以下の小論は、昭和音楽大学『研究紀要』第13号(1993 年)第15〜32頁に掲載されたものの原稿です。

 

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インド美学のラサ(情調)論の進展

―――「十の芝居」Dhanika注の立場 ―――

 

島田外志夫

 

1.    目的と内容

  ラサ[rasa]はインド美学の、とりわけ芸術学の最も重要な概念である。特に楽劇、叙事詩、抒情詩などの文藝作品はカーヴィヤ[kÂvya]と呼ばれるが、そのカーヴィアをカーヴィアたらしめる究極の力の探求として、ラサ論が成立したと考えられる。ラサ論として最初の著述は、楽劇の聖人とされるバラタ{Bharata}による、演劇の百科全書の性格をもつ『楽劇の教説(ナーティヤ・シャーストラ[NÂìyaçÂstra])』全37章のうちの第6、7章にまとめられている。

    日本での紹介は、恐らく、辻直四郎訳『シャクンタラー』の付録「サンスクリット劇入門」1)

で、その中で2頁ほどついやして概説されている。ラサには「情調」が訳語としてあてがわれている。それに西欧語訳 Stimung, sentiment が括弧内に記されているから、それに同調したものと思われる。また、ラサを生むべき心的状態であるバーヴァ[bhÂva]は感情(Gefühl, emotion)と訳されている。

  ラサは『ナーティヤ・シャーストラ』では喜怒哀楽等8種の情緒のそれぞれに対応する、8種が挙げられて、演劇においてラサを生むべき49種の心的状態との関係がかなり詳しく述べられている。

  後の時代に、第9のラサとして「平安(シャーンタ[çÂnta])」の存在が論議されるようになった。また、カーヴィヤのうちでも特に詩作品については、その真の意味としてのドヴァニ[dhvani]

が主張されるようになり、その存在の賛否両論の論議が交わされるやうになった。

  この小論の目的は次のようなことである。西暦にして900年代後半の人とされるダナンジャヤ[DhanaÜjaya]の『十の芝居(ダシャルーパ[Daçarðpa])』とその注釈、ダニカ[Dhanika]による『観察(アヴァローカ[Avaloka])』は、シャーンタ・ラサにもドヴァニにも否定的の立場であるが、シャーンタ・ラサについての部分には和譯2)があるが、その趣意はつかみにくく、またドヴァニについての部分は、英語訳さえ3)見られず、サンスクリット語の解釈にかなり困難な箇所もあるので、確実な訳を付けず、インドの芸術論がどのようなものかを概括できるように心がけ、そして詩の本質に触れる問題である「平安情調」と「音調4」(ドヴァニ又はドワニ)」に関する『十の芝居』の立場を、出来るだけ解りやすく紹介することを試みた訳である。。

 

2.ラサ論

  ラサの一般的な意味は、草木の「汁」、その「味」であろう。芸術学の概念としては、味じわわれることにより、喜びのなかに生じるのものであるから、「美味」の意味で使われたのであろう。

  『ナーティヤ・シャーストラ』第6章で、ラサ・スートラと言われる短文が提出される。

 

    素因状態(ヴィバーヴァ[vibhÂva])と反応状態(アヌバーヴァ[anubhÂva])と遊離状態(

ヴィアビチャーリン[viabhicÂrin])との結合よりラサが生まれ出る。

 

  スートラ[sðtra]()は記憶に適した重要項目の短文である。喩えや問答などにより、注釈的に詳説される。ここでは、「多くの調味料と薬草と菜類との結合よりラサが生まれ出る。」と料理に喩えられる。甘、苦、酸、鹹、辛、渋の六味が食材から生まれるように、様々な心的状態によって条件付けられた持続的な状態(スターイバーヴァ[sthÂyi-bhÂva])、即ち主要な情緒が、ラサというものに至ると続く。ラサと呼ばれるのは、味わわれるものであるからというのである。

 

    多くの食材と多くの調味料により調えられた食事を、食通たちは享受するように、智者

たちも同様に、状態と演技と結びついた主要な情緒を、心によって味わう。その故に演

劇のラサ(味わい)と伝えられている。

 

  以上がラサ論の核の部分である。まづは数種の状態があり、それらが主要な情緒において結びつき、鑑賞者により味わわれる。この心の味わいがラサである。ところで、主要な情緒は、恋情・笑い・怒り・悲しみ・勇ましさ・驚き・憎しみ・恐れの8種であり、そのそれぞれに対応したラサが8種ある。これらのラサが賞味されるのである。

より詳しい理解には、これらの「状態」についての知識が必要であるが、それらの詳細は同書の第7章にまとめられている。素因状態と反応状態とは不定数なので数に入れず、反応状態の部類と見なされる生理現象(サートヴィカ[sÂttvika(-bhÁva)]8種、遊離状態33種、主要情調8種の合計49の諸状態が数えられている。以下に、それらを説明する。

