以下の小論は、比較思想学会『比較思想研究』第33号(2006年)に掲載されたものの原稿です。

 

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文明の秋の思想家たち                                                               島田外志夫

 

歴史的にも地域的にも運命を共有する社會を、そこに一貫した文化をもつ共同體的世界または諸文明として比較しながら概觀すると、そこには開化、達成、爛熟、衰退と進展する諸段階が認められる。開化期は試行錯誤の時期であり、政治的には衰退した先行文明に替はる新政權の樹立に至る抗争と政權交代とが連續し、やがて第二期に安定した國土が達成され、古典期を迎へる。その絶頂を過ぎると、これまでに達成された第二期の力量に匹敵する大變革の性質を帯びた支配者階級の交替があつて第三期を迎へるが、その文化的な基盤は継承され熟成される。しかしそれ以後は蓄積された財産の食ひつぶしとなり、豊富な知識と器用な技術を進歩させてはゐても、この共同體の運命は、次の文明への芽を残しながら、活力が衰退し、次の新文明に席を譲る。

  このやうな撥條式圓環となる段階歴に沿つて思想史を比較して觀た場合、ある文明のある段階の一時期と、他の文明の前者と同じ段階の一時期とに類似した思想傾向が見つけられる。

第三の實りの秋である爛熟期の場合、古代では、プラトーン、アリストテレースなどのより觀念的であり、國家に奉仕する思想が完成し、また他方、エピクーロス、キプロスのゼーノーンなどのより實存的、個人的な思想が起こる。これに平行して、同時代ではなく同期(第三期)のウパニシャドの哲人たちと、むしろそれに對する佛陀たち、中國では、五經の思想の教育者を代表する孔子たちと、それに対する老子たちが相當する。中古の時代では、教父哲學の大勢と、それに對するアウグスティーヌスなどが比較される。中世(日本はここでは倭の五王の時代より保元の亂の頃まで)では、南都佛教の大勢に対する最澄・空海たち、唐末の貴族文化に對する士大夫階級による新文化運動、インドでのハリバドラなどの正統バラモン系統の総仕上げに對するシヴァ派やタントラ教、西アジアでのイブン・シーナーなどに對するガザーリーの批判などがあげられる。近世の西歐では、ヘーゲルに食い込むキエルゲゴールなどが知られ得る。日本の儒家に限れば、林羅山らの朱子學の繼承者が擧げられ、それと異なる見解として熊澤蕃山たちが後續するが、こちらを單に陽明學の追從者として片付けられるものでは無いのはいふまでもなく、これらロマン主義ともいふべき新時代の思想傾向を詳らかにしなくてはならない。藝術の領域では直ぐに感受できることで、能に対する歌舞伎、明の昆曲に対する清の京劇、ムガル朝における近代音楽(インド・クラシック音楽)の誕生、西洋のグルックのオペラ改革などなどは、この第三期が創造した賜物である。以上のやうな鳥瞰に基づき個別の研究を今後の課題とするに当たり、殆どは専門外のこと故、厚かましいことではあるが、日本語譯を大いに活用させて頂き、さらに識者からのご批判ご教示を承りたく、(螺旋式年表を提示して)發表させて頂いた。

 

文明の一巡りについて

「文明」について 

  先づは題名の「文明」についての説明をしなくてはならない。これには社会といふ言葉を使はれることもあり、文化とも混同されてされたりもするので、ここで嚴密に定義することなく、とりあへず「文明」を使用した。といふのは、シュペングラーは、田園的で魂の元氣のある時期のものを文化とし、それは都市的で魂の元氣の落ちた時期に文明に凋落すると考へてゐたやうであり、前者は耕し Kultur 、後者は都會生活 Zivilisation の、文字通りの意味であらう。また、トインビーによる二十一の社會もしくは文明の、發生、成長、衰頽、解體が説かれて久しい。この地域的、時代的に限定された、有機的な形態を名付ける適切な単語がなかなか見つからず、ここでは假に「文明」とした。そこでは世代の交代が幾重にもあり、それ事態は人間のやうな生き物ではないとしても、それらに集合した生命なやうな力の働きが感じられるのも不思議である。

