■大阪紡績

   

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大阪紡績(大正時代?)

 

 渋沢栄一の長女で、数えの20歳になる歌子は、1882年(明治15)4月、伊予宇和島出身で26歳の穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)と祝言を挙げた。穂積はイギリスとドイツの留学から帰国し、東京大学で法学を教えはじめたばかりの謹厳実直な少壮学者だった。

 このころ栄一の自宅は深川福住町(現江東区永代2丁目)にあった。妻、千代とのあいだに1男2女があり、数えでいうと、次女の琴子が13歳、嫡男の篤二(とくじ)は11歳になっている。

 しかし、ややこしいのは、栄一に数え切れぬくらい多くの女性関係があって、たとえば名前がわかっているだけでも、大内くにとのあいだに、「ふみ」と「てる」という女の子が生まれていた。すでに、ふみは12歳、てるは10歳になっている。

 

 ノンフィクション作家、佐野眞一の調査によると、大内くには、福住町に移る前、神田神保町裏の邸宅で渋沢一家と暮らしていたというから、しばらくは妻妾同居の生活があったわけだ。その状態はあるいは福住町時代もつづいていたかもしれない。

 大内くには、のちに漢学者、織田完之の妻となり、牛込の穂積邸の隣に引っ越す。娘のふみは、栄一の敬愛するいとこ、尾高新五郎〔別名、惇忠(あつただ)〕の次男、尾高次郎〔のち第一銀行釜山支店長〕に嫁ぎ、てるは栄一のおい〔妻、千代の姉の子〕大川平三郎〔のち王子製紙社長〕と結婚する。

 かなり強引な手法ではあるが、栄一は渋沢家の書生をしていた親戚の有望な青年たちに、実の娘をめあわせて、親としての責任をとったわけだ。もっとも、尾高次郎、大川平三郎、大内ふみ、てるは一時、同じ邸宅で暮らしていたのだから、幼なじみだったともいえる。

 

 これはよけいなことかもしれないが、ふみと尾高次郎のあいだには6人の男子が生まれる。うち鮮之助は美術研究者、朝雄は法学者、邦雄は産業社会学者、尚忠は指揮者として知られる。競馬評論家として有名だった大川慶次郎は、てるの連れ合いとなった大川平三郎の孫にあたる。

 ちなみに文学者の渋澤龍彦〔せめてこの漢字でないと雰囲気がでない、渋もできれば旧字体〕は傍系だった栄一の家系というより、渋沢本家と直接つながっている。

 

 長女、歌子の孫、穂積重行によると、渋沢栄一を中心とした系図は、ふつうの系図では間に合わず、おそらく立体図でないと描けないだろうという。妻の千代とのあいだに一男2女、後妻の兼子とのあいだに3男1女、くにとのあいだに2女、それだけで9人の子がいるが、ほかにも十数人子どもがいたようだ。1970年ごろ第一勧業銀行頭取になる長谷川重三は、栄一68歳のときの子と伝えられている。

 これはちょっと乱脈がすぎる感があるが、さすがに栄一も1891年(明治24)に「渋沢家家法」なるものをつくり、同族を直系の6家(のち7家)に限定する相続法を定めている。

 やはり栄一も女性問題にはいささか頭を痛めたのではないだろうか。それでも、この悪癖はやまないというか、事業と同じで、女性に対しても困ったことに次々と開発欲がわいてきてしまうのである。家庭内では、複雑な思いが交錯し、ちょっと仕切りをはずせば、たちまち大嵐が到来しそうな気配がただよっていたにちがいない。

 しかし、栄一は事業と同じように女性問題でも、けっこううまく難局を切り抜けている。そこには、さまざまな暗闘はあったものの、身を裂くような不幸の影は差していない。あまりほめられた話ではないにせよ、栄一自身はそれなりに精一杯、後始末に努力したのだろう。

 

 妻の千代は、相手が仕事でも女性でも、しょっちゅう遠征に出る夫をよそに、ホームグラウンドをしっかりと穏やかに守っていた。栄一とは、もともといとこの関係(尾高新五郎の妹)で、子どものころから互いによく知っている。幕末、栄一が娘を残して、京都に出奔し、その後はるかパリに行ってしまい、ようやく日本に帰ってきたかと思うと、たちまち明治新政府の中枢に取りこまれ、しばらくするうちに喧嘩して政府をやめて実業の世界に転じ、あわただしくあちこち飛び回っている、そんな有為転変を千代は何も言わず見守っていた。