  素因状態[vibhÂva]は、識別の意味であり、また原因と同義語である。これによって、言葉と身振りによる演技(アビナヤ)に宿る多くの意味が了別されるからである。接頭辞の"vi" は、分離の意味である。実際にはラーマやシーターなどの登場人物のことであり、また場所や時節等の環境である。

   反応状態[anubhÂva]は、接頭辞"anu" がしめすように、随行する状態で、素因状態を原因として反応する状態である。実際には眉の動きや流し目等の、内的感情を表現すべく変貌した、言葉・身体・手足の演技に結びつくものである。

   生理現象[sÂttvika(-bhÁva)]は、反応状態の性質のものであるが、“sattva“ なるものから生まれることから類別されたと『ダシャルーパ』の頌句は言う。“sattva“ は、男性名詞としては、仏教書では「衆生・有情」とも訳され、また菩提薩埵の「薩埵」と音写されているが、中性名詞としては、人間存在の原質とでも言う成分である。心的状態として、硬直・気絶・逆毛(鳥肌)・発汗・失色・身震・落涙・絶句の8種が挙げられている。

遊離状態[vyabhicÂri(-bhÂva)]は、“vivy離れ、“abhi“ 向い、"cÂrin" 動くという意味で、主要情緒において、あたかも大海における波のように、浮いたり沈んだりする感情群である。以下、『ダシャルーパ』の記述にしたがって、訳語のみを列挙する。5)

自己嫌悪、衰弱、杞憂、疲労、充実、無感覚、喜悦、失意、叱責、心痛、動揺、嫉妬、不堪忍、驕慢、追憶、死、酔狂、睡眠、眠気、目覚め、羞恥、癲癇、茫然、思慮、無気力、昂揚、推理、偽り隠し、病気、狂乱、落胆、焦燥、無分別。

以上の33種は、それぞれに適した素因状態と反応状態等によって演技され、遊離状態を助長して、主要な情緒を表出させる。この8種の情緒に対応して、それぞれ味わわれて、8種のラサが生まれる。

享受されたラサをバーヴァ(情緒、感情)と対比して以下に示す。ラサの訳語は、先人を偲んで、敢えて辻直四郎訳のものにした。

 

    (bhÂva)                             (rasa)                              (辻訳)

  rati(ラティ)         情愛         çåÝgÂra(シュリンガーラ) 恋情

  hÂsa(ハーサ)        笑い         hÂsya(ハーシヤ)               滑稽

  krodha(クローダ)     怒り         raudra(ラウドラ)             憤激

  çoka(ショーカ)      悲しみ       karuÞa(カルナ)                 悲愴

  utsÂha(ウトサーハ)     勇ましさ    vÕra(ヴィーラ)                  勇武

  vismaya(ヴィスマヤ)   驚き        adbhuta(アドブタ)             奇異

  jugupsÂ(ジュグプサー)憎しみ      bÕbhatsa(ビーバツァ)         憎悪

  bhaya(バヤ)           恐れ         bhayÂnaka(バヤーナカ)     驚愕

 

3.シャーンタ(平安)ラサ

    『ナーテリヤ・シャーストラ』ではラサを8種と明言しているが、第6章の最後の部分に、第九のものとしてシャーンタ・ラサとシャマ(寂静)・バーヴァとの記述がある。これは恐らく後世に追加されたものと考えられる。6)

  前節「ラサ論」の所では省略したが、八種のうちの一つのラサと情緒、それと関係する諸状態との関係がここに示されているので、ラサ論の知識をより確かなものとするために、シャーンタ・ラサの成り立ちの様子を、第6章の追加部分により翻案する。

  平安情調は寂静情緒からなり、解脱に転化するものである。その素因状態は、真実の知識・世俗事への無関心・心の清浄などであり、その表現は以下の反応状態によって演技される。すなわち、自己制御・自我の静観(禅定)・精神集中(総持)・信心(随持)・一切生類への憐み・

行者の印の保持等の反応状態によって演技される。

  平安ラサの遊離状態は、自己嫌悪・追憶・充実であり、さらに、全ての住処の清潔、生理現象である硬直・逆毛立ちが加えられている。

  平安ラサには、苦しみも楽しみも憎しみも無く、あらゆる生き物において公平である。快楽等の8種の情緒、或いは寂静をも含めた9種は、根本原質[prakåti]であるシャーンタから転変したものであり、ふたたび根本原質に帰入する。

このようなシャーンタ・ラサの追加は、精神性のより高い境地にある、高度の芸術性の存在が知られていたことを証明するにほかならない。

 