  様々な使はれ方があるので、ここでは、地域的時代的に限定された、一つの文化を共有する、歴史的運命共同體といつたものを想定してほしい。

年期について

  この「社会」ないし「文明」の親子關係も説かれてゐるが、ここではこの時代的な一巡りする年代を七二〇年と限定した。この七二〇といふ數字は、天候の寒暖の周期についての七〇〇年といふ俗説に影響された点もある。しかし學説としても、氣象大學の須田滝雄教授の研究も知られてゐる。これは柴田南雄の音學史の時代區分の中での注釋に、控へめな指摘にとどめたいとの言葉の上であるが、「木曾ヒノキ年輪や古文書による豐凶の記録から得られた過去八百年間の氣候寒暖の變化グラフ(昭和四〇年十二月二十三日付、朝日新聞夕刊)を見ると、天候の大不順時代はほぼ西暦一三三〇年頃、一五八〇年頃、一八三〇年頃と、二四九年を周期とした年を中心とする數十年間にあらはれてをり、これは上に述べた三つの半音階的和聲出現の時期に完全に符合している」となどの指摘もある。一九〇七年に Ellsworth Huntington による『アジアの脈搏』といふ書物が發表された。「この書物は文明と気候を論じ、アジアのクライメートと文明のあいだには相関関係があると考え、クライメートの循環的変化によって文明は興亡したと説いた。」(『世界の歴史5西域とイスラム』中公文庫、第二〇頁)。エルズワース・ハンチングトン著間崎万里譯『氣候と文明』は大正十一年に中外文化協會といふところから出版され、昭和十三年に岩波文庫に入れられた。現在は絶版と思はれるが、古書では入手できる。第十二章は「文明中心地の移動」と名付けられ、東アジアから西歐にいたる弓形の主要文明の記述がある(「岩波文庫版」第三五四ー三五八頁)が、西漸の思ひ附きは流石に不問である。

この年輪周期の二五〇年を三倍すれば七五〇年であるから、俗説もあながちいい加減なものでは無かつたやうである。それでも、ここでは七二〇年に假定したのは、地球の圓周三六〇度の二倍といふ數字のめぐり合はせによるからである。數字の神祕には逆へないといふことだらうか。十二進法の便利さも手傳ひ、早速、異なつた文化圈間の徑度の差を採つてみると、一巡り單位が經度差の二倍の數字に西漸して行くのが分つてきた。そこで七二〇年を一巡りの單位と假定することに躊躇は無かつた。そこで、この一巡りを四ないし五の文化圏に配置し、節目と大凡の經度を定めて、四枚の年表を造つて配布したわけである。

  しかし、この數値についての當否は、天文學などの地球に關する自然科學の領域での顯證が必要である。ここでは、それに及ぶ可くもなく、あくまでも假説に停めなくてはならないだらう。

日本の歴史區分

  先づ、一巡りの着想は、日本の歴史を鳥瞰して氣づいた時による。外國文化を多大に取り入れる外向きの時期があり、それが十分に成されたときに、それを閉ざし内部での充實を圖る時期とが交替してゐる。飛鳥時代を經て奈良・平安時代に掛けての時期、平安末期から、鉄砲や三味線の傳來があり、爛熟した市民的文化の傳播に至る江戸末期、そこから今日に及んでゐる現代とが周期として觀られる。

  明治維新を区切りにして、七二〇年を遡ると、一一四八年、平の清盛が活躍しだした時期にあたる。

  さらに七二〇年を遡ると四二八年、この年に百濟が倭國に使二十人を遣はす(三國史記百濟本紀)とあるから、交流の盛んな時期と想像さる。そこで數字の桁數を整理して、一巡りの最初を四三〇年と一一五〇年とに定めた結果、新しい文化の開化、達成、爛熟、凋落の形態が見えて來る。前者は律令政治の時代、後者は武士の時代、現代は資本家の時代として区切られる。百人一首の初めは天智天皇の「秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ、云々」と田園的な雰囲氣の歌で、最後は順徳院の「ももしきや古き軒端を忍ぶにも、なほあまりある昔なりけり」と過去の栄華を追憶してゐる。定家撰ならば鎌倉時代、佐渡に流されてゐたのなら、その「昔」も自分の過去かもしれないが、百首の最後にあるのも意味ありげである。それにしても情報の早さも相當のものだつたやうだ。

  一巡りの中程に、平安遷都と戰國時代などの政變があるが、これによつて文化が更新されるのではなく、繼續したものと認められることが重要である。その意味で、大改革であるにもかゝはらず、一巡りの節目の変革とは性質をことにしてゐると觀ることが出來る。

