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1998/10
「待ってください」
野口のチームは渡辺という男を追っていた。
渡辺は彼らの網を潜り抜けて河口湖まで逃げてきていた。見知らぬ人間がいても誰も気にしない観光地。ここでもぐりこまれれば面倒なことになる、と考えた野口は人員を大幅に増やし、この別荘地まで追い込んだのだったが。
「どうした、零」
「ここは、矢島家の別荘です」
渡辺が逃げ込んだのは、二代目麻宮サキの親友、矢島 雪乃の家の別荘地であった。
「…。
岸田、中に誰かいるか」
野口は、別荘の正面にいるはずのエージェントを呼び出した。
《雨戸は開いていますし…車もあります》
《上野です。台所と思われる場所の窓が開いています》
「いるな。
零、お前は追い込む方に回れ。俺と南と上野とで先行する。
岸田、別荘に入って住人をガードしろ」
「了解」
彼らは無線で連絡を取り合って体勢を立て直した。敷地に入っていく。
別荘の背後に広がる林。渡辺は、その中を走り回った。
岸田からは、ここは確かに矢島家の別荘だが、管理人夫妻がいるだけである、という報告が入った。ただし、主人の方は折悪しく敷地の見回りに出たところで、どこにいるかはわからない、という。
15 分ほどが過ぎた。
雪乃がいないことが確認できたので、零も前線に戻った。幸運にも、林の中の様子は昔と変わっていない。零の記憶を頼りにした指示が有効だったらしく、どうやら上手い具合に包囲できているようである。
銃声。
「銃を捨てろ、渡辺」
上野が渡辺の足を止めた。対峙。
風。
パキ、と枝が折れる音が聞こえてくるのは、エージェントたちが包囲を狭めているせいか。
零は銃声を頼りに、渡辺の背後に出た。近づこうとする。
「お前達、何をやってる!」
が、急に男が現れた。作業着を着ているところを見ると、管理人か。
(まずいところに)
渡辺が管理人にとびかかった。管理人はあっけなく掴まった。
「下がれ!」
渡辺は、管理人に銃を突きつけて怒鳴った。
エージェントは 3 人に増えていたが、銃を構えたままそれぞれの場所で止まる。
渡辺は 3 人に激しく視線をやりながら牽制した。
そのとき、人質になった管理人と、零の目が合った。
管理人の目が大きく開いた。
「牧さん…?」
(宮本さん!)
それは零も同じである。
(なぜ、こんなところに)
だが、事情はどうでもいい。渡辺は今、3 人のエージェントに囲まれて、雪乃の運転手であった宮本を人質に取っている。この現実をなんとかしなくてはならない。
「牧さん?!」
渡辺に羽交い絞めにされたままの宮本の口から言葉がこぼれる。混乱しているのは向こうも同じらしい。それはそうだろう。
「銃を捨ててもらおうか」
上野が右手を下ろした。南も。最後に零も。
宮本は零から目を離さない。
すると宮本は急に暴れだした。うがあぁぁ、とうめいて体をねじる。渡辺も急なことで驚いたようである。宮本を殴りつけようと、右手を振り上げた。宮本は両手でそれを掴まえ、渡辺の二の腕を高く上げた。
乾いた音がして、零の弾丸が渡辺の銃をはじき飛ばした。
うめく渡辺。
宮本はあたふたとそこから逃れた。
上野と南の銃口が渡辺を向く。渡辺も観念した。
「怪我はありませんね」
「牧さん…本当に牧さんなんですね?」
零は声を出すべきではなかっただろう。あるいは言い逃れが可能だったかもしれない。
後からやってきた野口は、その会話で全てを察したらしい。
「管理人の方ですね」
「は、はい」
「勝手に敷地に入り込んで申し訳ありませんでした。
我々は犯人を護送しなくてはなりませんので引き上げますが、彼から」零を指す。「事情を説明させますので」
「わかりました」
別荘に入る。
まず、宮本の妻に紹介された。彼女も、牧 令のことは知っているらしく、目をむいた。
なつかしい。家具などは新しくなったり、移動したりしているが、全体の雰囲気はあの頃のまま。
十年以上も前、早乙女 志織、矢島 雪乃、中村 京子の 3 人が、ここをベースに黒羽五人衆と戦ったのである。零もそれに加勢した。ここの空気はあのときのままである。
