■蝸牛考

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成城の自宅

 

 

 蝸牛(かぎゅう)角上の争いという故事がある。

『荘子』に出てくる寓話で、カタツムリの右左の角のような2国が、わずかな領地で争ったことを皮肉った。

 わずかなことで争うなど愚かきわまりないという含意がある。

 

 柳田国男は、ずいぶん細かなことにこだわった。

「蝸牛考」も、その一つである。

 1927年(昭和2)4月号から7月号まで、「人類学雑誌」に4回掲載された論考を、国男はめずらしく一気に書き上げた。

 これが1930年(昭和5)に刀江書院から出版されるにあたって、その序文にはこう記した。

 

いわゆる蝸牛角上の争闘は、物知らぬ人たちの外部の空想である。彼ら[蝸牛]の角の先にあるものは目であった。角を出さなければ前途を見ることもできず、したがってまた進み栄えることができなかったのである。昔われわれが「角出よ出よ」とはやしていたのは、すなわちその祈念であり、また待望でもあった。角は出すべきものである。そうして学問がまたこれとよく似ている。

かたつむりややその殻を立ちいでよ

あたらつのつのめづる子のため

 

 作品にかけた並々ならぬ意欲がうかがえる。

『荘子』では小ばかにされるカタツムリ。

 しかし、柳田の学問は、本人も認めるように、カタツムリのような歩みに似ていた。

 自分の殻に閉じこもらず、勇気を出して角を出し、しっかりと目を見開いて、確実に前進すること。

 そして、いったん心にいだいたテーマは、たとえ途中で凍結を余儀なくされようとも、最後まであきらめず、ゆっくりとした歩みでも一歩一歩探究を進めること。

 

 あけすけに書くと、いささか恥じらいを覚えるが、最後の高峰しか見ていないわれわれにとっては、国男の学問が驚くほど長きにわたる蝸牛の歩みであったことに、いまさらながら気づかされる思いがする。

 

 たとえば、この1927年(昭和2)前半だけをとっても、国男は朝日新聞に精勤して社説を書くかたわら、「婦女新聞」に「和泉式部の話」を連載しつづけ、主宰する雑誌「民族」にさまざまな論考を書き、「中央公論」などにも寄稿し、「アサヒグラフ」に方言についてのエッセイを連載し、時間が空くと、男鹿半島を一周し、頼まれれば講演もするというような生活を送っている。

 

 本人は「蝸牛の歩み」と思っていたかもしれないが、端からみると、この蝸牛は、とてもあのちいさなカタツムリのようには見えない。

 常民の森全体をいつも見渡しているという意味では、まるで森の賢者、フクロウのような威厳さえ備えている。

 大室幹雄が、柳田国男を論じた自著のタイトルを『ふくろうと蝸牛』としたのは、こうしたイメージをみごとにとらえていたといえる。

 

 国男がこのころ書いた小論やエッセイは、長い時を経て、さまざまな流れと合わさって、『女性と民間伝承』『妹(いも)の力』『雪国の春』『孤猿随筆』『地名の研究』『一目小僧その他』などといった名著に結実していくことになる。

 

『蝸牛考』がどういう論考なのだろう。

 日本全国で蝸牛がどう呼ばれているかを調査し、方言分布図としてまとめたと説明するのが、いちばん内容に即しているかもしれない。

 

でんでんむしむし かたつむり

おまえのあたまは どこにある

つのだせ やりだせ あたまだせ

 

 1911年(明治44)につくられた文部省唱歌だ。

 ここにも「でんでんむし」と「かたつむり」という、ふたつの呼び方が出てくる。

 国男の研究によると、蝸牛の呼び方は日本全国で大きく分けて6つないし7つの系統があり、細かく分けると300種類の言い方があるという。

 同じ動植物でも地方によってずいぶん呼び方がちがうことに気づいたのは、自身の少年期の経験がきっかけだった。

 

 国男は数えの13歳で、姫路の近郊を流れる市川沿いにある故郷の辻川(兵庫県神崎郡福崎町)を離れ、長兄のいる利根川沿いの布川(茨城県北相馬郡)に引っ越してくる。

 そのとき、生まれ故郷の播磨と第2の故郷となった下総の風土ががらりとちがうことを痛感した。

 