4.平安ラサに対する『ダシャルーパ』の立場

それでは『アヴァローカ』注により、シャーンタ・ラサに対する立場を以下に翻案する。

先づ第2章第4頌で、主人公の四つの性格の一つとしてのシャーンタ(静けさ)が定義される。慎み深い等の一般的な美徳を備わったバラモン僧などで、「信念が固く物静かな人[dhÕraçÂnta]」として、他の性質である「信念が固く高踏の人[dhÕrodÂtta(dhÕra-udÂtta)]」と区別されている。前者は、世俗劇(プラカラナ[prakaraÞa])の主人公たちが暗示されているのに対して、後者は、『竜王の喜び』の主人公ジームータヴァーハナを代表例としている。 こちらの定義は、克己心が強く、 非常に深みがあり、忍耐強く、自己を誇張すること無く、堅実で慎み深く、約束を守る人柄とされ、前者よりも一層上位の人物と思われる。したがって、前者のシャーンタは、單に靜けさを表す語で、ラサとしての意味は含まれていないと考られる。

ジームータヴァーハナの性格を示す例として、徹底した自己犧牲の場を選ぶ。

 

  雲乘太子「わが身にはなほ肉の殘れるあり、その血はなほ一々の筋より流れ盡きず、

汝(金翅鳥[garuÈa])は今に飽き足らず、何故ありて猶豫せるや。」

〔ハルシャヴァルダナ/高楠順次朗譯『龍王の喜び』X-15、(世界文庫刊行會、大正

12年)p.102

 

この「ジームータヴァーハナがディーローダーッタ(信念が固く高踏の人)である。」とする『ダシャルーパ』の立場に対して、インド注釈の通例として、反対意見[pðrvapakêa]が(それが実際になされたものか、予想して立てられたものか、いづれの場合もあるが)提示される。

その論旨は、太子は「高踏の人」ではないとする。高踏というのは、卓越した存在であり、征服を望む性質においてのみに適している。しかし太子は征服欲が無い性格の人として詩人により描かれている。寧ろ過度の静寂を本性としていて、また最上の慈悲心のある人であるから、太子には欲を離れた人のような寂静の性質[çÂntatÂ]がある。また、劇中で、主人公に王国支配の幸福を捨てさせながら、他方、マラヤヴァティー[MalayavatÕ]姫への情愛を描写しているのは、高踏の人の場合には不具合である。さらに、さきほどの「信念が固く物静かな人とは、一般的な美徳を備わったバラモン僧などである。」というのは、慣習的な句であって、実際のことではないから、両者の区別は無く、バラモン僧ではない太子が「寂静」の人であることを妨げるものではない。このように、単なる寂静の意味を、太子の性格に引きつけ、ラサの意味に転化させようとする。

これに対して答える。先づ、さきほどの「高踏というのは、卓越した存在であり、征服を望む性質においてのみに適している。」という定義は、太子の場合にも否定されない。なぜなら、征服を好むということは、一義的なことではなく、英雄的行為、自己犠牲、慈悲心などによって他の人々を越える人が、征服を好む人であって、他人を害して財物の略奪に奮進する人が征服を好む人なのではない。次に、太子たちは命を捨てても、他人に利益を得させるのであるから、全てに勝っている。故に、信念が固い高踏の人である。さらにまた、マラヤヴァティー姫への情愛の描写は、シャーンタ・ラサを拠り所とするものではなく、かえって、物静かな(シャーンタ)主人公であることを妨げている、と答える。つまり、太子は自己犠牲などによって征服する人であるから高踏の人である。高踏の主人公には、バラモン僧たち物静かな主人公には無い、情愛もあるということでもある。

佛陀も太子も、慈悲深いと言うことでは違いが無いが、情愛を伴わない慈悲と、情愛を伴う慈悲との違いにより、両者は区別される。故に、ジームータヴァーハナ太子は「信念が固く高踏の人[dhÕrodÂtta]」であると主張する。

以上の部分は、単なるシャーンタと、ラサとしてのシャーンタを取り違えて、太子の性格をシャーンタに近づけようとする反対意見に対して、あくまでもシャーンタでないほうに向けようとする論議であり、本来のシャーンタ・ラサ否認の論陣とは言えないが、第2章の主人公の性格のところでのシャーンタという単語が、シャーンタ・ラサ容認として受け取られないための布石ともなっていることは否めないであろう。

以下に、第4章の、楽劇におけるシャーンタ・ラサ否認の論議の翻案に進むことにする。

『ダシャルーパ』第4章第35頌の前句は主要な情緒の列挙であり、それに続く後文は「寂静

[çama]をも或る人たちは加えて言うが、楽劇においてはそれの養育は無い。」と、主要な情緒を8種に限定している。その注釈『アヴァローカ』は、「シャーンタ・ラサについての論述者の間に、多くの意見の相違がある。」と、真っ向から、シャーンタ・ラサの問題として扱っている。

