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脳、神経、特に精神関連の医師の間では、暗黙のうちに了解しているようなことが、未だに、社会通念上は受け入れられておりません。過去の興味深い事例を中心に、我々が日ごろ感じていることを、私見、偏見、てんこ盛りで掲載いたしました。念のため、以下に書かれている内容は、専門外のことも含まれ、必ずしもエビデンス(一定の研究成果をもとに、学会などの専門機関で広く認められている確証性)はありませんので、悪しからず。
尚、文章内に使われている『私』、『固有名詞』などは仮名であり、架空の表現です。(文と絵:村山浩通)
「おや?...」 私は一瞬、自分の目を疑った。
「あの子、いったい...」
たたきつける、季節はずれの時雨をよそに、凛とした室内には、ワイパーの音だけが、いたずらに耳に残った。
暮れ前からにわかに変わった空模様は、峠に差し掛かった来訪者を容赦なく冷遇した。私は先ほどから、ここまで来てわずかでも暖をとれる自分をありがたくも、いまわしくも感じていたのだった。
「くそ!あの道さえ間違わなければ...」
そんなことより、先ほどから気になりかけていたのは、『半そでシャツの少年の後姿』だった。
降りしきる雨の中、傘もささずに...。辺りに集落はおろか、人の気配さえなかった。
「キャンプにでも来ているのかな?」
私は、みぞれさえ混じり始めたこの末路に、すこし肌寒さを感じている自分を、わざと鼓舞しているのがよく分かった。
「もし、困っているなら声をかけてあげようか?いや、こんな宵の山の中、乗せてあげなきゃ。」
そんな偽善じみた自己満足が裏切られるのは、何の造作も無いことだった。
「まさか!...」
不意に見たルームミラーには、先ほどの少年が、まるで顔を背けるかのようにして座っている姿が、さめざめと映っているのだった。
こんなシナリオの幽霊話は、まるで作っているかの如く全国どこにでもあるものです。
夕暮れ時の峠道、所々の曲がり角で見える『同じ人物の姿』...
しかも、幼女であったり、老人、ときに知人であったりと様々です。見ている本人は車の中、片や、見える人物は歩行者ですから、何キロも離れた場所を、子供やお婆さんが瞬間移動しているかのように感じられます。
浮幽霊か?、それとも、この車に取り付いた悪霊か?なんて、ついつい想像力を逞しくしてしまいます。
数年前、東北のある病院に勤務していた頃のことです。午前中の外来も終わろうかという頃、70代半ばの男性が息子さんに連れられて来院しました。ある精神科クリニックからの紹介状を持参してきたのです。
同書によれば、約2週間ほど前から、雪見障子に3年前に亡くなったはずの姪の顔が見えるというのです。CTを施行したところ、右側頭葉後部に径約2cmの皮質下脳出血を認めたのでした。
この息子さんの感心なところは、短絡的に『お払い』などに走らず、認知症の初期と考え、きちんと病院を受診したということです。もちろん、認知症ではなく、列記とした脳出血だったわけです。
右側頭葉後下部は『画像記憶の制御装置』だとも、障害により人の顔が分からなくなる『相貌失認の責任部位』だとも言われています(相貌失認の責任部位は右側頭葉下面(紡錘状回)後部の後頭葉との接合部という解釈がほぼ定着しています。このすぐ内側の右海馬傍回の障害でよく知っているはずの景色を見てもどこか分からないという『街並失認』という症状が出ると言われています。まれに左右逆転している症例があり左の同部という報告もあります)。従って、同部位に、点状出血(大きな出血では、左片麻痺、意識障害などが現れるため、どんな医者嫌いの人でも病院へ行くでしょう)や比較的小さな脳梗塞、あるいは、血流障害、電気的な異常興奮などがあれば、『目の前にないはずの物が見える』ということがあります。
ところが、この現象は、実は健常者でも起こりうるのです。半覚醒状態では、右側頭葉で制御されるべき側頭連合野に保存された画像情報が無秩序に再現されることがあり、本人には、自分が目を向けた方向に、何者かが見えることになります。雨降る夕暮れの峠道、コーナーで次々に見える少年の姿というのはこの典型で、運転という単調な作業から眠気が生み出す生理現象です。これをhighway hypnotic effect(高速道路睡眠効果とでも訳されるのでしょうか)と言うそうです
。自分の脳の中に保存された映像ですから、当然、いくら離れた場所に行っても同じ人物が見えるわけです。
アイドルや家族の写真をふところに入れて、時々見ては、「いつも一緒」って言っているようなものですよね。
『幻覚』という至ってシンプルな解釈で片付けることもできますが、『計り知れない脳のシステムのなせる、未知なるロマン』、として締めくくってやっても良いのではないでしょうか。
その日、台風の影響で欠航になった空の便に再開の見通しは薄く、沢村はやむなく近くのビジネスホテルに駆け込んだ。
「会社にはOKを取ってあるんだからな、骨休めだと思うしかないか。」
ハウスメーカーの営業マンをしている沢村にとって、出張は慣れていたが、宿泊先でいつも不快感を覚えるのは、インテリアのセンスの悪さだった。
「耐震強度だって、どうか分かったもんじゃない。」
職業がら、ひとしきり構築物のあら探しが済むと、ルームサービスにギムレットを2杯たのんだ。
「やっぱりな。」
どこの旅館でも評判を気にして行う、この周到な手口には、いつも辟易とさせられるのだった。
「玄関に飾ってある額縁の裏にさ、お札が貼ってある部屋は、以前、首吊り自殺があった部屋だってこと知ってたか?」
この間の納涼会で、現場監督をしている同期の田中が得意になって話していたことだった。
「いい気なもんだな。」
外壁色の受注ミスと、工期の遅れのことで謝罪と交渉に来た今回の旅だった。覚悟を決めて来た割には、施工主は思いのほか淡白で、出されたお茶菓子に拍子抜けしてしまった沢村だった。でも、今日はさすがに疲れた。2杯目のカクテルグラスに口を付けるか付けないうちに、そのままベッドに突っ伏してしまった。
どのくらい経ったろうか、彼の寝耳を襲ったのは、隣室からであろう、女の高笑いだった。
「酔っ払いだな。」
しかも、人の部屋だというのに、見知らぬ女が、窓の外でベランダを歩き回っているのだ。
「さっきの女か、マナーのわるいやつだ。」
もめ事に巻き込まれるのは御免だとばかりに寝たふりをしていると、今度はこちらをじっと凝視していたのだった。
「気味の悪いやつだ。明日、フロントに文句言ってやる。」
翌朝、嵐は嘘のように立ち去り、さわやかな潮の香りに目が覚めた。前夜の騒ぎをしばし忘れた彼は、穏やかな陽光に素直に感謝する気持ちで、眼下の海を眺めた。
「よし、今日からまた仕事だ!」
同時に、彼は背中に再び不快な汗を感じた。窓の外にベランダなど無い。そして、ここは地上8階、誰ひとり窓の外を歩けるような場所ではないのだった。
「嫌な夢を見たんだな。」
業務が立て込んでいることが幸いと、沢村は無理やり気分を切り替え、早々にこの地を後にしたのだった。
多分、こんな内容の事例が、昔の『ムー』に掲載されておりました。これも全く同じ現象と言えるでしょう。
どこの外来にも、いつも来てくれる、いわゆる『常連さん』がいます。高血圧や脳梗塞で、定期的にお薬をもらいに来る患者さんとは、少々別の方たちです。
「今日はどうしましたか?」
・「何となく調子が悪くて。」、
・「今日は良くなったんですが、昨日少し血圧が高くて。」、
・「もう飲まなくて良いと言われたんですが、前もらってた薬を飲んでいると何となく安心で。」、
・「お友達が脳梗塞で入院したので、私もちょっと心配になって。」
極めつけは、
・「先生のお顔を見ると、安心するんです。」
なんて言われてしまうと、来院目的が不適切と思いながらも、少々照れくさいやらで、こちらも悪い気はしないものです。
受診理由は様々ですが、健康に留意しようとする姿勢は評価できます。
90歳近いというのに颯爽と自転車にまたがり、ひとりでよく外来に来てくれる温和な紳士がいらっしゃいます。
ちょっと前のことでした。
「こんにちは。最近はどうですか?」
「あのー、隣の部屋にいるような感じ・・・。」
「え?・・・ここは・、脳外科の・部屋です・。隣は・、外科なので・、もう一度、呼ばれますから・待合で待っててください。」
「いやあ・・、どうも最近ね、自分がここに居るのに・、隣の部屋に居るような感じがして。」
「そら来た!」と思っても、ここはひとつ辛抱して、
「それでは先ず、CTを撮ってみましょう。」
待つこと15分、出来上がったCTには、みごとな『慢性硬膜下血腫』が写し出されていたのです。患者さんの主訴がどういうことを意味しているのかも分からず撮ったCTですが、びっくりしたのはこちらでした。
『慢性硬膜下血腫』は通常、頭痛、片麻痺、認知症などで来院することが多く、精神症状といっても、せいぜい物忘れや日付が分からないなど見当識障害を主訴に、御家族が連れてくるくらいです。このケースが『自我同一性』の障害といえるかどうかは別として、不思議な主訴なので紹介しました。「自転車は危ないから止めた方がいいですよ。」という言葉にも耳を貸さず、今でも元気なお顔を外来に見せに来てくれています。
『自分が自分であることの認識』とは如何なるものか?
