1993/4
小さくノックをしたが返事は無かった。零は静かに白いドアを開けた。
郊外の病院。
老人は奥のベッドで目を閉じていたが、気配に気づいたのかこちらを向いた。
確かに年老いた。だが、その目に宿る力は失われていない。零は、ある意味ではこの老人と会うのは苦手だった。全て見透かされているような気がする。
「久しぶりですな」
「ご無沙汰しています、天堂殿」
その、天堂という老人。
間もなく 8 年になるが、二代目スケバン刑事の戦いの末期に重要な役どころを演じた人物である。
その二代目スケバン刑事たる早乙女 志織の父、早乙女 七郎は考古学者であった。ある時、遥か昔から伝わる秘宝、「鬼怒良 (きどら) の宝」の秘密を解き明かした。
永遠の命をもたらすといわれるその宝が、隠然たる権力をもち、世の中を私利私欲で動かしていた信楽老という人物の手に渡ることを恐れた早乙女博士は、その秘密を封印、後を娘の志織に委ねたのであった。
早乙女博士の親友であった西脇は、後に暗闇機関のエージェントとなり、信楽老が「鬼怒良の宝」を奪取するべく動き出したのを察知すると、密かに志織をスケバン刑事に仕立て上げ、物心両面から支えて、1 年に及ぶその戦いを全うさせた。
「鬼怒良の宝」を手に入れるために必要な鍵はいくつかあるが、それを代々守っていたのが鬼怒良一族である。
天堂はその領袖であった。彼は、東京郊外にある天地学院高校の校長として、敷地の一画に隠されていた鍵の一つ、「銅鏡」を守っていた。
天堂の部下、地堂は数年前に他界した。
そして天堂もそう長くはない。零は、暗闇司令、そして西脇の代理という形で見舞うことを命じられたのであった。
「あなたにも世話になりましたな」
宝は、この世に仇なすものとして志織自身が破壊した。
信楽老の手に渡ってしまい、あわやという状態になってしまったため、無傷で取り返すことが不可能だった、というのも事実ではあるが、もしそうでなかったとしても、この世に存在してはならないものであることに変わりはない。志織がそう考えるのは間違いない、と零達は考えていた。おそらく、早乙女博士も、母の道子も同じであったろう。勿論、天堂も地堂も、そうあるべきだと言った。
天地学院は、信楽老の孫である信楽 恭志郎が起こそうとした革命「ウルフ リボリューション」の波を直接かぶって、廃校に追い込まれた。ウルフ リボリューションも志織をはじめとする高校生達の活躍によって失敗に終わったが、天堂は敢えて天地学院を再興しようとはしなかった。全ては終わったからである。
残ったのは、鬼怒良一族がどうなるのか、ということであったが、元々大きな一族ではないため、それほどの問題にはならなかった。密かに宝を守るために、一般社会に溶け込む形で生きてきたのであるから、その生活を続ければいいだけのことであった。若い者達はそれで充分だったし、年寄りたちも、彼らとの同居を含め、それぞれに新しい道を見つけていった。
天堂達はそれを見届けた後、天地学院の敷地を売却するなどして、いくらかの金を得た。郊外にある古い学校で、それほど高く売れるというものではなかったが、贅沢をしなければ、老人が二人、暮らせる程度の額にはなった。
零は、そうしたことのサポートを命じられることが多かったのである。
それも当然のことで、本来、鬼怒良一族と暗闇機関との間に直接の関係はない。であれば、二代目スケバン刑事の事件で関わりを持つことになった西脇と零が担当するのは自然なことである。勿論、あの戦いにおいても、鬼怒良の宝を守り続けてきたことに対しても畏怖の念すら抱いていた彼らは、喜んでその任務についた。
「お体の具合は如何ですか」
天堂が病を得たのは一昨年のことである。取り立てて異状も見られなかった地堂が、ふいに他界した直後だった。天堂は、地堂を見送った後、役目を終えたのです、と言った。
「いい時にいらっしゃいました」
「いい時?」
天堂は、冷たい風でもなく、口の端だけで笑った。
「道はできましたかな」
零は、質問の意味が理解できず黙っていた。
「七郎様と志織様は、天と地に道を見出せず、険しい人の道を歩むことを選ばれました。
道はできましたかな、零殿」
零は黙ったままだった。今度は答えられなかったのだ。
天に道なく
地に道なし
我ただ人の道を歩む
早乙女 七郎の好きだった言葉である。
あの時、正義が通らなかった。
信楽老は、自分の計画を実現するため、スケバン刑事を排除しようとした。自分の政治力によって暗闇機関に圧力をかけたのである。機関はそれに屈服、志織をスケバン刑事から解任した。志織は、独力での戦いを強いられたのだった。
天か地かはともかく、わずかに残されていた道を、暗闇機関自らが閉ざしたことになる。その後の零達の活動は、言ってみれば、その道を開拓しなおす作業であった。
零には、それが進んでいるとは思われなかったのである。
「意地の悪い質問でしたかな。
何も零殿が全てを負う必要はない。あなたがたがどんなに頑張っても、それだけで道ができるというものでもない」
「歯がゆく思ってはいます」
「おかけなさい」
零は、ベッドの横にある丸椅子に座った。
「ですが、その努力は続けなければなりません。どんなに空しい作業に思えても。
私達の分まで」
「天堂殿」
以前、もっと早く宝を破壊するべきだった、と地堂が言ったことがある。