@  シャーンタ・ラサは存在しない。バラタ師は、それの素因状態以下の状態を述べておらず、また、定義も作っていないからである。

A  現実的に言って、それは存在しない。無始より以来連綿として流布した、愛欲と憎悪とを

断絶することはできないからである。

   B  勇武や憎悪に含まれるからである。

   以上のように語る人たちは寂静情緒(シャマ・バーヴァ)をも望まないと言い、以下に注釈者自身の意見を述べる。いかなる場合にも、演技(アビナヤ)を本性としている正楽劇(ナータカ[nÂìaka])等においては、我々は寂静が主要情緒であるとは望まない。全ての動きの解消した姿である寂静は、演技には結び付かないからである。或る人たちが言うように、『竜王の喜び』においては寂静が主要バーヴァであるとすれば、太子の姫への情愛が作品を通して展開されることと、最後に持明転輪聖王となることとが矛盾してしまう。なぜなら、素因としての一人の人物に反応されるものとして、対象への愛欲と離欲とは両立され得ないからである。ここでは、慈悲的な勇武サラの勇ましさのみが主要情緒であることが望まれたのである。そこでは、恋情(シュリンガーラ・ラサ)が従属的なものとなり、転輪聖王となるに至るという大筋の結果と矛盾しないからである。概して、他者への奉仕に従事するという征服欲の人が、結果を実らせるということは、既に述べた。以上のことから、主要情緒(スターイ・バーヴァ)は8種のみである。

   第4章第45頌は、寂静の長ずること、即ちシャーンタ・ラサは、言及不可能であると告げる。この頌は、注釈の中の反対意見のに対する答えとして扱われている。先づ、その反対意見を述べる。シャーンタ・ラサは演技され得ないものであるから、演劇に導入されないとしても、微細な動き、過去の事柄など、どんなことでも、言葉によって伝えることが知られているので、詩作品の領分のものであることは妨げられないのではないか、と問う。それに答えた第45頌の後文は、「寂静の卓越は言い表せない。喜び等がそれの本質(アートマン[Âtman])であるから。」と言う。注釈等では「寂静の卓越」をシャーンタ・ラサとしているが、それは「言い表せない」のであるから、暗示の方法を採ったのであろう。この部分の『アヴァローカ』注を以下に翻案する。

   シャーンタが、もしそのようなものであるとしたら、如何なるものかと、次の頌を引用する。

 

      そこには苦もなく,楽もなく、心痛もなく、憎悪も情欲もなく、如何なる欲望もない。

      シャーンタ・ラサは、全ての状態において、寂静を主要なものとしていると、賢人の帝

王によって述べられた。(作者不詳)

 

という定義がある。それ故に、シャーンタ・ラサは、解脱の状態においてのみ、すなわち、アートマン(個我)それ自体を捉えるという相貌において出現される。アートマンの姿は言説不可能である。そこで、『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャド』(V.9.26)で、「それはこれでもない、これでもない。[sa eêa neti neti]」と、他(の言及)を却下した形で告げられたのであった。ところが、そのようなシャーンタ・ラサに共鳴する享受者はいないのである。そうであっても、それの介在となった寂静は、喜び、慈と悲、喜捨として現れるものであり、この四つの所作はそれぞれ、開口、拡張、振動、散乱の形態であると言うことで、シャーンタ・ラサの享受が考察されたのである。(認めた訳ではない。)

 

5.ドワニ論

   美学上の概念としての"dhvani" は、西暦にして800年代中頃、カシュミールの人アーナンダヴァルダナ[‚nandavardhana]の著書「ドワニの光明[DhvanyÂloka]」によって知られる。これはインド美学、とりわけ詩学における画期的な書物と言われ、それまでの詩学での根本概念の考察の集成であり、詩作品の本質、すなわち詩を詩たらしめる根本的な要因を、ドワニという概念に統合しようとする体系に基づいて述べられている。それというのも、ラサは詩作品(カーヴィヤ)の本質と考えられても、それは特に演劇的表現の考察から生まれたものである。それに対して、もっぱら言語的表現による芸術詩においては、それ固有の概念が独自に考察されることも可能である筈であった。そこで、それ以前では学派を成す位の重要な概念であった、装飾法や文体法などを組み入れた上で、 バラタ聖人に由来するラサ論をドワニの体系に統合した、新しい美学の可能性が開かれたということであろう。詩句の考察は、当然のこととして、語句の考察に向かう。以下に、アーナンダヴァルダナのドワニ論を要約する。7)

   詩句の意味は、直接の言辞によるもの(ヴァーチヤ[vÂcya])と、含蓄によるもの(プラティーヤマーナ[pratÕyamÂna])とに分けられる。前者は文字通りの語句の意味であり、後者は語句の意味とは別に顕現される意味であり、女性においての魅力[lÂvaÞyam iva-aÝganÂsu]U-4)に例えられる。 顔や手足の形態そのものの美しさではなく、全体から受け取られる美しさのことである。詩であれば、文法や語彙に精通しただけでは理解できない「意味」である。これは又、事実として顕現されるべきもの、詩句の修辞的な装飾法を以て顕現されるべきもの、 ラサとして顕現されるべきものの三つに分けられる。これら顕現されるべき意味[vyaÝgya-artha]は、直接に表現された語句を従属させて顕現されるのであり、そのような詩の種類がドワニと呼ばれるのである。