 いつの間にか20歳になった長女の歌子を嫁がせたとき、さほどからだの丈夫ではない千代の胸には万感の思いが去来したにちがいない。

 

 長女が結婚したあとも、栄一はあわただしく各地を飛び回っている。4月末には関西財界の大物、藤田伝三郎と連署して、日本初の本格的織物会社となる「大阪紡績」の創立願を大阪府知事あてに提出した。5月には盛岡や石巻にある第一国立銀行の支店を視察するため、東北を訪れていた。盛岡では幼いころ『論語』の手ほどきを受けた、いとこの尾高新五郎(当時、盛岡支店長)と久しぶりに語り合っている。

 東京に戻ると、共同運輸会社を設立する話がいよいよ本格化していた。大隈重信を追放した新政権は、一転して三菱つぶしの動きに出たのである。

 その推進者は、農商務大輔の品川弥二郎だった。長州出身、吉田松陰門下で、維新後は内務少輔を務め、1881年(明治14)4月に農商務省が設置されるとともに大輔のポストに就いた人物。熱血漢だが、見境のないところがある。

 

 ちなみに農商務省は、西洋流の文明を直輸入しようとした明治政府が、10年以上たってようやく足元の不安定さに気づいて新設した役所といえるだろう。人口の8割が従事する農業を監督する独立した役所がそれまでなかったのが不思議なくらいである。

 内務省が管轄していた殖産興業部門が、農商務省に移された。初代農商務卿には土佐出身の河野敏鎌が就任、大隈追放後は西郷従道が後を継ぐ。しかし、実務は内務省から横すべりした品川弥二郎が差配していたとみてまちがいないだろう。

 

 当時、海運で三菱会社と対抗している会社は、栄一の応援する東京風帆船会社と、北海道運輸会社、越中風帆船会社しかなかった。品川はこの3社を合併して、三菱と同じ規模の船会社をつくろうと考えた。それが「共同運輸会社」だった。

 実は品川の後ろには参議兼外務卿の井上馨が控えている。ほんとうは井上こそ共同運輸会社設立の黒幕だった。三菱をつぶせば、大隈は資金源がなくなり、ぐうの音も出なくなるだろうとにらんでいた。

 大隈解任後の政局運営に自信をなくした伊藤博文は、いささかノイローゼ気味だったが、これから最大の政治課題となる憲法問題を調査するためヨーロッパへ出かけた。北海道の官有物払い下げが中止になったことに憤った黒田清隆は、開拓使と参議を辞任した。それからひと月ほどして開拓使という役職自体も廃止になる。

 

 そうしたなか、1882年(明治15)7月14日に品川弥二郎は3社合同による共同運輸会社の設立を許可する。発起人は益田孝、小室信夫、堀基(もとい)、渋沢喜作、そしてかれらを渋沢栄一が支援し、社長には海軍大佐(のち日清戦争時に海軍次官)の伊藤雋吉(しゅんきち)が就任、副社長には同じく海軍出身で東京風帆船会社社長だった遠武(とおぶ)秀行が名をつらねた。

 ちなみに発起人のひとりとなった小室は丹後(京都府)出身の尊攘家で、幕末に京都の等持院に安置されていた足利尊氏木像の首を切り落とした奇矯な行動で知られていた。志士として、井上馨や板垣退助と近しい人物だが、実家は宮津で代々回漕業を営んでいた。

 堀基は薩摩出身で、開拓使の黒田清隆のもとで北海道の開発に取り組み、開拓使廃止後は北海道炭礦鉄道の社長をつとめた人物である。

 もともと300万円ほどだった資本金に政府が260万円を出資して、共同運輸会社は600万円の資本規模を誇る半官半民の巨大会社にふくれあがった。風帆船のほかに蒸気船を41隻保有している。開業は翌年1月1日からで、民間の輸送だけではなく、海軍の業務も請け負うことになった。

 

 7月14日に農商務省で開かれた発起人会に栄一は出席できなかった。3年前にはやったコレラがこの年も猛威をふるっていた。栄一は、最近疲れた様子のみえる妻の千代を気づかって、町なかの福住町から王子の飛鳥山別邸に移したのだが、この日、千代が発病したのである。