応接室に通される。すぐに紅茶が出てきた。テーブルを挟んで、零の前に夫妻が並んだ。
「今回は、危険な目にあわせてしまい、もうしわけありません」
零はまず頭を下げた。
何を言えばいいのかわからない。任務としての事情説明は機械的にできるのだが。
「さっきの男はテロリストだと考えてください。混乱を避けるために、報道関係には公表せずに追跡していました。こちらへの連絡が遅れてしまい」
「牧さん」
宮本が、微笑みながら言った。細君も、どうぞ、と紅茶を勧めた。
「生きてらしたんですね」
零は言葉に詰まった。まだ、どう話をしたらいいのか準備ができていないのだ。
「あのとき、牧さんが亡くなったと聞いて、私もショックでした。
サキさんが無事だと聞いてお嬢様も明るさをとりもどされはしたのですが、なんと言うか、やはり…。
特に、京子さんがお気の毒で…」
零は顔を伏せた。
「まるで、感情の抜けた人形のようで。私などはとても見ていられませんでした」
何も言えない零。
「私が運転手を辞めて、この別荘の管理人になるとき、皆さんで送別会をしてくださいました。
サキさん、あ、本当は志織さんとおっしゃるのでしたね。京子さんも、ご活躍で」
「宮本さん…」
「みなさん、牧さんがお元気だとわかれば」
「やめてください」
予想外に大きな声だった。宮本だけでなく、零自身も驚いた。
「お願いがあります。
宮本さんだけではなく、奥様にもお願いします」
零は体を起こした。大きく息をする。
「詳細はお話できませんが、既にお気づきの通り、私はとある公安組織に所属しています。警察ではなく、一般の方はご存知のない組織だと考えてください。ですから、私の身分も、何もかもが極秘の事項に属します。
申し訳ありませんが、今日のことは口外しないでいただきたいのです」
「牧さん…」
「何もかもです。男が逃げ込んできたこと、それを我々が逮捕したこと、全てです。
今日の作戦自体も、先ほど申し上げたように、どこにも知らされていません。ですから、事件が報道されて、矢島家に知れてしまうこともありえません」
零は宮本の顔を覗き込んだ。
「お願いします」
「牧さん、しかし」
細君が口を開いた。
「牧さん、私がこんなことを申し上げるのもなんですけれども…。
志織さんと京子さんには、宮本の送別会で、初めてお会いしました。とても素敵な方でございました。
その皆さんが、まだ、あなたのことを思ってらっしゃるのですよ」
思わず顔を上げる零。
「送別会の時も、生きてらっしゃれば、ああだったろう、こうだったろう、と話題になっていましたよ。
そして私、京子さんがふっと目をそらしたときの表情、見てしまいましたの。ひょっとしたら泣いてらっしゃるのかと思ったのですけど」
零は、それをさえぎるように、もう一度、上体を起こした。
ジャンパーを脱ぎ、アンダーウェアの袖を大きく捲り上げる。左の上腕に 15cm ほどの傷跡がある。宮本夫妻は息を飲んだ。
「これは、作戦行動中に負った傷ではありません。休暇中のことです」
二人は、何を言いたいのかわからない、という顔だ。
「この世界に入って 10 年を過ぎました。そうなると敵も増えてきます」
袖を下ろす。
「私は、個人的に命を狙われる、そういう人間になってしまっているのです」
「牧さん!」
「私と接触するということは、それに巻き込まれる危険を冒す、ということです。
そうでなくとも、雪乃さんや宮本さんは、私が十代の頃の知り合いです。既に、充分、危険なのです」
「でも、矢島家には」
「わかっています。矢島家は万全の警備体制をとっている。雪乃さんはおそらく心配はないでしょう。
ですが、志織や…お京はそうではない」
二人は何も言えないでいるようだった。
「私に近づけば、私を脅すための人質として使われたり、仲間と誤解されて狙われたりする可能性があります」
宮本達にとっては想像もつかないことだろう。金持ち特有の有象無象との付き合いはあるだろうが、こういうこととは無縁のはずだ。
「お願いです。今日のことは秘密にしてください」
零はテーブルに手をついた。「お願いします」
「わかりました」
ぽつりと宮本が言った。
「あなた」