 

       意味であれ語句であれ、自らの意味を従属させて、意味を顕現する詩の種類がドワニ

       であると、賢人たちにより語られている。 (『ドヴァニアーローカ』T―13)

 

   これがドワニの定義として知られているものである。『ドヴァニアーローカ』の本来の目的は、

これまでの詩学上の概念全てをドワニ論として統合することであり、個々の概念を細かく検証することに全体が費やされて、体系的ではあるが、叙述の流れは必ずしも論理的であるとは言えない。その全体から伺われる体系の骨格のみでも知ることは、いくぶんかはドワニの理論の概括を得ることの手助けとなるかもしれない。

   ドワニは2種に分けられる。「言辞そのままの意味の表現が望まれないもの[avivakêita-vÂcya]」と、「言辞そのままとは異なった意味の表現が望まれるもの[vivakêita-anyapara-vÂcya]」とである。

   前者のドワニは、更に、「言辞そのままの意味が他の意味に移行したもの[artha-antara-saÛkramita-vÂcya]」と、「言辞そのままの意味がすっかり取り払われたもの[atyanta-tiraskåta-vÂcya]」とに分けられる。つまり、詩句の言葉の意味が、それとは別の意味に変わって受け取られる場合と、詩句の言葉の意味が全く取り上げられない場合とである。

   前者の例。

 

      もろもろの美徳は、賞賛者により取り上げられて生まれ出る。

蓮華たちは、太陽の光の恵みを受けて、蓮華となる。

 

  この詩の場合、2番目の「蓮華」がそれであり、語の意味が他の意味に移行している。

  後者の例。

 

    太陽にその美しさが移ってしまひ、霧雨によりその円形が覆われ、

    吐息により盲目となった鏡のやうに、月は輝いていない。

 

  この詩の場合、盲目[andha]がそれであり、語の意味が取り去られている。

 

 以上のように、詩の語句の分析により、それぞれにドワニがどのように現れているかが考察され、ドワニ自身が、実例を伴って分析されている。

  さて、ドワニの最初に分類された2種のうちの後者「言辞そのままとは異なった意味の表現が望まれるもの」は、更に「顕現の階梯が観察されないもの[asaÛlakêya-krama-vyaÝgya]」と、「顕現の階梯が観察され得るもの[saÛlakêya-krama-vyaÝgya]」とに分けられる。この前者は、ラサ、バーヴァ、それの現前と鎮静が挙げられ、それらが本体として現れでるときには、ドワニの本質であると確定される(U―3)。このような表現で、ラサとドワニとの一体感が述べられている。しかしながら、ラサが文章の意味に従属している場合には、ラサは修辞的な装飾法の一つであって、ラサヴァド・アランカーラ[rasvad-alaÛkÂra]と呼ばれ(V―4)、これらが実例を以て考察される。次に、後者「顕現の階梯が観察され得るもの」は、更に「語の力を根底とした(ドワニ)[çabda-çakti-mðla]」と、「意味の力を根底とした(ドワニ)[artha-çakti-mðla]」とに分けられる。これらの分析と例証とは続くが、ここではこれ以上のことは差し控えよう。

 

6.ドワニ論に対する『ダシャルーパ』の立場

  シャーンタ・ラサの養育を否定して、ラサを八種と限定した主文(カーリカー、『ダシャル−パ』W-36)に続く散文注(ヴリッティ)において、諸情緒が芸術詩(カーヴィヤ)とどのように関係するかとの問題を提起し、先づは『ドヴァニアーローカ』の陳述に沿って、ドワニ説を要約した形で始める。ここでは更に、原文の翻案とその解説という形で、以下に述べる。

 ドワニ論への反対者は、次のように、ドワニ論の諸概念を否定して論難する。

語句の意味がそのまま表現内容である、語と表意との関係[vÂcya-vÂcaka-bhÂva]は存在しない。それ自身の語によって告げられることが無いからである。例えば、シュリンガーラ・ラサ(恋愛情調)の詩において、シュリンガーラという言葉やラティ(情愛)という言葉は直接には聞かれないからである。これらの言葉は、養育されて成り立ったものとして、名づけられた言葉なのである。例え、それらの言葉が詩のなかで聞かれたとしても、素因以下の諸状態を通して成立したものがラサなのであって、それらラサ自身の命名だけによるものではない。

