ゲイトマウス・ブラウンってどんな人?
![]() クラレンス・ゲイトマウス・ブラウンは50年以上もの間、テキサス音楽シーンの代表として、 多い時にはアメリカと海外で年間300日も演奏するほどの多忙なミュージシャンでした。そのテキサス州ヒューストンでは、ゲイトマウスの写真が空港内に貼られているそうです。 「ブルースのカウント・ベイシー」とも呼ばれている(日本では聞いたことがありませんが・・)彼のギタースタイルは、タメと突っ込みでたたみかけるスリリングかつトリッキーなギターで、ダイナミクスを表現した素晴らしいバンド・アレンジの上を縦横無尽に駆け巡ります。 彼のレパートリーは、ブルースはもちろん、ブルーグラス、ザディコ、ケージャン、ジャズ、ファンク、リズム&ブルースなど多岐に渡ります。 彼は、常にこう言い続けました、 「私をブルース・プレーヤーと呼ばないでくれ。」 「私はアメリカン・ミュージックをテキサス・スタイルでやっているだけだ。」と。 |
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| また、オースチンの政治家マイケル・コーコランという人には、こう語ったそうです。「多くの人は、間違った理由のためにプレイする。私は、女を得るためでもなければ、金のためにプレーするわけでもない。私は、聴きに来てくれた人々との間に、愛に通ずるなにか美しいものをつくることができるということを、早くから理解していたんだ。」 ここでは、そんな偉大なミュージシャン、ゲイトマウス・ブラウンの紹介をしたいと思います。 “ゲイトマウス”ことクラレンス・ブラウンは、1924年4月18日、テキサス州との州境にあるルイジアナ州ヴィントンで生まれました。生後まもなく州境をはさんだテキサス州オレンジに移り住んでいます。 5才でギターを始め、10才の時にフィドルを始めました。ちなみに、ギターやドラムは兄(“ワイドマウス”ブラウン)から教わり(※『教わった』という記述から兄だと思いますが、どの資料を見ても“brother”という表記しかありませんので自信がありません)、フィドルは鉄道技師であった父親から教わっています。 “ゲイトマウス”というニックネームは、音楽の先生から“voice like a gate”と言われたことがきっかけのようです。 プロミュージシャンとして活動を開始したのは、父親が亡くなった年と同年で、彼が21才の時。この時は、ギタリストではなく、ドラマーとして活動しており、Gay SwingstersとWilliam Benbow's Brownskin Modelsというグループに参加していました。 その後、1947年までには、成功を求めてヒューストンへ旅立つことになります。 |
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後にゲイトマウスのためにピーコック・レーベルを立ち上げることになるドン・ロビーに出会ったのも、ヒューストンでした。ドン・ロビーがゲイトマウスに目を付けたのは、ゲイトマウスが病気のT-Bone
Walkerの代理でステージに上がったときでした。<Gatemouth Boogie>を含むそのステージで、彼は15分でチップ600ドル稼いだそうです。最初のレコーディングとなったアラジンに4曲録音した後、ドン・ロビーのピーコック・レーベルで録音を開始します。 ドン・ロビーは、ゲイトマウスのギター・プレイに焦点を当てていましたが、1959年の<Just Before Dawn>のようにフィドルの曲も録音しました。後に彼は、「もっとフィドルをプレイしたかった」と語っています。 これらの楽曲の成功にもかかわらず、ドン・ロビーはゲイトマウスとの関係を断ち切りました。ゲイトマウスの話によれば、「彼にロイヤリティーを求めたら、銃を抜いてきた」ということですが、ロンドンのトニーラッセルという新聞記者によると「ドン・ロビーが抱える他の2人(ジュニア・パーカーとボビー“ブルー”ブランド)に比べると、ゲイトマウスは観客動員力がなかったからだろう」ということです。 |
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| 1960年代はニューメキシコ州サンファンで保安官をしたりしましたが、たまにレコーディングもしました。<May the Bird of
Paradise Fly Up Your Nose>は、1965年にハーミテイジ・レコードに残した軽快なカバー曲です(吾妻光良& the
swinging boppersもカバーしていますね)。 そして、1966年にはダラスの伝説の音楽番組《THE!!!!BEAT》のバンド・リーダーを務めることになります。(※ ! はTHEとBEATの間に4つです) 1970年代初〜中期には、ヨーロッパとアメリカの両方で、その活動を再始動させます。その活動は、フランスでのレコーディングやフェスティバル出演から始まりました。 1976年の《Blackjack》(アメリカのレーベルからはこれが初めてのアルバム)や、当時<Hee Haw>というTV番組でホストを務めていたカントリーのロイ・クラークとの《Makin' Music》(1979年)は、彼の復活を決定付けたという意味でも重要なアルバムです。 |
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| そして、1982年には《Alright Again!》(1981年)で、グラミー賞を受賞。そのキャリアを、大きく前進させました。ブルースファンからは、この年代の《One
