日本の麻酔の歴史

麻酔の語源?

そもそも麻酔とは面白い言葉である。「あさの薬で酔う」? となるとこれはマリファナやハッシッシの事なのか?

そもそも誰がアネステージャを麻酔と訳したのだろうか? 松木明知先生・弘前大学名誉教授の「麻酔科学のルーツ」克誠堂出版によれば、江戸の蘭学者である杉田成卿が嘉永3年に、ドイツのシュレジンガーの「エーテル麻酔」という本のオランダ語訳を、さらに日本語に訳して「済生備考」という訳書を書いたとき、アネステージャを「麻酔」と翻訳したそうである。

(杉田成卿は解体新書で有名な杉田玄白の孫にあたる人で,天才的な翻訳家であったらしい。蕃書調所の教授であったが,43歳で若死にした。門人に,かの橋本左内がいる。)

嘉永3年といえば、ペリー提督の黒船が来る3年前、徳川家慶将軍の時代である。

アメリカでエーテル麻酔が発見されてから、わずか4年後、もう日本にも全身麻酔の知識は入ってきたのである。

はじめて日本でエーテル全身麻酔をかけた医師は,詳細は不明であるが,安政2年・1855年で,日本初の麻酔科医は杉田成卿であるらしい。

松木明知先生の「麻酔科学のルーツ」克誠堂出版 2005年 33頁より

手塚治虫先生の不朽の名作「日だまりの木」にも登場する伊東玄朴も,文久元年・1861年,オランダ海軍軍医ポンペから入手したクロロフォルムを使用して,

下肢切断手術をおこなっている。

伊東玄朴は佐賀の人,当時,日本有数の流行医であり,名医でもあった。シーボルトの弟子で,高野長英と同門になる。

料理屋の二階の階段から,長英を蹴り落としたというエピソードばかりが有名である。

そのとき長英は,オランダ語で「あぶないー」と叫んだそうである。

「麻」はしびれるという意味、「酔」は薬によって意識が喪失した状態を表しているのだそうだ。
そういえば三国志に出てくる、伝説的な国手に華陀という人がいる。関羽雲長の傷を治したが、頭痛に悩む曹操に脳外科手術を勧めたところ、逆鱗に触れて収監され、ついに獄死してしまった不幸な人である。
その華陀は、「麻沸散」という薬を使って、全身麻酔をかけていたそうである。
あるいは杉田の頭の隅には、「麻沸散」のイメージがあって、こんな略語を考えたのかもしれない。

松木先生は膨大な和漢の医学書を渉猟して、「麻酔」の語源を探ろうとされている。結論をかいつまむと、麻酔は中国由来の言葉ではない。華岡青洲が「麻酔科学の大先達」として著名ではあるが、実は華岡青洲も「麻酔」なる言葉は使用してはいないそうである。

また古代中国の麻には、幻覚を生じさせる主成分である「テトラハイドロカンナビノール」は含まれていないため、麻酔の「麻」は「大麻」とは無関係であるらしい。

また,大麻には全く麻酔作用は無いそうである。

どうやら、麻痺・昏睡・嗜眠・睡眠・鈍麻などといった言葉から、杉田成卿は anesthesia を「麻酔」という新たな造語でもって表現したらしい。

昔の日本人は漢籍にも明るかったから、ラテン語由来の外国語も、縦横無尽に漢語に翻訳できた。

一例をあげると、人民・民主・主義・経済・議会・共和・銀行・警察、みんな日本人の造語である。日本人が言葉を作らなかったら、中華人民共和国という国名は成り立たない?


麻酔か、魔睡か?

