《 日本語への意見 》

 

2008/3/26> 〜〜 カタカナ語で苦勞 〜〜

  「ブログ」といふ言葉が、何時のまにか流通してゐる。意味を調べようと、英和辭典を引いても出てゐない。馴染の天狗壽司のあるじに聞いたところ、”web log” の “we” が聞き取れずに、“blogだけが殘つた結果ではないかとの説を聞き出せた。 念のため web を引いたところ、「蜘蛛の巣」とあつた。 電腦ではnet と 同義語と考へてもよいのかな。また、log ëüãïò を先祖としてゐると思はれる。 丸太ではなささうだ。   

  小生も、以前は、カタカナ語を無意識に日本語として受け容れ、使つてゐた。今は、カタカナ語が多過ぎるので、反省するに至つたといふ次第である。

  文字にしなくてはカタカナ語とは言はないとしても、それを口に出す人は、それを外國語として使つてゐるのか、それとも、外來語とみなしてゐるのか、さらに、一度カタカナ語化したら、もうそれは日本語と認めてゐるのか、この邊の意識を知りたいものである。

 

 

2008/2/20> 〜〜 始めに 〜〜

 

 言語に關する意見を述べたく、そのため「戲言篇」を設け、そこで述べるつもりでしたが、どうも進みません。それにより、本來の戲言(たわごと)が先送りになりました。といふと、出せるべき戲言が澤山ありさうに聞えますが、それほどお聞き頂けるやうなものがある譯では御座いません。

 それは兎も角、先づは「戲言篇」に載せた部分を、重複で申し譯ありませんが、出だしとして張付けさせて頂きます。

 

『明治の始めころには、言文一致も必要だつたかも知れませんが、そのために喋るやうに書いたものが文章であるやうな誤認が生じてゐるのではないか、となどといふことから始めたいのです。

書き言葉、即ち文語は、遠い時間と廣い地域に流布するものであり、出來るだけ變化しないはうが望ましい筈のものであり、より精神的なものでせう。

話し言葉、即ち口語は、流行のもので、土地柄、時代などを現すより肉質的なものと存じます。』

 さらに、カタカナ語、ローマ字母の讀み方などについての意見も大いに述べたいと思つてますが、どうなりませうか。