 播磨ではデンデンムシと言っていたカタツムリが、ここ下総北相馬郡ではメェボロとかメェボロツボロと呼ばれているのを知って、少年の国男はびっくりした。そのほかの動植物でも、播磨とは呼び方がまるでちがうものが多い。

 この遠い少年期の記憶が、『蝸牛考』を書かせるきっかけになったとするのはうがちすぎだろうか。

 少年期に感じた疑問を晩年までずっと引っ張って、それを解こうとしつづけたところは、いかにも国男らしい。

 

 もうひとつ忘れてはならないのが、1921年(大正10)から23年にかけて、国際連盟委任統治委員としてジュネーヴに滞在したときの経験である。

 言語学者のウィレム・A・グロータース神父によると、柳田はジュネーヴ大学で人類学を教えていたユージン・ピタールの講義をよく聴いたという。

 晩年、グロータースから『蝸牛考』は、フランスかスイスの言語地理学の影響を受けたのではないかと聞かれて、柳田はこう答えている。

 

そうです。1922年から23年にかけて、国際連盟統治委員会の仕事でジュネーヴにいたとき、ジュネーヴ大学でビタル教授の人類学の講義を聞きました。ビタル教授がドーザー[アルベール・ドーザ]の本(『言語地理学』)のことについて話しましたし、わたしもそれを当時原文で読みました。

 

「ビタル」教授は国男の記憶違いか、グロータースの聞き違いかのどちらかで、正しくは「ピタール(Eugene Pittard)」である。

 国男の「瑞西(スイス)日記」にも、

 

7月10日[1922年]月よう ロミウ君[日本語を勉強している工学士]訪ひ来る。ピッタール教授に逢って見よといふ。

……

9月24日 日よう 4時に宮島君[幹之助、国際連盟阿片中央委員会委員長、慶応大学医学教授]と二人で、ロミウ氏へ遊びに行く。茶あり。ピッタール教授に面会、話をする。

 

 などと、「ピッタール」教授の話が出てくる。

 

 グロータースは「遠い島から流れ寄る椰子の実のように、言語地理学の方法が……スイスの国から柳田氏の心の底辺に流れついたものと思われる」と記している。

 

     

 

 ジュネーヴ大学で言語学といえば、誰しもフェルディナン・ド・ソシュールのことを思い浮かべるのではないだろうか。

 国男がジュネーヴに滞在したとき、ソシュールは10年ほど前に亡くなっていたが、晩年の『一般言語学講義』は、言語理論にとどまらず、思想界全体に大きな影響を与えようとしていた。

 そして、うがった見方をすれば、蝸牛の方言をめぐる国男の分析にも、はるかにソシュールの方法が揺曳(ようえい)しているような気がするから不思議である。

 

『蝸牛考』では、よく「符号」という言い回しがでてくる。

 ソシュールのいう「シーニュ」にほかならない。

 シーニュ(柳田の言い方では符号)は、シニフィアン(意味するもの、文字や音声)とシニフィエ(意味しているもの、表されたものの意味)が一体となって結びついたもの、というのがソシュールの考え方である。

 

 シーニュ、シニフィアン、シニフィエと並べると、頭が混乱してきそうだ。そこで、多少の誤解を招くかもしれないが、シーニュを「ことば」、シニフィアンを「表現」、シニフィエを「意味」と言い換えることにする。

 国男が「蝸牛」の呼び方を分類する方法は、まさにシーニュをシニフィアンとシニフィエの構造としてとらえるソシュールのやり方と近似していることがわかる。

 

 昭和初期、「蝸牛」というコードは、日本全国で次のように分節化(方言化)していた。

 

(1)

シニフィアン(表現)=デデムシ、デンデンムシ

シニフィエ(意味)=出ろ、出ろとはやす童詞(わらべことば)から

地域=岩手、千葉、埼玉、茨城、栃木、神奈川、群馬、山梨、新潟、石川、富山、福井、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、奈良、和歌山、兵庫、岡山、広島、鳥取、山口、香川、徳島、福岡、大分、長崎、宮崎、鹿児島(それぞれ一部地域)

 

(2)