面白い資料がある。日本歯科医師会が昭和15年に出版した、歯科医事衛生史 前巻に歯科医師法成立をめぐる、第22帝国議会の議事録が掲載されている。

明治39年3月24日、特別委員会で「歯科医師に全身麻酔の実施を認めるか、否か」が重要な議題となった。
このときの議事録で使用されている用語は、「麻酔」ではなく「魔睡」で統一されている。

考えてみると、ある種の気体を深呼吸しただけで眠ってしまい、痛みを感じないという事実は、明治の人にとっては信じがたい奇跡と思えたに違いない。
すなわち、「キリシタン・伴天連の魔法」と考えても無理はない。

「魔睡」うーん、実に含蓄のある言葉である。どう考えても、こっちの語感の方が実感が湧く。

それはさて置き、帝国議会の議事録を読んでみると、驚嘆する。現代人は、「歯科医師が全身麻酔を実施することは、国民の健康に危険はないか?」という案件が議題になったと考えがちであるが、この時代の議員先生はそんなことは考えない。

「歯科医が全身麻酔を実施すると、麻酔を利用して、女性患者に悪戯をするのではないか?」ということを、延々と心配しているのである。

アホ臭くてびっくりするが、100年前の議事録を掲載する。

漢字カタカナをひらがな交じりに直し、句読点などを追加しただけで、以下、原文のまま。

三宅秀委員

「歯科医と云うものは手術台の上に載せて「コロロホルム」か何かかけて、とかく、猥褻の行為などをいたしますことが外国の例などに幾らもありますが、日本の歯科医にはそんなことは一度もなかったようでございますか? 

もうそれはヨーロッパでも日本でも同じようでありましょうが、ヨーロッパで喧しく言われておるとうり、手術台の上に載せて魔睡薬を・・・

いちいちひどいのは手術台の上に載せて魔睡剤をかけてやる、外科医は手術台の脇に助手がおりますが、歯科医は一人でやることになる、
そうしたらこれは、よほど不正の行為というものは細かに探し出せるような条件を置かぬというと、

なみの医者の筆法では、このところはうまくいくまいと思いますからお尋ねいたしましたので、どうか、しっかりとその数やなにかをお調べを願いたいと思います。事実はどんなものであるか。」

政府委員・窪田静夫

「あらわれてくるものは無いつもりであります。」

三宅秀委員

「あらわれて来にくいではないか、密かに行われておってあらわれずにおるではないか?」

    中略

委員長・伯爵・廣澤金次郎

「たとえばモルヒネか何ですか? わたしはお医者ではございませぬから知りませぬが、薬に何かモルヒネを使うとか、魔睡剤を使うとか往々ある。

その魔睡剤か何か使うときに悪い歯医者は、犯罪的悪いことを犯す者がありますか?

(中略)そういうことは外国には歯科医に多いか知らんと思うております。」

なんだよ? 愛染恭子(あいぜんではなくて、あいぞめ)の白日夢の世界かよ? もっとも麻酔の教科書には書いてありませんが、笑気をかぐと、男は性的興奮を覚えるようです。
少なくとも私の経験ではそう。先輩に教わったのでは、女性も笑気によって性的興奮をすることが多く、あとから「体を触られた」といった苦情が出ることがあるそうです。
笑気鎮静法では、必ず女性看護師か、女性の歯科衛生士を立ち会わせておかないと、もしかすると怖いことになるかもしれません?



さて、日本における歯科麻酔のお話

歯科医事衛生史によれば、近代歯科医学が日本に上陸したのは、万延元年だそうである。(1860年)
この年、ウイリアム・クラーク・イーストレーキ先生が3歳の息子と夫人を連れて、はるばるニュージャージー州から横浜にやってきた。

当時の横浜には百名ばかりの外国人が居住していて、イーストレーキ先生は、この外国人を相手に歯科治療をしていた。

明治元年、長谷川保兵衛がイーストレーキの弟子となり、日本人で初めて近代歯科医学を学ぶ。

(余談だが,横浜には「近代歯科医学発祥の地」という碑があり,イーストレーキーの功績を讃えている。)

明治3年にはセント・ジョージ・エリオットという人が横浜で歯科医院を開業する。エリオット先生は、もとは北軍の軍医で、南北戦争後にフィラデルフィアの歯科医学校に入学して歯科医学を修めた人である。

