「田舎だぁ……」
少女は、路線バスを降りるなり、ため息と共につぶやいた。
「猛獣とかいるんじゃないの」
見回す。目の前は確かに大きなホテルだが、その向こうにはうっそうとした木々が顔をのぞかせているし、右も左も後ろも、一面が森である。
「いくら開発前の星って言ってもねぇ……」
静かなところで息抜き、と思ったのは確かだが、ちょっと度を越している。これは、覚えたての言語で表現するなら、「閑静」ではなく「閑散」だ。
バスに乗っていたのは彼女だけだった。始発のターミナル駅からここまでずっと一人。途中で誰かが乗ってくることもなかった。
小さな鞄を背負いなおして腕を組む。
パックでない観光旅行には、こういう見込み違いはつき物である。だから、それ自体はどうということもない。問題は、今日、ここに泊まって楽しいかどうか、だ。
「……」
もう一度、視線をめぐらす。
森。
あの中から巨大怪鳥が出てきても私は驚かないな、と口の中で言う。ここにはいないはずだが。
それより、問題はこのホテルだ。
名前は、メイ・フォレスト。確かに、森である。
見るからに古い。
木造のロッジなら古さも味だろうが、近代的なつくりの大きなホテルが古い、というのは、それは単に「古い」ということになってしまう。その古さのおかげで、大きなホテルが、うっそうとした森に、妙に溶け込んでいる。
「自然と人間界が画然と分かれていてこそのレジャーでしょう」
少女は、その可愛らしい風貌に似つかわしくない難しい言葉を使った。
「キャンプの趣味はないしなぁ」
巨大ホテルを目の前にしてつぶやく。どうやら、その古いホテルに宿泊することは、彼女にとってはテントで寝ることと同義らしかった。
左手を上げて時計を見る。
まだ、夕食の心配をする時刻でもない。その前に、昼食のことを考えたほうがいい。
少女はバス停の時刻表を覗き込んだ。思ったとおり、上りと下りが一枚の時刻表に書かれている。町に戻るバスが来るにはあと一時間ちょっと。
「あ……」
視界の片隅に人影。顔を上げた少女の顔にそのとき、わずかに赤みがさした。
「いらっしゃいませ」
男が言う。
「あ、こんにちは……」
どちらも次が続かない。
男のほうはネクタイをしている。「大崎」と書かれた名札をつけており、このホテルの従業員のようだった。何が入っているかわからないが、その大きな袋は、ホテルの資材なのだろう。であれば「ようこそ」とか「お持ちします」などと続けなければならないのに、辛うじて商売用らしい笑顔を維持はしているだけで、黙ったままである。
少女のほうはまた様子が違う。わずかに開いた口は、驚きを表すものだろうが、その目が輝いているのはなぜだろう。
(やっぱり、旅はこうでないと。
出会いよ、出会い!)
どうやら、大崎の造作は彼女のタイプらしい。
それはどうも、この地球における標準からは、いくらかずれているようだった。
ピピ、と音がした。大崎がポケットをまさぐって携帯電話を取り出す。
「はい、大崎です。
わかりました。急ぎます」
仕事の指示らしい。大崎は、失礼します、と言うと袋を抱えなおしてホテルのほうへ歩き去った。
「……。
保留、かな?」
しかし少女は、奇妙に冷静な言葉を口にした。
(三十代前半ないし中盤。
だとすればなんらかの役職についていてもおかしくないのに、名札には名前のみ。まぁ、それはこのホテルの習慣ということもあるけど。
三十代というのが正しいとして、ネクタイをして荷物運び、というのはちょっと不自然といえば不自然。
でも、こういう場末のリゾートホテルで、事務職オンリーの社員というのも考えにくいか……。
「いらっしゃいませ」は必須としても、その次がなかったことをどう評価するか。客の応対が本業ではない、ということはありうる。やっぱり事務系か。暇だったから借り出された、とか)
少女は、大崎の背中を目で追いながら色々なことを考えていた。しかし。
「ついてってみよ」
山ほどの疑問も第一印象には勝てない、というわけだった。
「笑顔が素敵だけど、ちょっと不器用なお兄様って、いいよね」
素敵かどうかはおそらく異論が出るところであろう。
少女は軽いステップで、大崎が去った方向に歩き始めた。
「あれ」
だが、向こうは仕事中。携帯電話で催促されたところでもある。ホテルの建物の角を曲がった辺りで見失った。