確かに彼ら鬼怒良一族は宝の持つ呪いに捕らわれていた。それが具体的にどういうものであったか零は知らないが、地堂は、それを乗り越えることは不可能ではなかったのではないか、と言った。
「呪いというのは、人の心の中にあるものなのかもしれない」
鬼怒良の宝が早いうちになくなっていれば、信楽老だけではなく、数多くの陰謀の何割かが引き起こされずに済んだのではないか、といのが彼らの考えであった。
そして「あの宝で永遠の命を得られるなんて、それは本当だったんでしょうか」とすら言った。
地堂は普段、あまり語ったりすることがない。それは、天堂というリーダーがあり、自分はその部下であるという、分をわきまえた行動によるものであったが、ものを見て考える深さは決して天堂に劣るものではない、と零は感じていた。だからこそ、地堂のその言葉の陰に隠れている無念が痛いほどわかった。
「後悔を抱いて、若い人に後を託すのが年寄りというものです。こう言ってはなんだが、あまり気になさらなくとも」
「いえ…」
「志織様は、お元気でしょうな」
「えぇ」
志織は 1990 年の秋、4 年生の時に既に司法試験に合格していた。学生のうちに司法試験を突破する「現役合格」を果たすものは 1% 程度だ。名の通った大学でも、現役合格 0 という年があったりするほどなのである。機関には、スケバン刑事 OB を密かに監視していたエージェントからその情報が入ったが、このことはしばらくの間、話題になった。もしあの戦いで志織が倒れていれば、それは世の大損失だったな、という軽口まで出た。
「研修も終えて実地に入っていると聞きます」
「志織様は必ずやりとげます」
零は頷いた。
「志織様は七郎様を越えるでしょう。
七郎様も、知識においても意志の力においても、人並みはずれたものをお持ちでしたが、志織様はそれ以上」
天堂は満足そうであった。
「そう言えば、あのお二人はどうされましたかな」
「二人?」
「志織様が鬼怒良の宝を探しに天地学院にいらしたとき、一緒だったお二人です」
「あぁ。
一人は、一昨年の秋に結婚しました」
「どちらですかな」
「えぇ…髪を後でまとめていた方です」
「あの方ですか。
もうお一人は」
「雑誌の編集者になって 1 年になります」
天堂の口元に笑みが浮かんだ。
「その方も、戦う道を選ばれたのですね」
またしても天堂は見通した。
零が言ったのは、京子が編集者になった、ということだけである。どのような雑誌であるかは口にしていない。
京子が入ったのは、世間でも一目置かれる、硬派のオピニオン誌を出している雑誌社である。これは、彼女なりの戦いであると言っていい。天堂は、あの短い邂逅の間に、京子がそのような志を抱く人間であることを見抜いたのだった。
尤も、天堂と地堂は、志織の素質を試すために、雪乃と京子を人質に取り、宝と二人の命は交換だ、と迫ったのである。二人は、宝が手に入り信楽老を倒すことができるのならそれでいい、とはっきりと言った。そして志織は、人の命を引き換えに手に入れる宝に価値はない、と断言した。天堂はその言葉でもって、志織を七郎の後を継ぐものと認めたのだった。
流石の天堂も気づいていないようだが、雪乃の結婚もある種の戦いであった。
矢島家が率いる企業グループは、それまでは堅実で、言えば地味なものであった。しかし、太一という伴侶を得た雪乃は、積極的にグループの改革に着手した。今でこそ当然のように言われる環境施策を取り入れたのも最も早い部類だったし、いわゆるバブル崩壊で大企業が次々とメセナ事業から撤退する中、質の良い文化活動への支援を決して緩めないなど、今ではすっかり注目を浴びるようになっている。
「志織様は、本当によいお友達を得られました。
零殿」
「はい」
「あなたはもう少しお笑いになったほうがよい」
虚を突かれた零は黙った。
「今でも戦いに身をおくものとして、厳しい毎日をお過ごしなのはわかるが、無理をなさっている」
「そんなことは」
「年寄りの前で嘘はいけません。
自分を騙せるものではありません。そういう生活を続ければ、いつか破綻が来ます」
零はまだ何も言えない。
「その破綻が内に向いても、外に向いても、どちらも悲劇だ。
余裕はないかもしれないが、いつか、自分と素直に向きあってみなくては」
「…わかりました」
天堂は小さく息をついた。
「これでもう思い残すことはない」
「天堂殿」
「西脇殿によろしくお伝えください」
「天堂殿、何を気弱な」
零は、口ではそう言ったが、冷たい予感が足元を這い登ってくる感覚に襲われていた。
「もう充分でしょう。私の役目は終わりました。
地堂が寂しがっているといけない。そろそろ行ってやらなくては」
天堂は自分の死期を悟っている。さっき、いい時に来た、と言ったのはこの意味だったのだ。
「親族もありません。葬式など不要です。
志織様へのご連絡もいりません」
「はい」
「最後にお世話をかけますな」
不思議と涙は出てこなかった。役割を終えた男が舞台から去る。それだけのことだ。彼は、充分すぎるほどの役割を果たしたのだ。無理に引き止めるべきではなかった。
「ご安心下さい」
「今日は天気も穏やか。
いい頃合ですな」
天堂は静かに目を閉じた。
何か言うべきかもしれない。だが、お疲れ様、でも、お休みなさい、でもない。あるいは、ありがとう、がふさわしいかもしれない。だが、どれも足りなかった。
零は黙って天堂を見送ると、ベッドの横にあるナース コールのボタンを押した。