襖の枠を叩く音。薫は返事をしなかった。
「もう少し、お召し上がりになってください」
薫はベッドの上で毛布にくるまっていた。遥の声に、強く目を閉じる。
「姫様。
お体に障ります。もう少し」
毛布の中に顔をうずめる。聞きたくない。
「姫様」
「うるさいっ!」
枕を投げる薫。襖に当たって揺れた。
廊下側の遥は、さらに表情を曇らせ、置いてあった盆を取り上げた。
薫が部屋から出てこないため、食事を持ってきているのだが、ほとんど手をつけない。減っているのは、果物やゼリーくらいだった。そのまま、静かに下りていく。
「食べないのか」
「えぇ…」
盆の上の料理が、冷めているだけでほとんど変わっていないことに、功も落胆した。
「無理もないが…」
「どうすればよろしいんでしょう」
功にも答えはない。
自分が地球人ではなく、両親だと思っていた二人が他人であり、本当の両親は既に他界していた。そのことを知って、平静でいろ、というのは無理な話だ。薫も、襖につっかい棒をしているわけではないのだが、その苦しみが想像できる二人には、敢えてそれを開けようという気にはなれなかった。
「事情はどうあれ、私達は、姫様を騙したんだ。
どれだけお叱りを受けてもしょうがない」
「でも、このままでは姫様のお体が」
「わかっている。
しかし」
遥は、盆をそのままテーブルにおき、自分も座った。台所に持っていく元気もない。
「出てらっしゃるのをお待ちするしかない」
まるで溜息のように功が言った。
足音が階段を降りていく間、薫は、枕を投げた姿勢のまま襖を睨んでいた。
(だって…)
毛布をたくし上げる。そのまま、顔を膝にうずめた。
あれが、幻などではないことは、わざわざ説明を受けなくてもわかった。間違いなく、あれは彼女自身の記憶だった。
自分は、カシ=オサニアという星の王女で、あの光景に出てきた二人、つまり、王と女王が彼女の両親だ。
切羽詰った表情で抱きしめられたあの記憶は、海賊に襲われ、救命艇に乗せられるときのものだ、と説明された。それも、疑う理由はない。
当然、それは、頭で理解した、というだけのことだ。はいわかりました、と日常生活に戻ることなどできない。そもそも、それは「日常」なのか。そうではないだろう。自分がいるべき日常はあの庭――草原でピクニックをしていたのだと思ったのは、王家の「庭」で行われた家族だけのティー パーティだった――にある。いや、あったのだ。それがすでに 200 年も前のことで、いや、その 200 年という単位そのものが、自分の故郷のものとはわずかに違っていて…。
薫の気持ちは、あれも違う、これも違う、と彷徨っている。いや、翻弄されている、と言ってもいいのかもしれない。すべてのことが、事実ではあるが、本来あるべきことではなかった、とひっくり返されていく。
その混乱に収拾をつけてくれる者は誰もいない。
彼女は独りぼっちだった。
慎介は、入るな、とは言わなかったが、今日は自分の部屋に帰れよ、と条件をつけた。
太一は、わかっとる、と言いながら、ビールの缶を 3 つ持って入ってきた。その分では怪しいもんだ、と慎介は思ったが、それ以上は言わなかった。
薫からは連絡がない。それはあたりまえであろう。父親、いや、執事からは、部屋に閉じこもっている、と様子を知らせる電話が入った。それきりだ。
慶子は、学校帰りに事務所に寄っていくが、何も知らされていないようだった。熱を出して寝込んでいる、と思っている。
太一と慎介は、自分達は結局、何もしてこなかった、そのつけなのだろう、という結論に達した。
薫が地球人ではないかもしれない、ということに気づいたのは夏、そのことが両親の言葉によって裏付けられたのが 1 ヶ月前。確かに、彼らは何もしなかった。どうしよう、どうしよう、と思いながら見ていただけである。
太一は夕べ、そのことを悔やみながら酒を飲み、結局、慎介の部屋で眠り込んだ。今日もそうなりそうな様子である。
「キッツいわなぁ」
「あぁ」
後は、ビールを喉に流し込む音が聞こえるだけだった。
「飲まんか」
「やめておく」
「そうか…」
プルトップを開ける音。
「ところでお前、何してんねん」
慎介はずっと機械に向かって作業をしている。データ収集のようだ。
「何のリストや」
答えはない。太一もそれで気を悪くすることはなかった。それは二人とも、あるいは、薫に負けず劣らずというところまで参っている、ということだった。
「え、これ、ひょっとして」
その一覧をゆっくりと読んでいった太一は、それが何であるかに気づいたようだった。