「私を逃がすと、後悔するかもしれないよ……」
何度も見回すが、大崎の姿はない。前の日から宿泊していたらしい客の姿がチラホラと見えるだけだった。
「勤務中だからなぁ。難しいか」
やむをえない。少女は、そこにラウンジがあるのを見つけて建物の中に入った。
薄暗い、とまでは言わないが、お世辞にも明るくはない。天井を見れば、蛍光灯が切れかかっているわけでも、省エネとかで貧乏臭く間引きしているわけでもなく、どうやら照明のカバーがくすんでいるせいらしい。汚れている風ではないから、これもやっぱり「古いから」ということになるのに違いない。
最近、好きになったばかりのコーヒーを頼む。期待はしていなかったが、よくあるように煮詰まっていることもなく、そこそこの味。カップの趣味も悪くはない。
「それはそうだけど」
もうチェックアウトの時刻である。ホテルの規模から考えれば、向こうに見えるロビーには列ができていてしかるべきところだ。しかし、誰もいない。
普通は、ホテルを出る前にスケジュールを確認したり、夕べ騒ぎすぎてぐったりしているのがいたりする。連泊であっても、どこかに遊びに行こうとする人は鍵を預けていくわけで、ロビーには客がいるべきなのに、一人もいない。
少女は、大崎との再会の可能性が、ここへ宿泊する理由になるかどうかを考えていた。今のところ、彼女が気に入っているのはあの笑った顔だけで、性格がどうなのかはわかっていない。それが「はずれ」である可能性を考慮すれば、ここに泊まることもないような気がしてくる。
「一応、確認はしましょうか」
カウンターにリーフレットがある。ここを候補にしたときに目は通したはずだが、念のため。
標準的なところだと思われる。だから問題はないだろうと思ったのだが。見開きにしてみると、コテージが脇にあることがわかった。それも、十数棟も並んでいるらしい。共同の炊事設備などもあるという。
「修学旅行か」
なるほど。バス停からここに来るまでの間に、風に乗って嬌声が聞こえてきていた。観光地なんだから、と気にも留めなかったが、中学生か高校生の団体がいるのだとすれば説明がつく。今も、森しか見えない大きなガラス窓の向こうを、ジャージ姿のグループが走っていった。それが流行っているから、というわけではない、ということだ。
少女は肘をついた。
一般に、修学旅行を受け入れる施設は、料理もサービスも大味である。団体を受け入れることによって入ってくる収入で商売を成り立たせている。ひどいところになると、個人客を相手にしないところもある。
尤も、ここは旅館ではなくホテルで、極端なことを言えば、放っておいてくれればこちらが勝手にリラックスします、ということもできるわけだからさほど問題はないし、向こうは別棟のコテージにいるのだから、廊下をバタバタ走り回られることも心配しなくていいだろう。
その予想に反し、何人かの生徒がラウンジに走りこんできた。彼女達の目的は、奥のほうにあるテレビらしい。そういえば、テレビを置いてあるラウンジ、というのも気になっていたのだが、その懸念は当たったわけだ。
「別に、ここで見なくなって」
「だって、電波来てないんだもん」
とケータイをかざしている。電話もメールもできることはさっき確認したから、その生徒が言うのは、テレビが映らない、ということだろう。
店員に確認もせずにスイッチを入れる。大音量が響いて、少女は顔をしかめた。客室のテレビは、清掃のときにホテルの内部を案内するチャンネルに変えて音も控えめにしておくのが普通だが、夕べラウンジを閉めるときにそういう気遣いはしなかったらしい。
「ね、ほら」
「マジ」
「やばくない?」
「やばいって」
と、ジャージ姿のままシートに座る。よりによってワイドショーである。少女は、自分も同じように見えてるんだろうな、と思いながら、それに背を向けて、リーフレットに視線を戻した。
最上階にある展望レストランの評判は悪くないらしい。それは複数のガイドブックに書いてある。裏を返せば、ほかに何もないから食事には力を入れました、ということなのかもしれないが、何もないのはこのホテルに限ったことではないのか、周囲から昼食だけを目当てにここにやってくる、という人もいるらしく、それによってレストランの質も上がる、という相乗効果はあったらしい。ホテル側は痛し痒しであろうが。
