■木曜会

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成城の柳田邸(1985年ごろ)

 

元京大教授の河上肇は東京足立区の小菅刑務所に収監されていた。

マルクス主義経済学者として知られていた河上は、これまで日本共産党にかれこれ2万数千円〔現在の貨幣価値にすれば5000万円近く〕を秘密裏に献金してきた。かれの出す本はよく売れ、それだけ印税収入があったのである。

田中清玄の武装共産党が壊滅したあと、風間丈吉らによる非常時共産党が再建される。通称スパイM(松村)が執行部内に潜り込み、大森銀行ギャング事件などの資金略奪闘争をけしかけながら、党の一挙壊滅をねらっていた。

河上は1932年(昭和7)9月9日に共産党員となり、その4カ月後の翌年1月に逮捕される。そして、7月7日、新聞に河上の「獄中独語」が掲載された。

 

……人生五十というが、私は既に55にもなっている。もはや残生いくばくもない。共産主義者として最後をまっとうしたら本望だと、誰もが思うであろう。ところが、ひとたび自ら牢獄生活を経験してみると、生死を超越した老僧の山に入りて薬を採るのこころが理解される。免れがたき死は恐れぬにしても、なるべく苦痛を避けて楽に死にたいというのが、最後まで人間に残る本能の一つであるらしい。……

私は今後実際運動とは──合法的のものたると非合法のものたるとを問わず──全く関係を絶ち、元の書斎に隠居するであろう。これが私の現在の決意である。私は今かかる決意を公言してこれに社会的効果を賦与することにおいて、共産主義者としての自分を自分自身の手で葬るわけである。

 

共産主義者としての信念は捨てないけれども実際の活動からは一切手を引くというこの声明は、6月7日の党幹部、佐野学と鍋山貞親の獄中転向声明以上に、共産主義者の大量転向を生み落とした。

立花隆はこう書いている。

 

佐野、鍋山は、コミンテルンを批判し(各国共産党をソ連防衛隊にしてしまった)、日本共産党を批判し(労働者の党を小ブルの極左主義者の党にしてしまった。君主制打倒を中心スローガンにして大衆から離反した、など)、自らの誤りを認めた上で転向すると宣言し、同志にもそれをすすめたのに対し、河上は、そのような批判、自己批判は、反省は何もしていない。ただただ自分の弱さを認めるのみである。

 

この「独語」を発表したにもかかわらず、河上に執行猶予はつかなかった。懲役5年の実刑判決が下され、河上は1937年(昭和12)6月まで小菅刑務所で刑に服した。服役期間が実質4年となったのは、皇太子生誕恩赦で1年の減刑が認められたからだ。

ところで佐野、鍋山が批判したコミンテルンの「32年テーゼ」には次のような一節が含まれていた。

 

天皇制は、国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし)の主要支柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務中の第一のものとみなされねばならぬ。

 

天皇制打倒をうたった32年テーゼをドイツ語から翻訳し、「赤旗」を通じて日本に紹介したのは河上肇にほかならなかった。

 

     

 

そのころ中国では、魯迅が上海市内を逃げ回っていた。国民党政府が、党の要人とその取り巻きを笑い飛ばしながら批判するかれの行方を追っていたからである。逮捕されれば銃殺は免れなかったし、それ以前に暗殺の恐怖が常につきまとっていた。そして、皮肉なことに、中国の官憲が踏みこめない租界の存在が、その命を守ったのである。

その魯迅が、1934年(昭和9)元旦、東京、大阪の朝日新聞に「上海雑感」というエッセイを寄稿している。

書きだしはこうなっていた〔現代表記に改める〕。

 

感ずるところがあると、すぐに書いておかなければ忘れてしまう。馴(な)れるからである。小さかったときには、西洋紙を手に持てば、変な匂いが鼻についてくるように覚えているが、今では何の変な感じもしなかった。はじめて血を見ると、気持ちがすこぶる悪いが、人殺しの名所に久しく生き残ると、つるしている首を見ても、さほど驚きもしない。つまり馴れたからである。してみれば人々は──少なくとも僕のような人は、自由人から奴隷になることも、そうむずかしくないだろう。なんでも馴れていくからである。

 

日本語で書いたため少しぎこちないが、ここには明らかに魯迅の文体が息づいている。

魯迅はいう。

上海は子どものころよく読んだ『西遊記』に登場するような化け物がいつ出現するかわからない状態になっている。だれもが疑心暗鬼で、「僕も農民以上に疑い深くなって、紳士や学者のなりをしている方をクモの化け物ではないかと感ずることがないでもなかった」。

政治家は陰で策謀をめぐらせ、革命家は弾圧され、その累(るい)は文筆家にもおよんでいる。

 