シニフィアン(表現)=マイマイツブロ

シニフィエ(意味)=最初のかたちはマイマイで、渦巻き状の貝のかたちを指す古称、ツブラと複合

地域=宮城、千葉、東京、神奈川、埼玉、栃木、山梨、長野、新潟、石川、富山、福井、静岡、愛知、三重、兵庫、岡山、広島、鳥取、島根、山口、愛媛、福岡、佐賀、大分(それぞれ一部地域)

 

(3)

シニフィアン(表現)=カタツムリ

シニフィエ(意味)=古い時代のカサからの連想、カサツブラから転訛

地域=秋田、山形、福島、栃木、山梨、神奈川、静岡、佐渡、富山、京都、三重、和歌山、奈良、広島、高知、愛媛、徳島、熊本(それぞれ一部地域、マイマイ領域が内陸なのに対し、その外側、どちらかというと海側に分散)

 

(4)

シニフィアン(表現)=ツブラ、ツグラメ

シニフィエ(意味)=円いもの。土器の製法に由来する古称

地域=岩手、栃木、福島、千葉、愛知、岐阜、京都、広島、愛媛、福岡、佐賀、大分、長崎、鹿児島、沖縄(それぞれ一部地域)

 

(5)

シニフィアン(表現)=ナメクジ

シニフィエ(意味)=ねばねばする虫

地域=青森、岩手、秋田、福島、茨城、栃木、長野、石川、富山、愛知、岐阜、滋賀、広島、山口、大分、佐賀、熊本、長崎(それぞれ一部地域)

 

(6)

シニフィアン(表現)=ミナ、ニナ

シニフィエ(意味)=貝の古代の総称、蜷(にな)からの連想

地域=愛媛、鹿児島、沖縄など

 

(7)

シニフィアン(表現)=ツノンデイロ、オバオバなど

シニフィエ(意味)=児童の言葉から出た新命名

地域=各地

 

 以上はあくまでも大まかな分類で、ほかに系統がはっきりしないものもある。

実際の地方ごとに、シニフィアンはさらに細かく分節化され、その数は300種以上にのぼるという。

 この錯綜した分類から、いったい何が読み取れるのだろう。

 

 国男はまず、方言区域説はまちがっていると考えた。

 日本語は、中世フランス語がオック語地域とオイル語地域とに分かれていたように、たとえば上方語地域と関東語地域とに分離していたわけではない。

 上方語と関東語はなまりなどにちがいはあっても、基本的に言語体系にちがいはない。そのことは蝸牛のシーニュ(ことば)が実に入り組んで分布していることからみても、あきらかである。

 

 これに対して、国男がもちだしたのは、いわゆる「方言周圏論」である。

『民俗学辞典』はこう説明する。

 

方言周圏論 新語が発生すると、同一事象を表現した古語がその周辺におしやられ、その過程がくりかえされるうちに、古語の層が新語発生の中心地の周辺にだんだん輪のように形成され、外層のものほど古い発生のものであるという主張である。

 

 新語の広がりによって、古語が順に周辺にはじき飛ばされ、そこでひとつの圏をつくるというわけである。したがって、周辺に古語が残ることになる。

 蝸牛のそれぞれのシーニュが日本全国に散らばっている理由がこれで説明できる。

 しかし、それだけでは、ちっともおもしろくない。

 

 国男自身、本書改訂版の序で、「いわゆる方言周圏説のために、この書を出したもののごとく言った人のあることは聞いているが、それは身を入れて蝸牛考を読んでくれなかった連中の早合点である」と述べている。

 方言周圏論はたしかに国男が提唱した学説だったが、かれの言いたいことはもっと別にあった。

 それは人と同じように、ことばもまた生まれ、育ち、死ぬということである。

 

 ことばには「寿命の長短があって、古語にも往々にして今も生き、成長し、また征服しつつあるものもあることは事実だが、だいたいからいうと、古いものは失せやすく、後に生まれたものの迎えられるのは常の法則である」と明言している。

 新語は、古語を排除したり、また古語と複合したりして(たとえばマイマイがマイマイツブロになるように)、みずからの新たな生活言語圏を形成していく。

 

 国男の推測によると、蝸牛にまつわるシーニュは、時間的にいえば、まずカタツムリがあって、次にマイマイが発生し、最後にデンデンムシが登場するという順になる。

 ただし、新語が発生した場所は京都とはかぎらず、また複合語であるカタツムリの前に、別の上代語があったか可能性もある。国男がツブラやミナ(ニナ)の広がりを慎重に見定めたのもそのためだ。