「マジやばいって!」
この星では、女子高校生が最強の存在だ、というのは本当だ。静かだったラウンジに、土のついたスニーカーのままで上がりこみ、ワイドショーを見て大きな声で騒いでいても誰も注意しない。
「十キロだよ。車だったらすぐじゃん!」
「やばい、やばいっすよ」
嫌も応もなく意識はそちらに向く。
ワイドショーが伝え、最強女子高校生が騒いでいるのは、強盗事件のことだった。決して遠くない町で起こったものらしい。それで騒いでいるのだ。
このホテルは、少女がバスに乗った駅と、その強盗事件があった町との中間地点にある。その高校生が言うように、十キロメートル程度であれば車ならすぐだが、犯罪者が田舎に逃げ込む、というのはそうそうあることではない。本当に田舎ならよそ者は目立つし、ここは、場末であるとしても、人の顔を覚えることを仕事の一部とする者が働く、ホテルという施設だ。
「まして、ちょっとしたことで大騒ぎする人種がいるんだしね」
決めた。ここでの宿泊はキャンセル。その展望レストランの昼食だけにして、最初の町に戻ろう。
その間に、大崎と再会できないかな、と思いながら、少女は席を立った。
評判は嘘ではなかった。
大げさでもなければ質素でもない。ちょうどよい量と味付けは、寂れた建物には不釣合いなほど上品だった。少女は、食後のコーヒーをゆっくりと楽しみながら、この料理を前面に押し出せばいいのに、と思った。
展望レストランとは言うが、単に高い場所にあるだけだ。確かに遠くまで見渡せはするが、海が見えるほどでもないし、風景そのものは退屈だ。周囲がすべて窓、というのならまだしも、ここの窓は東向きだった。朝日を愛でる時間に食事をする者はそうそういないだろうに。
だから、これを残す必要はない。その料理をメインにして、二階建てくらいのこじんまりとしたホテルに改装すれば、却って繁盛するのではないか、と少女は思った。
あとは、「こいつ、コテージに泊まってる修学旅行生じゃないのか」という疑問を顔に出さないような社員教育を徹底すれば文句はない。
勿論、大崎はいなかったが、空腹を素敵な料理で満たし、落ち着いて考え直した結果、あれは何かの気の迷いに違いない、ホテルの従業員として応対に問題があるのは事実だ、という結論に達した。これで、後ろ髪を引かれることなく、このホテルを後にできる。と思う。多分。
エレベータを降りると、騒がしい空気が少女を迎えた。ラウンジのあたりにジャージの一団。
帰るところか、と思ったが、だったらジャージということはないだろう。何かのイベントをするために集めたか。
だったら外でやれ、とつぶやきそうになったが、それが大きな勘違いであるらしいことに少女は気づいた。
高校生達が怯えている。中には笑っている者もいたが、それはいくらか引き攣っていた。引率の教師は一様に表情が硬い。何かあったのだ。
少女は目を凝らした。ジャージではない青い服。
「警察?」
そう、ラウンジの入り口あたりにいるのは警官だった。その全員が、向こうのコテージのほうを見ている。
少女はロビーに下がった。カウンターの従業員をつかまえる。
「何があったんですか」
「あ、実は、隣町で強盗事件がありまして」
さっき、テレビでやっていたあれか。
「その犯人が」
「ここに?」
「はい……」
こういうときは、マジ? とでも言うべきなのだろうか。旅行先で犯罪に巻き込まれるなんて、最悪の事態だ。
「犯人は、人質を取って、コテージに立てこもってまして」
「マジ?」
言ってしまう。
「生徒が?」
「はい……」
事件が起こっているのに静かなのはそのせいか。山の中に入り込んだとか、そこで暴れている、とかいうことではないのだ。
ここはすぐに立ち去ったほうがいいのだろうか。いや、そんなことをしたら、仲間かもしれない、とかあらぬ疑いをかけられたりして。どうしよう。こんなとき、社会常識にうといのは痛い。
ちょっと、という声が聞こえたので振り向いたが、それは少女を呼んだのはなかった。ホテルの従業員が脇に引っ込んで、ひそひそと話をしている。
(あいつも一緒らしい)
(大崎君が?)
(何やってんだよ、あいつは)
もう一度、振り向く。大崎? 一緒?
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