エリオットの弟子は二人いた。小幡英之助と佐治職(つかさ)である。のちに小幡は日本最初の歯科医術開業試験合格者となり、日本歯科医師会の初代会長になる。大分県出身、慶応義塾の学生からエリオットに弟子入りした人である。豊前の中津には銅像も建てられている。

さて、歯科医事衛生史に、小幡が明治の初年頃に行った歯科治療の具体的内容が記載されている。

抜歯の所をみると、当時は局所麻酔が無かったので、無麻酔で行っていたとある。ただ、患者が外国人で、特に医師を同伴して、全身麻酔を希望した場合のみ、全身麻酔下で抜歯したらしい。

ただしこの場合も、歯科医は傍観するのみで、全身麻酔は患者が同伴してきた医師が行っていた。

ではこの当時、(1870年代頃)全身麻酔はどのように行われたのであろうか?

小池猪一著 図説 日本の医の歴史 大空社 平成五年より転載

この絵をご覧いただきたい。
明治十年西南戦争のときの、大阪陸軍臨時病院における下肢切断手術の絵である。器械出しと、足持ちだけが下士官で、あとは全員が軍医

明治4年に制定された,俗に「肋骨服」と呼ばれる,当時のフランス士官とそっくりの陸軍将校の軍服を着ている。

袖の飾りは階級章を表す。ハンガリーの民族衣装から採用されたデザインで,ハンガリアン・ノットとも,オーストリアン・ノットとも言われる。

この当時の軍医の階級は,軍医補(少尉相当官)・軍医副(中尉相当官)・軍医(大尉相当官)・二等軍医正(少佐相当官)・一等軍医正(中佐相当官)・軍医監(大佐相当官)・軍医総監(少将相当官)

であった。

下士官は(下士といった)一等看病人(曹長相当官)・二等看病人(軍曹相当官)・三等看病人(伍長相当官)・上等兵から二等卒までは一括して看病卒といわれていた。

下士官兵の軍服は,フランス式の低く丸い,ホック無しの襟で,深緑の定色が付く。肩章はなく,腰骨までの短いチェニックで,ホック留めであった。階級章は袖口に深緑色の線であらわす。

ズボンの側線の色は,衛生部を示す「深緑・ふかみどり」である。自衛隊衛生学校発行の雑誌の名前は,やはり「ふかみどり」である。

中央の執刀している人物が,石黒 忠悳(いしぐろ ただのり) 陸軍軍医監 (この時代は大佐相当官) この時,大阪陸軍臨時病院の院長であった。

のちに軍医総監・男爵になり,九十七才まで長生きをした。この人の自伝は「懐旧九十年」という書名で,今も岩波文庫で読むことができる。

全編,ほとんどが自慢話という,すばらしい内容の本である。人間,あまりにも長く生き過ぎると,過去の栄光と,それを守るための自己保身しか

思い出さないという実例である。「他山の石」にしたいと,いつも反省材料にしている。

賛を書いているのは松本良順(将軍家の奥医師であったが,榎本釜次郎にしたがって,五稜郭に立てこもり徹底抗戦した。
そのため収監されたが,維新後は初代軍医総監になり、松本順と改める。司馬遼太郎先生の名作・「胡蝶の夢」の主人公である。)

画面中央で手術を注視している人物が,のちに順天堂の堂主となった佐藤進 陸軍軍医監(大佐相当官)である。

軍医たちの腕に付いているのは赤十字から縦線を取り去ったものである。

赤十字は耶蘇教のしるしという考えから、キリスト教嫌いの日本陸軍では、こんな妙な徽章を考えたのであった。

当時の人たちは「舌出し軍医」と呼んだそうである。

画家は,明治の宮廷画家といわれた五姓田芳洲。

軍医たちは誰も白衣を着ていない。つまり、清潔不潔の概念がないのである。むろん血圧計もなければ、聴診器もない。西欧ではすでにリスターによって石炭酸噴霧の外科的防腐法が1866年には始まっていたというのに、大阪陸軍病院では石炭酸の噴霧機は見られない。