 さらに、ナメクジとほぼ同一の表現をもつ地域もあることから、ひょっとしたらマイマイの前にナメクジというシーニュが広がったのではないかという推測もはたらかせている。

 

 国男の緻密極まる論証をここでさらに細かく追うのはやめておく。

『蝸牛考』が民俗学、あるいは言語地理学にどれほど大きな貢献をはたしたかについては、専門家の意見を待つしかない。

 それでも、ひとつだけ特記しておきたいことがある。

 それは国男が、ことばをつくるのは「個人」でなく、「ひとつの群れ」だと述べていることである

 

ひとり方言の発明のみと言わず、歌でも唱えごとでも、はたことわざでも、たとえ初めて口にするものは、ある一人であろうとも、その以前にすでにそう言わなければならぬ気運は、群れのなかに醸されていたので、ただそのなかの最も鋭敏なるものが、衆意を代表して出口の役を務めたまでであった。それゆえに[シーニュ(ことば)は]いつも確かなる起こりは不明であり、またできるや否や、とにかくにすぐに一部の用語となるのであった。

 

 国男は「中央」の役人や文人によってではなく、「衆意」によってつくられる「新語の成長力」に期待していた。

 昭和の劈頭(へきとう)にあたって、「新しいことば、いでよ」と叫んでいたのである。

 その思いが『蝸牛考』をどこか熱い論考にしていた源だったにちがいない、と今になって気づく。

 

 しかし、昭和の「ことば」は、実際にはのびやかどころか、暴力的に引き裂かれた「ことば」となった。そのことが次第にわかるようになるのは、もはや時間の問題だった。

 

     **

 

 昭和の初頭、柳田国男が学問上の方法として、もっとも力点を置いていたのはシーニュ(ことば)の解読と比較検討だといってよいだろう。

 

 対象となったのは、いうまでもなく民衆の生活史だが、それは記録や文書、文学に残されていたものではなく、いまも民衆のあいだに語り伝えられていることばや物語だった。

 その一例として、1926年(大正15)4月から27年(昭和2)10月にかけて「婦女新聞」に連載された「和泉式部の話」がある。このエッセイは『女性と民間伝承』とタイトルを替えて、のちに単行本化される。

 

「アサヒグラフ」に連載された「方言と昔」もまさに「ことば」についての研究だったし、雑誌「近代風景」に掲載された「民間些事」は民家の間取りの呼称を比較分析した仕事である。

 同じく雑誌「斯民(しみん)」に連載された「農民史研究の一部」も、文書に残されていない農民の日常言語の地域別比較から、近世農民の心に迫ろうとしていた。

 つまり『蝸牛考』の方法が、こんどは女性にかかわる伝承や、各地の方言や、民家の呼称や、農民の何気ないことばにまで拡大されて、適用されたのである。

 

 数えで53歳となった国男の気力は満ちあふれていた。日本の民衆の心に迫る方法論は確立され、あとは資料の採集によって、着々と研究を進めていけばかならず道が開けると考えていた。

 

 身の回りにかぎっていうと、1927年(昭和2)における最大のできごとは、北多摩郡砧(きぬた)町(現世田谷区成城)に、大きな書斎と書庫をもつ居宅を構えたことである。

「喜談書屋」と名づけられたこの邸宅は、現在、長野県飯田市に移築され、成城の旧柳田邸の場所には残っていない(ここは緑蔭館ギャラリーになっている)。

 ちなみに飯田は、養子先である柳田家の出身地だった。

 

『柳田国男伝』は、長年住み慣れた市ヶ谷加賀町からの転居を次のように描いている。

 

昭和2年(1927)8月の末、柳田は都下北多摩郡砧村喜多見(現世田谷区成城町[現成城6丁目])に書斎兼住居を建て、膨大な蔵書の一切をそこに移した。当時、このあたりはすすきの原とクヌギ林とが一面に広がる山野であった。新住居は南北に長い長方形の2階建て木造洋館である。階下の南側半分を占める40畳ばかりの大部屋が柳田の仕事部屋兼書斎という、ほとんど図書館に宿泊施設を付けたような風変わりな建物であった。柳田は、その書斎の四囲の壁面を床から天井まですべて大きな書棚で覆った。