 主治医の猿渡常安(さるわたり・じょうあん)、つづいてドイツ人のお雇い外国人医師、エルウィン・ベルツが診察にあたったが、手のほどこしようがなく、千代は翌日の夕方、亡くなる。42歳だった。

 コレラ感染が疑われたために、栄一も子どもたちも千代に近づけず、隣室からそっと見守るしかなかった。遺体は翌朝、あわただしく荼毘に付された。

 あまりに突然のできごとに、栄一は心に大きな空白が開いたような気がしたにちがいない。さらに新たな事業にのめりこんでいったのは、そのさびしさをまぎらわせるためでもあっただろうか。

 しかし、渋沢家のなかで千代が亡くなった影響をまともに受けたのが、10歳の長男、篤二だったことはまずまちがいない。

 栄一が翌年、伊藤兼子を後妻に迎えてからしばらくして、篤二は姉夫婦の穂積一家に預けられる。しかし、長じるにつれて次第に放蕩生活が始まり、ついに渋沢家の相続権を奪われることになる。

 

 大隈政権崩壊後の数年間は、階段の踊り場のような時代だったといえるかもしれない。たしかに大きな曲がり角にぶつかっていた。

 栄一の家庭生活には大きな変化が訪れたが、事業の面でもそれは同じだった。大蔵卿、松方正義による紙幣整理が始まっていた。松方は酒造、醤油、売薬などにも税をかけ、その税収によって財政赤字補填のために濫発された政府紙幣の消却をはかろうとする。公債資金や準備金も政府紙幣消却にあてられた。

 いっぽう政府内では徹底した経費節減が実施された。外国人技師が解雇され、海外留学生が大幅に削減されたのはこの時期である。ほとんどが赤字経営だった官営工場は民間に払い下げられることになった。官営工場の元締めだった工部省は、まもなく廃止される。

 

 政府紙幣と並んで、国立銀行紙幣の消却も大問題だった。政府は各行の引換準備金と積立金を消却にあてるよう指示し、国立銀行券の圧縮をはかると同時に、全国の金融を一体化するため日本銀行を設立した。1882年(明治15)5月のことである。

 アメリカ流・地方分散型の国立銀行体制は、ここへきて大転換を強いられることになった。

 

 翌年5月、国立銀行条例が改正される。開業免許から20年で国立銀行は順次廃止され、普通銀行へと移行することになった。紙幣発行権も消滅した。

 こうして次第に政府紙幣と国立銀行紙幣は回収・消却され、日本銀行だけが兌換性を有する銀行券(紙幣)を発行するようになるのである。

 松方の紙幣整理によって、1881年(明治14)に1.7対1だった紙幣と銀貨(正貨)との交換比率は、1885年(明治18)にはほぼ均等に回復する。このとき世間では猛烈なデフレの嵐が吹きすさんだ。

 

 第一国立銀行が大きな試練にさらされたのは国内だけではない。1878年(明治11)以降、第一国立銀行は朝鮮の釜山に支店を開いていたが、82年からは元山(ウォンサン)にも支店を出し、日本の外務省や商社との取引を深めていた。

 その矢先のことである。ソウルで1882年(明治15)7月23日、大事件が発生した。いわゆる壬午(じんご)事変である。国王の高宗(コジョン)に代わって王妃の閔妃(ミンピ)が政府の実権を握るなか、冷遇されていた朝鮮軍の一部が暴動を起こして、日本人軍事教官の堀本礼造(日本公使館付武官)を殺害し、ソウルの日本公使館を急襲した。

 公使の花房義質(はなぶさ・よしもと)は、重要書類を燃やし公使館に火を放って危地を脱する。漢江(ハンガン)を下って仁川にたどりついた花房は、小舟で沖にこぎだし、3日後、英国船フライング・フィッシュ号に救出される。この事件では12人の日本人が死亡した。

 反乱軍の兵士は昌徳宮も襲って閔妃を探そうとしたが、閔妃は宮女に変装して脱出し、からくも難を逃れた。この蜂起によって、高宗の父で、以前実権を握っていた鎖国攘夷派の大院君(テウォングン)が政府中枢に返り咲いた。

 

 日本政府は朝鮮側に抗議し、1500人からなる陸海軍混成部隊を仁川に上陸させた。8月20日、2個中隊に護衛された花房義質がソウルに入り、日本側の要求をつきつけて、3日以内の返答を求める。仁川での交渉は難航するが、けっきょく8月30日に済物浦〔チェムルポ、仁川の旧称〕条約が結ばれた。

