「ただいまー」
薫が扉を開ける。
「入って、入って」
「お邪魔しまーす」
慶子が続いた。
「あれ、お父さんの靴だ。
どうしたのかな」
「忘れ物…って時間じゃないね。もう夕方だし」
「お父さん、いるの?」
家に上がっていく二人。
「あ、ケコちゃん、あたしの部屋に行ってて」
「はーい」
階段を上がろうとすると、居間から功がやってきた。
「いらっしゃい」
「あ、お邪魔します…おじさん、どうしたんですか」
「お父さん、顔色悪いよ」
確かに、青白い顔をしている。こうして立っているのも辛いのではないか、という様子だ。
「風邪でも引いたのか、ちょっと頭が痛くてな。早退してきたところなんだよ」
「え、じゃ寝てなくちゃ」
「そうさせてもらうよ。
慶子ちゃんは、気にせずにゆっくりしてって――」
言いかけた功の膝から力が抜けた。居間のドアに捕まろうとして掴みそこなう。廊下に膝をつく音が響いた。
「お父さん!」
「大丈夫だ。大丈夫…」
「おじさん、つかまって」
「ケコちゃん、お願い。
あたし、お布団敷いてくる!」
薫は功の寝室に急いだ。慶子は功を肩に支えた。
「すまないね…」
「いいんです。
無理にしゃべらなくていいですよ」
ゆっくりと薫を追っていく。
ちょうど、敷布団をのべたところだった。慶子は慎重にしゃがんで功の体をその上に横たえた。
いそいでネクタイを緩める薫。ワイシャツも脱がしていく。
慶子は、その様子に冷静さを取り戻した。薫は、いつもこうだった。体も細く、頼りなげに見えるのに、こういうときには実に的確に対処する。この両親は本当に立派に育てたんだなぁ、とそのたびに思うのだった。
毛布をかける。次に薫が布団をかけた。
「水、持ってこようか」
「ありがと」
慶子が立ち上がると、薫は携帯電話を取り出した。
「あ、お母さん?
お父さんが早退してるの」
《早退?》
「頭が痛いって。
それで、今、倒れそうになったから、お布団に」
《倒れそうって…。
顔色は》
「よくない」
《熱は》
額に手を当てる薫。
「体温計じゃないけど、そんなにない」
《そう。
薫、ちょっとお願い。お薬、探して》
「うん」
《今、寝室でしょ?
そこの箪笥の一番上の、小さい方の戸を開けて》
「ちょっと待って」
立ち上がる。最上段は、薫がわずかに見上げる高さだった。手は届く。
「うん、開けた…」
《薬のビンがあるでしょ》
ある。だが薫の目は、更にその奥、別の小箱の陰に隠れているビロードに注がれていた。
(なに?)
いや、ビロードではないのかもしれない。深みのある光沢はまさにそうなのだが、それは銀色だった。銀のビロードなんてあっただろうか。それには、ところどころに黒や黄色の線が入っており――
《薫?》
母親の声に、我に返る。
「あ、うん、見つけた。
何これ。ビタミン剤?」
《そう。
それを 15 粒、お父さんに食べさせて》
「15 粒?
そんなに?」
《そう。お父さんはいつもそうだから》
「大丈夫なの?」
《昔、お医者さんに教えてもらったって言ってたから大丈夫なんでしょ》
「わかった…」
《もし、食べられないようだったら、すりつぶして、お水と一緒に》
「うん」
《お母さんも急いで帰るから》
「はい」
薫も急いで瓶を取り出した。
その夜、また薫は夜空を見ていた。さすがに窓を開ける季節ではなくなっていたが。
功は、そのビタミン剤を 15 粒、すりつぶして水と一緒に飲ませたところ、数十分で回復した。まだ声に力はないが、顔色も戻り、さっき、ゆっくりとしたペースではあったが、普通の食事を済ませた。
いつもそうだ、と遥は言った。功は、今までにもああいう風に体調を崩し、ああいう風に回復したことがあるのだ。
確かに、ビタミンを大量に投与する、という治療方法がある、というのは聞いたことがある。
(でも、あれって、危険だってことになったんじゃなかったっけ)
別の治療方法と混同しているかもしれない。自信がなかった。
功も遥も、滅多に寝込むことはない。そうなったとしても、医者には行かないし、薬も飲まない。それでどうこうということがなかったのだから、元来が丈夫なのかもしれない。薫自身も、風邪を引いたことがない、というのが自慢になっているくらいで、例えば手首の細さからはとてもそうは見えないが、意外に健康だ。
そういう家系なのかもしれない。そう思うことにした。
だが、気になることはもうひとつある。
そのビタミン剤の奥にあった銀色の箱。
(なんだったんだろう)
いや、その前に、どうして気になるのかがわからない。
見覚えがあるような気がする。
だが、いつ、どこで。
思い出せない。
(子供の頃…?)