複数の事物に共通した性質があるゆえに、第二の意味が隠喩として存在する場合の、諷意され諷意する関係[lakêya-lakêaka-bhÂva]もまた存在しない。共通するものの言明である、諷意する語句の使用が無いからである。例えば、「ガンガー河にある牛舎[gaÝgÂyÂÛ ghoêa]」などの語句で、文字通りでは河の流れを意味するのであるが、その流れのなかに牛舎があることなどあり得ないので、それ自身の意味を脱落したガンガー河という語は、自明のものとして隠喩された河岸を諷意するのであると、ドワニ論は説く。それではどうか、主人公などの言葉はそれ自身の意味を脱落しないで、如何にして他の意味を諷意するのであろうか。また、誰かが、目的も動機もなく、第一義が演ぜられているときに、近似な動きを演ずるだろうか。そこでは「若い獅子」などと同様に、二次的な意味に関わる、グナ(特性)やヴリッティ(様式)などの他の概念によっても、推定されない。

もしも語表示によりラサの起こりがあるとすれば、単に語と表意との関係にだけ心が通じるけれど、非情調的な人にも、ラサの享受があることになってしまう。

また、想像上のことではない。なぜなら、異論なく、すべての芸術享受者たちのうちに、ラサの享受が起きるからである。

以上のようにドワニ論は反駁されたので、ドワニ派の人々は、次のような概念を持ち出したのである。名義的[abhidhÂ]、諷意的[lakêÞÂ]、二次的意味の[gauÞÕ]8など、直接表現以外に想定された力(シャクティ)とは別に、露現[vÂcya]の特徴をもつ語の働き、ラサ[rasa]、装飾[alaÛkÂra]、事柄[vastu]の三種を要求した9。とすれば、素因・反応・遊離などの状態(バーヴァ)からラサが得られるが、その生起が如何にして直接表現(ヴァーチヤ)であり得るのだろうか。例えば、カーリダーサの叙事詩『王子の誕生』において、

 

    山の娘は、しなやかに揺れるカダンバ華のやうな手足によって、感情(バーヴァ)を発

露して、あちこち動く眼により一層美妙な顔をして、横を向いて座ってゐた。

(クマーラ・サンバヴァ[KumÂra-sambhava] V―68)

 

となどにおける、情愛から生まれた特定の有様である、山の娘の反応状態のように、パールヴァティー(山の娘)の特性である素因状態の描写でもあり、言葉が無くても、シュリンガーラ・ラサの伝達が成り立つている。他のラサの場合にもこれは適正である。

ラサの場合だけではなく、事柄(ヴァストゥ)の部門においても同様である。例えば、

 

    お行きなさい、法師の方よ。安心です。あの犬は今、ゴーダーヴァリー河の中州に住む

       獰猛な獅子によって殺されました。

となどにおいて、「行くな」との禁止の理解が、語が無くても顕現[vyaÜjaka]の力に基づいている。

   同様に、装飾法(アランカーラ)の部門において、例えば、

 

      ゆらし眼の女よ。魅力と輝きとによって満たされた周囲において[diÝ-mukhe]

    いま微笑んでいる貴女の顔において[mukhe]

    もし、海が少しも波立なければ、思ふに、それは明らかに、

[jala]の集まり[rÂçi](愚鈍[jaÈa]の集まり[rÂçi])である。(アーナンダヴァルダナ)

 

となどにおいて、[diÝmukhe][mukhe]との同型、[jala][jaÈa]との発音の類似などがある。「月に似た、美しい顔の蓮華」などの比喩等の修辞的装飾の会得は、顕現[vyaÜjaka]であると結ばれる。

  しかしそれは、推理の修辞法から生まれるものではない。伝達されない意味へ配慮することが無いからである。例えば「太ったデーヴァダッタは昼は食べない」ということは、夜に食べると推測される。これはドワニの顕現とは異なったものである。

  また、ドワニは文章の意味[vÂkya-artha]でもない。ヴィアンギヤ(顕現)が、第三の隠れ場所の一種となるからである。それというのは、「お行きなさい、法師の方よ。」などでは、語の意味の領域である名義[abhidhÂ]という第一の隠れ場所を通り過ぎ、動詞と名辞との結合からなる文法の領域である文章の意味という隠れ場所を通り過ぎ、第三の隠れ場所に進んだ、否定を本質とする顕現されるべきのもの[vyaÝgya]という意味が、顕現する[vyaÜjaka]能力に従って明確に輝く。故に、ドワニは文章の意味ではない。

   ここで、真の趣旨論者[tÂtparya-vÂdin]と渾名される『アヴァローカ』は、ドワニ論への反駁を述べる。

   それでは如何に。第三の隠れ場所を領域とすることは、聞かれない語の意味である真の趣旨[tÂtparya]のある「毒を食え」などの文章、すなわち否定の意味の領域において、文章の意味が伝達されているではないか。そこでは、ヴィアンジャカ(顕現)論者によっても、真の趣旨が文章の意味であることに導かれるだろう。ドワニが真の趣旨とは別のものであるというのであるとしても。