「お前、頭悪いだろ!!!」って思わず言われそうな台詞ですが、『自我同一の観念』というのは結構難しい精神構造のようです。例えば『1+1が2』であることのように・・・。
それはいつもの夕べだった。
そして、これから始まろうとしているシナリオも、何も特別なことではなかった。
リビングでポテトチップスをつまみながら、これといって興味のないままに7時のニュースを眺めていた。麗華は、バスケット部の試合が近いからと言っては、いつもこの時間に、くたくたになって帰ってくる。髪はショートカット、細く長い手足も最近は小麦色に焦げ、母にとっては頼もしいほどのスポーツ少女であった。ともすると部活に夢中になり過ぎて、習い事のピアノも少々さぼりがちだった。
「最近、全然練習してきませんねえ。」ヤマハのインストラクターは時に苦言を呈した。
「先生、私はこの子を音大に入れたいわけじゃないんです。下手でもいいから、続けさせてやりたいんですよ。」母は自分が幼少時にかなわなかった思いを、子供には遂げさせてやりたかった。
母親が作っていたクリームシチューの香りがキッチンから漂うと、少女の空腹はしばし晩餐のささやかなる幸せに転じたが、やがてそれが次第に、例えようのない不快の渦に飲み込まれようとは予想だにしなかった。
ひどい頭痛と吐き気、さらには異臭が彼女を襲ったのだった。立ち上がろうとしたときには、もう身動きが取れず、どうすることもできない自分を傍観するしかなかった。
「うう・う・・」
「お母さん、大変だよ!お姉ちゃんが!!」雄太が声を上げると、異変を察知した母親がすぐそばまで駆け寄って来たのが分かった。
麗華の全身は叩かれたようにしびれ、だんだんと熱くなっていくようだった。
『お母さん・・・あつい、あつい、あついよー!』誰にも聞こえない声だった。麗華は、まるで全身を縛られ、息もできず、炎の中で焼かれているかのような苦痛を覚えた。やがて、その灼熱の炎がぷっつり消える頃、麗華はいつの間にか、自分が自分でないような、いつもの奇妙な体験が始まった。なんとかこの苦渋の身体から抜け出そうとすると、それは意外にも簡単で、ゆっくりと穏やかな幸福感へとすり替わって行った。
『やっぱりな、もう一人の私に会えた』
自分の身体から抜け出た麗華は、だんだんと身が軽くなるのが分かった。そして、いつの間にか、天井から、自分と家族の常軌を逸した有り様を、空虚に見下ろしていた。
『本当の私はこっちに居るのに、お母さんも雄太も、懸命に私の抜け殻に話しかけている。いったいみんな、何やってるの?』天井から見下ろしているかと思えば、ちょっと気を抜くと、今度は自分のもとの身体に戻り、逆に天井に浮かんでいるもう一人の自分の姿を見ていた。それは間違いなく麗華自身そのものであると確信できたが、白く半透明に透き通り、まるでガラス細工のように綺麗だった。自分が空中に浮かんでいるようにも、リビングのソファーに座っているようにも、どうかすると、その両方にも自分の所在を感じた。麗華は何だかとても愉快だった。軽くなった身体はどんどんと空へと舞い上がり、遂には自分の家が、豆粒ほどに見えた。夜だというのに外は白夜のように明るかった。
『そうだ、たった今、私は病院のベッドで寝てたんだっけ。いつもの病院の、白いベッド。』クリーム色のブラインドが掛けられた窓に、何も活けてない一輪ざしが置かれ、廊下の壁には2頭の白い馬の絵の額縁が飾られていた。遠くで話している看護師さんたちや、よくわからないが、何やら叫んでいるような人の声も聞こえた。・・・『でも、私の家の中の様子も、今は良く分かる。だって、今の私は二人・・・』
そして、いつしか、父親が帰ってきたようだった。
気が付くと、麗華は自宅の寝室に寝かされていた。身体は気だるく起き上がると頭が少し重かった。居間の時計は夜の10時20分を指していた。
「お母さん、おなかすいちゃった。」
「もう大丈夫なの?・・・あんた、そういえば宿題は?」
翌朝、麗華はいつものように元気に登校した。
俗に、『零体分離、幽体離脱、ドッペルゲンガー(Doppelganger)』と言われているものは、既に医学的に、その正体が解明されています。最新の文献では、以下の3つに分類され、『自己像幻視(オートスコピー)』という用語に代表されます。
@ autoscopic hallucination(自己像幻視)
A out-of-body experience(体外体験)
B heautoscopy(ハータスコピー:オートスコピーに接頭語heが付いたもの、対訳語なし)
これらの多くは、側頭葉てんかん(精神運動発作)の部分症状として出現しますが、片頭痛の前駆症状、梗塞、出血、腫瘍など脳の特定の領域に病変がある場合や、統合失調症、うつ病などにも見られます。
@の自己像幻視とは、自分の目の前に自分の姿が見えるもので、自分の所在(魂?)はあくまで自身の身体にあります。多くは平面的な2次元映像で、顔や身体の一部であったり、左右反転した鏡像であったりします。病変は右後頭葉(右上後頭回、右楔部)、視覚野の外線条皮質(V2〜V5:後頭葉の一次視覚野V1から頭頂葉、側頭葉へ連絡する部分)、紡錘状回体部、顔部で、視覚入力と体性感覚との不調和により、右後頭葉の病変で障害された左側の視野に、自分の姿が見えることが指摘されています。
Aの体外体験とは読んで字の如く、自身の元の身体から抜け出した自分が、外側から(多くは上方から)自分の姿を見るというものです。抜け出した方に、自身の所在を感じ、右の後部島皮質(前頭葉と側頭葉の間を奥に分け入った部分)が責任病巣です。
冬山で遭難しかけた5人のパーティの後日談で、一番後ろを歩いているはずのサブリーダーが、吹雪の中、目の前に自分を含めた5人の歩いている姿を見た。一体、ここにいる自分は何者なのか?などというのは、この現象の典型です。
Bのハータスコピーは、@の自己像幻視とAの体外体験の中間型であると言われてきました。幻視像は立体的で生き生きと描かれ、自分の位置、自我としての認識、自分からの視野は、元の肉体であったり、幻視像であったりと一定しません。
しかし、ハータスコピーには決定的な特徴があります。それは、幻視である自己像との強い自我同一感があることと、肉体と幻視像間で、自我の存在感が変動することです。場合によっては、2者同時に存在することさえできるのです。それゆえ、@の自己像幻視とは異なる現象とされ、責任病巣は、左後部島皮質と言われます。
島皮質は、様々な感覚神経を統合する領域とされ、体性感覚(触覚、痛覚、圧覚など)、運動神経、視覚、聴覚、平衡感覚、辺縁系(感情)との連絡をもち、これらを統制しています。ここで、体性感覚、視覚情報、運動信号の統制に異常をきたすと、自身の身体が他人の物であると感じたり(somatoparaphrenia)、他人が触られた感覚を体験したり、他人の身体が自分の物であるような錯覚を受けると言います(dysintegration model:統制障害モデル)。これが、自身が幻視像に存在する感覚が説明されます。
また、平衡機能(バランスや眩暈感など内耳の機能)と視覚情報との統制障害がおこると、本来の身体の位置と違った感覚を受けます。特に、右の島皮質後部は、前庭機能(耳石によるバランス)の情報と、左の島皮質後部は三半規管(回転)の情報が関与すると言われ、それぞれ、身体が浮き上がるAの体外体験、自身の所在が移動するBのハータスコピーとの関与が推測されています。