上海では金持ちが曲者(くせもの)にさらわれて、人質になることはよくあるが、近ごろは貧乏な作者も時々行方不明になる。一部分の人は政府の方にさらわれたというけれども、政府側らしい人はそうでないとほのめかす。しかし、どうもやはり政府所属のどこかにいるらしいので、今度は生きているか、死んでいるかの疑問を残して終わる。

 

それは日本でも似たり寄ったりだったかもしれない。1年前の2月20日には、作家の小林多喜二が特高に逮捕され、拷問死させられていた。

 

     **

 

柳田国男は「東京朝日新聞」で小林多喜二の死を知り、河上肇の「獄中独語」を読み、そして魯迅の「上海雑感」に目を通していたはずである。

国男は革命家でもマルクス主義者でもなかったが、言論の自由が次第に奪われていくことに憂慮を覚えていた。

昨年出版した『退読書歴』の序に書いたように、国男は読書好きの隠居をよそおっていた。とはいえ、ただの隠居と思えなかったのは、そこに鬱勃(うつぼつ)たる気配をただよわせていたからである。

 

今となってしみじみと感ずることは、書物は一生かかっても、案外にわずかしか読めぬものだということである。……将来の読書子が歩み入る文の林は、かつて私たちの跋渉(ばっしょう)したものよりも、はるかに広漠たる樹海でなければならぬ。そこに一条の正しい道を切りあけようとするには、迷うて戻ってきた柴人(しばびと)の言も栞(しおり)である。もとより群衆のどやどやと行く大通りは別にあるが、私はなお佇立(ちょりつ)して鳥語幽(かす)かなる、羊腸の径(みち)を指さそうとしているのである。

 

国男のまわりに多くのマルクス主義者が集まっているのに、そこが当局の手の付けられないアジール(逃げ込み場所、癒やしの場)のようになったのは、かつて貴族院書記官長などの要職を務め、いまも農業政策に影響を保つ国男の看板が大きかったからだけではあるまい。そこが常民の歴史、日本人の固有信仰のありかを静かにふり返る神聖な場所とみられたからでもある。

前年9月14日から12月14日まで、木曜日ごとにほぼ毎週、国男は砧(きぬた〔現世田谷区成城〕)の自宅で、民間伝承論を講義した。聞き取りにあたったのは、マタギの研究などで知られる国文学者の後藤興善(のち早稲田大学教授)で、国男はこの講義をまとめて、共立社から出版予定の「現代史学大系」シリーズの1冊とするつもりだった。

講義にはまとめ役の後藤のほか、比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)、大藤(おおとう)時彦、杉浦健一、大間知(おおまち)篤三、さらには橋浦泰雄が参加していた。前に述べたように、大間知は元共産党員、橋浦はかつて左派の文芸運動を指導したことがある。

 この講義はのちに『民間伝承論』という題名で出版される。国男は序文と第1章を執筆したが、後藤のまとめ方が気に入らず、再版を拒否することになる、いわくつきの著作である。

しかし、このあつまりが1934年(昭和9)1月から47年(昭和22)3月までつづく「木曜会」のきっかけをつくった。「木曜会」は柳田邸で開かれる民俗学サロンで、月に1、2回開かれ、300回以上つづいた。そして、このサロンを舞台にして、全国の山村・海村調査などがくわだてられ、常民生活への探究が深められていくのである。

国男の書斎はこのころから「郷土生活研究所」と名づけられるようになった。そして木曜会には上記のメンバーのほか、桜田勝徳や守随一(しゅずい・はじめ)、山口貞夫、最上孝敬、瀬川清子、萩原正徳(「旅と伝説」編集長)、佐々木彦一郎、倉田一郎、関敬吾、島袋源七、和歌森太郎、丸山久子、金城朝永、鈴木棠三(どうさん)などといった人びとが出入りするようになる。

これらの人びとは国男の弟子と呼んでもいいだろう。

これまで何度か登場した人物については、紹介の重複を避けるが、左派系の人物が多い。

大藤時彦は博文館の運営する大橋図書館に勤務しており、晩年の国男がもっとも信頼をおく人物となった。国語学の方面で活躍した。

杉浦健一は戦後、東大で文化人類学の教授となる。原始社会論や宗教学が専門だった。

守随一(しゅずい・はじめ)は東大在学中、左派のサークル新人会に属し、母校の浦和高校や武蔵高校で教えていた(旧制浦和高校校歌の作詞者でもある)。山村調査に参加し、雑誌「民間伝承」の編集を担当する。のち満鉄調査部に勤務し、いわゆる「満鉄事件」で処分されたあと逮捕され、釈放後、獄中で感染したチフスにより死亡している。