  ちなみに、遣唐使の廢止の時期と鎖國令の時期との差が七四一年といふのも意味ありげである。

西歐その他における周期

  これを西歐に當てはめることが可能であつた。先づ七二〇年の節目を割り當てると、中世と近代との境目が基準になりさうであつた。中世の初めに、ゲルマンの諸部族が統合に向かひだしてゐる。ふしだらで有名なメロヴァンジアンに宮宰 major domus がもうけられ、カルル・マルテルが活躍しだした時期が第一段階に相應しく、近代では、それこそ宗教改革にルネサンスとお誂えむきである。双方とも中間に大変革がみられるが、文化的には、その前後が継続して見られる。カペー朝が始められ、コムーネが認められ、フィリップ二世が即位し、王権が拡大される。 近代ではフランス革命とナポレオン皇帝が、信長の比叡山焼き討ちと秀吉の天下統一に比較される。

  古代ギリシアでも、ペリクレス時代を中間にもつて來ると、その衰退の時期と西歐中世の發生の時期との間に、これまた、丁度、一巡りの時代があることも発見された。

  さらにインドに當てはめると、西暦紀元前一六二〇年以降に、七二〇年を節目とした五つの一巡りが無理なく成立した。

  それに中國と西アジアとを加えて、比較して見てゐる内に、それぞれの年代のずれの數値が、地球の徑度の數値の差に比例してゐることに氣付くに至つた。そこで各地域の一巡りの節目を微調整して、最初に、政治的な事件を主體とした、「地域時代の網型」年表を作成してみたわけである。

  問題は緯度の違ひである。アフリカのアラブ文化圏は、緯度は違つても西歐と同一經度であり、モンゴルやロシア、東南アジアなどの組み入れも問題となる。 北米は徑度で無事に組み入れられたが、南米については未だ模索中である。

文化史の年表

次に文化史的事項を主体とした年表を作成してみた。ギリシアに範をとれば、後代に纏められた、九柱のムーサイの各担当が、文芸を網羅してゐる。初めに神々への讃歌があり、カリオペーの司る祭祀の楽、次に英雄たちの叙事詩、恋愛の叙情詩、それを目の当たりに見たい要求に基づく悲劇と喜劇、それを演出する弦楽器を伴奏する合唱舞踊隊、管楽器による器楽演奏などが、一巡りの内に進展的に並べられる。同様の傾向は他の文化圏の一巡りにも見られる。

  同じ印欧族文化のインドでは、これらは揃つてゐるが、太古のヴェーダ讃歌以下、一巡りを超越して上代を飛び越え、古代に大叙事詩が現れ、樂劇は中古、声樂は近世、器樂は現代に盛んとなつてゐるので、これをどのやうに考へたらよいか、興味ある課題である。

 

思想の二つの傾向

思想の歴史をみると、創唱者、大成者、實踐家、體系家などが一巡りに納められる。樣々な數多の思想家の列傳に迷はされたが、古代において、大思想家が第三段階の秋に出てゐることに氣付き、さらに、中古などほかの時代を調べてみると、その一巡りの頂點をなすかのやうな著名な大思想家、空海、アビナヴァグプタ、イブン・シーナー、ヘーゲルたちが第三段階に入つてゐるのに勇氣づけられ、先づ手始めに秋の思想家として、ここで課題とした譯である。

しかしながら、思想史によれば、時代的に接近して、相對する二つの立場が識られる。ウパニシャドの哲學者に對する釋迦牟尼のやうに、エピクーロス、ガザーリー、キエルケゴールなどが、前者に接近した時代の思想家たちとして別峰の頂點を示してゐる。そこで、對立するかのやうな二人を代表として、各時代の秋の枠に竝立されるのに不都合は無かつた。多人數を想定する場合も考へられたが、その煩瑣をさけ、問題を明瞭にするために二人に限つたのである。體系的完成を擔ふ者と、マソン・ウルセルの言葉で言ふ解毒劑の役割の者との二人である。この二派を表で表すのに、左と右、正と反などの區分けもあり得るだらうが、ここでは、表裏一體の貸借對照表にならつて、借方と貸方とに區分けし、多少の科目を擧げた。どちらかの科目の要素を多く含む傾向により、その下に各思想家を配置したのが次の表である。

 

 

    

   

形而上學的安心

理と知、枠組みの重視

構築的、詩文的

古典主義的

實存主義的納得

氣と情、中身の重視

饒舌にして散文的

ロマン主義的

<古代>孔子;ウッダーラカ・アールニ;アリストテレース

<中古>鄭玄;カーティヤーヤニー;グレゴリウス(ニュッサ)