ここで、Bのハータスコピーの特徴である、強い自我統一感はどこから来るのでしょうか?島皮質後部は、さきに挙げた如く、内臓感覚(胃の不快感、吐き気、動悸など)の統合領域でもあります。この内臓感覚は、胃のこみ上げるような不快感、ドキドキ感など、自身の内部から感ずる情報で、自分の存在感に強く影響します。つまり、内臓感覚と視覚情報との統合障害により、幻視像と自分とが強く結びつく錯覚が起ると言われます。
左右差による症状の違いについては、まだ未解決です。
島皮質は、一昔前までは、手術で切除しても、ほとんど症状の出ない場所と言われてきました。しかし、21世紀に入り、脳機能の分析は、目覚ましい発展を遂げたと言えるでしょう。こういうものを読んでしまうと、ひとつまた未知なる物が消え、私としては、少々がっかりしてしまいます(平成25年7月17日)。
参考文献:Hydrich L, Blanke O. Distinct illusory own-body perceptions caused by damage to posterior insula and extrastriate cotex. Brain 2013: 136; 790-803.
<イラストは以前の職場で院内勉強会(脳の機能)用に描いたスライドの一部:原典がスイスゆえ、外国人の顔で描きました>
「瀬戸内海を渡ってみたいわ。」
お互い第一線で仕事をしている香夏子と嘉幸にとって、久しぶりの休暇だった。仕事柄、海外には良く行くものの、まだ四国には行ったことが無いという香夏子の希望で、きれいな海と城下町を訪れるのが、今回の旅の目的だった。
「お遍路さんなんていやよ。おばあちゃんじゃないんだから。」
不測の言葉に、嘉幸は苦笑した。
「まあそれは、子供ができて、そいつらが大きくなってさ、遂に俺たちも引退した頃にでも行こうじゃないか。退職金で大きなキャンピングカーでも買ってさ。」
桂浜から眺める水平線はどこまでも澄んでいて力強かった。
「わたし・・・この景色・・・知ってるわ・・・そうよ、ここ・・・来たことあるみたい・・・」
とっさに嘉幸は、事態の深刻さを悟った。
「香夏子!しっかりしろ香夏子!...」
同時に香夏子は不快な気分を覚えた。遠くのものは大きく、近くのものは小さく歪んで見え、いつの間にか自分が小人になったような不思議な体験だった(不思議の国のアリス症候群)。そして、まるで海の底にでも際限なく引き込まれていくかのような錯覚を覚えた。
「大丈夫か!おい、香夏子!」
「え!どうしたの?...」
「発作だよ。ここ暫く忙しかっただろう?疲れていたんだよ。でももう大丈夫だ。今日はゆっくり休もう。」
「私...変だった?」
「たいしたこと無いさ。時間も短かったし...」香夏子を気遣う言葉だった。
香夏子は意識を失っている間、仁王立ちになり、どこにも視点のあっていない、カッと見開いた両のまなこはそのまま水平線に注がれていた。奇妙に手を揺さぶって、呼吸は激しく乱れ、...見知らぬ者が見たら、おぞましくも感じられたかもしれない。
このところ、ずっと収まっていたのだが、側頭葉癲癇(てんかん)の発作が出たのだった。
『側頭葉癲癇』は別名『精神運動発作』と言います。俗に記憶の引き出しといわれる『海馬』が責任病巣だと言われます。発作の直前に、込み上げるような不快感、既視感(デジャブー:見たことも無い景色なのに、以前に見たことがあるような錯覚)、大小が分からなくなるような現実離れした不思議な感覚が起こり、意識を消失、その間、空中を見つめたまま、それまで行ってきたことと似たような動作を繰り返します。例えば、字を書いていたら、鉛筆を持ったまま手を動かしているなど。次第に呼吸が乱れ、1分ほどで意識が戻ります。この間、本人は覚えていないため、周囲の人に
「今、変だったよ。」などと言われることが多いようです。その昔、『キツネ付き』、『怨霊にとりつかれた』などど言われたものも、これだっただろうと予測されています。
既視感で、少々付け加えると『統合失調症』などの初期にも見られるといいますが、実は健常人の7割強が経験したことがあると言われています。これは、記憶のメカニズムと、記憶を呼び起こすメカニズムに関係していると言われますが、詳細は不明です。『時間の観念に関する感覚』が『側頭葉』に関係するとされており、両側側頭葉の障害で、時間的な観念が障害されるといわれています。また、人はある不思議な感動をもったとき、その光景を、過去の自分の記憶と照合しようとするそうです。このとき、たとえ5分前に見て記憶されたその場の景色を何年も前の記憶であると誤認して、このような現象が起こるという説もあるようです。
「わーん!!!」
佳代はとなりに添い寝している、突如泣き叫ぶ娘の声に、眼が覚めた。
「どうしたの?優奈!おなかが痛いの?」
「ゆ・う・な・のとなりに.....オ・バ・ケ・がねてるー!!!」
この言葉に、佳代は「ハッ」とした。
ある夏の日、佳代は流産した。
決して若くない年齢で出産した長女に続き、半分あきらめかけていた第二子だった。
テレビアニメに影響されたのか、「ゆうなねえ、弟がほしいよ!」という長女の一言に喚起され、夫婦ともに気をとり直していた。
「次は男の子かな?」、二人目を楽しみにしていただけに、佳代のショックは相当なもので、とても憂いを隠せない様子だった。不正性器出血が続き入院、今後のことがあるからと、『子宮内容掻破術』を受けた。退院した後も、しばらく滅入っていたのは、ことさらに言うまでもない。
ことが起きたのは、それから2ヶ月経過した夜だった。子供には夜遅い時間だったろうが、まだ、宵の口、二階の別室でウイスキーを飲んでいた夫は、いきなり大泣きする娘の声に驚いて階下へ急いだ。
「どうしたの?」
「大丈夫よ、優奈が夢を見たんだよ。」
「そうか...」自室へ戻った夫の耳に、30分は続いただろうか、その、小さな泣き声は、寝付くまでしばらく聞こえていた。子供が夜泣きをすることは、ここ数年無かっただけに、少々気がかりだった。
「何か具合でも悪かったのかな?」
翌朝、顔を合わせた夫婦はお互い、真っ先に、昨晩の真相を解決したがっていた。
「何だったの?」
「優奈がねえ、寝ぼけて、急に泣き出したんだよ。『優奈の横にお化けが寝てる!』って言いながらね。
『ママが居るから大丈夫だよ。何にもいないよ。』って言ったら、
『まだ寝てる!』って言うんだよ。それも、いつもと違って、もの凄い大泣きしてさあ.....私は、『成仏できなかった水子が寂しくなって、私たちと一緒に寝たかったのかな』って考えたら、可愛そうで...涙が止まらなくなっちゃってさあ。」
「・・・ばかばかしいこと言うなよ!」夫は取りあってもくれず、足早に出勤して行った。
佳代はその後、水子地蔵で供養を済ませ、すっかり元気を取り戻した。夫は相変わらず『子供が見た夢』と考えているようだった。
『水子』、『神仏』どちらを取っても、『暗示効果』の最たる現象で、その実体は定かではない。
それなら、『供養』、『お払い』の意義とはいかに...?
