2013/6/4>〜〜橋下大阪市長を讃へる〜〜

  橋下大阪市長は、今年5月の發言では、間違つたことを言つたとは思はない。僞善者、保身者、癡呆者の多くをあぶり出した。もし橋下さんに失點があるとしたら、上記の彼らには、容易に誹謗者となる力が備つてへてゐたことを輕視したことであらう。自分には無い資質であるからだ。天才(眞實を追憶する人)には有りがちなことである。

2009/3/3>〜〜人間の目標〜〜

  いづれは人類は亡びるといふ前提を置くものには、今更、青くさいことだが、あたかも國家の前提として憲法があるやうに、その根本思想といふべきものを決めて置かないと、世俗生活において(はり)がでないので、ここに我が根本の目標を述べよう。

  「自らを識る()と、自らを通してしか識られない他者との緊張した、()たちの調和(ハルモニア)の展開。」

なんだか、よく解らないですね。そこで追加。「・・・展開を担ふ塵。」(2010/1/19)>

2008/12/6>〜〜東と西〜〜

    C.N.Parkinson, "East and west" パーキンソン著/福島正光譯/至誠堂刊/パーキンソンの歴史法則 「東洋と西洋」を讀み返してをります。 出版當時、あまり話題にならなかつたやうですが、流石の知識と洞察に感服いたします。

それはさて措き、歐米の理想主義(根源は、小生の尊崇するプラトーン的でも多少はあるが)といふか、或はロマン主義的(多分にフリーメイソン的)な直線主義な文化にたいしてのアジアの反撥を經驗した日本人は、今のイスラームを、暴力的でないかぎり、理解する道を表出する方が望ましく思はれます。

    (注釋)  我慢しろと言へない時には、心の(3分割するつもりはないが)翼を持つやうに指導することは難しい(有效性に弱い)でせうか。

 

2008/11/22>〜〜bandhana〜〜

「バンダナ」って、サンスクリット語だつたんですね。 篠田眞由美さんの小説に出てくる栗山深春のしてるやつ。

 

2008/10/16>〜〜10月15日が滿月とは〜〜

滿月を愛づるに悔し電線ぞ!

満月に懸かる電線五線譜か

 

2008/4/26 〜〜 憧れ 〜〜

    何時からか、現實のものには憧れの氣持などを懷かなくなつてゐたことに氣づいた。これは老化現象とも見られるかもしれないが、さうではなく進化であると思つてゐる。それに、憧れの氣持が無くなつたわけではない。憧れるとしたら、多分、イデアの世界への追憶としてしか言ひやうのないことなのかもしれない。とは言へ、現實のものに大いに興味をもつ。あつぱれなものは賞讚し、魅惑的なものには傾倒する。しかしそれは憧れとは違ふ心理と思ふ。

    かつては、端正な人を見れば、自分がそれになりたい思ひ、美しいものには、それに近づき得たいと思つたものである。それは憧れの心理の部類と思ふ。 それが薄れた昨今は、よく言へば、人生への執着が薄くなつて來たのかもしれない。とすれば、憧れは執着と同傾向の心(精神活動)のやうでもある。そこで、もしも追憶が憧れの傾向のものならば、それはまた執着の傾向のものと考へなくてはならなくなる。

 

2008/2/28 〜〜 道としての美學 〜〜

    美學といへば美に關する哲學的な學問のことでせうが、一般には、生き方の現はれとしての姿勢への評價、すなはち倫理的な意味での道(どう)の美的判斷として用ゐられるやうに思はれます。

   たとへば、横綱には横綱としての在り方が求められるときなど。 これは綱紀によるものであるよりも美學によるものなのでせう。

(ちなみに、「綱」は大づな、「紀」は小づな <広辞苑(廣辭苑)> ださうです。 では、横づなは一字ではなにかな。)

   また、こけ威しの吼える姿は、ボクシングの美學に反するぞ、と言ふふうに美學は使へますね。

 

