゆる沖縄の風俗と江戸・東京の風俗が入り混ざって展開している。神社信仰は東洋・大日本製糖時代の大東島製糖所の所長であった江崎という人物によって進められ、その結果、信仰・親睦面を通じて島内の生活も安定してきたといわれている。それと同時に地蔵に対する信仰も持ち込まれた。これは、「上から」の信仰ではなく、島民が自ら内地(本土)に注文して建てられたという。
おわりに
ここでは、冒頭に立てた問い、「大東諸島のように小さく、『外界』からも海で遮断されている『絶海の孤島群』で人々が生活をしているのには相応の理由があるのだろうか」への答えを考えてみたい。
「外界」から全く遮断されていないとは言い切れないことは間違いない。今もなお、空路・海路とも天候に左右されることでは変わりないし、実際に物資を運ぶ船が悪天候のために何日も途絶えることがあるという。
しかし、少なくとも、貧しいというイメージがまとわりつく「絶海の孤島群」ではない。一面に広がる大海原の中、ぽつんと孤立している人々の姿を想像することは適切ではないということだ。
例えば、今年で42回目を迎えた南北両大東村親善競技大会を見たい。この行事は毎年6月に南大東島と北大東島で交互に開催され、野球や江戸相撲、沖縄角力など9種目の競技で熱戦が繰り広げられる。この「すもう」に着目すれば、江戸・東京、そして沖縄との接続が感じられる。これ以外にも文化などの観点から見ると、外との接続が多くあるのは先に見たとおりである。さらに私が注目したいのはこのような行事を42回も積み重ねてきた点である。1900年の南大東島への上陸以来、八丈島出身の開拓民も「沖縄」出身の開拓民も関係なく様々な困難をともにしてきた。彼らには、製糖企業が島そのものを所有し、プランテーション的経営下での「小作」制、戦中の米軍からの攻撃による被害、村制になった後の土地所有権獲得への運動、今日も残る物資の供給の不安定さ―といった労苦をともに味わったことから来る共同体意識があるのだろう。
南北通じてのものだけでなく、それぞれの島にも強い共同体意識が感じられる。先に挙げた祭りもそうであるし、字対抗の陸上競技大会などからもそれは読み取れる。それらの行事には、東京の同様の行事ではたいていお年寄りばかりが目につくものだが、子どもからお年寄りまでが参加し、にぎわいを見せるという。ここで私が思うのは、むしろ貧しい「絶海の孤島群」に住んでいるのは東京の私たちではないか、ということだ。私自身マンションに住んでおり、出張所管内の運動会などには参加したことはないし、いわゆる「近所付き合い」もない。もちろん、「共同体」を無批判にすばらしいとすることには問題があろうが、これは都会に欠けてしまった要素であり、さじ加減はともかくも、今必要とされていることは事実である。大東諸島のような離島で今もなお、暮らしが営まれているのは、共同体意識をはじめとした都会には薄れた精神的な豊かさに起因しているのではないか、というのが結論である。
もしかすると、この精神的な豊かさは沖縄県に共通したものであるのかもしれないとも思う。というのも、2001年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」はその雰囲気を持ったものであったからだ。その点を肌で感じ、調べるためにも、来年度の修学旅行が楽しみとなるレポート作成となった。
参考とした資料
1:25,000地形図 南大東島(平成9年発行) 国土地理院
1:25,000地形図 北大東島(平成13年発行) 国土地理院
1:50,000地形図 南北大東島(平成5年発行) 国土地理院
地理用語集(2000年発行) 山川出版社 p72, p74, p92
地理資料B 2001(2001年発行) とうほう p61, p67 - p71
新詳高等地図最新版(平成15年発行) 帝国書院 p19 - p20, p104
2003データブックオブザワールド(平成15年発行) 二宮書店 p76
参考としたウェブサイト