傷ついた心の整理をつけるためには大切なことなのだ、と私は思う。
睡眠は深度によって4段階とレム睡眠という極めて浅い時期に分けられます。一晩のうちに5回ほど、レム期から4期までの深度を連続的に繰り返し、朝になる頃、次第に浅くなりレム期になって覚醒の準備ができ、目覚めるのです。
覚醒とは、脳幹部の意識中枢(『上行性網様体賦活系』といいます)より、大脳に向かってパルスが送り続けられることによって起こります。意識障害からの回復が脳幹部、辺縁系、新皮質と段階を追う様に、睡眠からの覚醒が運動機能、感覚機能が必ずしも、毎回全く同時に起こるとは限りません。つまりレム睡眠の時期に運動機能と感覚機能に覚醒レベルの解離を生ずることがあってもおかしくないのです。また、睡眠深度が深い時期に、強制的に起こされた場合も、覚醒の準備ができていないために、この解離が起こりやすいと思われます。15分、昼寝したらすっきり起きれたのに、1時間寝たら異常に眠かったとか、夜中に急に叩き起こされて、寝ぼけるが如くです。
脳はそれぞれの場所で、働きが違うため、例えば、視覚中枢の活動が不備のときは、目の前に星が降るように見えたり、ピカピカしたドーナツのような形が見えることもあります。画像の記憶部位では、以前に記憶された情報が、再現されることもあります。感覚野では体に不快な痛み、しびれなどを感じ、運動野では、体が思うように動きません。
これがかつて『金縛り』とわれていたものと思われます。
メカニズムは分かっても、周囲の景色が分かるのに、体だけ動かない。・・・やっぱり恐いですよね。
実際そのテレビは詰まらなかった。「ちっ」、カウンターでタンメンをすすっていた河村は短く舌打ちすると叩きつけるように目の前のテレビのスイッチを切ってしまった。芸人が集まってクイズ形式で罰ゲームのようなことをやっていたのだが、どうもモラルに欠けるしテーマにも一貫性が無い、見ていてだんだんイライラしてくるのであった。あっけにとられたのは周囲で談笑していたお客たちだった。にわかに静まり返った店内をぐるりと鋭い目つきで見まわす彼に目の合った者は愛想笑いするしかなかった。・・・
「ああいう人を非常識っていうんだよなあ」
勘定を済ませ出て行った彼の後ろ姿を見計らって、店の奥で酒を飲んでいた爺さんが強がって言った。
河村は都内有数のホテルのレストランで腕のいいコックをしていた。若いうちから海外で修業を積んできたという彼を同僚の誰もが羨み、あと6年もすれば料理長の座が約束されていた。自慢の息子は来年、有名私立中学の受験だと皆に言っては顔をほころばせた。
しかし今の河村は違っていた。料理をやらせると、そのうちカレーを作っているのやらシチューを作っているのやら分からない、仕舞には味噌まで入れて妙なものができあがった。買い出しに行けば行ったで有り金全部使ってきた。「こんなに要らないだろう!!」料理長は罵倒したが、やがてかごの底から出てきた漫画雑誌にトニックシャンプー、健康ドリンクやらを見てさすがに呆れてしまった。
「ちょっと来てくれないか?」
半年が過ぎようかという頃、河村はマネージャーに呼び出された。
「河村君!折角、あんな大事故からよくぞ復帰して来てくれたんだから、もう少し療養してからの方が君の為なんじゃないかなあ。」
体の良い解雇には間違い無かったが、周囲ともうまくいってないと感じていた彼はむしろ清々した。無論心配していたのは母だった。
「今日はどうしましたか?」
「いや、別に!」難しそうな顔で腕組みをし、脚まで組んでふんぞり返っていた河村に
「じゃ何のために病院に来たの?」医者も怪訝な顔で聞き返した。
するとそれまでうつむいて黙っていた母親が、いたたまれないといった表情を浮かべ重い口を開いた。
河村は2年前に交通事故に遭った。翌日の仕込みのために遅くまで働いた帰り道での出来事だった。居眠り運転らしい4tトラックに交差点で横から突っ込まれ、意識不明の重体で病院に救急搬送されたのだった。家族は皆、途方に暮れたが1ヵ月もすると目を開けて呼びかけに頷くことが出来るまでになった。「年齢が若いので回復したのでしょう」担当医は言った。その後約6カ月のリハビリを経て彼は誰からも待ち望まれた職場に復帰した。意識が戻った彼を警察は何度か事情聴取に呼び出した。しかし事故当時のことを全く覚えていない彼はどちらが信号無視をしたのかさえ証言する術も無いままだった。その頃周囲から「お前変わったな」とよく言われたという。職も失い家族からも見放されながら、知能検査などをしても「異常なし」と言われたので後遺障害も認定されなかった。事故でやる気を失ったのだろう、周囲はそんな風に感じていた。そんなこんなで今はもうどうしていいのか分からない、というのが彼に付き添って来た母親の訴えだった。
『遂行機能障害』一般の方には聞きなれない言葉です。簡単に言うと『物事の機転が利かなくなる』と言い換えることができるでしょう。責任病巣は前頭葉背外側部というところで、外傷による脳挫傷や血管障害(脳梗塞、皮質下出血)などの後遺障害として出現することがあります。その場の雰囲気にそぐわない行動が目立ち、行き当たりばったり、よく考えもせず勢いで物事を決めてしまったりするので、有能な社員だったのに勤めていた職場から解雇されたり、経営していた会社が倒産したりとしばしばそれまでの生活が一変します。ウィスコンシン・カード分類テストやハノイの塔などの特別な検査を除き普通の言語検査や知能検査をしても異常と診断されません。このためリハビリテーションのスタッフが充実していない施設では障害が気付かれないこともあり、患者さんが働き盛りの大黒柱であったりすると本人にも家族にも不運な結果を招き兼ねません。
同部の症状で『同時に別のことができなくなる』とも言われますが、これはむしろ作業記憶(working memory、短期記憶)の障害から来るもので、暗算ができなくなったり、たった今言われた電話番号を繰り返して言えなかったりと日常生活でも困ることがあります。私はかつてガソリンスタンドでタイヤの空気圧を見てもらう機会がありました。若い女性店員に「タイヤの空気圧は何キロですか?」と聞かれ前後輪の適正圧を伝えました。しばらくすると「すいません、何キロでしたっけ?」と聞かれ同じことを答えました。すると30秒後にまた来て同じことを聞きますが、本人は済まなそうに至って真面目に聞いて来ます。と思えば10秒ぐらいしてまた聞き返され、結局別の方が対応されました。後で知ったことですが、この方は単車で事故を起こし以来、短期記憶障害が後遺した様です。
いずれにしろ、さきの方はけったいな奴なのではなく純粋に交通事故の後遺障害だったのでした。後日、県立リハビリテーションセンターでの検査結果を基に高次機能障害として無事認定されましたが決して喜べることではないでしょう。
今日は難し〜いお話を一説(;^_^A 。
一般の方には、なかなか理解しがたい内容ですが、我々の中でも常識を覆されるような事柄なので敢えてこの場に載せました。脳の領域に興味を持ってもらおうと思って始めたコーナーですが、この話を読んで、逆に頭が痛くなったり、もしかして脳や神経のことが嫌いになりそうになったら、読むのをやめましょう。
つい10数年ほど前まで、場合によっては今だに?●大脳は思考、運動、認知機能、●小脳は運動の調節を司ると医者の間でさえ疑いの余地なく信じられてきました。実際、小脳の障害により手足の震えや体のふらつきなどの運動失調、眩暈が出現するとことはよく知られています。