山口貞夫は地理学に強く、焼畑の研究で業績を残したが、若くして病没する。

最上孝敬は東大で経済学を学び、統計調査で能力を発揮した。

瀬川清子はのちに日本民俗学講座で婦人座談会を組織する。能登の舳倉(へぐら)島で海女(あま)の暮らしを調査したことで知られる。

佐々木彦一郎も東大で新人会に所属し、地理学が専門だったが、若くして病没した。人類学者の石田英一郎はかれの紹介で国男の門人となっている。

倉田一郎は富山県出身で、もともと国文学に興味があり、のちに「北小浦民俗誌」の基礎資料をつくるが、戦後まもなく亡くなる。

関敬吾はかつて唯物論研究会に参加したが、戦時中は「民族研究所」の嘱託となり、戦後、昔話の比較研究で業績を残した。

島袋源七は南島談話会のメンバーで、沖縄の民俗と信仰を研究した。

和歌森太郎は戦後、民衆史の第一人者となり、多くの著作を残した。

丸山久子は子どものことばや昔話を研究した。

金城朝永も南島談話会のメンバーで、三省堂に勤め、伊波普猷(いは・ふゆう)に師事していた。

鈴木棠三は国学院大学出身で、国文学が専門だった。のちに『中世なぞなぞ集』や『安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)ノート』『藤岡屋ばなし』などをまとめている。

月1、2回、自宅で開かれる「木曜会」は、朝日新聞退社後に国男が日本民俗学を構築する切磋琢磨(せっさたくま)の場となった。

 

   ***

 

このころ国男のもとにはさまざまな雑誌から原稿依頼が引きも切らず舞い込んでいた。季節ごとのテーマに合わせて、原稿をうまく切り分け、さばく手腕はみごとだったとしか言いようがない。

 時にあまりに多忙なため執筆が不可能になることもある。それでも編集者にせがまれれば、仕方なく談話に応じ、それが雑誌に掲載される。「皇国時報」の「門松と民俗」や「家の光」の連載「村の生活史を語る」も、そうした談話の一例だった。

たとえば「門松と民俗」で国男は、正月を迎える儀式は門に松を飾ることに主眼があるのではなく、決められた年男が節分の晩に豆をまき、門をはじめ年棚や蔵、便所、水神などに松を立てることに意義があったとして、こんなふうに語っている。

 

正月は単にめでたいというのではなくして、めでたいというのは、神さまが来られるからめでたいのである。……少なくともある時代には、木に神が宿っておられるからという信仰があった。それで松を迎えにいくというのは、木を迎えているのではなくして、木に宿られている春の神さまを迎えて祭るという意味になるのである。

 

正月を祝うのは人びとを穏やかに包む「春の神」を迎えるためだったと国男はいう。こうした言及には、争いごとが収まり、平安の訪れを祈る願いが秘められていたのではないだろうか。

産業組合中央会の発行する「家の光」で、国男は女性の読者を想定しながら、女性にまつわる村の古い習慣について語っている。

強調されたのは女性の独立心で、こう話している。

 

宗教的方面にしろ、経済的方面にしろ、社会的方面、政治的方面も、元来女に属していた活動を次第に男が取り上げてしまった。……もちろん女には子供を産み、そして育てる任務があるから、その点充分考慮されねばならないが、現在の男の仕事の少なくも3分の1は女性に分けていいものだろう。日本の昔の女は、上流の家庭は別として、みな生活のために働いていたのである。

 

 国男の関心をひいたのは、いまでは懐かしくなった事物や風物である。

 3歳〔現在の2歳〕くらいまでの子どもを入れておくイズメと呼ばれる、わらで作った揺りかごはだんだんと見られなくなった。しかし、こうした手近な事物にも女性が労働をしていた時代の「長い過去の伝承」が宿っているという。

 イズメを使わない地方では子守が必要だった。しかし、子守が金で雇われるようになったのは比較的近世に属する。

 

新島では、昔から、村中の娘は必ず誰かの子守をしなければならぬ習慣があった。そして子守と赤児との縁は、決してその当時だけのものではなく、一生涯の乳姉弟(ちきょうだい)となる。のみならず赤ん坊の両親もまた、守父、守母といって、赤ん坊の親になるのである。

 

 国男はこう述べて、かつては村が全体で子育てをしていたことを強調する。

 食べ物についても、かつては「七軒もらい」という習慣があって、「食べ物を集めて食べることによって、七軒の家の支持が得られると人びとが考えていた」と話している。

 

もらうと与えるとは、同じ一つのことの表裏である。食物を集めれば力になる。分かちあうのも力を分かって結びを強めることになる。自家だけでは力が足りないからほかからもらい、また喜んで与えるということになる。かくして温かい共同精神がわれわれの祖先の間に醸されていたのである。

 

 ここで話されているのは、ひょっとしたら村のコミュニズム(共生主義)ではないのだろうか。現代人の切り捨ててきた民俗が、実は現代社会のもうひとつの可能性を内包していることを国男は示そうとしていた。

 それは、はたしてわれわれが正しい選択をしているのかを問うことでもある。

 眼前に殺伐(さつばつ)たる空気が流れるなかで、国男は常民の生活史に思いを寄せていた。

 

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