<中世>空海;アビナヴァグプタ;イブン・シーナー(アヴィケンナ);アンセルムス

<近世>林羅山;ヘーゲル

<古代>老子;釋迦牟尼;エピクーロス

 

<中古>阮籍;ナーガルジュナ;アウグスティーヌス

 

<中世>圓仁;ラーマーヌジャ;ガザーリー;アベラルドゥス

 

<近世>熊澤蕃山;キエルゲゴール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  先づは、大成者といふか、言語による問題の解決に勤しむ傾向の思想家、それに対して、むしろ実践的を重んじる傾向の思想家が目立つ。この両者の根には違ひが無いと思はれるが、あからさまに反対の立場として見られる人の場合と、もはやこれは自分の仕事ではないと、別の方向に精進する人との違いが見られる。思想の世代交代が行はれたといへるだらう。前者は言語表現に矜持し、自己論理の確定に邁進する。後者は論理的把握の否定へと向かふ。

地域としては、ここでは五つの文化圏を選ぶ。年代のずれは、経度の差の二倍の數となるのも不思議である。

時代の差は、  地球三六〇度を二倍した數七二〇を一巡りの年數とする。したがって一季節は一八〇年となる。

 

秋に選んだ思想家たち

そこで、一巡りの秋の内で選ばれた個々の人たちの特徴を少しだけでも擧げる必要があらう。。

(古代の秋)

  大物中の大物が目立つてゐる。矢張、古代の秋は、東西の地域的時間差の幅にもかかはらず、ヤスパースの軸の時代幅の中に収まる幅がある。ここではソークラテースを採らずに、アリストテレースを選んだ。この一巡りの前半期の勢いを大成した人、そして形而上学といふ概念がここから発生したことも、大きな理由になると思はれる。

  貸方の後続者としてエピクーロスを選んだ。ストア派の立場も似てゐるのも同世代の潮流を覗はせる。エピクーロスはデーモクリトス流の原子論を多く述べてゐるが、彼の関心事は、原子論そのものではなく、胃袋の満足等の快適主義を裏付ける思想の現れであり、最大の関心事は、ポリスの成員としての活動ではなく、本人個人の心の平和であるのといふのも頷ける。

    インドでは、大成者として、ウパニシャドの哲人、tat tvam asi aham brahma-asmi の二大文章で有名なウッダーラカ・アールニを選んだ。第一原理「有 sat は、精神性を具有してゐるものであり、神格として表象されてゐるもの(中村「インド思想史」三十二頁)といふことで、「有」は、そこに現前するといふ存在ではなく、何か力を持つた、それ故、形而上學的實在である。これに對して、釋迦牟尼は形而上學的問題についての論爭に加はることをしなかつた(中村、同掲書五十七頁)こと、「無」の直視などが異色である。

  古代中國については惱ませられた。孔子もまた、形而上學的な事柄には觸れず、實踐家としての論語が遺されてゐても、思想家としては、教育者としての業績も大いに考慮すべきと考へ借方に組入れた。體系としての著作が遺されることは無かつたが、その教育内容は、周公への尊崇と春秋時代の學問の成果を纏めた人として、前半期の詩、書、禮、樂の大成者としての性格が強いやうにみられる。これに對する貸方は、反正統として通つてゐる老子を擧げたが、人物については不明なので、宗銒の名などを年表にいれた。 荘子は明らかに冬の人であるので、参入されない。

(中古の秋)

  非常に悩ませられた時期。問題なくアウグスティーヌスが選ばれるが、一對の二人のどちらかに決することが出來ないからである。一對の二人の決め手は、最初は、單純に觀念論者對實存主義者との對立に求めたが、宗教者の場合には、同時代の龍樹と、後の空海で惱んだやうに、兩方を兼ねてゐるとしか考へらないからである。そこで、思想の集大成の言語表現への關心乃至要求の潮流と、もはや十分行はれた言語表現に對して、それの進展よりも實踐活動を重視した傾向とに分けてみた。でも、そのどちらかに組入れる強制は誤りであるとも考へられる。そこで、これほど多くの言語表現も實踐活動の形はれと看做し、思想の大成者として教父たち神學、その代表としてニュッサのグレゴリウスなどを擧げることができるのか、それとも、アウグスティーヌスを大成者とし、別の道として、ボエチウスなどを他方の峰とするかを、新たな研究課題とすることを余儀なくされた。

  西アジアについては勉強不足で不明。 印度では、ナーガルジュナが貸方として傑出してゐる。前世代にカーティヤーヤニープトラの名前があるので、彼の年代を秋の始めに近づけ、大成者に仕立上げた。