ところが1990年代頃、この常識とも言える小脳の機能に、懐疑心を抱く研究者が出てきたのです。さらに2000年代に入ると実は小脳のうち運動にかかわる部分は小脳の上半分(実際には上1/3くらい)の前葉というところだけであることが分かってきました。
小脳は上から下(前から後ろ)まで10の小葉に分けられていますが、これも実はその研究者が2000年に発表した新たな分類です。つまり第1〜5小葉(前葉)が運動機能に関わり、第6〜10小葉(後葉)は非運動野(non-motor area)として、2009年に証明されたのです。この研究を受けて小脳の認知機能が次々注目され始めました。
小脳後葉には遂行機能、言語的記憶、視覚的記憶、短期記憶(working memory:作業記憶といわれる数秒から数十秒の記憶)、空間把握、シーケンス機能などの多くの認知機能があることが分かって来たのです。
これらのうち、2008年より特に強調されているものがシーケンス機能というものです。これは@置かれた状況を判断し、Aそれに見合う選択をし、B行動を起こすという機能です。これが障害されると、事柄の起・承・転・結が判断できなくなります。4コマ漫画をばらばらにした物を見せても、連想して順番に並べることができなくなるわけです。つまり『風が吹けば、桶屋が儲かる』式の思考ができなくなるとも言えるでしょう。実際には遂行機能障害(場にそぐわない変な行動をする人)と区別が難しいので、これを一つの機能として評価するかどうか反論の声もあります。
現状では小脳後葉と大脳皮質を結ぶ認知に関わる回路として
●executive control circuit(遂行制御回路?):前頭葉背外側部、前部帯状回、下頭頂小葉と連絡し作業記憶などに関与する。認知機能が働くとき活動する。
●default mode network(怠状回路網?):後頭葉視皮質、海馬と連絡し、上記の回路と拮抗して反応(一方が活性化しているときにはもう一方が休む)する。
という2つのものが指摘されています。
何れにしろ、小脳が認知機能(周囲の状況を判断する機能)に加担していることは確かなようです。
「ぼ〜としてないで、小脳を使ってよ〜く考えろ!!」なんて言われるようになる時代も近いかも(*^-^)b。
参考文献:Schmahmann JD. et al. Cerebellar stroke without motor defecit: clinical evidence for motor and non-motor domains within the human cerebellum. neuroscience 2009; 162:852-61
Luca Passamonti et al. Altered cortical-cerebellar circuits during verbal working memory in essential tremor. Brain 2011: 134; 2274-86
Anna M. Tedesco et al. The cerebellar cognitive profile. Brain 2011: 134; 3672-86
「夫の介護は、本当に、長い長い自分との戦いでした。」
亭主が脳梗塞をわずらい、寝たきりになってからというもの、絹代の生活は一変した。高円寺で70坪の鉄筋住宅に暮らすという、その生活ぶりからも以前の社会的背景が推察される。もと警察官僚だったという夫は、病前、とても温厚で部下からの人望も厚く、自身には至って厳しい人だったという。短気で暴言を吐く痴呆老人からは想像も付かない人物像だった。
「植物状態なら、それはそれで大変ですけど、なまじ意識があるからねえ、余計かわいそうで...」
たまに見せる涙ながらに漏らす言葉の端々から、日常の深刻さがうかがい知れた。
自宅で介護していた夫が入院したのは、1ヶ月前のことだった。脳梗塞の再発だった。
「今回は、再々発ですから、厳しいかもしれません。」
絹代は黙ってうなづいた。「どうか、宜しくお願いします。できるだけのことをしてやって下さい。」
担当医は、患者が高齢で病状が深刻であるということ、そして、延命措置についての通り一遍の説明をした。
夫のベッドサイドには毎日、小ざっぱりとした花が飾られていた。連日のように熱心に通ってくる絹代が活けたものだった。床頭台の上にはひとつの小さな額縁に、元気な頃のツーショットの写真が入っていた。すっかり元気を無くしてしまった絹代を見兼ねて、担当の看護師が提案したのだ。
「お二人が写った、ご主人の元気な頃の写真を持って来たらいかがですか?必ずまた、お元気になるって思えるようになりますよ。」
お揃いのスカイブルーのアロハシャツを着てハワイで撮ったというその写真は、お互い、初老期に差し掛かってはいるものの、時が時なら『モボ(モダンボーイ)』、『モガ(モダンガール)』という形容がしっくりくるような美男美女のカップルだった。若い頃、互いの両親の制止を振り切り、駆け落ちするように一緒になったという。子供のいない夫婦にとって、連れ合いは唯一の掛け替えの無い存在だった。
午前の3時半、まだ空も白やむ兆しさえないころ、電話の呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。
「ご主人が、急変されました。急いで病棟の方へいらっしゃって下さい。」
急変だといって、呼び出されたのはこれで三度目だった。身支度もそぞろに、タクシーに乗り込む息の白さに、外気の冷たさが身に浸みた。
「先生、こんなことを申し上げたら大変失礼かもしれませんけど、呼吸機、外してもらうわけにはいかないでしょうか?」
二回目の急変をした後のことだった。入院して1週間目に急変、挿管して呼吸機装着、心臓マッサージで蘇生した。「今の状態は、極めて脳死に近い状態です。心臓は動いていますが、自発呼吸はありません。呼吸機が無いと、じき心臓も止まってしまう状態です。今回のように一旦、心停止を来たすと、残念ながら数時間から一週間くらいでまた心停止を起こし、そのときは厳しいと思います。」蘇生後、担当医の説明だった。医者に言われたとおり、二回目の急変は、その数日後に訪れた。夜の12時は回っていただろう、毎日見舞いに来ている年配の婦人には、ややつらい時間帯だった。延命措置の希望が出されている患者に対し、当直医により懸命なる心臓マッサージが施された。暗いロビーで一人待つ絹代の耳に、奇跡的に蘇生したという知らせが飛び込んできたのは、すでに午前2時を過ぎていた。絹代は「もういい、もう沢山だ、あの人がかわいそうだ。」心の中で、深いため息をついた。自身も既に疲労困憊状態だったのだ。
・・・
当直医は良い返事を返さなかった。
「ご希望に添えず残念ですが、一度付けてしまった呼吸機を外すという事は、今の社会では倫理的に許されないのです。受け持ちの先生には、もうこれ以上の延命措置はしない、という希望があることを伝えておきます。」
あれから2週間、その日はやってきた。病院に到着したのは午前4時前になっていた。夫の心臓は最後の力を振り絞って動いてはいたが、血圧が徐々に低下し、ショック状態になっているという。
「心臓マッサージはもうこれ以上して欲しくないので、できれば、せめて心臓が止まる前に呼んでください。」という絹代の願いからだった。
朝になると担当医が病室を訪れた。