賛を書いた松本順は,もともと佐倉の順天堂の初代堂主・佐藤泰然の息子であったが,将軍家奥医師の松本家に養子に入った。

松本順に代わって,のちに順天堂の堂主となった佐藤進は,佐倉の順天堂で学んだあと,慶應3年に佐藤尚中(舜海)の婿養子となり,名前を高和介石から佐藤進に改めた。

明治2年にドイツに留学し,当時,世界一の外科医と称賛されたビルロートに師事し,明治7年にベルリン大学を卒業。アジア人として初めて,ドイツで医学博士号を得た。

帰国の後に,順天堂3代目の堂主となるが,西南戦争のときに軍医監として陸軍に招かれ,大活躍をする。

のちに陸軍大臣となる寺内正毅の,銃弾により破砕骨折を起こした右腕を,切断せずに保存したことは,渡辺淳一の小説 「光と影」に詳しい。

この時の術式は,ランゲッベックの考案した,上腕骨抜去術で,骨膜を残して,上腕骨頭も含めて摘出するという,過激なものだった。

ちなみにビルロートはランゲンベックの弟子だったので,佐藤進にとってのランゲンベックは,「大師匠」にあたる。

佐藤進は,日清戦争・日露戦争でも軍医監として軍務を務め,最終階級は軍医総監(この時代は少将相当官),明治40年,その功績により男爵に封爵された。

金網でできている、茶漉しみたいな道具は全身麻酔器。 これにガーゼを挟み込み、上からクロロフォルムを一滴ずつ垂らしてゆく。オープン・ドロップ法という麻酔法である。

麻酔の深度は,滴下する速さで調整する。

実は、僕も研修医の時にエーテルのオープン・ドロップで麻酔をかけた経験がある。
なにしろ、麻酔科医もエーテルを嗅いでいるわけだから、患者に麻酔が効いてきた頃には、麻酔科医も意識がもうろうとしてくる。

手術室はエーテルで汚染され、外科医も看護婦も、みんないささか意識があやしくなるという、究極の麻酔であった。

全身状態の管理は、なんと、脈を診ているだけである。バイタル・サインは脈拍のみ。

とても消毒や滅菌してあるとは思えない外科器具。台は木製である。

小池猪一著 図説 日本の医の歴史 大空社 平成五年より転載

この絵は愛知病院外科手術図という。医師は二人の洋服を除くと、全員が和服である。やはり白衣などは存在もしない。

いちばん左のメガネの男が麻酔科医。やはりオープン・ドロップ法を駆使して麻酔をかけていることがわかる。右手にガーゼを挟んだマスク、左手にはクロロフォルムかエーテルの瓶を持っている。

脈を取る人もいないので、全身状態のモニターは皆無といえる。バイタル・サインは無し。

左から二人目の男が、なにやら香水の噴霧機のようなものを手にして、術野に振りかけているのは、おそらくは石炭酸である。陸軍よりは防腐的な処置をしている。

ちなみに前記の松木明知先生の「麻酔科学のルーツ」によれば、19世紀末における帝国陸軍の麻酔法は、はじめは導入の速さからクロロフォルムが好まれたが、毒性が強く、死亡事故があったことから、のちにはクロロフォルムとエーテルの混合液や、エーテルの単独麻酔が行われたという。


戦前の麻酔

手塚治虫先生の不朽の名作・ブラックジャックには、なんと、麻酔科医が登場しない!

しかし、これは驚くには当たらない。戦前には麻酔科医は存在しなかったのだ。手塚先生は昭和3年のお生まれで、卒業は、詳しくは知らないが大阪帝国大学付属の臨時医学専門学校だから、おそらくは昭和25年くらいではなかろうか?

手塚先生はかたくなに、昭和20年代前半の医学知識で、ブラック・ジャックを執筆されているから、麻酔科医が活躍しないのはあたりまえな話なのである。

戦争が終わって、ドイツ医学から英米の医学に急転換した戦後であっても、この時代にも麻酔科医はいなかったのである。では、誰が麻酔を担当したのだろう?