   これに対して、ドワニ派からの答えが想定されて述べられる。

   そうではない。文自身の意味は、第二の隠れ場所に停泊しないのであり、第三の隠れ場所は存在しないからである。文それ自身が禁止の隠れ場所なのである。第二の隠れ場所である文法的な規定において、動詞と名辞との結合が起こらない。話題につれて父が語るとき、子供には毒を食う命令とはならないからである。

   また、ラサを従属的にした文において、素因状態の会得を意味する第二の隠れ場所では、ラサは認められないからである。そこで教説詩句を引用する。「この文意が、自身の意味に止まらず休息しないで赴く目的地は、それに適した目的地である。他方、自身の意味に止まり休息して滑り込む場合には、この文意は、至る所、ドワニによって存立するのである。」と、至る所、諸ラサがヴィアンギヤ(顕現)されている。伝達の事柄によるものと装飾によるものとについては、ある場合には直接表現であり、ある場合には顕現である。ここにおいてもまた、顕現が優位に会得されるところにドワニがある。それ以外の場合には、従属的顕現[guÞÕbhðta-vyaÝgya]である。これは、顕現が従属的となっている、別の詩の種類である。ここで『ドヴァニアーローカ』から二つの主文を引用する。

 

      意味で語句でも、それ自身の意味を従属的にした意味が顕現された詩の種類が、ドワニ

であると、賢人達により語られた。 T―13)

     他方、主要な文章の意味においてラサ等が部分である詩においては、ラサ等は修辞的装

飾であるというのが私の考えである。(U―5)

 

    このあと短かく、ドワニ論の重要な概念の要約的な羅列があり10、そこでは、「顕現の階梯が観察されない」ドワニが主要なものとして会得されていて、ラサ等は従属的な部分での、「ラサを有する修辞的装飾」なのである。

  以上の、ドワニ論からの想定された回答に対して、『ダシャルーパ』の主文が述べられる。

 

     言葉で表されたのであろうと、頭の中だけにあって表されなかろうと、動詞が名辞たち

と繋がれたものが文章の意味である、と同様に、主要な諸情緒は、他のものたちと繋が

れているのである。(W―37)

 

  例えば、日常聞かれる動詞のある「牛を連れて来い。」等の言葉、もしくは動詞の聞かれない「扉を、扉を。」等において、語自身の理解に従った話題の意志の故に、統覚器官の中に位置している動詞が、名辞に繋がっているのである。同様に、詩作品においても、ある時は、語自身の理解に従って「可愛らしい新妻は喜びに。」となどにおいて、またある時は、話題の意志の故に、又は、設定され語られた素因以下の諸状態の必然的な関係によって、直接に感受者の心に展開されたものが、快楽等の主要な情緒である。それぞれ自分に属する素因・反応・遊離状態を、或いは、それぞれの語を伴って、心的作用が連続して、最上の成熟に導かれた快楽等は「文章の意味」なのである。

  また、無義語[apadÂrtha]は文章の意味ではないと言われるべきではない。なぜなら、目的に到達させるという真の趣旨[tÂtparya]の力があり、人間のでも人間のでなくても、言葉すべては結果を目的としている。それを目的としなければ、理解は為されないから、狂人などの言葉のようである。

  また、詩作品の語句に関しては、あるものが有れば他のものが在り、あるものが無ければ他のものが無いとの関係よれば、この上ない快楽の享受の有無が、提示されても提示されなくても、実際の対象が他の目的を執らない故に、喜び自体の出現のみが結果として理解されるのである。

  以上のようであるから、また、歌などの快楽を生むものにおいても、語表現され語表現する関係は適用されなくてはならない。色々な素因等の状態の集合を知る人たち、そしてこのような情欲以下の諸情緒の修習のある人たちにのみ、喜びが出現するからである。だが、この関係に過度に執着することはない。

  また、この種の文章の意味の説明において案出された、名義等の能力の支配力によってのみ、

文章の意味全体が理解されるのであるから、他の能力の案出は徒労である。

  以下に、ダニカ自身が著したという、伝承されなかった書『カーヴィヤ・ニルナヤ(詩の決着)』

から七つの頌句が引用される。しかしながら、以下については、著者の理解が至らない部分も未だあり、また紙面の都合上、別の機会に取り上げて完結に導きたい。

 

7.むすび

  『ダシャルーパ』のドワニ論に対する立場は、ラサはヴィアンギヤ(顕現、発露、暗示)によるものではないということである。それはあくまでも、各種の状態により生まれる情緒によって享受されるべきものであり、最上の喜びの感情を本質とした甘美を、享受者にもたらすものである。また、ヴィアンギヤに基づくドワニは「文章の意味」乃至「趣意」であり、特別にその存在を宣揚することもない、という二点に絞ることができるだろう。特に『アヴァローカ』の立場は、ドワニなどという新しい美的概念により、ラサが曇らされることないように、ラサの擁護に熱弁を奮ったことにより、ラサ学派と名付けられているのであり、ラサ論の進展に特別の貢献があったわけではない。進展という言葉を使うとすれば、本来宗教的に重要なシャーンタ(寂静)をラサに加えること、そして、唯一のラサとしてのシュリンガーラ(恋情)の宣揚などは、これ以後の最大の進展ということになるだろう。