「吉田さん、大変でしたね。」と、掛けてくれた声に、絹代は思わず泣き出したくなる衝動に駆られた。
心電図モニターに異変があったのはそれから3時間も後のことだった。午前11時過ぎ、担当の看護士が息を切らせて病室に駆け込んで来た。「吉田さん、急変です。」
「早く先生を呼んで!!」
担当医が入ってくると、絹代は深く一礼した。ベッドサイドに運ばれた夫の心電図モニターは、徐々に静まる最後の雄叫びを上げていた。
「あなた、...本当に今まで、...良く頑張ったねえ。」
「もう少しよ、...頑張ってね。」絹代の顔はすでに涙でくちゃくちゃになっていた。
「頑張って...頑張って...」30回、16回と病室に響き渡る心拍数も少しずつ穏やかになっていった。
「ほら、もう少しよ、頑張って...頑張って、あなた、早く!」最愛の夫の臨終に同席するには、少々似合わしくないこの言葉に、我を忘れていた絹代も違和感を覚えた。赤面するかの如く、一瞬たじろいだが、担当医は絹代のつらさを良く分かっていた。人生を見極め、安住に向かおうとする者に、この世への強制送還を強いるこの残酷な文明の利器を、できればすぐ、外したあげたいとさえ思った。
「先生、先日は本当にお世話になりました。初七日も終わって落ち着きました。」外来に挨拶に来た絹代の姿は、疲れも抜け、以前とは見違えるほど晴れやかな様子だった。
「今日は、私のことで来たんです。2、3日前のことなんですが、仏様に手を合わせて、主人と色々昔の話をしたんです。仏間から出ようと襖を開けたところ耳の後ろで『パチン』と音がしたかと思うと、キューッと何かに後ろから髪の毛を引張られるような感じがしたんです。気のせいだとは思うんですが、主人が私を呼び止めているような気がして...主人のこともあるので、もし、私が脳の病気だったらと心配になり、来てみました。」
絹代の希望通りMRIを撮り、主治医は告げた。
「大丈夫です。MRIは異常ありません。症状から見て『後頭神経痛』でしょう。だいぶお疲れだったんでしょうね。」
今から十数年前、某都立病院で私が経験した症例に基づいて構成したものです。
「赤いちゃんちゃんこ〜・・・着せましょか〜・・・」
夕暮れを過ぎると何処からともなく、妙な声が聞こえてくるという。
夏紀の学校で、そんなことが噂されるようになったのは、ある年の秋口だった。
はじめは生徒たちのいたずらであろうと、誰も深く気に留める者はいなかった。
休み時間ともなると、その話で持ち切りとなり、誰それが「2階の女子トイレの中で聞いた」とか、新たな情報をつかんだ者は、得意になってしゃべっていた。
待望の夏休みは束の間、夏紀もクラスの大半にもれず、夏期講習の延長線上に一日の生活を置いていた。陽が落ちてもまだ照り返す駅のホームの残暑の風は、クーラーの良く利いた車内に夏紀を容易に放り込んだ。この日たまたま同じ電車に乗り合わせた香織が、ちょっと気になる話をしていたのだった。情報屋の異名を取るクラスの人気者、K介の妹が救急車で運ばれた先の病院で亡くなったという。原因は良く分からなかったらしい。
そういえば、心霊スポットに詳しい香苗のお爺さんの葬儀から日も浅い。
いつしか噂が噂を呼び『あの声を聞くと家族に不幸が訪れる』と囁かれるようになった。
10月に入り、文化祭の準備に追われるようになると、帰りが遅くなったある日、遂に夏紀もその声を聞いてしまった。多分・・・そんな気がしただけかもしれない。
もう、休み時間にこの話をする者は誰一人いなくなっていた。誰かが言いそうになると、皆、まゆをひそめ、うつむいた。黙ってその場を立ち去る者もいた。日が経つにつれ事態は深刻になり、受験を控える生徒には精神的に悪い影響を及ぼすとして、やがて職員会議でも問題視された。
その年の暮れ、真相を確かめるべく、警備員を含め、職員と保護者の代表が数人、宿直室に泊まり込むことになった。口に出せない不安から、誰もが、この変に張りつめた空気をなんとかしたいと感じていた。そして、勤務帯の警備員を除き景気付けにと酒盛りが始まった。
巡回は、午後5時と9時、そして午前0時、明朝7時である。くじ引きで5時と9時が当たった者は、ばかばかしいと思いながらも、心無しか安堵した。
「去年の夏なんか、夜中にプール入る馬鹿もんがいて、困ったもんだったよ。」
「今年はそんなことできる奴はいねえだろうなあ。」・・・いつしか談笑に皆が時を忘れた。
短波放送が午前0時の時報を告げると、一同が顔を見合わせるようにT氏を見た。
「じゃあTさん、気いつけてな。」
「馬鹿言え。もし変な声が聞こえたら『着せれるもんなら、着せてみろ!』って逆に脅かしてやるよ!!」
と、意気込んで見せた。
・・・
「でもねえ、みんな心配してついて行ったんだって。そしたらやっぱり2階の女子トイレで『赤いちゃんちゃんこ〜・・・着せましょか〜・・・』って、女の人のすすり泣くような声がしたんだって。そしてその人がトイレに入った途端『ギャー!!』て物凄い叫び声が聞こえたんだって。みんなで見に行ったらねえ、
バッサリと何かに切られたような生首が転がってたんだって。そして首から赤い血が滴り落ちて、まるで『真っ赤なちゃんちゃんこ』を着ているような姿だったんだって。」
「やめてやめて!!それ、やだよ。怖すぎるよ!」
あまりの震撼した表情に、私は「ちょっと効きすぎたかな」と苦笑して、
「でもね、」と続けると、
「やめてよ!眠れなくなっちゃうよ!!」と声を震わせて怖がる子供を尻目に
「静かに!ここからが本当の話だから!」と前置きして、
「次の日よく見たら、その人は酔っ払って、トイレで寝てただけだったんだって。そして横に転がってたのはお酒の瓶で、そのおじさんは血じゃなくって、お酒を頭からかぶって、お酒だらけだったんだってさ。」と即興で作った話をおっ被せ、これ以上、怖がらないよう締めくくってやったのです。
「ねえ、こういううわさ、知ってる?剣道のお面を被ったら取れなくなちゃって、そのままその人の顔になっちゃったんだって。それからねえ、夕方になると誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえてくるっていううわさ、ねえ知ってる?パパも何かうわさ知ってたら教えてよ〜。」
どうも最近、小学校でお化け話が流行っているようでした。子供に執拗にせがまれたあげく、お風呂に入れたついでに、苦心惨澹の末、仕方なく中学時代に聞いたこの話をしてやったのです。
実に良く作られた怖い話です。私も中学生の頃この話を聞いて、その生々しい描写に背筋が凍る思いをしたのをよく覚えています。
しかし、残念ながら、この話には決定的な誤りがあります。
別項目で正常血圧は130/85以下と前述しましたが、興奮状態のときは160〜200以上に上昇することもあります。血圧の単位は水銀柱(mmHg)ですので、これを水圧に直すと13.6倍、よって最低でも130〜85mmHg×13.6=1768〜1156mmH2Oになります。つまり、血液の密度を水とほぼ同じとして概算すれば、頸動脈からの血液は最低でも1.8〜1.2m以上に飛散することとなり、体部に掛かることは、ほとんど無いのです。
よってこんな怖い話も「赤いカーテン引きましょか〜」とか「真紅のトイレルームにリフォームしましょか〜」というなんとも間抜けな台詞であれば文句ないのですが、血行力学的に見て『赤いちゃんちゃんこ』を着せることはほとんどできないのでした。
ところで何故、皆が同じ声を聞いたのでしょう?