 この条約により、日本人殺害者の逮捕と処罰、遺族と負傷者への補償、日本公使館修復ならびに遠征費用の支払い、日本兵による日本公使館警備の承認などが決められた。また同時に結ばれた江華島条約続約により、釜山、元山、仁川周辺における日本人商人の活動範囲の拡大、ソウルにほど近い楊花津の開市、日本公使・領事と随行員の国内旅行なども認められることになった。

 

 しかし日本側が条約について詰めの交渉をおこなっているさなか、ソウルでは政局を揺るがす事件が発生していた。李鴻章の派遣した清国の将軍が、幕舎を訪れた大院君を逮捕、天津に拉致し、その後、北京にほど近い保定府に幽閉したのである。ソウルに侵入した清国軍3000人の部隊は反乱軍を鎮圧し、ふたたび清国にとって御しやすい閔妃とその一派を政権の座につかせた。

 この間、日本側は切歯扼腕しながら、ことの成り行きを見守るしかなかった。清国側は、この奇妙な動きによって、自分たちこそ朝鮮の宗主国であることを朝鮮の内外に見せつけようとしたのだ。

 日本が清国との戦いを胸の奥に秘め、富国にとどまらず強兵への歩みを踏み出したのは、この壬午事変以降だといってもよい。

 そして、朝鮮に支店をもつ第一国立銀行も、この国に否が応でも深くかかわっていくことになる。

 1882年(明治15)は〈踊り場の年〉だった。すぐには解決不可能な問題が、一挙に押し寄せようとしていた。

 

     

 

 渋沢栄一は、政府に頼るのではなく民間の力によって、日本に近代的な産業を根づかせたいと念願していた。しかし、国内で改革と混乱がつづくなかで、その思いは浮かんでは消えるばかりで、なかなか実現にはいたらなかった。

 不平等条約の影響もあり、明治政府は西南戦争後のインフレ下で、輸入増による正貨の流出に苦慮していた。とくに綿糸や綿布の輸入が急増したことが気がかりだった。これを解決するには、日本国内でも輸入品に対抗できる製品をつくるしかないというのが大方の意見だった。

 

 政府もすでに1880年(明治13)ごろから、農商務大輔の品川弥二郎が中心になってイギリスから紡績機を買い入れ、三河や尾張、伊勢などに模範工場をつくって綿糸の製造に取り組んではいた。コストばかりかかって赤字続きだったが、それでも明治政府のおもしろいところは、頑なに外国資本を導入しようとしなかった点である。

 東北アジアの一角に西洋に伍する国家を築き上げるという強固な意志があふれていた反面、西洋による植民地化への恐れは根強いものだった。幕末に各国と結ばれた不平等条約を改正したいという願いもその延長上にある。江戸の太平が切り裂かれたあとに成立した明治国家の実態は、さほど多くはない人々が、往々にして分裂しそうな精神を必死の思いで支えているというあたりだったのかもしれない。

 

 栄一もまた、急速に増大する輸入品に対抗するために大規模な紡績工場をつくらねばならないと考えていた。漠然とながら、原綿の生産地を考えれば、工場を建てる場所は西日本のほうがいいだろうという予感があった。栄一は大阪の藤田伝三郎や松本重太郎に紡績会社設立の話を持ちかけた。

 資金としては第一国立銀行にゆだねられている華族組合の預金が使えそうだ。前田家や伊達家(宇和島)などが出資する華族組合の資金は、すでに東京海上保険に投じられていたが、まだかなりの残額があった。栄一はさらに東京の綿商人、薩摩治兵衛(さつま・じへえ)らにも発起人に加わってもらい、製品の販売ルートを確保した。

 資金から生産、販売まで目配りしながら、人のネットワークをつくりあげるうまさと周到さはさすがと言わねばなるまい。

 

 このあたりに登場する人物についてコメントしておこう。

 藤田伝三郎は長州萩の出身で、その実家は酒造や醤油醸造を営んでいたが、自身は幕末、奇兵隊に加わり、木戸孝允や井上馨、山県有朋と知り合った。明治になって軍需品を売りさばいたり、軍靴をつくったりして財を築いた人物である。何かとうわさの絶えない井上馨とはとくに関係が深く、大阪人には評判が悪かったようだ。藤田組をつくって、鉱山の開発に乗り出し、1884年(明治17)には政府から小坂銅山の払い下げを受けている。85年に病死した五代友厚の後を継いで、大阪商法会議所の会頭に就任する。

