「薫」
返事はない。母親の遥は、もう一度、名前を呼んだ。
「開けるわよ」
襖をゆっくりと開ける。
「あんた、窓なんか開けて。
寒くないの?」
「あ、お母さん」
薫は机の前の窓を開け、ぼんやりと夜空を見ていた。
「あ、じゃないでしょ。
はい、洗濯物」
「はーい」
立ち上がってそれを受け取り、自分の箪笥にしまう。
「…きれいな星空だわね」
「うん、ついぼーっと見ちゃった」
遥も黙って空を見る。天の川、つまり、銀河の中心が低く広がっている筈なのだが、郊外とはいえ都会であり、つねにぼんやりと明るいこの町からは、それは期待するべくもなかった。
「………」
つぶやくように星の名前を挙げていく。故郷では聞いたことのない名前。
異なる渦状肢にあるため、星座の配列は全く違う。カシ=オサニアで自分とプリンセス・マユマの守護星座とされていた燭台座は一体、どれなのだろう。
「あたしが星を見ちゃうのは、おかあさん達の教育の結果だからね」
片づけを終わった薫が隣に立った。
「…。
そうね」
「あたしも、昔の、もっときれいだったころの星空、見てみたいな」
「…」
「今度、どっかの田舎に行こうよ。
冬は空気が澄むっていうし」
「そうね…」
二人は黙って夜空を見つめた。やがて遥は、風邪引かないうちにやめときなさい、と言って部屋を出て行った。
「あたし、風邪は大丈夫なんだから」
「そういう人が風邪引くと、大変な風邪になっちゃうのよ」
遥は、襖を閉めると目頭を押さえた。
「やっちゃったの?」
数日後。
慎介が DDV の横でしゃがみこんでいると、学校帰りの慶子がやってきた。
「そう。
どこの誰とは言いませんけどね」
「悪かった、ちゅうてるやろ」
「やっぱり太一か」
塗料を塗り終えて立ち上がると、DDV の反対側から、ツールボックスを恭しく掲げて太一が回ってきた。
「やっぱりてなんやねん」
「どっちが乱暴な運転するか、なんて考えるまでもないよ。
ねぇ、慎介さん」
「お前、知らんやろ。車に傷つける回数は、こいつの方が圧倒的に多いねんで」
「嘘ばっかり」
「ほんまやて。
なぁ」
慎介は、無言で肩を竦めると、ツールボックスに塗料を戻した。
「え、本当なの」
「せやから塗り直しの手際のえぇこと」
「信じらんない」
「じゃ、運転の上手な甲田さんが車を車庫に戻しておいてください」
ぶつぶつ言いながらツールボックスを後部にしまい、太一は DDV に乗り込んだ。
「今日は一人?」
「うん。
薫は文化部会」
「何、それ」
と言いながら事務所のあるマンションに入っていく。慶子も、それが当然、という顔でついてきた。
「文化部の部長が集まってやる会議。
新部長が出揃ったから、顔見世かねて会議だって」
「ふうん。
え、部長?」
「薫は副部長。
人望はないことはないけど、部長って柄じゃないよね」
親友のことなのに、あるいはだからこそか、遠慮がない。
事務所に入ると、慎介は台所に行った。手を洗っていると、慶子は珍しく、自分でコーヒーの道具を用意し始めた。
「あぁ、ごめん。お客さんにそんなこと」
「本当にそう思ってる?」
「言ってみたって感じ」
ふふ、と笑う慶子。
「君は昇進しなかったの?」
「書記、だって」
「一緒に行かなくていいの?」
「書記なんかいる部ないよ。うちだけじゃないかな。
あたしを貼り付けるためにわざわざ作ったみたいなもんなんだ。
あれこれ雑用やらせる気だよ、薫は」
慎介が笑う。
「おやおや、すいませんねぇ、お客さんにそないなことしてもろうて」
慎介と慶子は顔を見合わせると吹き出した。
「で、どないしてん」
ソファ、その向かい側、事務机、といつもの席に収まる。
「何が」