 

 

【参考文献】

(原書)

R.S. Nagar NÂìyaçÂstra of BharanuÞi with AbhinavabhÂratÕ of Abhinavagupta, vols. 1-4. (Delhi, Parimal Pablications, 1981)

T. Venkatacharya : The Daçarðpaka of DhanaÛjaya with the commentary Avaloka by Dhanika and the sub-commentary LaghuìÕk by BaììanåsiÛha. (Madras, The Adyar Library and research centre)

J. Pathak : The DhvanyÂloka of §rÕ @anandavardhana with the Locana sanskrit commentary of §rÕ Abhi-

  navagupta (VÂrÂÞsÕ, Chowkhamba VidyÂbhavan, 1965)

(概説書、研究論文等。注に出されたものを除く)

S. K. De : Some problem of sanskrit poetics. (Calcutta, Firma K. L. Mukhopadhyay, 1959)

K. Krishnamoorthy : Essays in sanskrit criticism. (Dharwar, Karnatak University, 1964)

J.L. Masson & M.V. Patwardhan : §Ântarasa and Abhinavagupta's philosophy of aesthetics. ( Bhandar-

kar Oriental Series No.9, Poona, 1969)   

V. Raghavan & Nagendra : An introduction to Indian poetics. (Bombay,etc.,Macmillan and company limited, 1970)

島田外志夫『詩的感動としてのラサ』(印度学仏教学研究第21巻第2号、昭和48年)pp. 117122

島田外志夫『詩の起源の解釈学』(印度学仏教学研究第22巻第2号、昭和49年)pp. 111117

島田外志夫『インド音楽の美学的裏付け』(岩波講座「日本の音楽アジアの音楽」第6巻)pp.

           235254



【注釈】

1) カーリダーサ/辻直四郎訳『シャクンタラー』(刀江書院、昭和31年)p.175〜。なお、この付録において、「詳しい知識を求める人のために」として、次の概説書三部と、サンスクリット語理論書の英語訳二部とが挙げられている。

Sylvain Lévi : Le théatre indien. (Paris 1890)

    Sten Konow : Das indische Drama. (Berlin und Leipzig. 1920)

A. B. Keith : The Sanskrit drama. (Oxford 1924)

Manomohan Ghosh : The NÂìyaçÂstra. vol 1. (Calcutta, 1951)

G. C. O. Haas : The Daçarðpa. (New York 1912)

) 上村勝彦『インド古典演劇論における美的経験』(東京大学東洋文化研究所、平成2年)pp.259 269 

3)  ヒンディー語全訳はある。

      BholÂçaÞkar VyÂs : HindÕ Daçarðpak, (VÂrÂÞasÕ, 1962)

4) 拙訳。初出は、島田外志夫『音調玄味雑記一』(印度学仏教学研究第23巻第2号、昭和50年)p. 97

5) 遊離状態の記述の順序は『ナーティヤ・シャーストラ』と『ダシャルーパ』とでは異なっている。『ナーティヤ・シャーストラ』については、注2)の書に和訳があるので、ここでは、出版はされていないが、修士論文の拙稿にしたがって、『ダシャルーパ』の順序により、多少修正したものを挙げる。

 

6) この問題については、上村勝彦、前掲書、p.200、「注1」を参照。

7)   『ドヴァニアーローカ』の内容については、詳細なものも概説的なものも、数種の詩論書等に紹介されている。

      S.K.De : History of sanskrit poetics, (Calcutta, 1960) pp.U-138175.

P.V. Kane : History of sanskrit poetics,(Delhi, 1961) pp.199201.

      K.Krishnamoorthy : DhvanyÂloka and its critics, (Mysore, 1968)

      M.M.Sharma : The dhvani theory in sanskrit poetics,(Varanasi, 1968)pp.59154.

G.Vijayavardhana : Outlines of sanskrit poetics,(Varanasi, 1970) pp.101123.  

島田外志夫、前掲書、pp97102

上村勝彦『インド古典詩論研究』(東京大学東洋文化研究所、平成11年)pp.67236

8 これら三種は、力(シャクティ[çakti])を装飾するので、形容詞女性形になっている。

9 『ドヴァニアーロカ』では、ヴァーチヤとは異なるものとしての、プラティーヤマーナの3種としている。ここでは、敢えて取り違えをしたのだろうか。

10 本稿の7〜8頁に述べられた概念の列挙。