「お前、それ――ちょっと、待ちぃな」
「情報を集めただけだ。
まだ、見せるつもりはない」
「そやけど」
それは、この地球が属する渦状肢にある居住可能な惑星の中で、カシ=オサニアに似た星の一覧だった。
「環境もそうだが、スペクトル優先で選んでみた」
「スペクトル、て」
地球とカシ=オサニアとは、確かに惑星上の環境はよく似ている。ただ、太陽光線に含まれる光の中に、カシ=オサニアの人間の遺伝子に異常をきたす波長が含まれている。薫が、怪我や病気の手当てをするときに手から発することのある「ぬくもり」はその結果なのだった。
そのぬくもりは、「細胞治癒補助能力」と呼ばれることがあるが、生物の細胞が自分を修復しようとする作用を助ける力である。しかし、その力は、悪意を持って用いれば、細胞を破壊することも可能。つまり、兵器になりうるのだ。すでに、それを狙って薫を誘拐しようとした異星人がいる。
「あとは、外敵に対する防衛体制を加味すればいいと思う」
幸いなことに、その波長のない状態で暮らし、一定期間が経過すれば、その力は消える。つまり、そういう星に移住し、そこが異星人による犯罪的な活動に対する警備体制を整えていれば、薫は平和に暮らすことができるわけである。
勿論、故郷であるカシ=オサニアに戻るのが一番いいのだが、それには、彼女が王女だ、ということがネックとなった。3 世代以上も前に行方不明になった王女が戻ってくる、ということは、間違いなくカシ=オサニアの社会に影響を引き起こす。仮に現在の政体を打破し、旧体制への回帰を企図する勢力があれば、そのシンボルとして担ぎ出される可能性がある。いや、それは間違いのないところである。
彼女を見知っている者は一人もいない。それは、執事のウキ・イサト、乳母のウコ・ノナも同じで、王族とはいえ、彼らに身を賭して守ってくれることを期待していいのかどうかわからない。
何より、同じ銀河系とは言いながら、カシ=オサニアは地球がある渦状肢の隣の渦状肢にある。銀河探偵ギルドは、まだカシ=オサニアに影響力をもっておらず、そうした点を確認することすら難しい、というのが現実だった。
「お前、それは、理詰めが過ぎるで」
「わかってる。
だが、最終的には、それが問題になる」
太一は、オーバーヒートや、と言いながら床に座り込んだ。
確かに、薫が今抱えている問題は、時間が解決するだろう。解決はしないかもしれないが、苦しみを和らげてくれるだろう、とは言える。両親は既に、地球人として生きていくことを決めているのだし、薫がその決心を固めれば、それほど深刻な問題にはならない。
最後まで残るのは、地球にいる限り薫はその「細胞治癒補助能力」を持ちつづけ、つまり、「兵器」として狙われる、ということだった。それを避ける方法は、彼女が地球から離れることしかないのである。
「よう言わんで、『よそ行け』なんて」
「…」
慎介も同じだ。
気持ちはある。彼らの、銀河探偵としての力と技術を駆使して薫の身を守る、という決意は持っている。だが、それは、完璧に遂行できる、と断言していいことではなかった。
「慶子には…」
振り向く慎介。うなだれている太一を見る。薫が慶子を置いて地球を去る、という話ではないようだった。彼女に真実を伝えるべきかどうか、ということらしい。
「それは、両親と…プリンセス自身が決めることだと思う」
慶子は、遥が、眠っているわけではない、と答えたので、顔見せたいんですけどいいですか、と言った。
その複雑な表情が気になる。
「どうしたんですか?」
「あ…」
と言ったきり、言葉が続かない。慶子の胸がキン、と鳴った。
(まさか、まずい病気じゃないよね)
玄関で二人とも立ちすくむ。遥は教えてくれないようだ。慶子は、じゃ、おじゃまします、と言って靴を脱いだ。あつかましいようだが、母親よりも、薫の方が心配だった。
大きな音を立てないように、かと言って、ことさら静かにならないように、足音に気をつける。一瞬、左の膝がバランスを崩しそうになった。
(なに動揺してんだってば)
実は病気というのは嘘だったのではないか、例の――ほんものの――変質者がまた現れたのではないか、と、いろいろな予想がよぎっていく。慶子はそれを必死で払いのけた。
一応、ノックをする。襖が小さく揺れた。
返事はない。
本当は眠ってたりするのか? 慶子は階下を見たが、遥は、慶子と目が合うと小さく頭を下げて、台所の方に行ってしまった。
なんなのだ。
(入ればわかるよ)
入らなければわからない。
「薫っちゃーん、いるんでしょ?