 

 国男が喜多見に越してきた理由は、表向きは息子の為正が中学に進学し、砧村に移転して間もない成城学園に通うことになったためである。

 教育家、小原国芳が主宰する成城学園はこの地に4万4000坪の土地を確保し、半分以上を学園の敷地にあてたが、約2万坪を生徒の家族向けに分譲して、理想の学園都市をつくろうとした。

 国男は小原の呼びかけに応じて、1区画400坪の土地を購入し、そこに書斎兼別荘を建てようと考えた。

 地価は5600円、現在の価格水準でいえば約1800万円というあたりだろう(1円=3000円で計算)。

 

 国男は『遠野物語』の共著者である佐々木喜善にあてた手紙で、「今度の家は本と為正[長男]とのために建てたようなもの」で、「自分は半分くらいここに寝食いたし候」と書いている。

 しかし、実際は本宅と書屋とを行ったり来たりするのが面倒になってくる。

 りっぱな書斎ができあがったのを目にすると、矢も楯もたまらなくなって、加賀町の本宅から早々と引っ越してきて、長男ともども、ここにすっかりと身を落ち着けてしまうのである。

 

 写真で見ると、この書屋はたしかに『柳田国男伝』のいうように「風変わりな建物」だったが、チロルの山小屋を思い起こさせるような風情もある。建築にあたって、ジュネーヴ時代の楽しい思い出が投影されていたのかもしれない。

のちに出版される『野草雑記・野鳥雑記』のなかで、このあたりの様子と当時の心境について、こう記している。

 

私は昭和2年の秋、この喜多見の山野のくぬぎ原に、わずかな庭をもつ書斎を建てて、ここを[小林]一茶のいうついの住みかにしようという気になった。あたりはまだ一面の芒(ススキ)尾花で、東西南北にはおのおの二三本の大きな松が見え、風のない日には小鳥の声がある。身の老い心の鎮まっていくとともに、久しく思い出さなかった少年の日がよみがえってくる。

 

 この場所は人生の終着点でもあり、新しい人生の出発に向けての高揚をかき立てる地でもあった。

 

……2階の寝床から、はるかに多摩川対岸の岡が見えた。そのころはまだ目もよかったので、いつとなく森や樹木のかたちに興味をもち、何度か目標をきめて川を渡って訪ねていったこともある。西の窓からは国境の連山がよく見えて、右の端は秩父の武甲山に大菩薩、一度相模川の流路でたるんで、道志丹沢から大山のとがった峰まで、雪が来たり雲がかかったり、四季時々の眺めには心をひかれるものが多く、小鳥の去来ということも、始終これと結びつけて考えるようになっていた。

 

 この牧歌的な思いも長くはつづかない。二三年もしないうちに、柳田邸のまわりはすっかり家々に取り囲まれるようになる。最初、この書屋に寝泊まりし、内弟子のように付き従っていた岡正雄も「民族」をめぐる編集方針の食い違いから、国男のもとを去っていく。

 

     ***

 

 柳田が砧村に引っ越したころ、世間は金融恐慌の痛手からなかなか回復できず、深刻な不況に苦しんでいた。

 ようやく民俗学の研究に邁進できる小さな拠点ができたという思いがあったとしても、国男は世間と没交渉で研究に専心する学者タイプの人間ではなかった。

 経世済民の願いはいまでも強く、それが毎日勤務する朝日新聞の社説にもほとばしることがある。

 たとえば、9月4日の社説で、国男は「田中[義一]将軍の産業立国内閣」に不況の克服がはたして可能かと懸念しながら、次のように論を進めている。

 

人はこの複雑きわまる新時代の経済関係において、なお各自の生活苦の拡大をもって、今日の不景気の実相なるがごとく、即断する傾きをもっている。不景気はそれほどにも空漠たる不安であり、またとりとめのない経済知識でもあった。

 

 国男の社説は、一読してよくわからないのが特徴だ。ふつうの新聞社の論説委員のように、何かを主張したり、断定したりすることを避け、読者とともにじっくりと考えていくという姿勢をとり続けた。そこで結論はなく、問いだけが残るという社説もしばしば見られた。