『作り話だから』というのが正解ですが、ここはこのページの趣旨に則して、
集団ヒステリー(集団妄想)という群衆心理が作用したと解釈することができます。ある集団が同じように、一定期間、ストレスや不安、恐怖にさらされ続けると、パニックに陥り、やがて同じ妄想を経験するようになります。一般的な原因としては戦争や疫病など歴史的背景に起因するものから、御近所付き合いの中での確執など、ごく身近なものであったりします。ゆえに規模としては、中世の魔女狩り、政治活動や新興宗教団体などの社会現象から、都市伝説や幽霊屋敷など地域が限られるものまで様々です。暗示効果に左右されるため、大人に比べ子供が陥りやすいのも特徴で、かつて一世を風靡したこっくりさん(狐狗狸さん)が問題になりました。岐阜県のポルターガイスト町営住宅
(家の中でお皿が飛び交うなど)は有名な話ですね。個々人に精神疾患的な原因があるわけではないので、ある時期を過ぎると比較的早期に回復します。
子供は?というと、その日からおよそ一週間、布団に入っても眠れないと言うし、ひとりでトイレに行けなかったのは言うまでもありません。仕方なく午後8時半に一緒に消灯を余儀なくされた私は、そのおかげで飲みすぎることもなく、至って健全な生活リズムを取り戻したのでした。
諺はなじみの深い、いわば伝承文学にして民衆哲学であります。
『人の振り見て我が振り直せ』
そしてこの諺は近年の神経心理学のトピックスとでも言えるでしょう。
「皆がやるようなことをしなさい!」
常日頃、際立ったことをしては周囲を騒がせていた『おさむ君』を女手ひとつで育ててきた母は、彼の将来を案じていつも口癖のように言うのでした。
竹刀を片手に砂利っ子の子分を大勢引き連れて原っぱを駆け巡り、泥団子戦争や銀玉鉄砲対決ではいつも負け知らず、というより『おさむ君』に勝ったりしたらその後が大変です。小学校の頃から『番長のおさむ君』と皆から慕われておりました。徒党を組んで他校の生徒と乱闘事件を起こしては名を上げ、禁止されたバイク通学は何のその、全国ネットのテレビ公開生番組で20回(人)も勝ち越した腕相撲チャンピョンはやがて伝説と化しました。学校の人気者、町内いわんや他校でも有名人であったおさむ君ですが、やはりクラスの皆も乱暴者の彼のことをなぜか好きだったのです。かくいう私も小学時代、保安上の理由から立ち入り禁止となっていた区立公園の倉庫にかくれんぼ(缶蹴り)で入ったところを見つかり、年長であった『ガキ大将のおさむ君』に竹刀で尻を叩かれたことをおやじにもらったげんこつのような怖いながら温かい感触として記憶しております。
中学に入ったばかりの頃のことです。悪友といい気になって、繁華街を闊歩しておりました。当時、池袋の西口といえば、どこか憂いの漂う、不良のたまり場でした。「おい!お前ら小学生かよ!? 学校、言ってみろよ?」へらへらしながら他校の図体のでかい二人組が目の前に立ちふさがり、胸ぐらを捕まれました。まずい!と思ったが後の祭りです。このままやられることは目に見えていました。と、とっさに友人が機転を利かせたのか「ね・練馬中学です・・・」と、正直に答えてしまったのです。一瞬、相手はお互い顔を見合わせ、しばらくだまっていましたが「いいよ、もう行こうぜ。」と、何もなかったかのように去って行ったのでした。私は内心ほっとして、「いやー、やばかったなあ・・・。でも良かったなあ、あいつら何で行っちゃったんだろう?」というと、「『おさむ君(練中)』のことみんな知ってんだよ。俺たちに手出したら仕返しされると思ったんじゃないか?」なんていうエピソードも今となっては懐かしい限りです。
多感な青春時代の真っただ中、彼はある日、不思議な本に出会います。
「脳とは思考を創作する器官にあらず、重力場、磁場などと同様、仮定された『精神的エネルギー場』の中において、ある種のエネルギーを受けるコイルのような単なる受容体である」という何とも奇抜な説でした。念力によるミサイル軌道修正などをまじめに研究している東欧諸国のグループが発表した仮説でした。
「生命は全てこのまだ実態の定かでない『精神的エネルギー場』を媒介として存在している。人は誰しも個々人の自由な思考を基に生活し社会生活を営んでいるが、それは例えば島の1つ1つが海面上では独立しているように見えても、海の底では1つに繋がっているかのごとく統合されたものである。『精神的エネルギー場』から受けたエネルギーは脳の中で修飾、増幅され個々人の思想となり、あたかもそれぞれが個性を備えて独立しているかのように表出される。しかし、高僧や先鋭の哲学者など世の倫理を極めた者の目指す目的が世界の平和、統一であることに象徴される如く、その本体は共通したひとつの『場』である」という至って哲学的な内容でした。この裏付けとして引き合いに出されたのが力学を例にとって、場に作用が生じた場合の反作用の存在でした。怨念などの人の強い精神的エネルギーが作用することで、精神的エネルギー場に反作用としての歪みを生じ、それが『自縛霊』や『自殺名所』として人々に作用するという、まことしやかな眉つばの様な内容でした。この説は今から30年も前のものであり、巧妙な仮説に過ぎません。しかし、30年経った今、ある見地からすると実に正しいものだったのです。
人は行動のプランニングや開始、制止の要因を、他人もしくは周囲の環境に大きく依存していることが分かってきたのです。つまり他人の行動を常に真似するという本能があるのです。これがミラーニューロン(mirror neuron system:MNS)と呼ばれるものの本体です。サルの脳のF5領域、人の脳のBrodmann area44、45(言語領域)にあるとされます。ではなぜこの他人の真似をする働きが脳の言語領域にあるかというと、進化論に辿り着くのです。人がかつて類人猿以前の動物であったころ、意思の伝達手段は音声(鳴き声)とジェスチャーによって行われていたことは今の動物を見ても合点の行くところです。そしてこれらはざっと200万年の歳月で言語として進化し現在に至ったと考えられています。つまり、相手の意思を汲み、自分の意思を伝えることは、相手の動作の真似(ジェスチャー)から始まりこれが言語の起こりであることから言語、人の物真似が脳の同じ領域で機能していると推測されています。近年これがミラーニューロンシステム(MNS)として機能MRIや電気生理学的研究で実際に証明されているのです。
ミラーニューロンは前頭葉補足運動野、前運動野などの支配下にあり常に制御されています。この制御がうまく働かなくなったとき(前頭葉障害)、模倣行動、反響行為(CT図の※5)(真似を禁じても催眠術にかかったように目の前にいる人の真似をしてしまう。相手の言葉につられその仕草をしたり、相手が諺などの決まり文句を途中まで言うと勝手に後の文を続けてしまうなど)のような現象が起こるとされています。つまり世間でいわれるところの『模倣犯』、『自殺名所』とは、実はこのミラーニューロンの仕業だったという訳でした。
人もアリもミツバチも社会生活を営みます。ミツバチやアリは種固有の本能により社会を営み、人間は個人の自由な思想のもとに社会を形成しています。しかしこれは人間の儚い妄想であることが分かるでしょう。人は勝手に振舞っているつもりで、実はその行動決定因子の多くを周囲の環境に委ねているのです。
30年前『精神的エネルギー場』と仮説されたものは個人が感覚器から受ける周囲の環境であり、脳そのものが場の受容体であるという説こそ間違いでした。しかし受容体は脳に情報を送る目、耳を含めた五感であり、その与えられた情報をもとに脳の前頭葉の中で修飾、増幅が行われ、ミラーニューロンが働き周囲の環境になじむような個人の行動決定を行っていたのです。
秋の陽は釣瓶落とし。夕闇の迫るころ誰もいない部屋で一人、母親の鏡台の三面鏡を寄せてずっと先の世界を覗いていたずらしていると・・・
「地獄の入口に連れてかれちゃうよ!」なんてたしなめられたものです。誰しも幼い頃、この不思議な現象に強く心牽かれたことがあるでしょう。幾重にも反射を繰り返し鏡の枠を超えた光の通路の彼方にかすかに映る我が姿を覗く様に、今私たちに見えている世界とは、自らの心を映し出した合わせ鏡の向こうに見える世界、それは自分の心の幻影なのかもしれません。
ところで破天荒で暴れ者の『おさむ君』は一体どうなったのでしょう?バレーボールに熱血した青春時代を送り、今となっては風体こそ大柄ですが物静かでユーモラス、人当たりの良い朗らかな紳士です。相も変わらず人の心をつかむことにかけては天性のものを感じます。恩師であった平林先生がとうに亡くなった今、とある大手電機メーカーのお偉いさんを見て、幼少時代のことを知っている私たち以外に誰が『番長のおさむ君』だと分かることでしょう?