More Mile》が人気です。 1990年代には、1970年代のようにレコーディングもこなし、ツアーにも頻繁に出るなど、再びキャリアを復活させました。1992〜2003年の間に、約200回のステージをこなしたといいます。2004年には、カルロス・サンタナ主催のコンサートに出演。サンタナ、ナイル・ロジャース、バディー・ガイと共演しました(DVD:<カルロス・サンタナ・プレゼンツ ブルース・アット・モントルー2004>) 1997年には、ビッグ・バンドを率いた<Gate Swings>をリリース。バーヴ・レコードは、the Squirrel Nut Zippersなどのレトロ・スウィングに興味がある若者をターゲットに、プロモ活動を行いました。 |
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精力的に活動していた彼ですが、2004年の夏に癌と診断されました。余命6ヶ月と宣告されましたが、2005年2月までは継続的にツアーを行っていました。もう演奏は無理だろうと思われていましたが、同年4月28日にニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテイジ・フェスティバルに出演しました。実は、4月1日にゲイトマウスのマネージャーであるジム・ベイトマンからEメールを頂いていました。そこには「彼は肺癌であり、最近ではいくつか日程をキャンセルしている。4月28日にニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテイジ・フェスティバルに出演予定だが、これにも出演出来ないかもしれない。」と書かれていました。しかし、彼はステージに立ちました。そのステージには、間違いなく「愛に通ずるなにか美しいもの」が生まれていました。この演奏は、インターネットで販売されおり(※限定でCD-Rでも販売)聴くことが出来ますが、私は聴くたびに涙が出てきます。そういう演奏です。バックのゲイツ・エクスプレスのメンバーの、ゲイトマウスへの溢れる愛がCD-Rからでさえ十分伝わってきます。 そのような時にやってきたのが、ハリケーンのカトリーナでした。彼の家は全壊し、ルイジアナ州スライデルを離れなければなりませんでした。 そして、2005年9月4日に心臓発作を起こし、同年9月10日テキサス州オレンジの親族の家で亡くなりました。 |
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| 彼は、ハリケーンの直前8月21日に、仲間の演奏を聴きにメイプル・リーフというクラブに行っています。ゲイツ・エクスプレスのキーボーディストであるジョー・クロウンは、こう振り返っています。「彼の付き人が言っていた。彼がもう一度あなた達の演奏を聴くことができるよう、もう一度連れてくる。」 「音楽は彼の全てでした。そして、彼は最後までそれを手放さなかった。」 ゲイトマウスを語るときに欠かせないエピソードに、1986年の来日時の吾妻光良さんによるインタビューがあります。吾妻さんが、「LPを聴くとブルースが以前よりも増えたと思うんですが」というような質問をし始めると、烈火の如く激怒したという有名な話です。そして、いわゆるブルースマンを「毎日同じ演奏を繰り返し進歩が無い」と罵倒し、「自分も確かにブルースは演奏するが、私のブルースはポジティヴなんだ」と言い続けました。 こういう話が余りにも多いので、さぞ怖くていやな奴だと思われると思いますが、私は、1995年〜の3度の来日で計4回そのステージを見ましたが、そのほとんどでは怖いイメージはなく、楽しそうにプレイしていました。それどころか、彼の歌やギターからは非常に温かいものを感じたくらいです。それが、「愛に通ずるなにか美しいもの」だったんだと思います。 ※多くの箇所に海外のページからの引用があります。誤訳や元データの間違いなどを含む可能性がありますこと、ご了承願います。また、お気づきの点は、BBSでご指摘頂ければ助かります。 |

後にゲイトマウスのためにピーコック・レーベルを立ち上げることになるドン・ロビーに出会ったのも、ヒューストンでした。ドン・ロビーがゲイトマウスに目を付けたのは、ゲイトマウスが病気のT-Bone
Walkerの代理でステージに上がったときでした。<Gatemouth Boogie>を含むそのステージで、彼は15分でチップ600ドル稼いだそうです。
精力的に活動していた彼ですが、2004年の夏に癌と診断されました。余命6ヶ月と宣告されましたが、2005年2月までは継続的にツアーを行っていました。もう演奏は無理だろうと思われていましたが、同年4月28日にニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテイジ・フェスティバルに出演しました。実は、4月1日にゲイトマウスのマネージャーであるジム・ベイトマンからEメールを頂いていました。そこには「彼は肺癌であり、最近ではいくつか日程をキャンセルしている。4月28日にニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテイジ・フェスティバルに出演予定だが、これにも出演出来ないかもしれない。」と書かれていました。