 問題の多い人物だが、大阪財界の指導者だったことはまちがいない。栄一は井上馨との関係で藤田伝三郎と接触があったのだろう。

 のちに藤田組は親族の争いから分裂するが、その枝分かれした先からは日産コンツェルンや日立製作所が生まれている。同和鉱業や藤田観光は藤田組の直系企業にあたる。同和鉱業はいまも小坂鉱山を所有する。藤田観光が東京・目白台に椿山荘を経営するのは、ここが伝三郎とつながりの深い山県有朋の別荘だったことと関係している。

 

 松本重太郎は一時「東の渋沢、西の松本」と称された企業家である。丹後の寒村に生まれ、京都や大坂で呉服屋の丁稚奉公をしたあと独立し、洋反物を扱って富を築き、1878年(明治11)、大阪高麗橋に第百三十国立銀行を創設した。

 重太郎は、年中無休、送金手数料無料、高金利のサービスで預金を集めるいっぽう、数多くの新興企業に惜しみなく投資して、たちまち大阪一の銀行をつくりあげた。渋沢栄一が重太郎に紡績工場の話を持ちかけたのは、銀行家としてのつながりもあっただろうが、何よりもかれの進取の精神と洋反物商としての実績をかったのだろう。大阪紡績では初代社長、藤田伝三郎の後を継いで、2代目の社長を務めることになる。

 

 大阪紡績のほかにも、重太郎は日本紡績、阪堺(はんかい)鉄道(のちの南海電鉄)、山陽鉄道(現JR西日本)、日本火災保険(現日本興亜損保、最近まで日本火災海上保険)、大阪麦酒(現アサヒビール)など数多くの企業設立にかかわる。しかし、放漫経営と不良債権のツケにより、1904年(明治37)に第百三十銀行が破綻し、実業界から引退するという波乱の人生を送った。

 1913年(大正2)に亡くなったときは、神戸一中の2年生になった孫の重治が、葬列で位牌を持った。重太郎と重治は血のつながりはない。重太郎には子がなく、大阪の井上銀行を率いる井上保次郎の弟、枩蔵を養子とした。枩蔵はアメリカ遊学期間が長く、日本に戻ってきてから松方正義の4女光子と結婚し、重治が生まれた。

 松本重治はのちに同盟通信に入り、上海支局長時代に、蒋介石が張学良に監禁された西安事件をスクープ、帰国後、同盟通信常務理事となる。近衛文麿の信頼があつく、第2次世界大戦後は長く国際文化会館の理事長を務めた。

 

 薩摩治兵衛は近江の貧しい農家に生まれたが、江戸の呉服木綿商に奉公したあと、横浜で金布(木綿織物)や洋糸の輸入に携わり、ついに明治の「木綿王」と呼ばれるようになった人物である。のちにパリで洋画家の藤田嗣治(つぐはる)や岡鹿之助、声楽家の藤原義江などのパトロンとなった薩摩治郎八(じろはち)は、その孫にあたる。

 治兵衛の店「丁子屋(ちょうじや)」は、日本橋富沢町のほか、横浜や大阪、京都にも店舗を構えていた。当時、綿糸商は紡績会社よりも大きな勢力を誇っていたといわれる。紡績会社から綿糸を買うだけでなく、材料となる綿花の取引を一手に握っていたからである。

 

 日清紡社長の宮島清次郎の懐旧談にこんな話がある。

 

富士紡の和田豊治社長が、あるとき薩摩商店の店先を俥に乗ったまま挨拶せずに通りすぎたというので激怒を買い、和田社長は辞を低うして陳謝した事件があった。この一事をもってしても、いかにこれら綿糸商が勢力をもち、紡績会社の上に君臨するかの観があったかがわかるであろう。

 

 こうした錚々たるメンバーを概観するだけでも、大阪に紡績工場をつくろうという栄一の意気込みのほどがしのばれる。農商務省の品川弥二郎などが2000錘規模の官営工場をつくったのに対し、栄一は最初からずっと大規模な工場を構想していた。それでなければ、とても採算がとれないと踏んでいたからである。