考えがそこに向かうと、薫は目を伏せた。
幼稚園に入る前のことをほとんど覚えていない。友人達は、自分達のやんちゃな思い出、家族で遊びに行った思い出、兄や姉にいじめられて恨んだ思い出、そうしたことを楽しげに話す。それが薫にはなかった。
両親にはそうしたことはもう何年も話していない。手違いで写真が残っていないのだ。遥も功も、そのことに責任を感じているらしく、とても辛そうな顔をする。これは口にしてはいけないことだ、と小学生の頃に理解した。
(子供の頃…)
薫は、そのことに痛みを感じていた。
数日後、薫が帰宅すると、玄関には鍵がかかっていた。
「お買い物?…だね」
キッチンのテーブルの上にメモがあった。あまり達筆とはいえない遥の字を読み、トントン、と階段を上がる。
(…)
薫は急に立ち止まった。
数日前、功が体調を崩したことがあった、ということを思い出した瞬間、二つのことが結びついたのだ。
自分の子供の頃と、あのビロードの箱。
根拠はない。あるいは単に、覚えていない、ということで関連がある、という程度なのかもしれない。
(でも…)
薫は向きを変えるとゆっくりと階段を降りた。
知りたい。
あの箱が何なのかがわかればいい。単なる勘違いだろう、とも思う。あんなビタミン剤が入っている箪笥、鍵がかかっていたわけでもない。見てはいけないものでもないだろう。
静かに襖を開ける。カーテンもかかったままなのでわずかに肌寒い。
薫はそれでも足音を立てないように気をつけながら、箪笥に近づいた。爪先立って最上段の扉を開ける。
箱はまだあった。
薬の瓶を脇に寄せ、手前の箱を取り出して、別の段に乗せ代える。
(ビロードじゃないんだ)
手触りは、金属のそれだった。表面の加工のせいだろうか。
「重い…」
箱は予想外に重かった。薫は一度、足をつき、改めて爪先立ってから、慎重に箱を手前に引き出した。
(何なの?)
大きさは、コーヒーの瓶くらい。だが、重さは辞書なみだった。ゆっくりと下に降ろす。座りながら、畳の上に置いた。
見当がつかない。銀色で、黒いラインが入っているのは、まるで男の子向けのおもちゃを連想させる。今となっては、どうしてこんなものを見たことがあると思ったのだろう、という気さえする。
重さに気をつけながら持ち上げる。黒いラインの所々に、まるで木の実のように黄色い楕円が配置されている。それはどうやら金属ではなく、プラスチックか何かのようだ。
そこに親指が触れると、ポン、と軽やかな音がしてその木の実に明かりが点った。
「へぇ…」
どういう仕掛けなのだろう。薫はそれを撫でまわした。今度は触っても反応がない。しばらくいじっていたが、木の実のランプが点ったのは、人差し指を触れたときだった。
好奇心が勝ってきた。残った木の実は 3 つ。薫は、その一つ一つに、中指、薬指、小指と別々の指を触れた。可愛らしい音が 3 つ続けて鳴る。
と、上部にスリットが入った。今まで気づかなかったが、どうやらそこは蓋なのだ。覗き込んでみると、それが音もなくゆっくりと開く。
これは完全に男の子向けのオモチャだ。どうしてこんなところに――
緩みかけた薫の頬は、その蓋が完全に開くと、強張った。
蓋が開いて見えたその中は、黒いプラスチックのようだった。溝が一本。
(あたしは、これを、知っている)
見た覚えがある。何かはわからないが、間違いない。
薫は、その溝に指を滑らせた。太さは数ミリ、長さは 2cm くらい。何かを差し込む場所のように見える。
(鍵…?)
そうなのだろうか。しかし、そのことは記憶にない。
薫は方向を変えて眺めた。下の方や裏には何かができそうな仕掛けはない。
顔の前に上げてみる。
「あ」
イメージが浮かんだ。そう、ちょうど、この高さだ。蓋の部分が目の前に来る。
「何か、光ってる」
あの溝の上に乗せた何かが光っているイメージ。大きなものではない。1cm もない…。
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