 上に挙げた引用は、資本主義経済のもとで景気の波に翻弄され、不景気のもとで生活苦が拡大するなか、人びとが確たる経済知識もないまま、「空漠たる不安」に駆られている様子を描いている。

 それに続いて、国男はまたむずかしいことを書いている。

 

 通例の場合に隣人の多くが憂悲して、われひとり太平を鼓腹するようなことがないというのみで、中には辞令もあれば、また取り越し苦労もありうる。人を欺いて利得せんとする者が、窮してさらにその暴を振るう際などは、かえってひそかに落とし穴を設けて、相手の今一段の低処に陥らんことを期しているかも知れぬのである。

 少なくとも多種多様の生計のあいだには、利害のとうてい相いれざる例が、いくらともなくできているのである。これを通覧して幸福の一般的標準を立てることすら容易の業でない。いわんや単一の方策によって、このまちまちにして、しかも急迫せる要求に応ぜしめんとするがごときは、はるかにより賢明なる政治家に対しても、なおこれを期待することが無理である。

 さればこそ既に年久しき失望の連続があった。夢を食い物にして生きていた者も、もう覚めなければならぬ時節が到来したのである。

 

 これでも表記など、だいぶわかりやすくしたつもりだが、一読、この漢文調の交じる論説が頭にすらすらとはいってくれば、たいしたものである。教養の高い昭和初期の新聞読者でも、国男がこの文章で何をいわんとしているかは容易につかみがたかっただろう。

〈不況になれば誰もが不安に陥る。その不安は言葉だけの場合もあるし、いわゆる取り越し苦労にすぎない場合もある。こんな時代には、よく詐欺師が暗躍するので、よほど気をつけねばならない。世間の生活水準はさまざまで、しかも利害関係が錯綜しているから、これが幸福だという一般的基準を立てるのはむずかしい。ましてひとつの政策によって、この緊急事態に対応するのは、いくら優れた政治家でも容易なことではない。だからこそ政治に対する失望が生まれるのだが、いつまでも政治に夢を見ていてはいけない〉

 味も素っ気もなく要約してしまえば、国男の書いているのは以上のようなことである。金融恐慌という暴風雨がまだ収まらぬなか、かれは政治に過剰な期待を寄せず、どんな事態になっても、各人がしっかりと身を守るよう訴えた。

 国男は政府の付け焼き刃的な経済政策がかえって、将来、国民に負担をもたらしかねないことに注意を促す。

 

歴代の当路者のたった一つの能事は、預金部の蓄積を我が物のごとく処理して、これを目前の穴ふさぎに当てることであった。その無謀なる利用法なるものは、早くも数億の損失を国民に与えているのである。善良なる管理者の責任は尽くされなかった。その上へ、さらに低利貸しと称する人気取り案が、別に吾人をして租税の中から、利子までも手伝わしめるのである。この恩恵が一様に小民の末にまで及び得たとしても、まだ非議すべき余地は十分にある。しかも目に見えて、確かに少数の失敗者の尻ぬぐいとなり、それも多くは永遠の効果を確保し得ないものであった。

 

 政府に対する国男の不信は相当なものだ。郵便貯金の蓄積を台湾銀行や朝鮮銀行などの損失補填に当て、おもに大企業に対しては低利の貸し付けをおこなって、国民にはそのツケを回そうとしているというのである。

 それは一時的な尻ぬぐいになるかもしれぬが、はたして恒久的な経済の安定につながるか、と国男は問いかける。

 残念ながら、その危惧は現実となる。2年後に日本はより深刻な恐慌(いわゆる昭和恐慌)に突入していくのである。

 国男の問いは、いつも同じところに向けられる。それは人口の6割以上を占める農民が、なぜ常に貧しい状態に置かれているかということだった。

 

心ある農民はまず自問自答を試みなければならぬ。いっそう全体いかなる年、いかなる経済界の景気の下に、彼らはその大切なる本色[本領]を発揮して、人にすがらざる自由人となり得るのであるか。もしまたどうしても助けられるのほかに生存し得る道なしとしたら、その常久貧困の過失は何人(なんぴと)にあるか。

 

 その答えは容易に出そうにもなかった。

 

 

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