 しかし、いざ紡績工場をつくるとなると、実際にそれを運営できる人物が必要になってくる。資金があり、販売ルートがあっても、実際に輸入品に対抗できるだけの商品ができなければどうしようもないからだ。当面はイギリスから技師を招聘することもできるが、かれらに引きずられず、工場をしっかりと運営できる日本人がいなくては、ことは進まない。

 

 栄一が思い悩んでいると、第一国立銀行の行員で元越前藩士の津田束(つかね)が、こんな話をした。

「自分の友人に元津和野藩士で山辺丈夫(やまのべ・たけお)という男がおります。かつて神田西小川町の西周(にし・あまね)先生の塾におりましたとき、一緒に机を並べた仲ですが、かれがいま元藩公(亀井家)嫡男のお付きとなって、ロンドンで勉強しています。思想堅実で英語も堪能なこの男なら紡績に興味を持つかもしれません」

 栄一はさっそく話に乗った。三井物産ロンドン支店の笹瀬元明に手紙を書いて、ロンドン大学(キングス・カレッジ)で経済学を勉強していた山辺丈夫にあたってもらうことにした。

 

 山辺は栄一の熱意に応えて、さっそく大学で機械工学の勉強に取り組んだが、やはり工場に入ってみなければ製造の実際はわからない。そこでイギリス紡績業の中心地マンチェスターに乗りこむことにした。1879年(明治12)8月のことである。

 マンチェスター市長と会い、工場を紹介してほしいといきなり頼みこんだが、あっさり断られた。そこで仕方なく「プライメージ[謝礼]付きで紡績工場に入りたし。連絡乞う」と新聞に広告を打った。

 何カ所かから応募があり、それを一軒ずつあたって、最終的には9月1日からブラックバーン市にあるブリッグスなる資本家の工場で働くことにした。1時間の昼食時間をはさんで、午前8時半から夕方5時半までの8時間労働で、ブリッグスには見習金として1500円〔いまで言えば1500万円〕を支払った。

 機械に巻きこまれて大けがをする出来事もあったが、山辺は1年近くの現場修行を終えて、東京に戻ってくる。

 

 西周のめいにあたる妻の山辺定子は次のような談話を残している。

 

[明治13年7月に]東京に帰りましてからも、私の処には一晩くらいゆっくりしましたくらい、亀井家[旧津和野藩主]にもゆっくりしたごあいさつにも参らず、ほとんど渋沢さんとお会いになって、会社の設立についてご相談しておりました。

  いちばん先に大切な問題は、工場を建てる場所と機械を動かす動力でありました。それで13年の冬より山辺はあちこちと水利の便を探しにまいったようです。……しかしまもなく水力ではとうていだめだとなって、帰朝して1年もたつかたたないうちに、汽力でやると話が決まったらしく、三軒家に工場を建てるということも1年たたぬうちに決まったように覚えております。そうして私どもは15年の7月に東京向島より大阪三軒家に移ってまいりました。

 

 栄一は山辺の帰国を待って、1880年(明治13)10月に資本金25万円の新会社を発足させた。2500株のうち272株を栄一が所有し、筆頭株主となった。株主は総勢80人で、蜂須賀、前田、毛利、亀井、伊達、西園寺、井伊などの華族のほか、益田孝、大倉喜八郎、藤田伝三郎、五代友厚、住友家、松本重太郎、渋谷庄三郎、薩摩治兵衛、柿沼谷蔵などが名を連ねた。

 

 山辺が各地を調査した結果、工場の場所を最終的に大阪府西成郡三軒家村(現大正区三軒家東2丁目)と定めたのは1881年(明治14)10月のことである。工場が一万錘規模になることを考えると、水力では動力が不足で、けっきょくは汽力に頼ることになった。当初は畿内を中心とする国内産の原綿を材料とした。

 1882年(明治15)4月、栄一は藤田伝三郎とともに大阪府知事あてに会社設立願を提出し、ここに正式に大阪紡績が発足した。

 藤田組が建設した赤煉瓦、3層建ての工場が完成し、操業を開始するのは1883年(明治16)7月。山辺は工務支配人(工場長)に任命された。

 

 これとは別に栄一は大阪紡績に大川英太郎、門田顕敏、佐々木豊吉、岡村勝正の4人の青年を技術担当社員として投入している。大川は甥っ子、門田は知人、佐々木は第一国立銀行役員の佐々木勇之助の弟、岡村は山辺のまたいとこだった。

