全身麻酔の歴史 それは歯科医から始まった

全身麻酔のはじまりは、そんなに古いものではありません。
1846年10月16日 ボストンはマサチューセッツ総合病院でエーテル吸入による全身麻酔が行われました。

術者はジョン・ワレン John Warren 全米第一と称された外科医であった。
世界初の麻酔科医は、ウイリアム・モートン William Morton ボストンで開業する歯科医師であった。
1846年といえば、日本の天保時代、維新の英雄たちが子どもだった時代である。ヨーロッパでは「貧困の40年代」エンゲルスが英国の工場労働者の悲惨さを記録した時代でもあった。

日本では伝説的な名医としての名をほしいままにした、フリッツ・フォン・シーボルトは麻酔を知らなかったのである。

麻酔の歴史は、笑気・エーテル・クロロフォルム・ハロゲン吸入麻酔薬というように進化したが、笑気による単独の麻酔は、抜歯には応用できても、大きな外科手術には使えない。

最初の笑気麻酔の発見者は、ホーレス・ウエルズ Horace Welle やはりボストンで開業していた歯科医師であった。

いかに歯科の治療が苦痛に満ち、歯科医にとって麻酔が求められていたか!

ちなみに人類の歴史に残る、最初のエーテル麻酔が行われた教室は、今もエーテル・ドームとして保存されている。

塩月正雄訳 トールワルド著の名作「外科の夜明け」には、全身麻酔の発見が極めて感動的に記されている。

この文章は天下の名訳で、一読するや「懦夫も立たざるべからず」というような迫力に満ちたものである。
講談社文庫から出ていたのだが、いまは絶版になっている。惜しいことである。医学生に読書を義務付ければ、麻酔科志望者が殺到し、慢性人手不足に悩む麻酔科からうれしい悲鳴が聞こえようものを。

さて、麻酔学の歴史でもっとも重要なものをあげれば、

一位は、エーテル麻酔の発見

二位は、気管内挿管の考案

三位は、陽圧換気

四位は、局所麻酔薬の発明

五位は、筋弛緩剤の発見

六位は、静脈麻酔薬の発明

七位は、ラリンゴマスクの発明

八位は、心電図の発明

九位は、サチュレーションモニターの発明

十位は、終末呼気 二酸化炭素濃度測定器の発見

になると思う。(僕の勝手な考え)

題名は忘れてしまったが、昔読んだ、吉村昭氏のエッセイに、局所麻酔下で肺の部分切除を受ける話が出てくる。

胸腔内は常に陰圧に保たれているために呼吸が可能になる。
しかし結核の治療のために胸腔をあけると、とたんに肺は虚脱して自力での呼吸はできず、患者は窒息する。

そこで昭和二十年代の外科医は、術前に胸腔を開放して、手術側の肺をつぶしておく。その状態で様子を見て、患者が片肺呼吸の低酸素症に耐えうると判断した時に、肺のオペに踏み切ったのである。
恐ろしい話ではないか。体力のないものは、片肺をつぶした段階で死亡したかもしれない。

しかも、その手術たるや、局所麻酔である。もちろん、無痛とも鎮静ともほど遠い。

吉村氏を執刀した外科医は、のちに電車の中で会ったとき、「ああ、覚えてますよ。手術中によく笑っていた人だね。」と言ったそうである。

笑う! とんでもない、患者は絶望的な苦痛に身悶えていたのである。生命の危険に必死で耐えて、悲鳴をあげていたのである。

たった50数年前の日本の手術室には、こんな地獄のような状況が存在していたことを思うと、慄然とする。

昭和20代当時の、恐怖の胸郭形成術

僕は吉村昭先生の小説に目がない。ほとんどを読破し、また、暇なときは繰り返して愛読している。
吉村先生は荒川区のご出身というし、同じ下町の人間というだけでも、親近感を感じる。また、吉村先生の超人的な資料の調査・渉猟には驚嘆するばかりである。

事実にもとずく記載は重みがあり、小説というよりも人間とは何かを深く考えさせられる。

さて、吉村先生の人生観に深い影を投げかけたものに、「結核」がある。

戦前は無論そうだが、昭和30年代になっても、結核は広く深く、日本の社会に淫侵していた。
雑誌を開くと、怪しげな結核の特効薬の広告があり、加持祈祷も行われ、当時の結核は現在の「がん」以上に恐れられていた。

結核の悲惨な点は。若く希望に満ちた若者を侵し、真綿で首を絞めるように死へと導く点にある。

学術に優れた前途有望な青年、一家の家計を支える孝行息子、誰からも愛される箱入り娘、働き者の女工、頑健な農村青年、結核は誰彼の差もなく、こういった善良な庶民を餌食にしていった。みんな、嘆き悲しむ家族をよそにして、30に成るか成らないかの若さで、業病に倒れたのである。

昭和20年代、国の施策として結核撲滅の一環として、さかんに胸郭形成術が行われた。

以下、貴重な記録として、当時の胸郭形成術が如何に悲惨なものであったか、資料を記載する。

この記載は「麻酔四十年の軌跡 榎本 尚美(元国立千葉病院長)伊東和人(元国立相模病院副院長)真興交易医書出版部 1991」よりの転記である。

(アメリカからもたらされた気管内挿管による麻酔は)往々にして麻酔不十分の阿鼻叫喚の手術から、静寂の全身麻酔による手術に急速に変化していった。

(中略)
当時を振り返ってみると、まず患側に人工気胸を行い、平圧開胸に慣れさせ、必要に応じては、胸壁二箇所を穿刺し、胸腔鏡と電気焼灼器を挿入し、癒着索状物を除く。
これ自体で虚脱療法として効果のみられることもあったが、病巣除去のためには肋間神経伝達麻酔、局所浸潤麻酔を施して、側臥位上半身挙上で、肩甲骨内縁に沿う弓状切開で開胸し、肺葉、肺区域あるいは部分切除が行われるが、肺は虚脱収縮しているため、しばしば必要以上に切除することもあった。

(中略)

病室ではドレーンを水流ポンプで作られた20pH2Oの陰圧で吸引し、かつ患者には深呼吸をさせたり、ゴム風船を膨らませるトレーニングを行わせ、肺の拡張を企図した。
咳漱、分泌物、肺虚脱、縦隔動揺、神経反射そして炭酸ガス蓄積、酸素不足等の対策には大変な苦労を強いられ、それらの病態生理の把握も不十分だったので、予後も悪かった。

これが当時の局所麻酔下の肺外科手術の実態であった。

想像するだに、恐怖に震える思いがします。同書には、アメリカの外科学や麻酔学が日本にもたらされた衝撃を、「黒船の再来か、あるいは干天の慈雨のごとく感じた医師ははなはだ多かった。」と記しています。

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