「なんかあったんやろ」
慶子は、顔を後ろの太一に向け、しばらく見つめていた。
「あんたって、意外に鋭いんだよねぇ。やんなるなぁ」
「嫌てことないやろ。えぇことやないか」
体を元に戻すと、カップを口に運ぶ慶子。
「どうしたの?」
「薫のことなんだけど」
太一の顔が引き締まった。慎介はそれにちらっと牽制の視線を投げた。
「…。
慎介さん、野沢先輩のことどう思う?」
太一が、息を吐くように、そっちかいな、と言った。
「なによ」
「変態騒ぎとかあったやろ。またか、と思うたんや」
「悪かったわね。緊張感のない話で」
「そんなことはないと思うけど」
太一は、デスクから離れてソファに座った。
「あいつなら、悪い奴ちゃうやろ。
ちょっと融通がきかんちゅうか、朴念仁なとこあるけど。
保坂とえぇコンビちゃうか。ドンカン・ボーイズて呼んだるわ」
「よく見てるよねぇ…」
一口すすって、溜息をつく慶子。
「まさか、薫、ふられたんか」
「ビミョー」
「微妙て」
カップをテーブルにおき、背もたれによりかかって、どっから話したらいいかなぁ、と嘆く。
「ややこしことか」
「中長期的には、薫はふられると思うんだ」
わざと難しい言葉を使ってみせる。
「保坂の妹か」
慶子が飛び起きる。
「あんた、それどこで」
「いや、たまたま、一緒に話してるとこ見てん」
「あっそ…。
野沢先輩もわかりやすいからね。
気づいてないの、薫と保坂先輩だけじゃないかな」
「お前の周り、どんくさい奴、多いことないか?」
大きく溜息をつく慶子。図星らしい。
「先輩達が部活を引退して、時間ができるかと思ったら、薫が家庭科部の副部長になって、これからはあたし達がメイン。先輩達だって、もう受験体制だから、話をするチャンスもないんだ。
実は薫は、結構、落ち込んでる」
「だろうね」
やっと口を挟む慎介。自分が「どんくさい奴」にカウントされているかもしれない、という自覚はある。
「副部長の仕事が増えたことでごまかしてる、って感じ」
「保坂の妹はどやねん」
「その気はない、とあたしは見てるけど。体格が違うだけで、弟扱いしてる自分の兄貴と似てるんだもん。
亜子ちゃんは、中身はどうでもいいとは言わないけど、面食いだし。野沢先輩は圏外だと思う」
「お前ら仲えぇのか」
「亜子ちゃんは、結構、あたし達のこと気に入ってくれてるみたいだな」
「必ず誰かが傷つく構図なわけだ」
と慎介。そういうこと、とつぶやく慶子。
「なんとかしてよ、探偵さん」
「無茶言いなや。
それは、お釈迦様でも草津の湯でも、って奴や」
「薫が辛い思いをしてても?」
「お前、えげつないこと言いよるなぁ。
ほな、野沢の奴の首ねっこ押さえつけて、薫を幸せにする、って約束させよか? それでえぇんやったら」
また溜息。
「ベストなのは、薫が早くふられて、早く立ち直ることだよね、きっと」
「お前、本当にキッツいなぁ」
「だって。
そりゃ、あたしだって、そうなったら薫が可哀想だと思うけど。どう考えたって、それがベストでしょ?」
「受験終わるまで様子見たら?
それまでに野沢君の気持ちが変わるかもしれないし」
「慎介さん、薫と同じこと言ってる」
「え」
「野沢先輩も同じこと考えてるかもしれないよ。受験が終わったら、亜子ちゃんに告白しようって。
もし、それまでに、亜子ちゃんがその気になってたら?」
「それは…」
「それは逃げだよ。
もう、誰でもいいから、行動起こしてよ。苛々するなぁ」
と言って、ソファに寝転がってしまう。
ピントの外れたことを言った慎介は頭をかいた。
「お前はどやねん」
「あたしにつりあう男がどこにいるのよ」
寝転がったまま慶子は言い放った。
|