 かれらは工場が稼働する前から愛知や広島の官営工場で紡績技術をしっかり身につけ、新工場の指導にあたった。イギリスから輸入された16台のミュール精紡機の仕組みを、隅々まで理解するのは、並大抵ではなく、実際にこれを稼働させるまでには、口では語り尽くせない苦労があった。

 

 大阪紡績は操業の翌月から早くも昼夜24時間体制に移行している。安価で入ってくる輸入綿糸に対抗するには、大量生産によって製造コストを下げるしかなかったのである。夜間操業の照明は、当初石油ランプが用いられていたが、引火の危険性を避けるために山辺の提案により1886年(明治19)からは電灯が一斉に導入されることになる。

 主力製品は17番以下の太糸で、畿内産の綿花では上級番数の中糸や細糸はとてもつくれなかった。大阪紡績がのちにインド綿(さらにはアメリカ綿)を材料とする方向に転換するのは、より上質の糸をつくらなければ、イギリス製の輸入品に太刀打ちできなかったからである。

 

     **

 

 大阪紡績が操業をはじめた年、栄一は多忙だった。

 前にも記したが、大蔵卿の松方正義が一途に紙幣整理を進めるなか、国立銀行条例はふたたび改正され、国立銀行は開業免許20年をもって私立銀行に移行することになった。国立銀行がもっていた紙幣発行権は取り消され、それまで発行されていた国立銀行券は、回収し消却しなければならなくなった。栄一は、第一国立銀行の頭取としてだけではなく、東京銀行集会所の委員長としても、このやっかいな問題に取り組まねばならなかった。

 

 同じ年、東京商法会議所も東京商工会に改組された。農商務省が発足したあと、農商工諮問会規則がつくられ、民間経済団体に対する規制が強化された。東京商法会議所も政府の補助金が打ち切られ、ほとんど活動を停止する状態がつづいていた。これを憂慮した栄一は、商工業界の利益を代表する独立した民間経済団体を残すために、政府要路に働きかけ、それがようやく認められて、1883年(明治16)9月に東京商工会が発足したのである。

 9月22日に東京・木挽町(現銀座3丁目、歌舞伎座横手)の明治会堂で、東京商工会の発会式が催された。会堂は明治建築の粋をかたむけた洋館である。当日は大蔵卿の松方正義、農商務卿の西郷従道、警視総監の樺山資紀(かばやま・すけのり)、東京府知事の芳川顕正らが出席し、東京市中の主だった会社や組合の代表120人が会した。空前と評されたほどの豪勢な式典となった。栄一は商法会議所に引き続き、商工会でも会頭を務めることになった。

 

 多忙だったのは公的な面だけではない。コレラと疑われる急病で妻千代を亡くしたあと、数えで44歳の栄一は30歳の伊藤兼子と再婚した。兼子の父親、伊藤八兵衛は江戸の豪商だったが、当時は没落し、兼子は料理屋の座敷女中をしていたといわれる。栄一は彼女を見初め、やがて深い仲となり、深川福住町の自宅に住まわせた。

 いくら広大な屋敷とはいえ、福住町の邸宅には長女歌子が連れ合いの穂積陳重(のぶしげ)と同居しており、さらに次女の琴子、長男の篤二が暮らしていた。それだけではない。30そこそこの愛妾、大内くにと「てる」「ふみ」のふたりの子もおそらく別棟にいたのだから、家庭の内情はかなり複雑である。

 

 はっきりとわからないが、栄一は兼子をおそらく1883年(明治16)はじめに入籍し、86年に武之助が生まれた。その後、1889年(明治22)から92年にかけて正雄、愛子、秀雄、つづいて96年に忠雄が生まれるから、栄一と兼子は4男1女に恵まれることになる(忠雄は生まれてすぐに亡くなった)。

 1890年に栄一の新たな住まいとなる兜町の洋館が完成するころ、大内くには漢学者の織田完之の後妻となり、次女の琴子は大蔵省の阪谷芳郎(のち蔵相)と結婚し、歌子と穂積陳重は牛込払方町(神楽坂上)に移転していた。長男の篤二は穂積一家が面倒を見ることになった。

 新たな生活がはじまろうとしていたのである。

 

 

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