2007/12/21>〜〜 年表の年次間隔 〜〜

  年表の年次記入の幅は一定してゐるのが望ましいといふ考へで作成して來ましたが、 html.にすると、罫線がうまく思ふ所に引かれません。どうしたら良いものでせうか。  罫線に附いては、"WORD" では、こちらの學習が足りないせゐか、非常に困難に感じ、"WORD" に一度移したものを、再び、慣れた「一太郎」に戻し、そこで編輯・修正して、そこからhtml. 保存してゐるのですが、180年毎を區切る罫線が下にさがつてしまひ、なかなか修正できないで苦勞してゐるこの頃です。

 

2007/12/16>〜〜 お詫び 〜〜

なかなか次の戲言が出せなくて申し譯ありません。既に四囘もお開き下さつた方(IP番號のみでお名前は不明)に恐縮いたしてをります。(Y先生かもしれない。)

實は、「書き言葉と話言葉」または「文語と口語」と言つた題で戲言を載せやうと思つてゐるのですが、最初のこととて緊張してしまひ、なかなか滑り出しさうになりません。

明治の始めころには、言文一致も必要だつたかも知れませんが、そのために喋るやうに書いたものが文章であるやうな誤認が生じてゐるのではないか、となどといふことから始めたいのです。

書き言葉、即ち文語は、遠い時間と廣い地域に流布するものであり、出來るだけ變化しないはうが望ましい筈のものであり、より精神的なものでせう。

話し言葉、即ち口語は、流行のもので、土地柄、時代などを現すより肉質的なものと存じます。

さらに、カタカナ語、ローマ字母の讀み方などについてですが、年賀状への書入れが終はつてから、ゆつくり考へて載せるやうにしたいと思つてゐるところです。

 

2007/11/2 〜〜 S 先生からのお便り 〜〜

S 先生から、拙ない pagina domestica を見てのお便りをいただきました。ご返事を書いているうちに、つられて論説調になりましたので、一層のこと、ここに乗せチャエ(てしまへ)といふことにしました。もちろん、S 先生のお便りを、そのまま載せるわけには行きませんが、勿体ないからと、下に一部を引用させていただきます。

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S 先生

 早速に見て頂き、さらに、ご文章を頂き有り難うございました。

 より具体的に、解りやす捉へて下さつたやうに『人類の知的営みには周期がある』といふ風に考へてをりました。

最初は、日本史で、外に向かふ時代と内にこもる時代とが周期的にあることに意味を感じました。

 飛鳥、奈良の外来文化の取り入れ、それから遣唐使の廃止。平安末( 栄西の茶の湯、欣求浄土や禅)から秀吉に至る外向きと、それからの鎖国。 明治以来の文明開化となど。明治神宮の門前市である原宿は未だに栄えてゐます。>

(以上は小生からS先生へのご返事の部分です。以下に、そのもとであるS先生からのお便りの文の一部を引用させて頂きます。)  

S 先生曰く『「神中心の世界観」と、「人間中心(人間の無限の可能性への信仰)の世界観」が交代して現れており、現代はルネッサンス以降の「人間中心の世界観」が延長拡大されており、宗教改革があったものの、きわめて危険な時代にいると考えています。目に見えないものは存在しないという考え方があります。『古事記』の上つ巻には、神々の出現が説かれていますが、注目すべきは、それぞれの神が「身を隠した」とあり、それは古代人が、「見えないけれど、神々は存在している」という主張を意味している、と思っています。』>

(掲載料は払ひません。)  _(._.)_  

 さてS先生とは誰でせう。

 

2007/10/29 〜〜 開設 〜〜

 今日 pagina domestica (ホームページ)を、所謂「アップロード」しまして、めでたくWEB に上場されました。 自力で作製するため、未熟で原初的な單純なものを目差しましたが、WEB 上では、「メモ帳」で作製した index のままではなく、寫眞は見えず、また link を「クリック」しても本文は現れず、落膽してゐます。解決のための努力に頑張りますが、何とぞお智慧を拜借できなくてはままならないことです。