ほんのちょっとしたことで陥る対人関係の悩み。
以来、私は凹まずに
「今日はミラーニューロンの調子が悪いなあ」(正確にはミラーニューロンの制御ということですが)
と思うことにしています。
参考文献:Nobuyuki Nishitani, Martin Schurmann, Katrin Amunts,et al.Broca’s Region: From Action to Language.Physiology, Vol. 20, No. 1, 60-69, February 2005
我々のような職場にいると、人の臨終に立ち会うことも多く、そんな大切なことでさえ、日常の業務として捉えられがちです。
例えば、オートバイとトラックの衝突事故で心肺停止、救急隊が心臓マッサージをしながら運んできた26歳男性、瞳孔散大、頭部打撲(通常、脳挫創や急性硬膜下血腫を起こしています)、血気胸、心タンポナーデ(心臓が破裂し、心嚢という心臓の袋に血液が溜まってしまうため、心臓を圧迫してしまうもの)、大腿骨骨折・・・などというのは、残念ながら助かる見込みはほとんどありません。たとえ救命できても、多くは数時間から3日以内に亡くなられてしまいます。生死を扱う科の特性上、どこの病院へ行ってもこのような症例にはしばしば遭遇します。医師は「息子さんが交通事故で昏睡状態で運ばれてきました。現在救命処置中ですが、かなり厳し状態です。・・・」などと御家族に電話で第一報を入れなければなりません。そんな時、『振り込め詐欺』と間違われたら困るなあ、などと斜に構えてしまう自分が無性に情けなくなったりします。医療関係者が職場で怪奇現象を感じている暇は、まずないと言って良いでしょう。
「病院にいると、怖いことは無いんですか?」近しい人からは、たまに聞かれることがあります。
職場では周囲にいくらでも人が居るので、深夜でも気味が悪いと思うことはないのです
。夜中に「ギャー」という声が聞こえ、それが譫妄(せんもう)状態の入院患者さんか、屋外の猫の声であっても解釈のし様で、いくらでも想像を逞しくすることはできるでしょう。もし、自分に幽霊が見えたとしたら、それ自体は錯覚もしくは幻覚である可能性が高いので、自分が錯覚や幻覚を見るほど参っているという結論になるのです。
しかし、何十キロも人里離れた山奥や、ひとり登山や数キロ誰もいない北海道の浜などでのキャンプに出るとさすがに怖いことがあります。
もし、幽霊という物が自分の目の前に出たら、すでに自制が利かなくなっている可能性があるからです。つまり、気がつかないうちに蓄積されてきた強度のストレスから統合失調症(かつての精神分裂病)や鬱病を発症した可能性が否定できないということです。
今のところ世間で幽霊と言われているものは、いわゆる根拠のある自然現象の誤認、もしくは人間の錯覚、幻覚であることが多いようです。
もちろん、全てが解明されたわけではないので、それ以外の可能性もあるでしょう。
では、「幽霊の正体見たり、幻覚也」というなら全く恐るるに足らずか?というと、そうでもなく、実は幻覚こそ人間にとって、とても怖い物なのです。
『訂正不能な誤った認識』というのが『妄想』の定義で、その視覚情報によるものが『幻覚』ですから。
今ここに10人ひとが居て、「あそこからナイフを持った男がこちらを睨んでいる」と言った人がひとり居るとします。他の9人が「何言ってるんだお前、何もいないじゃないか」と、どんなに理路整然と言い聞かせても、幻覚を見ている本人にとっては絶対に受け入れられないことなのです。
アーノルドシュワルツェネッガーの『ターミネイター2』は多くの方が、ご覧になったことでしょう。
『人類絶滅の危機を救うべく、自分を理解しない警察や精神科医を相手に決死の覚悟で見えない相手と戦うヒロイン』をモチーフにした科学推理小説、
であり、観客は当然そういう視点で映画を楽しみます。
まさか、『麻薬中毒患者の幻覚』をテーマにした映画で「なんとまあ凶暴な女性だろう、幻覚の症状が強く気の毒に、あれじゃ周囲の医者や看護師はたまったもんじゃないなあ。」などと思いながら見ている人は絶対に居ないでしょうし、私も然りです。実際の幻覚はあそこまで具体的で、つじつまが合っているものはありませんが、『幻覚』、『妄想』とは実はあの映画の視点で見るように本人にとっては、全く周囲の状況が分からなくなってしまうものだということです。
まだまだ今の科学では証明できないこともあり、かつて心霊スポット・ファンだった私としては『幽霊』なるものを全く信じないわけでもありません。しかし、少なくとも解明されているものがいくつかありながら、冒頭の脳外科の疾患と同じくらい、一般の方への浸透が薄いのも事実です。
今の世の中で心霊現象、幽霊と言われているものは1つのカテゴリーの現象ではありません。自然現象、錯覚、幻覚、そして、もちろん、超自然現象も含まれていることでしょう。かつてその時代の科学で証明しきれないさまざまな物を、『心霊現象』としてまとめ上げたのです。例えば、『モーゼの十戒』で海が割れて海底に道ができるシーンも、ほとんどの方は、津波の予兆(引き波)であったことが分かるでしょうし、現代では火山の噴火や皆既日食を神のたたりと考える人がいないように、これらの現象は日々解明されつつあります。
私は二十年以上、医療に従事しておりますが、幸か不幸か一度も幽霊なるものを見たことはありません。信じる信じないは別として、もし、自分に幽霊なるものが見えたと自覚したときは、先ず、判断力のあるうちなら、強度のストレスから錯覚を見たか、鬱病、もしくは統合失調症などの初期ではないかと、専門医の門戸を叩くでしょう。霊と言われているものは、現在かなりの部分、説明できる物が多いのです。勿論、全てが現在の科学で証明できていないので、まだまだ未知なるものも、数多く残っています。これらが、今の時点では、いわゆる『本物の幽霊』と言うことになるでしょうか。
何百年先になるかは予想だにできませんが、いずれは社会の常識となり、また、その時代、時代の新たなる不可解な超常現象に、人は、ロマンとスリルを込めて『心霊現象』と呼ぶことでしょう。