「しょうがないじゃないか。サキさんや京子さんを危険な目にあわせることはできない」
「ありがとうございます」
零はテーブルに額がつくほど頭を下げた。
「牧さん」
細君のほうは納得できないらしい。
「あのお嬢さん方に辛い思いをさせるなんて」
「やめないか」
「牧さんは人を騙すのです。
このことは、一生、抱えておいでなさい」
「お前、なんてことを」
宮本が気色ばむ、
「それがせめてもの償いです」
「わかりました」
「牧さん、気にすることはありませんよ」
「いえ」
零は少し笑った。既に、辛い思いをしているつもりではあるが、今回のことで、宮本達にも嘘の片棒を担がせることになってしまった。
「私は、皆さんに迷惑をかけています。雪乃さんたちにも不愉快な思いをさせている。
その報いはきっと来るでしょう」
「そんなことを言ってはだめです。
牧さんは悪い奴らと戦っているのでしょう、あの頃みたいに」
「それとこれとは関係ありませんから」
「それを約束していただければ、私どもも口をつぐみます。
お嬢様も、牧さんが元気だと知ったら黙っておいでにはならないでしょうから」
「お願いします」
もう一度頭を下げる。
零は別荘を辞した。
「牧さん」
宮本が追いかけてきた。
「あれの失礼な物言いは許してやってください。
どういうわけか、サキさんや京子さんと気が合ったようで」
「いえ。
おっしゃってることに間違いはありませんから。宮本さんに、雪乃さんに対して隠し事をするようにお願いしてしまうなんて、とんでもない話です」
「私たち年寄りのことは気にしないで下さい。ここの管理が仕事ですから、これからは、雪乃お嬢様とは年に二回も会えるかどうか。お安い御用です。
これ、持ってってください」
宮本はワインのボトルを差し出した。
「牧さんは日本酒のほうがいいのかもしれませんが。矢島の会社が、ここのブドウで試験的に作ったものです。なかなかイケるそうですよ」
「宮本さん…」
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
零は、それを両手で受け取った。
「私はね、牧さん。
あの 1 年が妙に忘れられなくてね。家内には怒られましたし、お嬢様も辛い思いをされた 1 年だったけど。楽しかったと言ったら不謹慎かもしれませんが」
「わかります」
「牧さん、くれぐれも気をつけてくださいね」
零は、宮本をまじまじと見つめた。こういう風に生きる人もいるのだ、という思いが込み上げてくる。ボトルを抱えて深々と頭を下げる。
「宮本さんも、お体に気をつけて」
連絡をとって、誰もいない道を歩いていると機関の車がやってきた。助手席に乗り込む。運転しているのは野口だった。
「口止めは成功したか」
「はい」
「それは何だ」
野口は瓶を見て言った。
「まずかったでしょうか」
「矢島グループに醸造会社があるとは聞いたことがないが」
「この辺のブドウで作ったんだそうです」
車が加速すると、零はヘッドレストに頭を持たせかけた。
「何を泣いている」
「え?」
零は、自分の声が鼻声になっていることに気づいた。
「お前が実際に泣くのを見るのは初めてだな」
「それは…」
「氷のようだ、という噂は表面的なものだ、ということだ。お前がそういう奴だ、ということはわかっていた」
「すいません…今は」
「作戦は完了している。別にかまわない」
京子達は、零が死んだものと信じている。彼女達と零の道は遠く離れた。それは、わかったとかわからないとかいうことではない。考えるまでもないことである。
だが、そのことが改めて零の前に突きつけられた。自分が、宮本のように年老いることはないだろう。それが悲しいのではなく、その距離を感じたとき、零の目から涙がこぼれて止まらなくなった。
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作詞:喜多條 忠
作曲:筒美 京平
歌:野口 五郎
「風の駅」より
Ver.1.1: 2002/8/25
Ver.1.0: 2002/3/31
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