  中國にも惱ませられた。秋は後漢の時代。大成者としては、折衷的態度と言はれるが、鄭玄を選び、別の立場の人として、王弼とも考へたが、極端かもしれないが、竹林の七賢人の筆頭、阮籍を選ぶことにした。

(中世の秋)

  ここから日本も入る。 歴史家では、鎌倉室町時代を中世としゐるやうだが、この表による國際的な見地からは飛鳥奈良平安時代を中世と看做すことにした。 王朝のことがらが目立つやうに歴史は書かれてゐるが、地方の莊園を中心とした文化に、中世的なものが十分に認められるのではないだらうか。

  西歐では、容易に、アンセルムスが擧げられるが、唯名論者のロスケリヌスを直ちに對抗の峰としていいものか研究の餘地があり、アベラルドゥスを選んだが、これも研究課題である。

  イスラーム圈ではイブン・シーナーが該當する。形而上學はアラビア語で、ùilm al-ilÂhÕyÂt  神的なものの學と謂はれるさうだが、「ガザーリーは形而上學者の意見の多くを反駁した」と、既にイブン・ハルドゥーンの「歴史」(森本公誠譯、岩波文庫V、三八二頁)に書かれてゐる。ガザーリーについては井筒俊彦著「イスラーム思想史」で詳しく識ることが出來るやうになり有難い。

  インドでは多少の迷ひがあつたが、大物といふことで、アビナヴァグプタを大成者とし、實踐者として、 ラーマーヌジャを選んだ。「bhakti を以て主宰神に對する歸依・祈念の行 prapatti を實踐するならば、その恩寵にあづかり、その惠みによつて解脱し得る。單なる知のみによっては解脱に到達い得ない、と主張した。」(中村、前掲書、二二七頁)といふことで、實踐的な聖人だったと思はれる。

  中國がここでもまた問題である。佛教の體系家たちは夏の内に亡くなつゐる。實踐者として臨濟義玄が有力であるが、それにしても秋の始め過ぎる。

日本でも困難がある。時代の人として、對立的な關係なしに選べば、最澄と空海であるが、峰の前後を決めようとすると、アウグスティーヌスの場合同樣、決め難ねる。

  そこで反省して、中國と日本とを嚴密に分ける必要がないのではないかとの考へに至つた。そこで、十住心の教相判釋、空海を選んだ。圓仁には、廻峰行の相應とともに、別峰の樣相が見られ、その邊の見極めに時代の動きを明らかにすることが出來るのではないだらうか。安然と空也とを別の兩峰とすることも考へられるが、東アジア全體の秋の頂點として、空海が最も相應しいと思はれる。

  『天台は「宇宙や人間はそのような仕組になっている」という構造をあきらかにするのみで、だから人間はどうすればよいかという肝腎の宗教生において濃厚さに欠けるものがある。そのことを空海は後年やかましく論ずる。』(司馬遼太郎「空海の風景」上巻、第一七九頁)によれば、貸方に組入れたくもあるが。

(近世の秋)

  は、ヘーゲルとキエルケゴールとが、觀念論者と實存主義者との二つの巨峰の模範となるものであった。 これを論ずるには、人格の内的矛盾となど、難しいことを問題としなくてはならないが、最も解りやすい比喩で説明すれば、城を建築して、自分はその脇の小さな小屋で住むやうな、すなはち、自分が考へたものの中で自分自身が生活していない人物に対して、一個の人間の思想といふものは、かれが住まふ建物であらねばならないとする意見であり、この人にとり「決定的な衝動は誠實といふことである。」(ヤスパース「理性と実存」草薙正夫訳、新潮文庫、二三頁)といふ説明を挙げれば充分であらう。また、日本語では、イデアは前者においては觀念と譯されるが、後者においては理想と譯されるのも好都合とも思へる。

  西アジア、南アジアと中國では、研究不足で未だ誰も挙げられない状況であるが、東アジアを一括して觀れば、近代日本の秋の思想界に、理性的に把握しようとする體系を志向するものと、感情を重視するものとの両峰とが浮かび上がる。日本の朱子學の確立と徳川教學の發端となるべき林羅山の、爲政者としての理の重視への方向は避けられない問題であつたと思はれる。それの思想としてのあり方に不満のあるのは當然であり、内的視點における熊澤蕃山の「情」対する見解は、一方の峰と見なすに格好の存在であると思はれた。