あたしあたし、慶子だよ」
気配が動いた。だが、返事もないし、襖が動く様子もない。
「開けまっせ」
それでも静かに開ける。
「なんだ、いるんじゃん」
薫はベッドの横に座っていた。慶子が入っても顔を上げない。
「熱、下がった?」
「…」
「まだ、不調?」
弱々しく首を横に振る薫。
「寝てた方がいいんじゃないの?」
「…」
「かーおーるーちゃん」
「うん…」
まだうつむいたまま。
「ね、疲れてるんだったら、あたし、帰ろうか――」
「ケコちゃん」
初めて顔を上げる薫。
「ん?」
「…」
薫は唇をかんだ。言葉が出てこない。
慶子はその隣に座った。
「どうしたの」
また顔を伏せる薫。
言いたいこと、いや、聞きたいことは一つだけだ。
ケコちゃんは、ずっと友達でいてくれるよね。
今はいい。だが、遠い将来のいつか、自分は地球人ではないのだ、ということを告白しなければならない時期が来るに違いない。薫はそのことを恐れていた。
慶子のことは信じている。ちょっとやそっとのことで人を見捨てるような人間ではない。だが、相手が異星人だということは、「ちょっとやそっとのこと」ではないのではないだろうか。いや、それは、永遠の決別をもたらすような、決定的、致命的なことに決まっている。
薫には、今、それを口にする勇気はなかった。
だが、それを押し隠して、いつものように振舞う気力もない。
慶子は黙っている。薫が口を開くのを待っていた。
しかし、薫には言葉がない。
それは、言ってはならないことだった。
それは、相手を縛り、自分に都合のいいように振舞うことを要求する言葉なのだ。
(あたし…そんなこと…できない)
また唇を噛む。想いは、その代わり、目から零れ落ちた。それでも足りず、薫の肩を振るわせる。
「薫?」
慶子はそれに気づいたようだった。薫の顔を覗き込む。溢れ出す想いを押しとどめるために固く目を閉じている薫には見えなかったが。
「薫。
どうしたの」
薫の腕を掴む慶子。その力に薫は目を開けてしまった。
そこにあったのは、本当に自分のことを心配している二つの瞳だった。
「ケコちゃん…
ケコちゃん…!」
もう止めることはできない。涙も、嗚咽も、薫の意思とは無関係に流れ出す。
「薫…」
慶子は、薫の細い体を、自分の腕の中に抱きしめた。ほかにどうしようもなかった。
日は暮れかかっている。
慶子の肩に頭を乗せていた薫がつぶやいた。
「ケコちゃんは、あたしのお姉さんみたいだね」
慶子は黙っている。薫は顔を上げた。
「怒った?」
「ううん」
「いつも迷惑かけてるから、怒ってる?」
「違うってば」
「ケコちゃん」
「昔、お兄さんって言われたなぁ、と思って」
「…。
あ」
薫はそのことを思い出して、口を覆った。
「あれは!」
慶子は笑い出した。
二人は、小学六年のときに同じクラスになった。
最初の頃は、体育会系の慶子と、どちらかと言えば大人しい薫との間には、ごく普通のクラスメートとしてのつながりしかなかった。
ある時、体育の授業で男子生徒が怪我をした。単なる擦り傷だったが、保健委員でもあった薫がその手当てに狩り出された。
そのとき、薫の「ヒーリング・パワー」が発現したのだった。
手当てを受けた生徒が、「南田の手ってあったかいな」と言う。年頃の彼らにとってはいささか不用意な表現であり、小学生特有の照れもあったのに違いない。男子生徒達は、そのことをからかいはじめた。それはやがてエスカレートし、薫のことを「怪獣」「化け物」などと言うようになった。
誰もかばってくれなかった。何人かの女子生徒が後ろに下がった。
「あたしは――!」
そこに、用具の片づけを言いつけられていた慶子が遅れてやってくる。
「なに。どうしたの」
ひそひそと耳打ちされる。
「え」
静まり返ったグラウンドに慶子の声が響いた。
「治してくれんの?
やって、やって」
また静かになる。しかし、空気は一変していた。
「え、違った?」
慶子も膝をすりむいている。
いじめ寸前のところまでいった険悪な雰囲気はその一言で消え去った。毒気を抜かれた生徒達も着替えに戻ってしまい、何事も起こらずに終わった。
慶子には、その場を収めようというつもりはなかった。薫に超能力があるとも思わなかったが、もし本当にそういうものがあるのなら使ってみて欲しい。単純に、いいなぁ、うらやましいなぁ、と思っただけである。後で、あたしもどっかおかしいよね、と彼女は言うのだが、とにかく、二人の友情はそうして始まったのだった。
薫は、慶子の意向はともかく、そのことに深い感謝を持っているのだが、それを、お兄さんみたい、と口走ってしまったことがある。慶子は当然のように拗ねたのだったが。
「進歩したねぇ、薫ちゃんも」
「だって、バカじゃないもん」
「それはどうかな」
「何よ」
「いいえぇ」
「ケコちゃん、意地悪」
「付き合う友達が悪いからねぇ」
「誰のこと?」
「さぁぁ」
「あ、太一だ」
慶子が吹き出した。
「慎介さんも意外に根性悪いしねぇ」
「そういうことにしときましょ」
「そうだもん。
ほかに、根性悪い人って心当たりないなぁ、あたし」
階下の遥が顔を上げた。
薫の笑い声を聞いたのは、一体、何日ぶりのことだろうか。
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