それぞれの医局の中で、オペに入れてもらえない若輩の者が、麻酔を担当していたらしい。

以下は松木先生の「麻酔科学のルーツ」からの引用であるが、昭和25年7月18日、当時「泣く子とマッカーサーには勝てない」といわれた日本の支配者、GHQ General Head Quarter が肝煎りになって、日米連合医学教育者会議が開催された。

ロード・アイランド病院の Meyer Saklad 医師が気管内挿管による麻酔科学を講義した。

気道確保という発想がなかった日本の医師たちは驚嘆し、外科の手術には麻酔科医が必須であるという、英米医学の常識をはじめて知る。

この講義が日本の医師たちに与えた衝撃は、ペリーの黒船にも匹敵するといわれたほどであり、翌年には、日本外科学会とは別個に、麻酔専門の学会を立ち上げようという気運が満ちるようになったという。

しかし、実は戦前においてもアメリカで行われていた気管内挿管法を日本に紹介した人は存在していたのである。

陸軍の軍医学校外科学教官であった永江大助一等軍医は、昭和11年,アメリカに留学を命じられる。

留学期間は3年であり,外科といえばドイツ一辺倒であった当時の日本で,アメリカに留学した医師はきわめて少なかったという。

永江一等軍医は,メーヨー・クリニックや,ワシントン・メディカルセンターで外科の臨床を学ぶが,日に日に日米外交関係が悪化してゆくために,わずか1年あまりで帰国を命じられてしまう。

昭和13年,永江一等軍医はアメリカで目にした最新の麻酔科の現況を「メーヨニ於ケル外科麻酔ノ近況」と題して,陸軍軍医団雑誌に発表した。

その中で永江一等軍医はアメリカで行なわれている「気管内麻酔」を絶賛し,


「(気管内麻酔は)口,鼻,咽頭,喉頭,服鼻腔等の手術に於いて、一般の覆面麻酔(マスクによる麻酔)追従を許さざる所であるが,上腹部,胸部手術に当たりても採用され,
更に脳神経外科に於いて伏臥の止むなき時は殆ど絶対的なものである」と述べている。

「永江大助軍医の業績や経歴,その他一切の記載は,すべて「横切った流星」-先駆的医師たちの軌跡ー 松木明知先生著 メディサイエンス社 1990年からの引用です。」

しかし,この画期的な論文はあまり世間の注目を浴びなかったようである。

ひとつには「陸軍軍医団雑誌」は部外秘であり,陸軍軍医以外の者は,講読を禁じられていたからである。
さらに,永江大助軍医も,この論文を一篇書いたのみで,それ以上,アメリカの麻酔学を積極的に宣伝しようとはしなかった。

その一つの理由としては,反米感情の高まりとともに,アメリカの医学を賛美することは,「親英米派」の烙印を押されかねず,軍人として,非常に危険な立場に追い込まれる可能性があったからではなかろうか?

永江大助氏は明治38年の神戸生まれ。第三高等学校から東京帝国大学に進み,陸軍軍医学校乙種学生を恩賜で卒業。内地留学生として東大で肝臓外科,胸部外科を学び,学位を取得している。

長く陸軍軍医学校で教官を勤め,終戦時は陸軍軍医大佐に昇っていた。
そのために戦後は公職を追放され,池袋で開業医となり,昭和32年に脳出血のために急逝したという。享年52歳。

永江大助軍医は胸部外科の専門家であった。それだけに,初めてアメリカで目にした気管内挿管による全身麻酔は,驚嘆する思いであったと想像できる。
気管内挿管なしの手術は、自発呼吸に頼らざるを得ない。必然的に麻酔が深くなると、自発呼吸が止まり、患者は窒息する。

特に胸部は,メスが入った瞬間に肺が虚脱してしまい,自発呼吸は不可能になる。
戦前の外科手術とは、かくも危険きわまるものだったのである。

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