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今日の話題


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国の体制と道徳観

戦前のわが国では、何が善で何が悪かは国が決めることになっていました。小学校の「修身」などの道徳教育によって、国民すべてが国の定めた是非善悪の基準(道徳観〉を共有することを期待されていたのです。中には、別の考えを抱く人もいたでしょうが、それをおおっぴらに言うと非国民扱いされました。非国民は、中世西欧の異端者が火あぶり刑にされたように国や社会から迫害を受けました。今でも世界を眺め渡すと、このような全体主義体制の国家が幾つか残っています。

幸い、わが国は、第二次大戦の敗戦という代償を払って全体主義体制から民主主義・自由主義体制に変わることができました。人々は、どのような思想を抱いてもよいしそれを自由に発表することも憲法によって保障されるようになりました。

道徳律と法律

こうして、私達は、自由に物を考え他人の自由を侵害しない限りそれを表現し行動に移すことができる自由を満喫しているのですが、自由の反面として物事の是非善悪は自分で決めなければならなくなりました。勿論、刑法などの法律に違反すれば処罰されるという形で最小限の是非善悪の基準が国によって示されています。しかし、刑法は、道徳律のうちその違反を処罰することが必要なものだけを取り上げているので、道徳的な善悪は基本的には個人の判断に任されているのです。

モラル・ディレンマ

人の行為が一つの価値にしか関係しない場合には、その行為が善か悪かを判断することはそれ程難しくはありません。しかし、事柄が複数の価値に関係していていずれかを犠牲にしなければならない選択を迫られた場合、どちらの選択が善であるかを判断することは必ずしも容易ではありません。モラル・ディレンマとか価値の衝突といわれる難問です。

暴走電車の例

サンデル教授は、その公開授業がNHKテレビで放映されたことによりわが国でも有名になったハーバード大学ロ-スクールの政治哲学の教授です。この教授が「正義論(Justice)」の中で面白い例を挙げています。

あなたが電車の運転手だとします。高速で進行中、突然、ブレーキが故障して制御不能に陥りました。前方に線路工事をしている作業員が五人いるのが目に入りましたがこのままでは五人を轢き殺すことになります。その時、自の前に待避車線があるのに気付きました。あなたは車両操作によって待避車線に電車を進行させることができますが、その車線には一人の作業員がいてその場合彼を轢き殺すことになります。一人を轢き殺して五人を助けるべきか、それともそのまま進行して五人を轢き殺すべきか。多くの学生は五人を助けるために一人を轢き殺すのはやむをえないと答えました。

サンデル教授は次の例を出します。今度は、あなたは運転手ではなく、暴走電車が突進してくるのを線路に架かっている橋の上から見ています。あなたの傍に太った男が立っています。この男を突進してくる電車の前に突き落とせば電車はその男に衝突して止まり前方の五人は助かります。太った男一人を犠牲にして五人を助けるべきかどうか。多くの学生がそれは良くないと答えました。 ともに一人の犠牲で五人の命が救われるのに、何故、二つの例でその行為の善悪の判断が分かれるのでしょう。

タリバンと拷問

数年前に、アメリカのCIAがタリパンのテロリストから情報を得るために拷問を行っていることが分かり大問題になりました。もし、テロリストが時限爆弾を仕掛け爆発によって数千人の人命が失われるというような場合を想定するテロリストを拷問して仕掛けた爆弾の在処を言わせることは許されると考える人も多くいるだろう、しかし拷問を正当化することがはたして善いことなのだろうかとサンデル教授は問いかけます。

原発事故と死刑囚

本年三月に東北地方で地震と津波による大災害がありました。原発が損傷し放射能が今も漏れ続けています。冷却水の注入がままならなかった三月二〇日頃A大学教授がメーリングリストで次のような提案をしていました。死刑囚の中から志顧者を募って原発内の危険な修理作業をやらせたらどうかというのです。志願者が作業を行えば死刑を免除するという条件付きです。死刑囚はいずれ死刑を執行されて死ぬのだから放射能により生存年数が少なくなってもより長く生きられるのだからその方が良いだろうし、それによって多くの人の生命が教われるのだから善いに決まっていると言うのです。

その後、サンデル教授が公開講義で福島原発の修理の危険を負う人の選び方の問題を取り上げました。公共のために危険を伴う業務を担当する人をどのような基準で選ぷのが正義に適うのかという問題提起です(人災でなく天災だと仮定する)。東京とボストンと上海の学生三グループを対象にテレビ会議方式で討論が行われました。義務制にすべきか志願制にすべきか、義務制の場合に国民全体の義務とするのか電力供給の恩恵に与っている地域の住民の義務とすべきか当該電力会社の関係者の義務とすべきか、義務を負う人の聞で家族の有無や年齢による差を設けるべきか、志願制の場合に動機の純粋さを大切にして無報酬とすべきか、相当の報奨金を出すのが正しいのではないか、報奨金を出すと結果的に貧しい人に危険がしわ寄せさせることにならないかなどが議論になりました。A教授の死刑囚の提案は、志願制の場合の報償を金銭ではなく死刑の免除にするというもので、サンデル教授の問題提起の一つの回答例です。

ベンサムと力ント

イギリスの哲学者ベンサムは、善とは最大多数の最大幸福のことだとしました。功利主義の考え方です。この考え方からすると、暴走電車の例では、待避車線の選択も太った男を突き落とす行為も等しく一人の犠牲で五人の生命を救うので同様に正しいことになります。タリパンの拷問も死刑囚の原発作業も正当化されることになるのでしょう。

ドイツの哲学者カントは、普とは人々の幸福を最大化することではなく、人としての尊厳それ自体を大切にすることが善であり正しい行為なのだとしました。彼は、人は理性的な存在であり自分で定めた道徳律に従って自律的に行動する自由に尊厳の淵源があるのだから、人はその存在自体が目的であって何かの手段であってはならないとしました。従って、五人を教うために太った男を線路に突き落とすことは彼を人としてではなく単なる手段として扱うことになるので正しい行為ではないということになります。行為が正しいかどうかは結果ではなく行為自体で判断されるべきだとするのです。暴走電車の例ではカントの考え方で分かったような気になりますが、タリパンの拷問の例ではどうでしょうか。拷問は人の尊厳を踏みにじるものなのでそれ自体悪です。カントに従えば、数千人の罪のない人が時限爆弾によって死ぬことになっても、拷問という悪を行うべきではないということになりそうです。

原発の例では、死刑囚を人ではなく耐用年数のきた物と同じように扱いその有効活用を提案しているようで人道上問題があるように思われますが、全面的なメルトダウン(炉心溶融)必至で日本全体が壊誠的被害を蒙ることになるといった極限事例を想定すると考えが揺らぎます。

おわりに

政治の世界では、多かれ少なかれこのようなディレンマの中で日常的に方針決定を迫られています。最近のわが国のマスメディアは選択された方針を批判するだけで、ではどうすれば良かったのかを真剣に考える態度があまり見受けられません。社会風潮に対するメディアの影響力を考えるとこれでよいのか気になります。                                                            

以 上